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《現代》桜の花の咲く庭で ~夢だって良いじゃない~

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「あれ? いない?」

 一人の女性が細い通りの生垣で立ち止まる。
 カジュアルなスーツに運動靴。通勤の際は楽な靴をはき、会社に置いているパンプスに履き替える彼女は、今時珍しくセミロングの髪を首後ろで一つ結わきにした、控えめで慎ましい化粧の若い女性だった。
 戸惑うかのように、生垣の向こうにある小さな家の庭を見渡す彼女。
 誰かに見られたらまるで不審者に見えるだろう。しかし彼女は、やもたまらず人様の家の庭を凝視している。

 彼女の名前は橘薫。生まれが五月七日なため端午の節句に因んで祖父がつけた名前だった。

 今年で二十歳になる彼女の日課は会社帰りに見かける一匹の犬の観察だ。

 あれは二年前の初出勤時。

 高校生の頃、自転車で学校に通っていた薫は初めてバス通りを会社への行き来に使う。
 そして見事な桜の咲く家に気づいたのだ。
 自宅から広いバス通りへ向かう細い道。そこに件の家はあった。
 こじんまりとした日本家屋。平屋一戸建てな家には小さな庭があり、そこに大きな桜の木が立っている。

 雪のように降りしきる桜吹雪。

 季節なのだなぁと、感慨に耽る薫は、ふとその桜の木の下に犬小屋がある事にも気がついた。

 頭から小屋に潜り込む薄茶色い犬。

 満開の見事な桜と降りそそぐ花弁。犬小屋に薄く積もった桜色の雪は、まるで映画のワンシーン。

 初出勤でこんな風景を見られるなんて幸先良いな。まるで童話みたいな夢の光景ね。

 それに気を良くし、薫は足取りも軽く社会人一日目を踏み出した。
 そして動物好きな彼女は毎日の行き帰りに、その犬に挨拶するようになる。
 あまり良い待遇は受けていないようだが連日手を振って声をかける薫に慣れて、その犬も尻尾を振ってくれるようになっていた。

 毎日のささやかな幸せ。

 それがいきなり瓦解した。

 よくよく見れば鎖もなく、エサ皿やオモチャのボールなども片付けられ、まるで最初から何も無かったかのような状態だ。

 嘘よ。いたよね? ここに。

 狼狽え、眼をしきりに泳がせる彼女の横を一人の少女が駆け抜ける。
 おかっぱの小さな女の子。年の頃は十歳くらいだろうか。
 その女の子は道に飛び出しそうになったところを母親らしき女性に押さえられていた。

「何でチビを捨てちゃったのっ?!」

 泣きながら喚く女の子を、母親はバツの悪そうな顔で叱りつける。

「仕方がないでしょ? お父さんの転勤先じゃ犬は飼えないのよっ! 保健所に処分を頼むしかなかったのっ」

「処分っ? チビ、殺されちゃうのっ?」

「......誰も引き取り手がなかったらね」

「信じらんないっ、お母さんのバカぁぁっ」

 ワンワン泣く女の子を引き摺るようにして、二人は件の家の中に入っていった。
 それを唖然と見送り薫は信じられないような眼差しで庭の犬小屋を見つめる。
 今朝は確かにいたのだ。あそこに小さな命が。

 保健所に連れて行った?

 飼い主のサインがあれば即処分されてしまう。あの女の子の様子から多分連れて行かれたのは今日だろう。朝に薫もあの犬を見ている。

 どうしよう? 間に合うかしら?

 ここらで保健所と言えば一つしかない。

 薫はスマホで時間と場所を確認し、保健所に電話をかけた。
 今は午後六時半。保健所の受け付け時間を過ぎている。それでも誰かいてくれるかもしれない。
 一縷の望みをかけて彼女は戦慄く手の震えを押さえつつスマホを握りしめた。
 そしてコール音が鳴り響く事八回。スマホの向こうで怪訝そうな声が聞こえる。

『こちら○○○保健所です。受け付け時間は終了しております。ご用件しだいでは、明日にもう一度おかけなおし下さい』

 ガイダンスでなくて良かったと安堵しつつも、つっけんどんな応対に少したじろいだ薫。だがそれに怯まず、脳裏に薄茶色な犬を思い浮かべ、キッと眼をすがめた。

「犬を探しています。迷い犬とかではなく、たぶんですが、今日飼い主によって持ち込まれた犬です。薄茶色で舌を垂らしたヨダレの多い犬です」

 そう。薫があの犬を毎日観察していた大きな理由だ。
 あの犬は眼が虚ろでヨダレが多かった。

 何かの病気なのだろうか? 飼い主は病院に連れていってやらないのか?

 人様の家の事情に首を突っ込む訳にもいかないが、気になって仕方がない薫。
 だから毎日眼にする犬の尻尾に、今日も生きていたと心の底から安心していたのに。
 まさか保健所に持ち込まれてしまうとは。予想外過ぎる。待ったなしのバッドエンドではないか。

 しばしの沈黙を経て、スマホの向こうで小さなざわめきが起きる。

『おっしゃる通りの犬がいるそうです。どうなさいますか?』

 迷いを含んだ不思議な声音。先ほどのつっけんどんさなど微塵も感じられない。

「引き取りに行きますっ、本当に同じ犬だと確認出来たら、私が引き取りますっ」

『承りました。その犬である事を祈ります』

 少し固い声を最後に薫は通話を切る。

 そして早足に自宅へと戻ると、薫は家族に事のしだいを説明した。





「私が責任持つから。この年になって言う台詞じゃないけど一生のお願いです、犬を飼わせてくださいっ!」

 帰って来るなり土下座する娘に眼を見張り、薫の両親は御互いに顔を見合わせた。

 バカな事をしている自覚はある。人に話せば失笑を買うだろう。あるいは薄っぺらい称賛を貰えるかもしれない。
 そんな下らない事だ。それでも薫にはあの犬を見捨てることは出来なかった。

 たった二年。手と尻尾を振り合うだけの逢瀬。それがこんなに心に深く根付いてしまうとは。

 薫にも予想外だった。

「まあ、あんたも良い歳だしねぇ。ちゃんと飼えるなら構わないわよ?」

 おっとりと笑う母。

「連れて帰るんなら車が良いだろう? 父ちゃんが車出してやるよ」

 よっこいしょと立ち上がる父。

「何々、犬飼うの? 子犬?」

「ばぁーか、良く聞いてろよ。成犬だってさ」

 軽口を叩いて笑う、兄と弟。

 良く言えばおおらか。悪く言えば大雑把な家族に己の幸運を噛み締め、感謝しきりな薫である。



 そして車で走る事、三十分。

 自然豊かな山の中にその保健所はあった。大きな煙突のあるコンクリートの建物は火葬場を兼ねており、北側に保健所、南側が火葬場という造りだ。

 駐車場に車を入れ、薫はあたりを見渡した。

 看板などのライトは消えているが入り口の灯りはついている。薫の電話で中には人が残っているのだろう。
 急いでインターホンを鳴らし、薫は足踏みしたくなるのを必死に堪えた。

 早く早く早くっ!

 焦れる薫にはほんの数秒が何分にも感じられ、いてもたってもいられない。
 心の中でジタバタと暴れる彼女を余所に静かな応答があり、入り口の扉が開いた。

「電話の方ですね? お待ちしていました」

 満面の笑顔で迎えてくれる男性。

 この声は聞き覚えがある。電話で受け答えてくれた職員の声だ。
 簡単な挨拶の後、薫と父親は犬の檻へ案内される。
 連れて来られた場所には幾つかの大きな檻があり、各場所には十数匹の犬らが入っていた。
 ギャンギャン吠える犬、物悲しい鳴き声で檻にすり寄る犬、上目遣いでしきりに口回りを舐める犬。

 どれもに共通するのは悲壮な雰囲気。

 思わず固唾を呑み、薫はすがるような眼差しの犬らを黙殺して職員のあとに付いていく。

 .....ごめん。アタシには君らを救えないんだ。

 薫の両手は無力だ。一匹を抱えるので精一杯。そしてその一匹は既に決まっている。
 決まっていて良かった。もし、ここから一匹を選んで連れていけと言われたら、きっと薫は決められない罪悪感に押し潰されてしまった事だろう。
 そんな益体もない事を考えつつ、薫は問題の犬がいる檻の前に来た。

「ここに居ます。どの犬か分かりますか?」

 試すような職員の言葉。

 薫の眼があの犬を探す。

 薄茶色で尻尾が毛玉だらけ。足先も薄汚れた見慣れた姿。

「あの子です。壁の隅に張り付いてる」

 薫が指差した場所にその犬はいた。

 座り込んだ状態で部屋の角に顔を押し付けている。

「チビ」

 薫は今日初めて知ったこの犬の名前を呼んだ。
 ありふれた名前だ。複数の犬が振り返る。 
 その期待に満ちた眼差しを黙殺し、薫はさらに犬の名前を呼んだ。

「チビちゃん、迎えに来たよ」

 視線が合わないにも関わらず、何匹かの犬が檻の傍で薫にすり寄ってくる。
 それを切なげに見下ろし、職員の人は檻に入ると、薫が指差した犬を連れてきた。

「間違いないようですね。お連れになりますか?」

 両脇を抱えるように運ばれてきた犬は力なくぶら下がっている。

 相変わらずの虚ろな眼差し。

 この犬は何も期待していないのだろう。されるがままにそこに在る。

「はいっ、御世話になりました、連れて帰ります」

 半分涙声でチビを抱きしめ、離れない薫の代わりに父親が書類を書いてくれた。
 そして犬を連れて車に乗り込む二人に、あとを追ってきたらしい職員が一枚のタオルケットを差し出す。

「ボロで申し訳ないが無いよりマシでしょう。返さなくて構わないので使ってください」

 薄汚れてはいるけど洗濯済みらしいそれを受け取り、薫は犬を包む。
 舌を垂らしてヨダレだらけなチビのために、わざわざ持ってきてくれたのだ。

「ありがとうございます。助かります」

 頭を下げてお礼を言う薫に職員は軽く首を振り、チビの頭を撫でた。

「御礼を言いたいのはこちらです。こんな幸運は滅多にない。良かったなぁ、おまえ。気にかけてくれる人がいて。こんな奇跡が見られるとは本当に思わなかった」

 聞けばチビが持ち込まれたのは今日の殺処分が終わった後で、もしその前であれば、既にチビは処分されていたはずだと言う。
 迷い犬と違い、持ち込まれた犬猫は飼い主の許可があればすぐに処分出来るのだ。
 集められた犬猫の殺処分に猶予が持たれるのは迷子のペットで飼い主が探している可能性があるから。
 飼い主によって持ち込まれた動物にはその可能性がない。なので即処分される。
 延々と飼い主探しをしてやれるほど、保健所には予算も余裕もないのだ。哀しい話だが。

 だからだろう。チビの問い合わせに、一時保健所はフィーバー状態だったらしい。

 その奇跡の瞬間に立ち合いたいと、殆どの職員が残っていたのだと聞き、思わず薫は出てきた建物を振り返った。
 するとそこには窓に鈴なりな人々。振り返った薫に驚き、半数は引っ込んだが残り半数は陽気に手を振っている。

 そうだ。誰だって生き物を殺したくなんかない。

 薫は鼻の奥がツンとする。

 そして建物に向かって深々と頭を下げ、父親と共に帰路についた。





「あらまあ」

 帰ってきた二人を見て母親は頬に両手を当てる。

 ボロに巻かれたヨダレだらけの犬と、顔を真っ赤にして泣きはらした娘。
 犬を連れてくるとの事なのでと、母親が用意してくれていた段ボール箱にタオルケットとチビを入れ、薫はとつとつと保健所の話をした。

 それを聞き、言葉もない家族一同。

「本当にギリギリだったのね」

「ひとつでも欠けてたら、この犬は我が家に来れなかったんだ」

「奇跡の犬と呼ぼう」

 弟の〆に、どっと笑う橘一家。

 本当に奇跡だった。

 もしあそこで薫が犬の不在を訝り立ち止まらなかったら? 散歩かな? とか思って通りすぎてしまっていたら?

 あの母子の会話を聞く事もなく、保健所に問い合わせもしなかっただろう。

 もしあの母親が午前中にチビを保健所に持ち込んでしまっていたら?

 保健所に問い合わせた薫は、チビの死を知らされ、後悔と絶望に頽れた事だろう。

 数々の小さな幸運が重なり、今の奇跡を起こしてくれた。

「大事にするからね、チビちゃん」

 頭を抱え込んで丸まる薄茶色い犬。
 カタカタと小さく震えるその背中を撫でながら、薫はえもいわれぬ至福を感じていた。

 こうして橘家に天使がやってきたのである。





「うわあぁぁぁ」

 そして、今日も薫の雄叫びが上がる橘家。

 御迎えした天使の名前はチビ。この犬、予想以上に手強かった。
 雄叫びをあげられる今が、すこぶる幸福だと思えるくらい。今日も元気なチビの悪戯に、困り顔をしながら笑ってしまう薫。
 玄関先に置いてあった傘立てを自分でひっくり返したくせに、チビはキャンキャン怯え鳴きしていた。
 倒れた音に驚いたのだろう。
 ヒュ~ンと鼻面を擦り付けてくるチビが可愛くて堪らない。

「うっかりしてたわね。倒れないように固定しておくわ。よしよし」

 今でこそ甘え、抱かれてくれるチビだが、引き取ったばけりな頃は酷い状態だった。

 チビの頭を撫でつつ、薫の脳裏には当時の切ない思い出がそぞろ浮かぶ。



 あの日、取り敢えずチビを見守ろうと、橘家の面々は薄暗く落ち着く廊下に寝床の段ボール箱を移動した。
 家に慣れるまではせっつかないよう家族に言い含める父親に頷き、薫も思わぬ父の助言に感心する。

 なんでも父は子供の頃から動物をよく飼っていたらしい。

 死に別れの辛さも知っていて、子供らがそんな目に合わぬよう、結婚してからは何も飼わなかったそうだ。
 どうせ一生のお願いとか言って、子供らが何か拾ってくると期待していたらしいが、今時、野犬は勿論のこと捨て犬や捨て猫すら放置されない。
 見つければ即通報。保健所の皆様が直ぐに回収してしまう。
 それを知らず、何も拾って来ない子供達に、父は長年首を捻っていたらしい。

「世知辛い世の中だな」

 ぶつくさ愚痴る父の夢が思わぬところで叶った訳である。
 まさか成人間近な娘から一生のお願いをされるとは思わなかったと、カラカラ笑う背中が面映ゆい薫だった。



「きったねぇ犬だな。姉ちゃん奇特にも程がある。まったく」

 口が悪く歯に衣を着せぬ弟。

 だが何だね? その手にある袋から覗いている犬のマークは。

 シャンプー? うん。リンスもあるの? そう。え? ノミ、ダニ除去の薬? 

 袋の中身は獣医様御用達の品々。これって結構な御値段するんじゃない?

 仏頂面でそれを薫に押し付け、弟は悪態をつく。

「ちゃんと手入れしろよ。きったない犬を家に上げんな」

 それはつまり綺麗にしてあれば、家に上げても良いと? チビは中型犬なんだけど良いの?

 素直でない弟の遠回しな厚意。

 風を切るように突っ張った弟の背中が微笑ましい薫である。



「ほい。これ」

 そっけなく封筒を渡すのは薫の兄。

 結構な厚みの封筒を覗くと中には十枚の諭吉様。

 現ナマ来ましたーっ!

「いやいや、これはダメでしょうっ」

 慌てて突っ返そうとした薫を溜め息混じりに見つめ、兄はポンポンと彼女の頭を撫でた。

「おまえ、生き物を飼う事を甘く見すぎ。それでも足りないと思うぞ、たぶん」

 いつも飄々とした兄の真摯な眼差しに、薫は小首を傾げる。
 その背後から現れた父親も、同じような封筒を持っていた。

「あ。先を越されたか」

 残念そうに渡された父の封筒には、兄がくれた額の二倍な諭吉様。

「アタシだって働いているんだから、チビくらい養えるよ?」

 憤慨も顕にブスくれる薫を二人は生暖かい笑顔で見つめていた。



 はい。わたくし舐めておりました。

 獣医って、こんなにお金がかかるんかーい!

 弟の貢ぎ物で綺麗にしたチビを、薫は獣医に見せた。
 洗ってから驚いたのはチビの体毛。なんとチビは白い犬だったらしい。

 どんだけ洗ってなかったのさっ!

 真っ白になったチビを抱き締めて、獣医さんを訪れた薫。しかしそこで聞かされたのは厳しい現実だった。
 数年前から病気だったらしいチビは多くの疾患を抱え、合併症まで起こしていたのだ。
 ろくに散歩もさせていなかったらしく、足の爪も巻き、伸びた先が肉球に刺さっている。

「酷いね。放置も極まれりな状態だ」

 診察台の上でプルプルと震えるチビ。

「あと、多分だけど」

 そういうと、獣医さんはチビを低い段ボールの上に乗せた。
 チビは不安げに辺りをキョロキョロと見回しながら、すこっと足を踏み外す。

「え?」

 目の前の段差を踏み外したチビをみて、獣医さんは厳めしく眉を寄せた。

「やっぱり眼が見えてないね。たぶん両目」

 ライトを翳したり瞼を裏返したり。色々した結果、生来見えていないのだろうとの診断だった。
 細かく調べないと分からないが、光や原色な色。あとは動く物を何かが動いていると視認出来る程度らしい。
 つまりチビはド近眼な薫より視力が低い事になる。
 恐ろしい話だ。薫はコンタクトを外すと、正面に伸ばした自分の指先すら見えない。 

 それより見えないって。全盲でないだけマシなのだろうけど、あんまりだ。

 犬は嗅覚や聴覚が発達しているので然程視力には頼っていないと獣医さんは言ってくれたが、それでも見えてると見えてないでは雲泥の差だろう。

 立て続けに聞かされるチビの酷い状況。

 そして出された請求書で諭吉様が数枚吹っ飛ぶ。
 毎回このくらいの費用で、この治療は長くかかるらしい。それでも完治するかは微妙だそうだ。

「無理はしないで、程好く病気と付き合うのも手だよ?」

 大体の事情は察してくれたのか、獣医さんは大人の判断も示唆してくれる。

 .....でも。

 大事にすると約束したのだ。チビには有り難迷惑かもしれないが、少なくとも健康であって欲しい。

「出来る限りの治療を御願いします。お金は頑張って稼ぎます」

 言い切る薫の真摯な眼を見て、獣医さんは嬉しそうに破顔し、チビの頭を指で掻いた。

「おまえさん良い主に拾われたな」

 そういうと獣医さんはサービスで肉食獣用の粉ミルクをつけてくれる。
 何でも手っ取り早い栄養摂取に最適なのだそうだ。これを餌にかけたりするだけで、かなり体調が良くなるのだとか。
 チビは食事も宜しくなかったらしく、酷い塩分過多、糖分過多な兆候が見られるという。

「人間の食事の残飯を与えてたっぽいね。虫歯もあるし長くかかると思う。根気が要るよ。頑張って」

 獣医さんの説明、ひとつひとつに薫は言い知れない怒りを覚える。

 散歩もさせず繋ぎっぱなしで爪も切らない。毛玉だらけな全身を見ればブラッシングどころが洗いもしていなかった事が丸分かりだ。

 さらには人間と同じ食べ物を与え、外飼いで放置。虫歯箘は伝染するモノだ。人間の食べかけを与えたり、口を舐めさせたりしなければ犬に発症することはない。

 薫が知るだけでも数年はその状態だったはず。

 ふつふつと沸き上がる彼女の怒りが見て取れたのだろう。
 獣医さんは小さく嘆息して、ヒラヒラと手を振る。

「その気持ちを忘れないで。よくあるんだ、こういう事は。無知な飼い主が多くてね。今ならググれば何でもわかるってのに」

 哀しげに眉を寄せる獣医さんに大きく頷き、薫はチビを連れて家に帰った。

 チビを取り巻くあまりな理不尽。ペットの運命は飼い主が握っている。良い飼い主に巡り会えなかったチビの不運を呪い、病院の帰り道、薫は声もなく泣いた。





「チビは?」

「何時ものとこ」

 帰宅して開口一番、薫はチビを探す。

 あれから一ヶ月近くたったが未だにチビは家族に慣れない。

 段ボールの寝床は廊下に置いてある。しかし人目があるうちは、チビは玄関の隅にピタリと張り付いて動かないのだ。
 夜から朝は寝床にいるが人の気配を察するとバタバタ玄関に逃げていく。
 そして下駄箱の下に潜り込み、全てを拒絶するかのように背を向けて丸まってしまう。

「多分だけど元の飼い主がそんなんだったんじゃないかな」

 人間の住居に足をかけようものなら酷い目に合う。そんな暮らしだった事がありありと感じられるチビの行動。
 忌々しげに吐き捨てて、弟は玄関から見える位置に移動した。
 とにかく見慣れてもらい、警戒心を解きたいらしい。
 弟は思いきってチビを抱き上げ、居間に運んだ事もあるのだが、床に下ろした途端、ヒャインヒャインと泣き叫んで、チビは玄関の隅に張り付き動かなくなってしまった。結果、家に上げるのを断念した経緯がある。

 それがかなりショックだったのだろう。

 彼は、そのあと酷く落ち込んでいた。

《根気が要るよ。頑張って》

 獣医さんの言葉が薫の脳裏に浮かぶ。

 あれはこういった意味もあったのかもしれない。

 複雑な心境を胸に閉じ込め、橘一家はチビが寛げるように静観を貫いた。
 日々の声かけは忘れず、時にはスキンシップに頭や背中を撫でたり、足を握ったり。
 チビの負担にならない程度を見極め、献身的に努力を重ねた。

 怖くないのだと。安心して良いのだと。

 言葉で。態度で。少しずつ少しずつチビに伝えていった。

 そしてそれは、ある日いきなり実を結ぶ。

 チビが玄関の段差を上がったのだ。

 そっとかけた足を慌てて引っ込めたり、顎だけを段差に乗せて、じっと様子を窺っていたり。
 見えない眼をしきりに動かして、プルプル震えつつも、玄関の段差をゆっくりと上がってきたチビ。
 固唾を呑んでそれを見守っていた橘一家は、声を上げずに歓喜する。
 顔を見合わせて眼を見開き、ジタバタとジェスチャーだけで喜ぶ面々。
 チビを脅かさないためだが、端から見たら、とんでもなく滑稽な姿だろう。

 それで良いのだ。他人に理解を求めようとは思わない。

 ここから急速にチビの警戒心はほどけていった。





「こぉらっ、またお父さんはっ!」

「チビが欲しそうな顔してたんだよ、醤油はつけてないからっ」

 そういう問題じゃないっ!

 晩酌する父親の足元に丸まるチビ。

 そのお口の中にはマグロの刺身が入っている。如何にも幸せそうに咀嚼する犬を見ていると、誰も怒る事が出来なかった。

「贅沢させないでよね、もうじきアタシ引っ越すんだから」

 チビを御迎えしてから半年。薫は犬の飼える家を探している。
 元々二十歳になったら独立するつもりだったのだ。その話は家族にもしてあった。
 なのに、今になって反対の雄叫びを上げる両親。

「女の子が一人暮らしなんて物騒よ。お嫁に行くまで家にいなさい。なんなら入り婿をとってマスオさんでも良いわね」

 ニコニコと宣う母。

 お母様。以前はとっとと独立して家事の一つも覚えろとか仰ってませんでしたか?

「そうだ、一人暮らしなんてしたらチビは昼間寂しいだろう? チビは家に置いていけっ」

 唾を飛ばす勢いで宣う父。

 お父様、下心だだ漏れです。少しは体裁を取り繕って下さい。

 思わずウンザリと天井を仰ぎ、薫は溜め息をついた。

 そうなのだ。家族がいきなり反対を始めた理由はチビである。

 あの歓喜の邂逅以来、チビはみるみる家族に懐き、愛くるしい仕草を振り撒きまくっていた。
 両親はもちろん兄弟もデレデレで、めいいっぱいの愛情をチビに注いでいる。

 そんな幸せの絶頂で彼等は思い出した。

 薫が近く一人暮らしを始める予定だった事を。

 したり顔な娘が、妹が、姉が。悪魔に見えた橘一家。

 家族の悲痛な絶叫を余所に薫はチビと家を探し歩く。
 今日も駅前の不動産屋と合う予定だ。
 チビもすっかり元気になり、今は月一の定期検診で済んでいた。
 最初はオドオドしていた散歩にも慣れ、今では足取りも軽く、てってってっと薫の歩調に合わせて並んでいる。
 不動産屋から地図と鍵を受け取り、薫は慣れたバス通りを軽快にチビと歩いた。
 そして見知った細い道を訝り、ふと顔を上げると、そこには桜の木のある日本家屋。

「ここは.....」

 不動産屋から紹介された物件は、なんとチビの元飼い主の家だった。

 皮肉なことだ。

 薫は辛辣に眼をすがめる。

 彼女は家族がチビを可愛がっている事から、昼間は実家に預けるつもりで実家から近い場所に家か部屋を探していたのだ。

 それが禍する。

 まさかここだとは。チビにとっては悪夢でしかない場所だろう。
 犬が飼えて家から近いってなれば、ここが候補に入るのは当たり前だった。

「ここは無いな。うん。別なとこ紹介してもらおうね、チビ」

 そう呟き、踵を返そうとした薫は、チビが動かない事に気づく。
 珍しく足を踏ん張り、薫の引くリードに抗っていた。そして然も嬉しそうに尻尾を振る。
 何だろう? とチビが向いている方に薫が視線を振ると、そこには一台のトラック。
 何か揉めているようで、ぎゃあぎゃあと騒ぐ大人達の中から一人の子供が飛び出してきた。

「チビーっ!」

 見覚えのある、おかっぱの少女。

 少女は一直線に薫の元へ駆け寄り、チビをぎゅっと抱きしめる。チビも千切れんばかりに尻尾を振っていた。

「ほら、やっぱりチビだよっ」

 追いかけてきた母親らしい女性を振り返り、満面の笑みを浮かべる女の子。
 それに眉を寄せ、女性は吐き捨てるように少女を叱った。

「こんな綺麗な犬がチビな訳ないでしょう、チビはもう死んだのっ!」

 女性の声を聞き、チビは慌てて薫の後ろに隠れる。

 その瞬間、薫の中で何かが切れた。

「ごめんなさいね、家の子の勘違いです」

 曖昧な笑みを浮かべる女性を真正面から見据え、薫は低く穿つような声で答える。

「勘違いではないですよ。この子はチビです。貴女が保健所に持ち込んだ。.....ね」

 途端に女性の顔が凍りつく。

 そして薫とチビを何度も見比べ、忌々しげな一瞥をくれると、無言のまま女の子を引きずるようにトラックへ引き返していった。

 そういえば、父親の転勤で犬が飼えなくなったのだとか言っていたっけ。

 走り出したトラックを見送り、薫は黒い笑みを浮かべる。

 あの顔。少しは意趣返ししてやれただろうか。

 肺の中で澱んだ空気をすべて吐き出し、薫はしゅっと背筋を伸ばした。
 その足元に丸まる白い犬。薫の影に隠れながらも、女の子を見送るかのようにその尻尾を小さく揺らしている。

 あの少女。

 薫とチビを繋いだ奇跡の日。

 それはあの少女の泣き声から始まったのだ。

 あの子だけはチビを可愛がっていたのかもしれない。

 そう思いつつも薫は帰る気が失せ、取り敢えず見るだけ見てみようかと件の日本家屋へ向かう。
 チビも別に忌避する様子はなく、むしろ慣れた足取りで庭を散策していた。
 桜の木の下にあったチビの犬小屋は無くなり、代わりにあったのは小さなカマボコ板と数匹の煮干し。

 その板には子供の拙い文字でチビの墓と書いてある。

 縁起でもない。

 一瞬薫は眉を寄せたが、次には綻ぶように破顔した。

 やはりあの子だけはチビを可愛がっていたのだ。

 そう思うと、この墓標もほほえましい。

「悪くないかなぁ。チビはどう?」

 小さく鳴いた白い犬はすでに寛ぎ、縁の下辺りを掘り返している。

「縁側もあるし、建物も綺麗だし。陽当たりも良いし、桜もある。春は花見しほうだいだね」

 立て付けも悪くないらしく、閉じてあった雨戸も軽々と動いた。

 その縁側に座り、薫は春を夢見る。

 チビを初めて見たあの日。

 その時も桜が満開で、犬小屋に花弁が積もっていた。

 あのワンシーンに自分が立つ。

 夢のような光景じゃない?

 ふくりと薫の眼が弧を描く。

「決めようか」

 薫の言葉にチビが大きく吠えた。

 桜が咲き、花弁の舞い散る庭に、一人と一匹の新たな物語が刻まれる。

 それはきっと幸せな物語に違いない。




          
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