3 / 31
令嬢としての責任
しおりを挟む
侮辱的な夜会から帰ったエステルは、その日から高熱を出して一週間ほど寝込んでしまった。幸い、熱が出ている間に月のものが来たからダミアンの子を孕むことはなかったのだが、そんなことでエステルの心の澱が解消されようはずもない。
彼女の純潔が奪われた事実は消えないのだ。
けれど、エステルはいつまでも沈んだままでいるような悲劇のヒロインではなかった。
(過ぎたことを悔いても過去は覆せないわ。私にできる最善を尽くさなきゃ)
熱が下がった日の朝、目を覚ましたエステルはすぐに湯あみをした。寝たきりだった身体は萎えていたが、数日間の汗を流してしまえば少し気持ちがすっきりする。
清潔な服に袖を通して背筋を伸ばすと、エステルは決意も新たにすうっと深呼吸してみた。それで、気持ちの整理がついたような気がする。
髪を整えるために鏡台の前に座って見た顔は、もう情けない令嬢ではない。
「ミレーヌ」
「はい、お嬢様」
身支度を手伝っていたのは、エステルの専属メイドだ。領地からエステルのデビュタントのために一緒に王都の邸宅に来ている。
「領地に戻るために荷物をまとめるようお願いしていたわよね。あれはもう、終わったかしら?」
「はい、滞りなく済んでおります」
「良かった。申し訳ないけれど、行き先は変更になったの」
「どちらへいらっしゃるのです?」
「修道院よ」
落ち着いてエステルの世話をしていたミレーヌは、そこで初めて顔色を変えた。
「お嬢様!? ……修道女になるおつもりですか!?」
エステルの髪を梳かすためにもっていたブラシをとり落として、ミレーヌは悲鳴のような声をあげる。
「ごめんね。……ミレーヌももう判っているでしょう? 私はもう、まともな縁談を望める身体じゃないって。乙女でないのだから嫁いで家を繋ぐという貴族令嬢の責任を取れないのだもの。他家に恥を晒してジルー家を貶める前に、私は修道院に入るわ」
振り返ったエステルの顔は困ったように歪んでいる。それでミレーヌは息を飲んだ。
エステルの身の回りの世話を主に担っているのは、ミレーヌだ。今朝の湯あみの手伝いも彼女がしたように、エステルが純潔を奪われたあの日も、彼女の湯あみを手伝い、身体を清めたのはミレーヌである。当然、エステルが月のものでないもので股に血を流し、白濁の液を注ぎこまれてしまった事実をミレーヌは知っている。
「……ですが……」
反論しかけて、ミレーヌは小さく息を吐いて気づかわしげな顔になり、そっとエステルの手を取る。
「お嬢様。熱で倒れられていらした間に、旦那様より手紙が届いています」
「え、もうお返事が?」
「はい。まずは手紙をお読みください」
ミレーヌが差し出した手紙をエステルは受け取る。その内容に目を通して、眉間に皺を寄せた。
「……私に縁談が来てるって書いてあるわ」
エステルが手紙を読んでいる間に、彼女の髪を梳かしていたミレーヌは振り向いたエステルに頷いて見せる。彼女は既にその話を知っていたらしい。
「お嬢様……実は、旦那様がこちらにいらしてます」
「お父様が!?」
「はい、昨晩遅くに。手紙を早馬で出すのと一緒に、旦那様もお急ぎでいらしたようです」
ブラシを置いたミレーヌは、最後に髪飾りをつける。
「お嬢様が熱で寝込んでらっしゃると知られて、回復されるまで待つとおっしゃられていました。……もうお会いになられますか?」
「もちろん」
エステルは頷いて、思案する。エステルの父は普段、よほどの事がない限り、領地からほとんど出ることがない。通常娘のデビュタントには父親が付き添う事が多いが、エステルの王都行きに父がいないのはこのためだ。だというのに、急ぎで王都に来たということは、その『よほどのこと』が起きているということなのだろう。
「……申し訳ないけれど、縁談は断って頂かなくては……お父様はどちらにいらっしゃるかしら?」
すくっと立ち上がってエステルが問えば、ミレーヌは「ご案内します」と先導を始める。ミレーヌは湯あみの前に、熱の下がったエステルのことを伝えていたらしい。彼女の性格から考えて身支度が終わったらすぐに父に会いにいくだろうことを判っていて、既に先触れはしてある。ティールームの前に着いたエステルは、ミレーヌがノックをする前に扉を開けた。
「お父様。申し訳ありません。私は縁談を受けるわけにはいきません。既に傷物の身体となったので、私は修道院に参ります」
気が急いていたのだろう。扉を開けて父の姿が目に入るなり、エステルはそう宣言していた。貴族としてのふるまいを考えたらありえない行動だが、領地にいるときのジルー家は、家族同士において限定すればこうした形式を無視した行いは日常茶飯事だ。
「エステル……!」
声をあげて立ち上がったのは、金の髪にエメラルドグリーンの瞳の男性だった。その特徴だけでエステルの父だとわかる人はほとんどいないだろう。一目で武人とわかる屈強な身体つきに、よく日に焼けた肌で、頬には大きな傷痕まである。色白で華奢なエステルとは似ても似つかない。気の弱い人なら彼に近寄るのですら気後れしそうであるが、エステルは何の気負いもなく父に歩み寄って、そこで止まった。
そもそもエステルの父は、時間があるからと言ってティールームでお茶をたしなむような人ではない。家族での大事な話をする時には彼の執務室で行うことの方が多かった。ここが王都の別宅だからと言って、それは変わらないだろう。まず、彼がティールームに居ると聞いた時点で、エステルは察するべきだったのだ。
父のついているテーブルには、ティーセットが二人分あった。視線を動かしたエステルは、父の正面に見知らぬ男性がいることに、やっと気付く。瞬間に彼女の顔からさあっと血の気が引いた。
「お客様がいらっしゃるとは存じ上げず、失礼をし、申し訳ございません」
相手がどんな人であるかを確認するよりも先に、エステルは膝を折って目線を下げる。
「エステル……」
嘆息すると同時に、父は男性の方に向き直り、頭を下げた。
「申し訳ない、侯爵」
(……侯爵、様?)
カーテシーの姿勢のままエステルは止まっているが、じわっと汗が吹き出した。ジルー家は伯爵位だ。家族以外の前で失態を犯したことでさえ恥ずべきことなのに、格上の貴族の前で礼儀を失した己をエステルは後悔する。非礼を咎められても仕方のない状況である。しかも、自分が乙女でないことまで聞かれてしまっている。
「コンスタン殿、顔を上げてください」
「弁解のしようもないことだ。誠に申し訳ない……。このようなことになって……」
「いや、構いません」
声は硬いものの、侯爵はエステルの無作法を咎めるつもりはないようだ。その事実にエステルはほっとする。
「どうか顔を上げてください。…………貴女も」
おずおずと顔をあげて、エステルはようやく来客の顔を確認した。濃いグレーの髪は短く、きりっとした眉もルビー色の鋭い目も、彼の精悍さを強調しているようである。礼服をまとっているから本来身体つきが分かりにくいはずだが、その身体が戦いに向いた体躯であることは一目でわかる。それらを見とって、エステルは内心首を傾げる。
先ほど父――コンスタンを名前で呼んでいた上、王都の別邸にやってくるほど親しい仲の様子だが、エステルには見覚えのない顔であった。
「ラウル・リエーヴル・ヴァロワだ」
立ち上がった男性――ラウルは、短く自己紹介する。硬い表情の彼を見上げる形で目線を合わせたエステルは頭の中で名前を反芻して、彼がコンスタンと親しげな理由に合点がいった。
ラウル・リエーヴル・ヴァロワ――その名をエステルは聞いたことがある。いや、この国の誰もが知っている名前だろう。彼はもともと身分の低い生まれだったが、先の戦争で功績をあげ、英雄として称えられ、その褒章として侯爵位を賜った人物だ。戦争英雄のヴァロワ侯爵ならば、コンスタンとも面識があるだろう。
エステルは再び膝を折って改めて挨拶しなおす。
「申し遅れました。私はエステル・ジルーです」
「……知っている」
「侯爵。こうなった以上、娘との縁談は白紙に戻そう」
(縁談って……彼が私の……!?)
考えてみれば、縁談がきている旨を知らせるために早馬で駆け付けた父と一緒にいるのが、ただの客であるはずがない。
「陛下には私から話そう。この詫びは……」
「構いません」
「侯爵様……?」
驚きでつい声をあげたエステルがラウルの顔を見ると、ラウルは眉間に皺を寄せた。
「先ほども言ったように、構いません。彼女が、生娘でなかろうと。彼女は修道院に行くと言っていたのだから、相手の男はもういないのでしょう。なら、この縁談は進めていただきたい。」
「しかし」
コンスタンが言い募ろうとしたのを、ラウルは首を振って制止する。
「令嬢が生娘でないことは俺しか知らないことでしょう? 俺さえ黙っていれば、問題のない話だ。そんなことでこの結婚を潰すわけにはいかない」
低い声が淡々と告げる。
(生娘でないことが、問題ないですって?)
エステルはますます驚いてしまう。この国で未婚の貴族女性が乙女でないとなれば、それは充分に婚約破棄の理由になりうる。貞節な淑女でないという烙印を押され、家名を貶めることになってしまう上、婚姻を結んだ後に産まれた子どもが、誰の子か判らないというそしりを受けるのだ。だからこそエステルは修道院に行こうと決意したというのに、ラウルは構わないという。
「侯爵様」
エステルが呼びかけると、ラウルは再び眉間に皺を寄せた。けれど、話を促すように彼女の顔を見つめ返す。
「私は先ほど申し上げました通り、傷物です。うかつにも純潔を奪われたような、そんな私が嫁ぐわけには参りません」
「……貴女は、他の男の子を孕んでいるのか?」
「っいいえ! 身ごもってなんか……!」
瞬間に、かっと頬に熱がのぼったエステルが声をあげる。荒げた声を叱責されても仕方のない態度だがしかし、ラウルは眉間の皺を解いて頷いた。
「ならいい。コンスタン殿。俺と令嬢の結婚には反対でしょうか?」
「いいや、まさか反対など! ……侯爵が受け入れるなら私が言うことは。……しかし陛下には何と報告すればいいだろうか」
「陛下に言う必要はないでしょう」
は、と息を吐いてラウルは言うと、エステルに向き直り彼女の前へと進み出た。そうして何を思ったのか、その場で跪き、エステルの手を取る。
「エステル・ジルー。生涯、不自由をさせないと約束する。俺と、結婚してくれるか?」
そう告げて、彼女の手の甲に唇が押し付けられる。彼の見た目からは想像できない柔らかいその感触に驚いたのか、エステルの胸がきゅっと鳴った。
「私、は……」
とっさに何と答えるべきか迷って、エステルはちらりと父を見た。コンスタンは苦笑いで、頷いて見せる。
(私に任せる、とお父様はおっしゃるのね)
修道女になる決心を固めたばかりだというのに、それを問題ともせずに求婚してくる男性に、戸惑うなという方が無理だ。すぐにでも結論を出すのは難しいと思われたが、エステルは状況を整理してどうすべきかを考えて、はた、と止まった。
何度か繰り返される『陛下』という言葉。生娘でないことを問題としないラウル。そして、ラウルは成り上がりの貴族であり、ジルー家は何代も続く格式高い伯爵家である。それらのピースで、ようやくエステルは気付いた。
(……この縁談は、侯爵家とジルー家を繋ぐ、政略結婚なんだわ)
判ってしまえば彼女の決断は早かった。
きゅっと唇を引き締めて、エステルは背筋を伸ばす。深呼吸をしたあとは、もう戸惑いをおくびにも出さずに優美に微笑んだ。
「この縁談、謹んでお受けいたします。侯爵様」
貴族としての名誉を守るために修道女になることを決めたエステルは、また貴族としての責任を果たすために、政略結婚の道を選んだ。そうして、エステルは傷物の身体を抱えながらも、私心なくラウルと婚約したのである。
彼女の純潔が奪われた事実は消えないのだ。
けれど、エステルはいつまでも沈んだままでいるような悲劇のヒロインではなかった。
(過ぎたことを悔いても過去は覆せないわ。私にできる最善を尽くさなきゃ)
熱が下がった日の朝、目を覚ましたエステルはすぐに湯あみをした。寝たきりだった身体は萎えていたが、数日間の汗を流してしまえば少し気持ちがすっきりする。
清潔な服に袖を通して背筋を伸ばすと、エステルは決意も新たにすうっと深呼吸してみた。それで、気持ちの整理がついたような気がする。
髪を整えるために鏡台の前に座って見た顔は、もう情けない令嬢ではない。
「ミレーヌ」
「はい、お嬢様」
身支度を手伝っていたのは、エステルの専属メイドだ。領地からエステルのデビュタントのために一緒に王都の邸宅に来ている。
「領地に戻るために荷物をまとめるようお願いしていたわよね。あれはもう、終わったかしら?」
「はい、滞りなく済んでおります」
「良かった。申し訳ないけれど、行き先は変更になったの」
「どちらへいらっしゃるのです?」
「修道院よ」
落ち着いてエステルの世話をしていたミレーヌは、そこで初めて顔色を変えた。
「お嬢様!? ……修道女になるおつもりですか!?」
エステルの髪を梳かすためにもっていたブラシをとり落として、ミレーヌは悲鳴のような声をあげる。
「ごめんね。……ミレーヌももう判っているでしょう? 私はもう、まともな縁談を望める身体じゃないって。乙女でないのだから嫁いで家を繋ぐという貴族令嬢の責任を取れないのだもの。他家に恥を晒してジルー家を貶める前に、私は修道院に入るわ」
振り返ったエステルの顔は困ったように歪んでいる。それでミレーヌは息を飲んだ。
エステルの身の回りの世話を主に担っているのは、ミレーヌだ。今朝の湯あみの手伝いも彼女がしたように、エステルが純潔を奪われたあの日も、彼女の湯あみを手伝い、身体を清めたのはミレーヌである。当然、エステルが月のものでないもので股に血を流し、白濁の液を注ぎこまれてしまった事実をミレーヌは知っている。
「……ですが……」
反論しかけて、ミレーヌは小さく息を吐いて気づかわしげな顔になり、そっとエステルの手を取る。
「お嬢様。熱で倒れられていらした間に、旦那様より手紙が届いています」
「え、もうお返事が?」
「はい。まずは手紙をお読みください」
ミレーヌが差し出した手紙をエステルは受け取る。その内容に目を通して、眉間に皺を寄せた。
「……私に縁談が来てるって書いてあるわ」
エステルが手紙を読んでいる間に、彼女の髪を梳かしていたミレーヌは振り向いたエステルに頷いて見せる。彼女は既にその話を知っていたらしい。
「お嬢様……実は、旦那様がこちらにいらしてます」
「お父様が!?」
「はい、昨晩遅くに。手紙を早馬で出すのと一緒に、旦那様もお急ぎでいらしたようです」
ブラシを置いたミレーヌは、最後に髪飾りをつける。
「お嬢様が熱で寝込んでらっしゃると知られて、回復されるまで待つとおっしゃられていました。……もうお会いになられますか?」
「もちろん」
エステルは頷いて、思案する。エステルの父は普段、よほどの事がない限り、領地からほとんど出ることがない。通常娘のデビュタントには父親が付き添う事が多いが、エステルの王都行きに父がいないのはこのためだ。だというのに、急ぎで王都に来たということは、その『よほどのこと』が起きているということなのだろう。
「……申し訳ないけれど、縁談は断って頂かなくては……お父様はどちらにいらっしゃるかしら?」
すくっと立ち上がってエステルが問えば、ミレーヌは「ご案内します」と先導を始める。ミレーヌは湯あみの前に、熱の下がったエステルのことを伝えていたらしい。彼女の性格から考えて身支度が終わったらすぐに父に会いにいくだろうことを判っていて、既に先触れはしてある。ティールームの前に着いたエステルは、ミレーヌがノックをする前に扉を開けた。
「お父様。申し訳ありません。私は縁談を受けるわけにはいきません。既に傷物の身体となったので、私は修道院に参ります」
気が急いていたのだろう。扉を開けて父の姿が目に入るなり、エステルはそう宣言していた。貴族としてのふるまいを考えたらありえない行動だが、領地にいるときのジルー家は、家族同士において限定すればこうした形式を無視した行いは日常茶飯事だ。
「エステル……!」
声をあげて立ち上がったのは、金の髪にエメラルドグリーンの瞳の男性だった。その特徴だけでエステルの父だとわかる人はほとんどいないだろう。一目で武人とわかる屈強な身体つきに、よく日に焼けた肌で、頬には大きな傷痕まである。色白で華奢なエステルとは似ても似つかない。気の弱い人なら彼に近寄るのですら気後れしそうであるが、エステルは何の気負いもなく父に歩み寄って、そこで止まった。
そもそもエステルの父は、時間があるからと言ってティールームでお茶をたしなむような人ではない。家族での大事な話をする時には彼の執務室で行うことの方が多かった。ここが王都の別宅だからと言って、それは変わらないだろう。まず、彼がティールームに居ると聞いた時点で、エステルは察するべきだったのだ。
父のついているテーブルには、ティーセットが二人分あった。視線を動かしたエステルは、父の正面に見知らぬ男性がいることに、やっと気付く。瞬間に彼女の顔からさあっと血の気が引いた。
「お客様がいらっしゃるとは存じ上げず、失礼をし、申し訳ございません」
相手がどんな人であるかを確認するよりも先に、エステルは膝を折って目線を下げる。
「エステル……」
嘆息すると同時に、父は男性の方に向き直り、頭を下げた。
「申し訳ない、侯爵」
(……侯爵、様?)
カーテシーの姿勢のままエステルは止まっているが、じわっと汗が吹き出した。ジルー家は伯爵位だ。家族以外の前で失態を犯したことでさえ恥ずべきことなのに、格上の貴族の前で礼儀を失した己をエステルは後悔する。非礼を咎められても仕方のない状況である。しかも、自分が乙女でないことまで聞かれてしまっている。
「コンスタン殿、顔を上げてください」
「弁解のしようもないことだ。誠に申し訳ない……。このようなことになって……」
「いや、構いません」
声は硬いものの、侯爵はエステルの無作法を咎めるつもりはないようだ。その事実にエステルはほっとする。
「どうか顔を上げてください。…………貴女も」
おずおずと顔をあげて、エステルはようやく来客の顔を確認した。濃いグレーの髪は短く、きりっとした眉もルビー色の鋭い目も、彼の精悍さを強調しているようである。礼服をまとっているから本来身体つきが分かりにくいはずだが、その身体が戦いに向いた体躯であることは一目でわかる。それらを見とって、エステルは内心首を傾げる。
先ほど父――コンスタンを名前で呼んでいた上、王都の別邸にやってくるほど親しい仲の様子だが、エステルには見覚えのない顔であった。
「ラウル・リエーヴル・ヴァロワだ」
立ち上がった男性――ラウルは、短く自己紹介する。硬い表情の彼を見上げる形で目線を合わせたエステルは頭の中で名前を反芻して、彼がコンスタンと親しげな理由に合点がいった。
ラウル・リエーヴル・ヴァロワ――その名をエステルは聞いたことがある。いや、この国の誰もが知っている名前だろう。彼はもともと身分の低い生まれだったが、先の戦争で功績をあげ、英雄として称えられ、その褒章として侯爵位を賜った人物だ。戦争英雄のヴァロワ侯爵ならば、コンスタンとも面識があるだろう。
エステルは再び膝を折って改めて挨拶しなおす。
「申し遅れました。私はエステル・ジルーです」
「……知っている」
「侯爵。こうなった以上、娘との縁談は白紙に戻そう」
(縁談って……彼が私の……!?)
考えてみれば、縁談がきている旨を知らせるために早馬で駆け付けた父と一緒にいるのが、ただの客であるはずがない。
「陛下には私から話そう。この詫びは……」
「構いません」
「侯爵様……?」
驚きでつい声をあげたエステルがラウルの顔を見ると、ラウルは眉間に皺を寄せた。
「先ほども言ったように、構いません。彼女が、生娘でなかろうと。彼女は修道院に行くと言っていたのだから、相手の男はもういないのでしょう。なら、この縁談は進めていただきたい。」
「しかし」
コンスタンが言い募ろうとしたのを、ラウルは首を振って制止する。
「令嬢が生娘でないことは俺しか知らないことでしょう? 俺さえ黙っていれば、問題のない話だ。そんなことでこの結婚を潰すわけにはいかない」
低い声が淡々と告げる。
(生娘でないことが、問題ないですって?)
エステルはますます驚いてしまう。この国で未婚の貴族女性が乙女でないとなれば、それは充分に婚約破棄の理由になりうる。貞節な淑女でないという烙印を押され、家名を貶めることになってしまう上、婚姻を結んだ後に産まれた子どもが、誰の子か判らないというそしりを受けるのだ。だからこそエステルは修道院に行こうと決意したというのに、ラウルは構わないという。
「侯爵様」
エステルが呼びかけると、ラウルは再び眉間に皺を寄せた。けれど、話を促すように彼女の顔を見つめ返す。
「私は先ほど申し上げました通り、傷物です。うかつにも純潔を奪われたような、そんな私が嫁ぐわけには参りません」
「……貴女は、他の男の子を孕んでいるのか?」
「っいいえ! 身ごもってなんか……!」
瞬間に、かっと頬に熱がのぼったエステルが声をあげる。荒げた声を叱責されても仕方のない態度だがしかし、ラウルは眉間の皺を解いて頷いた。
「ならいい。コンスタン殿。俺と令嬢の結婚には反対でしょうか?」
「いいや、まさか反対など! ……侯爵が受け入れるなら私が言うことは。……しかし陛下には何と報告すればいいだろうか」
「陛下に言う必要はないでしょう」
は、と息を吐いてラウルは言うと、エステルに向き直り彼女の前へと進み出た。そうして何を思ったのか、その場で跪き、エステルの手を取る。
「エステル・ジルー。生涯、不自由をさせないと約束する。俺と、結婚してくれるか?」
そう告げて、彼女の手の甲に唇が押し付けられる。彼の見た目からは想像できない柔らかいその感触に驚いたのか、エステルの胸がきゅっと鳴った。
「私、は……」
とっさに何と答えるべきか迷って、エステルはちらりと父を見た。コンスタンは苦笑いで、頷いて見せる。
(私に任せる、とお父様はおっしゃるのね)
修道女になる決心を固めたばかりだというのに、それを問題ともせずに求婚してくる男性に、戸惑うなという方が無理だ。すぐにでも結論を出すのは難しいと思われたが、エステルは状況を整理してどうすべきかを考えて、はた、と止まった。
何度か繰り返される『陛下』という言葉。生娘でないことを問題としないラウル。そして、ラウルは成り上がりの貴族であり、ジルー家は何代も続く格式高い伯爵家である。それらのピースで、ようやくエステルは気付いた。
(……この縁談は、侯爵家とジルー家を繋ぐ、政略結婚なんだわ)
判ってしまえば彼女の決断は早かった。
きゅっと唇を引き締めて、エステルは背筋を伸ばす。深呼吸をしたあとは、もう戸惑いをおくびにも出さずに優美に微笑んだ。
「この縁談、謹んでお受けいたします。侯爵様」
貴族としての名誉を守るために修道女になることを決めたエステルは、また貴族としての責任を果たすために、政略結婚の道を選んだ。そうして、エステルは傷物の身体を抱えながらも、私心なくラウルと婚約したのである。
0
お気に入りに追加
421
あなたにおすすめの小説
公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-
猫まんじゅう
恋愛
そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。
無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。
筈だったのです······が?
◆◇◆
「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」
拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」
溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない?
◆◇◆
安心保障のR15設定。
描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。
ゆるゆる設定のコメディ要素あり。
つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。
※妊娠に関する内容を含みます。
【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】
こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)
愛する殿下の為に身を引いたのに…なぜかヤンデレ化した殿下に囚われてしまいました
Karamimi
恋愛
公爵令嬢のレティシアは、愛する婚約者で王太子のリアムとの結婚を約1年後に控え、毎日幸せな生活を送っていた。
そんな幸せ絶頂の中、両親が馬車の事故で命を落としてしまう。大好きな両親を失い、悲しみに暮れるレティシアを心配したリアムによって、王宮で生活する事になる。
相変わらず自分を大切にしてくれるリアムによって、少しずつ元気を取り戻していくレティシア。そんな中、たまたま王宮で貴族たちが話をしているのを聞いてしまう。その内容と言うのが、そもそもリアムはレティシアの父からの結婚の申し出を断る事が出来ず、仕方なくレティシアと婚約したという事。
トンプソン公爵がいなくなった今、本来婚約する予定だったガルシア侯爵家の、ミランダとの婚約を考えていると言う事。でも心優しいリアムは、その事をレティシアに言い出せずに悩んでいると言う、レティシアにとって衝撃的な内容だった。
あまりのショックに、フラフラと歩くレティシアの目に飛び込んできたのは、楽しそうにお茶をする、リアムとミランダの姿だった。ミランダの髪を優しく撫でるリアムを見た瞬間、先ほど貴族が話していた事が本当だったと理解する。
ずっと自分を支えてくれたリアム。大好きなリアムの為、身を引く事を決意。それと同時に、国を出る準備を始めるレティシア。
そして1ヶ月後、大好きなリアムの為、自ら王宮を後にしたレティシアだったが…
追記:ヒーローが物凄く気持ち悪いです。
今更ですが、閲覧の際はご注意ください。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
【完結】悪役令嬢エヴァンジェリンは静かに死にたい
小達出みかん
恋愛
私は、悪役令嬢。ヒロインの代わりに死ぬ役どころ。
エヴァンジェリンはそうわきまえて、冷たい婚約者のどんな扱いにも耐え、死ぬ日のためにもくもくとやるべき事をこなしていた。
しかし、ヒロインを虐めたと濡れ衣を着せられ、「やっていません」と初めて婚約者に歯向かったその日から、物語の歯車が狂いだす。
――ヒロインの身代わりに死ぬ予定の悪役令嬢だったのに、愛されキャラにジョブチェンしちゃったみたい(無自覚)でなかなか死ねない! 幸薄令嬢のお話です。
安心してください、ハピエンです――
王子殿下の慕う人
夕香里
恋愛
エレーナ・ルイスは小さい頃から兄のように慕っていた王子殿下が好きだった。
しかし、ある噂と事実を聞いたことで恋心を捨てることにしたエレーナは、断ってきていた他の人との縁談を受けることにするのだが──?
「どうして!? 殿下には好きな人がいるはずなのに!!」
好きな人がいるはずの殿下が距離を縮めてくることに戸惑う彼女と、我慢をやめた王子のお話。
※小説家になろうでも投稿してます
【完結】昨日までの愛は虚像でした
鬼ヶ咲あちたん
恋愛
公爵令息レアンドロに体を暴かれてしまった侯爵令嬢ファティマは、純潔でなくなったことを理由に、レアンドロの双子の兄イグナシオとの婚約を解消されてしまう。その結果、元凶のレアンドロと結婚する羽目になったが、そこで知らされた元婚約者イグナシオの真の姿に慄然とする。
婚約者の王子に殺された~時を巻き戻した双子の兄妹は死亡ルートを回避したい!~
椿蛍
恋愛
大国バルレリアの王位継承争いに巻き込まれ、私とお兄様は殺された――
私を殺したのは婚約者の王子。
死んだと思っていたけれど。
『自分の命をあげますから、どうか二人を生き返らせてください』
誰かが願った声を私は暗闇の中で聞いた。
時間が巻き戻り、私とお兄様は前回の人生の記憶を持ったまま子供の頃からやり直すことに。
今度は死んでたまるものですか!
絶対に生き延びようと誓う私たち。
双子の兄妹。
兄ヴィルフレードと妹の私レティツィア。
運命を変えるべく選んだ私たちは前回とは違う自分になることを決めた。
お兄様が選んだ方法は女装!?
それって、私達『兄妹』じゃなくて『姉妹』になるってことですか?
完璧なお兄様の女装だけど、運命は変わるの?
それに成長したら、バレてしまう。
どんなに美人でも、中身は男なんだから!!
でも、私達はなにがなんでも死亡ルートだけは回避したい!
※1日2回更新
※他サイトでも連載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる