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政略結婚の婚約者
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「悩む時間も与えてやれなかったが、本当にこれでよかったのか?」
その台詞は婚約の書面を整えるために教会へと向かう馬車の中で、コンスタンがエステルに対して投げかけた疑問だ。こんなにも性急にことを進めるのは、ひとえにエステルが乙女でなくなってしまったせいである。ラウルは一度自身の邸宅に戻り、教会で会うことになっているから、今はエステルとコンスタンの二人だけが馬車に乗っている。
政略結婚を承諾したことに対する、コンスタンの心配はもっともだろう。しかしエステルは首を振る。
「私が傷物であることを承知の上で娶ってくださるんですから、文句なんてありませんわ」
「傷物だなどと」
「事実だもの」
ラウルが帰った後に、エステルはコンスタンに対して詳しい事情を説明している。つまり、ダミアン・レヴィ・グランジェに口説かれ、襲われて純潔を失った後、娼婦だと思われていたために捨てられたということだ。
とんでもない仕打ちなのだから、当然訴えるべきことではある。しかしそれではエステルが襲われた事実が公になってしまうし、世間は貞操を守れなかった女性に厳しい。どんなに相手が悪かろうと、後ろ指をさされるのは女性側である。つまりは、エステルの名誉を守るためには泣き寝入りするほかないのだ。
その現状に、コンスタンが納得しているわけではなかったが、当事者であるエステルが既に前を向いているのだから、それ以上言及しようもない。表向きには。
「……お前には、じっくりと結婚相手を選ばせてやりたかったが……エステルが納得しているならそれでいい」
そんな会話を経て、ラウルにプロポーズされたその日のうちに、正式な婚約の手続きはあっという間に済んだ。手続きを済ませた後に馬車が向かったのは、王都内のラウルの邸宅である。馬車から邸宅の前に降り立ったのは、エステル、ラウル、そしてコンスタンとメイドのミレーヌだ。
「本当にこのまま王都に滞在するのか?」
「それが婚約のしきたりですから」
いかめしい顔を心配そうに歪めたコンスタンに対して、エステルはきっぱりと告げる。
貴族の正式な婚約は疑似的な結婚に近い。口約束の婚約と違い書面による婚約は、半年以内、遅くとも一年以内結婚を義務付けるものとなる。しかも、書面での婚約を済ませた場合は、結婚までの期間を婚約者の元で過ごすのが儀礼である。つまり今日からエステルはラウルの家で暮らすということだ。
「令嬢に不自由がないよう、充分に配慮します」
エステルの隣に立ったラウルが言って、エステルに視線を注ぐ。
「……頼む。私は陛下へのご挨拶を済ませたらすぐに発つが……エステル。ゆっくりと顔を合わせていられずすまないな」
「いいえ、お忙しいのに私のために王都まで来ていただいてありがとうございました」
エステルが頭を下げると、彼女の頭をぽんと叩いて、コンスタンが頷く。大きな背中に名残惜しさを漂わせてはいたが、しゃっきりと背筋を伸ばしたコンスタンは、やがて馬車に乗り込んで去って行った。
「さて、今日からここが貴女の家だ。案内しよう」
馬車を見送ったラウルが、すっと手を差し出す。背の高い彼と視線を合わせるためにエステルは見上げて、口を真一文字に引き結んだラウルが彼女をじっと見つめているのに気付く。
「よろしくお願いします。侯爵様」
改めて膝を折り挨拶すると、ラウルは眉間に皺を寄せた。
「ラウルでいい」
「ですが、侯爵様の名前を呼び捨てにするなんてできません。礼儀はわきまえませんと」
「俺たちは夫婦になるんだろう」
ため息交じりに言われて、エステルの胸がどきりと鳴った。婚約者同士でも、身分の違いがあるならば、位で呼ぶのは当たり前である。しかし、ラウルはそんな身分など関係なく接しろと言っているのだ。それがエステルの胸を騒がせる。
「俺はもともと侯爵なんて大それた身分の人間じゃない。だから貴女にもラウルと呼んで欲しい」
「ですが……」
断りあぐねたエステルはそれでも渋る。そんな彼女に小さく「頑固だな」と呟いたラウルはなぜか口元を笑ませた。差し出したままだった手でエステルの手を取ると、そのままぐっと引き寄せて彼女の耳に口を寄せる。
「じゃあ、ふたりきりの時にだけ、ラウルと呼んでくれ。それ以外は侯爵様でも構わない」
密やかに囁いて、顔を離すをラウルはそのままエステルの手を引いて、邸宅の中へと進む。耳を撫でたその感触に胸を高鳴らせるよりも先に、ラウルの歩幅の広さにエステルは驚いてしまう。エステルが早歩きをしなければついて歩くことができないほどだ。けれど、掴んでいる手は実に優しかった。そうして再び真一文字に引き結ばれた口の表情のまま、ちらちらとエステルを見てきて、大股で歩きながらもエステルを気遣っているのがうかがわれた。
先ほど差し出された手は彼が不器用ながらもエスコートをしようとしてくれたのだとやっと気付いて、エステルの顔にほんのりと笑みが浮かぶ。
(……侯爵様は、政略結婚でも婚約者によくしてくださろうとする、素敵な方なのね。お顔は少し不愛想だけど)
笑いをかみ殺しながら、エステルはラウルが手を引くままに任せて、邸宅の中を歩くのだった。
***
ラウルがじきじきに邸宅内を案内してくれ、エステルが関わることが多いであろう主用な使用人の紹介も済まされた。そうしてラウルが最後に案内してくれたのは、エステルが昼間に使用する部屋だった。今日になって突然エステルが住むことになったにも関わらず、通された部屋は客間などではなく彼女のためにあらかじめ用意されていたもののようだ。そのことに驚いたエステルの様子に、ばつの悪そうなラウルが溜め息を吐く。
「……本当は貴女のデビュタントに合わせてジルー家に行って、そのまま連れ帰るつもりだった。貴女の領地では普段、デビュタントは王都に出向かないと聞いていたからな」
つまりはラウルは、最初から婚約者を迎えるつもりでこの部屋を用意していたらしい。
「貴女はいなかったから、デビュタントの終わりまで待って欲しいと言われ滞在していたが……」
これ以上はよそう、と首を振ったラウルに、エステルは小さく声をあげる。
ラウルは彼女と入れ違いにジルー家に赴いていたらしいとエステルはやっと察する。彼女が父親に宛てた「紹介したい人がいる」という手紙を知り、コンスタンと共に急いで王都へと戻ってきたわけだ。通常の地方貴族は王都でデビュタントの夜会を迎えるのが大半だが、ジルー家はその例外に該当する。それをラウルは知っていたらしい。
「それは……行き違いになってしまい、申し訳ありませんでした」
すっ、と膝を折って頭を下げかけたエステルの額が、とん、と指先で押しとどめられる。ぱっと顔をあげれば、ラウルは眉間に皺を寄せて口元だけを笑ませていた。
「いちいち頭を下げなくていい。それに貴女が悪いわけじゃない。貴女が王都に来たのは陛下の勅書のせいだろう」
ラウルの言う通りである。今年に限っては王の勅書でデビュタントは王都で行うようにとの命が来ていた。だからこそエステルは王都に来ていたのだ。
「そう、ですが……」
馬車での長旅ですら領地から王都への道のりは身体にこたえる。それなのに、わざわざ自分を迎えに来るためにジルー家にまで足を運び、できるだけ早く着くようにと馬で駆け抜けた旅程が楽なわけがない。ラウルに利がある政略目的の結婚のためだとは言え、やはり申し訳なかった。
「あまり気に病むな。そんなことより」
言葉を切って、ラウルはちらりと部屋にいるミレーヌを見やる。彼女はずっと沈黙しているが、ラウルがエステルに邸宅内を案内している間中、ずっと後ろに控えてついてきていた。目線を受けたミレーヌはにこりと笑い返すとエステルとラウルに会釈する。
「お嬢様、侯爵様、わたくしはお嬢様の荷物の采配に回りたく存じますが、よろしいでしょうか?」
「ああ、頼む」
「お願いね、ミレーヌ」
「では失礼いたします」
ジルー家の別宅から運び込んだエステルの荷物など、他の使用人が勝手に整理するだろう。それにミレーヌが直接指示するのだとしても、今でなくとも良い。けれど察しのいいメイドはそう言って部屋から去り、ラウルの希望通りエステルとふたりきりになった。本来なら未婚の令嬢を男性と密室でふたりきりにさせるなど考えられないことだが、ラウルは婚約者なのだから問題ないだろう。
(人払いをされて、どうされたのかしら?)
「勢いでプロポーズを承諾させた形になったが、貴女は本当に俺と結婚していいのか?」
部屋についてから離していた手を、そっと繋ぎなおしたラウルは痛みをこらえるような顔をした。既に婚約の書面にサインだってしているのに、今さらになってそんな質問をするラウルに、エステルはぽかんとしてしまう。この質問は今日すでに二回目だ。もっとも一回目はコンスタンからされたものだが。
「……貴女は、好いた男がいたのだろう?」
その結果として男に純潔を捧げたのではないかと暗に指摘されて、エステルの頬に再びかっと朱が上る。
「違います……! い、いえ、確かに初恋の人でしたけど! そんなの関係ありません! 私は侯爵様との結婚を受け入れています! でなければここにいません!」
思いがけず、きゅっと手を握り返す形になったのにエステルは、はっとして手を離す。
「初恋……」
小さく呟いて眉間に皺を寄せたラウルの声に、「失礼しました」と頬を押さえたエステルは気付かなかった。
「……いや、貴女が俺との結婚に納得しているなら、それでいい」
「ごめんなさい」
「謝る必要はない。……貴女が、負い目に感じる必要はないとさっきも言っただろう」
それはラウルに無駄足を踏ませたことに対する言葉ではなかったのかと思いかけて、不意にエステルは笑みが零れる。
「……ありがとうございます。侯爵様は優しいですね」
先ほど自分から離してしまった手を、エステルは取ってそっと両手で包みこむ。これは王命に関わる政略結婚なのだろうが、それでもラウルは心を砕いて歩み寄ろうとしてくれている。その気持ちが嬉しかった。
エスコートのために散々自分から触れておいて、エステルから手を触れさせると、ラウルは居心地悪そうにぴくりと震えた。顔も強張っているが、決して彼からは離そうとしないのが優しいとエステルには思えた。
「これから、よろしくお願いしますね。侯爵様」
「……ラウルでいいと言ったはずだ」
ぶっきらぼうに告げるのがおかしくて、エステルはまた笑ってしまう。けれど、その笑いをおさめてエステルは頷いた。
「はい、ラウル様」
政略結婚から始まった二人の関係は、こうして順調に滑り出したかのように見えた。
その台詞は婚約の書面を整えるために教会へと向かう馬車の中で、コンスタンがエステルに対して投げかけた疑問だ。こんなにも性急にことを進めるのは、ひとえにエステルが乙女でなくなってしまったせいである。ラウルは一度自身の邸宅に戻り、教会で会うことになっているから、今はエステルとコンスタンの二人だけが馬車に乗っている。
政略結婚を承諾したことに対する、コンスタンの心配はもっともだろう。しかしエステルは首を振る。
「私が傷物であることを承知の上で娶ってくださるんですから、文句なんてありませんわ」
「傷物だなどと」
「事実だもの」
ラウルが帰った後に、エステルはコンスタンに対して詳しい事情を説明している。つまり、ダミアン・レヴィ・グランジェに口説かれ、襲われて純潔を失った後、娼婦だと思われていたために捨てられたということだ。
とんでもない仕打ちなのだから、当然訴えるべきことではある。しかしそれではエステルが襲われた事実が公になってしまうし、世間は貞操を守れなかった女性に厳しい。どんなに相手が悪かろうと、後ろ指をさされるのは女性側である。つまりは、エステルの名誉を守るためには泣き寝入りするほかないのだ。
その現状に、コンスタンが納得しているわけではなかったが、当事者であるエステルが既に前を向いているのだから、それ以上言及しようもない。表向きには。
「……お前には、じっくりと結婚相手を選ばせてやりたかったが……エステルが納得しているならそれでいい」
そんな会話を経て、ラウルにプロポーズされたその日のうちに、正式な婚約の手続きはあっという間に済んだ。手続きを済ませた後に馬車が向かったのは、王都内のラウルの邸宅である。馬車から邸宅の前に降り立ったのは、エステル、ラウル、そしてコンスタンとメイドのミレーヌだ。
「本当にこのまま王都に滞在するのか?」
「それが婚約のしきたりですから」
いかめしい顔を心配そうに歪めたコンスタンに対して、エステルはきっぱりと告げる。
貴族の正式な婚約は疑似的な結婚に近い。口約束の婚約と違い書面による婚約は、半年以内、遅くとも一年以内結婚を義務付けるものとなる。しかも、書面での婚約を済ませた場合は、結婚までの期間を婚約者の元で過ごすのが儀礼である。つまり今日からエステルはラウルの家で暮らすということだ。
「令嬢に不自由がないよう、充分に配慮します」
エステルの隣に立ったラウルが言って、エステルに視線を注ぐ。
「……頼む。私は陛下へのご挨拶を済ませたらすぐに発つが……エステル。ゆっくりと顔を合わせていられずすまないな」
「いいえ、お忙しいのに私のために王都まで来ていただいてありがとうございました」
エステルが頭を下げると、彼女の頭をぽんと叩いて、コンスタンが頷く。大きな背中に名残惜しさを漂わせてはいたが、しゃっきりと背筋を伸ばしたコンスタンは、やがて馬車に乗り込んで去って行った。
「さて、今日からここが貴女の家だ。案内しよう」
馬車を見送ったラウルが、すっと手を差し出す。背の高い彼と視線を合わせるためにエステルは見上げて、口を真一文字に引き結んだラウルが彼女をじっと見つめているのに気付く。
「よろしくお願いします。侯爵様」
改めて膝を折り挨拶すると、ラウルは眉間に皺を寄せた。
「ラウルでいい」
「ですが、侯爵様の名前を呼び捨てにするなんてできません。礼儀はわきまえませんと」
「俺たちは夫婦になるんだろう」
ため息交じりに言われて、エステルの胸がどきりと鳴った。婚約者同士でも、身分の違いがあるならば、位で呼ぶのは当たり前である。しかし、ラウルはそんな身分など関係なく接しろと言っているのだ。それがエステルの胸を騒がせる。
「俺はもともと侯爵なんて大それた身分の人間じゃない。だから貴女にもラウルと呼んで欲しい」
「ですが……」
断りあぐねたエステルはそれでも渋る。そんな彼女に小さく「頑固だな」と呟いたラウルはなぜか口元を笑ませた。差し出したままだった手でエステルの手を取ると、そのままぐっと引き寄せて彼女の耳に口を寄せる。
「じゃあ、ふたりきりの時にだけ、ラウルと呼んでくれ。それ以外は侯爵様でも構わない」
密やかに囁いて、顔を離すをラウルはそのままエステルの手を引いて、邸宅の中へと進む。耳を撫でたその感触に胸を高鳴らせるよりも先に、ラウルの歩幅の広さにエステルは驚いてしまう。エステルが早歩きをしなければついて歩くことができないほどだ。けれど、掴んでいる手は実に優しかった。そうして再び真一文字に引き結ばれた口の表情のまま、ちらちらとエステルを見てきて、大股で歩きながらもエステルを気遣っているのがうかがわれた。
先ほど差し出された手は彼が不器用ながらもエスコートをしようとしてくれたのだとやっと気付いて、エステルの顔にほんのりと笑みが浮かぶ。
(……侯爵様は、政略結婚でも婚約者によくしてくださろうとする、素敵な方なのね。お顔は少し不愛想だけど)
笑いをかみ殺しながら、エステルはラウルが手を引くままに任せて、邸宅の中を歩くのだった。
***
ラウルがじきじきに邸宅内を案内してくれ、エステルが関わることが多いであろう主用な使用人の紹介も済まされた。そうしてラウルが最後に案内してくれたのは、エステルが昼間に使用する部屋だった。今日になって突然エステルが住むことになったにも関わらず、通された部屋は客間などではなく彼女のためにあらかじめ用意されていたもののようだ。そのことに驚いたエステルの様子に、ばつの悪そうなラウルが溜め息を吐く。
「……本当は貴女のデビュタントに合わせてジルー家に行って、そのまま連れ帰るつもりだった。貴女の領地では普段、デビュタントは王都に出向かないと聞いていたからな」
つまりはラウルは、最初から婚約者を迎えるつもりでこの部屋を用意していたらしい。
「貴女はいなかったから、デビュタントの終わりまで待って欲しいと言われ滞在していたが……」
これ以上はよそう、と首を振ったラウルに、エステルは小さく声をあげる。
ラウルは彼女と入れ違いにジルー家に赴いていたらしいとエステルはやっと察する。彼女が父親に宛てた「紹介したい人がいる」という手紙を知り、コンスタンと共に急いで王都へと戻ってきたわけだ。通常の地方貴族は王都でデビュタントの夜会を迎えるのが大半だが、ジルー家はその例外に該当する。それをラウルは知っていたらしい。
「それは……行き違いになってしまい、申し訳ありませんでした」
すっ、と膝を折って頭を下げかけたエステルの額が、とん、と指先で押しとどめられる。ぱっと顔をあげれば、ラウルは眉間に皺を寄せて口元だけを笑ませていた。
「いちいち頭を下げなくていい。それに貴女が悪いわけじゃない。貴女が王都に来たのは陛下の勅書のせいだろう」
ラウルの言う通りである。今年に限っては王の勅書でデビュタントは王都で行うようにとの命が来ていた。だからこそエステルは王都に来ていたのだ。
「そう、ですが……」
馬車での長旅ですら領地から王都への道のりは身体にこたえる。それなのに、わざわざ自分を迎えに来るためにジルー家にまで足を運び、できるだけ早く着くようにと馬で駆け抜けた旅程が楽なわけがない。ラウルに利がある政略目的の結婚のためだとは言え、やはり申し訳なかった。
「あまり気に病むな。そんなことより」
言葉を切って、ラウルはちらりと部屋にいるミレーヌを見やる。彼女はずっと沈黙しているが、ラウルがエステルに邸宅内を案内している間中、ずっと後ろに控えてついてきていた。目線を受けたミレーヌはにこりと笑い返すとエステルとラウルに会釈する。
「お嬢様、侯爵様、わたくしはお嬢様の荷物の采配に回りたく存じますが、よろしいでしょうか?」
「ああ、頼む」
「お願いね、ミレーヌ」
「では失礼いたします」
ジルー家の別宅から運び込んだエステルの荷物など、他の使用人が勝手に整理するだろう。それにミレーヌが直接指示するのだとしても、今でなくとも良い。けれど察しのいいメイドはそう言って部屋から去り、ラウルの希望通りエステルとふたりきりになった。本来なら未婚の令嬢を男性と密室でふたりきりにさせるなど考えられないことだが、ラウルは婚約者なのだから問題ないだろう。
(人払いをされて、どうされたのかしら?)
「勢いでプロポーズを承諾させた形になったが、貴女は本当に俺と結婚していいのか?」
部屋についてから離していた手を、そっと繋ぎなおしたラウルは痛みをこらえるような顔をした。既に婚約の書面にサインだってしているのに、今さらになってそんな質問をするラウルに、エステルはぽかんとしてしまう。この質問は今日すでに二回目だ。もっとも一回目はコンスタンからされたものだが。
「……貴女は、好いた男がいたのだろう?」
その結果として男に純潔を捧げたのではないかと暗に指摘されて、エステルの頬に再びかっと朱が上る。
「違います……! い、いえ、確かに初恋の人でしたけど! そんなの関係ありません! 私は侯爵様との結婚を受け入れています! でなければここにいません!」
思いがけず、きゅっと手を握り返す形になったのにエステルは、はっとして手を離す。
「初恋……」
小さく呟いて眉間に皺を寄せたラウルの声に、「失礼しました」と頬を押さえたエステルは気付かなかった。
「……いや、貴女が俺との結婚に納得しているなら、それでいい」
「ごめんなさい」
「謝る必要はない。……貴女が、負い目に感じる必要はないとさっきも言っただろう」
それはラウルに無駄足を踏ませたことに対する言葉ではなかったのかと思いかけて、不意にエステルは笑みが零れる。
「……ありがとうございます。侯爵様は優しいですね」
先ほど自分から離してしまった手を、エステルは取ってそっと両手で包みこむ。これは王命に関わる政略結婚なのだろうが、それでもラウルは心を砕いて歩み寄ろうとしてくれている。その気持ちが嬉しかった。
エスコートのために散々自分から触れておいて、エステルから手を触れさせると、ラウルは居心地悪そうにぴくりと震えた。顔も強張っているが、決して彼からは離そうとしないのが優しいとエステルには思えた。
「これから、よろしくお願いしますね。侯爵様」
「……ラウルでいいと言ったはずだ」
ぶっきらぼうに告げるのがおかしくて、エステルはまた笑ってしまう。けれど、その笑いをおさめてエステルは頷いた。
「はい、ラウル様」
政略結婚から始まった二人の関係は、こうして順調に滑り出したかのように見えた。
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