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令嬢としての責任

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 侮辱的な夜会から帰ったエステルは、その日から高熱を出して一週間ほど寝込んでしまった。幸い、熱が出ている間に月のものが来たからダミアンの子を孕むことはなかったのだが、そんなことでエステルの心の澱が解消されようはずもない。

 彼女の純潔が奪われた事実は消えないのだ。

 けれど、エステルはいつまでも沈んだままでいるような悲劇のヒロインではなかった。

(過ぎたことを悔いても過去は覆せないわ。私にできる最善を尽くさなきゃ)

 熱が下がった日の朝、目を覚ましたエステルはすぐに湯あみをした。寝たきりだった身体は萎えていたが、数日間の汗を流してしまえば少し気持ちがすっきりする。

 清潔な服に袖を通して背筋を伸ばすと、エステルは決意も新たにすうっと深呼吸してみた。それで、気持ちの整理がついたような気がする。

 髪を整えるために鏡台の前に座って見た顔は、もう情けない令嬢ではない。

「ミレーヌ」

「はい、お嬢様」

 身支度を手伝っていたのは、エステルの専属メイドだ。領地からエステルのデビュタントのために一緒に王都の邸宅に来ている。

「領地に戻るために荷物をまとめるようお願いしていたわよね。あれはもう、終わったかしら?」

「はい、滞りなく済んでおります」

「良かった。申し訳ないけれど、行き先は変更になったの」

「どちらへいらっしゃるのです?」

「修道院よ」

 落ち着いてエステルの世話をしていたミレーヌは、そこで初めて顔色を変えた。

「お嬢様!? ……修道女になるおつもりですか!?」

 エステルの髪を梳かすためにもっていたブラシをとり落として、ミレーヌは悲鳴のような声をあげる。

「ごめんね。……ミレーヌももう判っているでしょう? 私はもう、まともな縁談を望める身体じゃないって。乙女でないのだから嫁いで家を繋ぐという貴族令嬢の責任を取れないのだもの。他家に恥を晒してジルー家を貶める前に、私は修道院に入るわ」

 振り返ったエステルの顔は困ったように歪んでいる。それでミレーヌは息を飲んだ。

 エステルの身の回りの世話を主に担っているのは、ミレーヌだ。今朝の湯あみの手伝いも彼女がしたように、エステルが純潔を奪われたあの日も、彼女の湯あみを手伝い、身体を清めたのはミレーヌである。当然、エステルが月のものでないもので股に血を流し、白濁の液を注ぎこまれてしまった事実をミレーヌは知っている。

「……ですが……」

 反論しかけて、ミレーヌは小さく息を吐いて気づかわしげな顔になり、そっとエステルの手を取る。

「お嬢様。熱で倒れられていらした間に、旦那様より手紙が届いています」

「え、もうお返事が?」

「はい。まずは手紙をお読みください」

 ミレーヌが差し出した手紙をエステルは受け取る。その内容に目を通して、眉間に皺を寄せた。

「……私に縁談が来てるって書いてあるわ」

 エステルが手紙を読んでいる間に、彼女の髪を梳かしていたミレーヌは振り向いたエステルに頷いて見せる。彼女は既にその話を知っていたらしい。

「お嬢様……実は、旦那様がこちらにいらしてます」

「お父様が!?」

「はい、昨晩遅くに。手紙を早馬で出すのと一緒に、旦那様もお急ぎでいらしたようです」

 ブラシを置いたミレーヌは、最後に髪飾りをつける。

「お嬢様が熱で寝込んでらっしゃると知られて、回復されるまで待つとおっしゃられていました。……もうお会いになられますか?」

「もちろん」

 エステルは頷いて、思案する。エステルの父は普段、よほどの事がない限り、領地からほとんど出ることがない。通常娘のデビュタントには父親が付き添う事が多いが、エステルの王都行きに父がいないのはこのためだ。だというのに、急ぎで王都に来たということは、その『よほどのこと』が起きているということなのだろう。

「……申し訳ないけれど、縁談は断って頂かなくては……お父様はどちらにいらっしゃるかしら?」

 すくっと立ち上がってエステルが問えば、ミレーヌは「ご案内します」と先導を始める。ミレーヌは湯あみの前に、熱の下がったエステルのことを伝えていたらしい。彼女の性格から考えて身支度が終わったらすぐに父に会いにいくだろうことを判っていて、既に先触れはしてある。ティールームの前に着いたエステルは、ミレーヌがノックをする前に扉を開けた。

「お父様。申し訳ありません。私は縁談を受けるわけにはいきません。既に傷物の身体となったので、私は修道院に参ります」

 気が急いていたのだろう。扉を開けて父の姿が目に入るなり、エステルはそう宣言していた。貴族としてのふるまいを考えたらありえない行動だが、領地にいるときのジルー家は、家族同士において限定すればこうした形式を無視した行いは日常茶飯事だ。

「エステル……!」

 声をあげて立ち上がったのは、金の髪にエメラルドグリーンの瞳の男性だった。その特徴だけでエステルの父だとわかる人はほとんどいないだろう。一目で武人とわかる屈強な身体つきに、よく日に焼けた肌で、頬には大きな傷痕まである。色白で華奢なエステルとは似ても似つかない。気の弱い人なら彼に近寄るのですら気後れしそうであるが、エステルは何の気負いもなく父に歩み寄って、そこで止まった。

 そもそもエステルの父は、時間があるからと言ってティールームでお茶をたしなむような人ではない。家族での大事な話をする時には彼の執務室で行うことの方が多かった。ここが王都の別宅だからと言って、それは変わらないだろう。まず、彼がティールームに居ると聞いた時点で、エステルは察するべきだったのだ。

 父のついているテーブルには、ティーセットが二人分あった。視線を動かしたエステルは、父の正面に見知らぬ男性がいることに、やっと気付く。瞬間に彼女の顔からさあっと血の気が引いた。

「お客様がいらっしゃるとは存じ上げず、失礼をし、申し訳ございません」

 相手がどんな人であるかを確認するよりも先に、エステルは膝を折って目線を下げる。

「エステル……」

 嘆息すると同時に、父は男性の方に向き直り、頭を下げた。

「申し訳ない、侯爵」

(……侯爵、様?)

 カーテシーの姿勢のままエステルは止まっているが、じわっと汗が吹き出した。ジルー家は伯爵位だ。家族以外の前で失態を犯したことでさえ恥ずべきことなのに、格上の貴族の前で礼儀を失した己をエステルは後悔する。非礼を咎められても仕方のない状況である。しかも、自分が乙女でないことまで聞かれてしまっている。

「コンスタン殿、顔を上げてください」

「弁解のしようもないことだ。誠に申し訳ない……。このようなことになって……」

「いや、構いません」

 声は硬いものの、侯爵はエステルの無作法を咎めるつもりはないようだ。その事実にエステルはほっとする。

「どうか顔を上げてください。…………貴女も」

 おずおずと顔をあげて、エステルはようやく来客の顔を確認した。濃いグレーの髪は短く、きりっとした眉もルビー色の鋭い目も、彼の精悍さを強調しているようである。礼服をまとっているから本来身体つきが分かりにくいはずだが、その身体が戦いに向いた体躯であることは一目でわかる。それらを見とって、エステルは内心首を傾げる。

 先ほど父――コンスタンを名前で呼んでいた上、王都の別邸にやってくるほど親しい仲の様子だが、エステルには見覚えのない顔であった。

「ラウル・リエーヴル・ヴァロワだ」

 立ち上がった男性――ラウルは、短く自己紹介する。硬い表情の彼を見上げる形で目線を合わせたエステルは頭の中で名前を反芻して、彼がコンスタンと親しげな理由に合点がいった。

 ラウル・リエーヴル・ヴァロワ――その名をエステルは聞いたことがある。いや、この国の誰もが知っている名前だろう。彼はもともと身分の低い生まれだったが、先の戦争で功績をあげ、英雄として称えられ、その褒章として侯爵位を賜った人物だ。戦争英雄のヴァロワ侯爵ならば、コンスタンとも面識があるだろう。

 エステルは再び膝を折って改めて挨拶しなおす。

「申し遅れました。私はエステル・ジルーです」

「……知っている」

「侯爵。こうなった以上、娘との縁談は白紙に戻そう」

(縁談って……彼が私の……!?)

 考えてみれば、縁談がきている旨を知らせるために早馬で駆け付けた父と一緒にいるのが、ただの客であるはずがない。

「陛下には私から話そう。この詫びは……」

「構いません」

「侯爵様……?」

 驚きでつい声をあげたエステルがラウルの顔を見ると、ラウルは眉間に皺を寄せた。

「先ほども言ったように、構いません。彼女が、生娘でなかろうと。彼女は修道院に行くと言っていたのだから、相手の男はもういないのでしょう。なら、この縁談は進めていただきたい。」

「しかし」

 コンスタンが言い募ろうとしたのを、ラウルは首を振って制止する。

「令嬢が生娘でないことは俺しか知らないことでしょう? 俺さえ黙っていれば、問題のない話だ。そんなことでこの結婚を潰すわけにはいかない」

 低い声が淡々と告げる。

(生娘でないことが、問題ないですって?)

 エステルはますます驚いてしまう。この国で未婚の貴族女性が乙女でないとなれば、それは充分に婚約破棄の理由になりうる。貞節な淑女でないという烙印を押され、家名を貶めることになってしまう上、婚姻を結んだ後に産まれた子どもが、誰の子か判らないというそしりを受けるのだ。だからこそエステルは修道院に行こうと決意したというのに、ラウルは構わないという。

「侯爵様」

 エステルが呼びかけると、ラウルは再び眉間に皺を寄せた。けれど、話を促すように彼女の顔を見つめ返す。

「私は先ほど申し上げました通り、傷物です。うかつにも純潔を奪われたような、そんな私が嫁ぐわけには参りません」

「……貴女は、他の男の子を孕んでいるのか?」

「っいいえ! 身ごもってなんか……!」

 瞬間に、かっと頬に熱がのぼったエステルが声をあげる。荒げた声を叱責されても仕方のない態度だがしかし、ラウルは眉間の皺を解いて頷いた。

「ならいい。コンスタン殿。俺と令嬢の結婚には反対でしょうか?」

「いいや、まさか反対など! ……侯爵が受け入れるなら私が言うことは。……しかし陛下には何と報告すればいいだろうか」

「陛下に言う必要はないでしょう」

 は、と息を吐いてラウルは言うと、エステルに向き直り彼女の前へと進み出た。そうして何を思ったのか、その場で跪き、エステルの手を取る。

「エステル・ジルー。生涯、不自由をさせないと約束する。俺と、結婚してくれるか?」

 そう告げて、彼女の手の甲に唇が押し付けられる。彼の見た目からは想像できない柔らかいその感触に驚いたのか、エステルの胸がきゅっと鳴った。

「私、は……」

 とっさに何と答えるべきか迷って、エステルはちらりと父を見た。コンスタンは苦笑いで、頷いて見せる。

(私に任せる、とお父様はおっしゃるのね)

 修道女になる決心を固めたばかりだというのに、それを問題ともせずに求婚してくる男性に、戸惑うなという方が無理だ。すぐにでも結論を出すのは難しいと思われたが、エステルは状況を整理してどうすべきかを考えて、はた、と止まった。

 何度か繰り返される『陛下』という言葉。生娘でないことを問題としないラウル。そして、ラウルは成り上がりの貴族であり、ジルー家は何代も続く格式高い伯爵家である。それらのピースで、ようやくエステルは気付いた。

(……この縁談は、侯爵家とジルー家を繋ぐ、政略結婚なんだわ)

 判ってしまえば彼女の決断は早かった。

 きゅっと唇を引き締めて、エステルは背筋を伸ばす。深呼吸をしたあとは、もう戸惑いをおくびにも出さずに優美に微笑んだ。

「この縁談、謹んでお受けいたします。侯爵様」

 貴族としての名誉を守るために修道女になることを決めたエステルは、また貴族としての責任を果たすために、政略結婚の道を選んだ。そうして、エステルは傷物の身体を抱えながらも、私心なくラウルと婚約したのである。
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