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第16話 隔靴掻痒
しおりを挟む七月二十九日、火曜日の夜。内海巡査部長は西港区藤川町にある二階建てアパートを張り込んでいた。対象は二階の二〇五号室、佐野渉の部屋。張り込みとはいえ、道沿いに堂々と駐車すれば夜間であっても人目につく。超小型の監視カメラと盗聴器をアパートの出入り口付近数カ所に設置し、数十メートル先の脇道に停めた車の中から監視していた。
佐野が警察の存在を警戒しているかもしれない——部屋の扉に仕込まれた枯れ草からその可能性が浮上し、最小限の監視体制を敷いてから一週間。その間、対象者に特筆すべき動きは見られないままで内海は焦りを感じ始めていた。一人目の市議会議員失踪から一ヶ月以上が経ったというのに捜査は遅々として進まず、三人の居場所や安否に関する手がかりは何一つ得られていない。唯一の容疑者である佐野渉には、誘拐犯と断定するだけの明確な証拠がなく手出しができない状態だ。凶悪事件に関わっているかもしれない人物が目の前にいながら何も行動を起こせない現状に、日増しに苛立ちが募っていく。
佐野は公安の監視に気付いているのではないか——町田巡査の言葉が脳裏を掠めた。良くも悪くも、警察の仕事において直感は馬鹿にできない。そして、嫌な予感ほどよく的中する。
「佐野が事件と無関係な訳がない。その直感は間違っていないはずなのに」
無意識に頭髪を掻きむしる。茨の蔓をいくら薙ぎ払っても、次から次へと地面から顔を出して行手を塞ぐかのようだ。「公安の職務は根比べ」と後輩に放った助言が今は自身へと跳ね返る。内海は自らを奮い立たせるように両手で頬を叩くと、スマホアプリとノートパソコンのカメラ映像に目を戻した。
事態が急変したのは、監視を始めて三時間後。腕時計が十一時を回った直後、全身を黒っぽい服装で覆った人物が木造アパートから姿を現した。人目を警戒するように辺りを見回したとき、その横顔を街灯がしっかりと照らし出す。間違いなく、佐野渉本人だ。
佐野は周囲に人気がないことを確認すると、内海が車を停めている脇道の方角へ足を向ける。張り込みに気付いたのかと肝を冷やしたが、その心配を他所に対象者は脇を素通りして住宅街へと歩き出した。車での追跡は目立つため、徒歩での行確に切り替える。
灯りの少ない道をひたすら直進すると、やがて横断歩道がない片側二車線の通りに出た。佐野は車の往来がない道路を突っ切ると、こぢんまりとした広場のようなスペースで足を止める。そして、おもむろにパーカーのポケットへ手を突っ込むとスマートフォンらしきものを取り出した。手元をぼんやりと照らす液晶画面のライトが、道路を挟んだ内海の位置からでも目視できる。
誰かと待ち合わせているのか。この一週間、驚くほど何の動きも見せなかった対象者が初めて行動を起こした瞬間だ。燻っていた胸が俄かに昂る。飛び出し禁止の看板に身を潜め、佐野の一挙手一投足に意識を集中させた。
尾けられているとは露ほども思っていないのか、スマホを耳に当てる後ろ姿はまるで無防備だ。どこかに電話をかけているようだが、距離があって会話の中身までは聞き取れない。ものの一分程度で通話を済ませた佐野は、目の前に連なる石畳の階段を一段飛ばしで駆け上がった。
対象者が視界から消えたと同時に、内海は道路を素早く横断して広場に足を踏み入れる。階段に目を転じるが、標的の姿は既になく暗闇が広がるばかりだ。地図アプリによれば、佐野が向かった先には墓地と民家があるだけ。まさか一人で肝試しに繰り出した訳でもあるまい。時間と場所から考えて、何者かに呼び出された公算が高いだろう。
数秒ほど逡巡してから、内海はスマートフォンで町田を呼び出す。今日の監視任務は既に終わっているので、今は自宅で夢の中かもしれない。心咎めながらも通話ボタンを押すと、七コール目でようやく「はい」と覇気のない声がした。
「ごめんなさいね、夜遅くに」
『いえ……この前は夜長話に付き合ってもらいましたから。どうかしましたか』
「マル対が動いた。アパートから少し離れた墓場のそばにいる」
「えっ」と短い叫びに続いて、ごそごそと身動きする音。驚いて布団から這い出たのかもしれない。
『誰かと会うつもりなんでしょうか』
「わからない。近くまで尾行したけど、今は距離を置いたところから電話をかけてる。そこで相談なんだけど、このまま電話を繋いでおいてほしいの。もし私が電話に出られなかったり電話口で異変を感じたりしたら、東海林警部に報告をお願い」
『それは構わないですけど、一人で大丈夫ですか。相手は元マルB、しかもお偉い方三人を誘拐したかもしれへん容疑者ですよ』
不安げな口調の後輩に、内海は一縷の望みを託した。
「今は応援を待つ時間もない。だから保険をかけているのよ」
『保険、ですか』
自分のことを指しているのだと彼が気付くより先に「それじゃ、よろしく」と告げ、通話中のスマホをスーツの内ポケットに仕舞った。
階段を昇りきった先はT字路になっていた。視線を持ち上げると、闇の中に墓石の輪郭がぼんやりと浮かび上がっている。内海は数秒ほどその場で考え込んだ末、己の直感に従って左に足を向けた。車一台が何とか通るくらいの道幅を進み、やがて住居と住居の間に細い階段を見つける。うっかりすると見過ごしてしまいそうだが、どうやら住宅街の上へと続いているようだ。
意を決して頂上まで駆け上がると、再び民家の立ち並ぶエリアに出た。左右に分かれた道を右に折れ五十メートルほど歩く。右手に見えたのは墓石が延々と立ち並ぶ死者の寝床だった。先ほどのT字路から見上げた墓地はここのようだ。
街灯はおろか、月明かりさえない空間に広がる墓苑はホラー耐性のある内海でも薄気味悪さを覚える。だが、ここで引き下がるわけにはいかない。傍の電柱に身を寄せ、極限まで神経を尖らせた。夜闇で視覚が頼りない今、耳や皮膚などのあらゆる感覚を頼りに人の気配を察知しなければならない。
——じゃない……ちがう……してくれ……
夜の静寂の中、微かではあるが人の話し声が耳に届く。同時に、砂利を踏むような音も墓地の方向から聞こえた。それも一人分ではない。内海は息を殺し、聴覚に全神経を集中させる。スマホの録音アプリを作動させたとしても、この距離では会話の内容まで検知できない。今は己の耳だけが頼りだ。
——ください……カミにちかって……として……
寝静まった住宅地に突如、車のクラクションが鳴り響いた。腕時計にちらと目を落とすと日付を五分ほど超えたばかりだ。クラクションの余韻が去り、辺りは再び音のない世界に閉ざされる。
……ザクッ……ザクッ……ザクッ……
砂利道を踏み締める音が、深閑とした闇の中から浮かび上がる。内海は全身を硬直させたが、足音は次第に遠下がってやがて完全に途絶えた。耳に入るのは、公道を走り去る車の音と夜風が草木を揺らすノイズだけ。思わず吐息を漏らした、その刹那だった。
背後から回された腕が、内海の首を勢いよく締め上げた。身体が宙に浮くと同時に、息が止まって正常な思考が乱される。襲撃者はそのまま相手の息の根を止めんとするかの如く、腕の力を徐々に強めていく。喉の奥で溜まった唾が、唇の端から僅かに垂れた。酸欠状態が進み、視界が白く霞がかっていく。
だが、曲がりなりにも内海は警察官だ。襲撃者の腕に両手を添え、分厚い皮膚に爪を食い込ませる。アスファルトから離れた足に勢いをつけ、右足を後方へ大きく蹴り上げた。「ぐはっ」と鈍い声がした瞬間、首の圧迫感が僅かに弱まり隙ができる。右肘で相手の肋部分を思い切り突くと、ようやく身体の拘束が解けて両足が地面についた。
そのまま倒れ込みたい衝動を抑えて、ふらついた足を必死に前へ出す。酸欠状態が続いて、まだ意識がぼんやりとしていた。素早く息を吸い、できる限り肺に空気を取り込む。背後を振り向こうとした瞬間、今度は肩をどつかれて全身を強かに地面に打ちつけた。起き上がる間もなく人影が覆い被さり、骨ばった指が再び喉を締め上げようとする。片足を相手の首にかける柔術で形勢逆転を試みたものの、襲撃者は内海の動きを予知したかのように両足を膝でがっちりと固めていた。ジタバタと踠いて逃げ出そうにも、圧倒的な体格差でなす術を失った状態だ。
絶体絶命、万事休す——薄れゆく意識の中で、せめてもの抵抗として血が滲むほどの力で相手の両腕に爪を立てた。万が一内海が遺体で発見された際、爪の間に残った皮膚組織から襲撃者のDNAが検出できるはずだ。尤も、犯人が証拠隠滅のため遺体をどこかへ遺棄してしまったら話にならないが。
私にできるのはここまでなのか。失踪した市議会議議員の行方も掴めず、佐野の尾行にも失敗し、徳光仁を殺害した犯人も捕えられないまま人生に幕を閉じるのか。
激しい後悔の波が押し寄せる。己の力量不足を痛感したのは、ゾディアック団事件で被疑者を取り逃して以来だった。
内海巡査部長が襲撃を受けた時刻、時也は辻馬車通りの自宅マンションにいた。仕事部屋の机上で本を広げていると、傍らのキャビネットに放置していたスマートフォンが震える。
『よお、最近顔を見てないが調子はどうだ』
「大迫じゃないか。どうしたんだこんな時間に」
組織犯罪対策本部の大迫雄大は、警察学校時代からの同期にあたる。血の気が多くヤクザ顔負けの人員が揃う組対部の中でも、冷静かつ慎重な捜査で犯人を追い詰める珍しいタイプの刑事だ。公安一課の落合巡査部長とは組対部時代に師弟関係を築いた仲でもある。
『別に大した用じゃない。この前久しぶりに寛さんと昼飯に行って、そのときお前の話題が出たから声を聞きたくなっただけだ』
「背中がむず痒くなる台詞だな。大迫には似合わないぜ」
『相変わらず失礼な男だ。これでも組対部の中では紳士で通っているんだが』
朋友の変わらぬ声に懐かしさが込み上げる。談笑ついでに、ふと訊ねてみた。
「そういえば、組対部はトクミツ建設の事件にはタッチしていないのか」
探りを入れたつもりはなかった。が、時也の一言に大迫はふと黙り込む。逡巡したのは一瞬だった。
『実は、その件で連絡したんだ。一昨日、一課と二課を交えた合同捜査が決定した。三部署連携の大掛かりな帳場だ』
徳光仁の遺体が発見された日、捜査二課の重松刑事と交わした会話を思い起こす。徳光は、美土里区の緑地公園入札談合に関与していたとして二課からマークされていた。その徳光が殺されたとなれば、当然二課は殺人と談合事件との関連を疑ってかかるだろう。一課と合流して殺しを捜査するのは必然だ。
『組対が捜査に参戦するということは、トクミツ建設と葵組の繋がりもとっくに掴んでいるんだろう』
『ガイシャが葵組の残党を密かに匿っていた話か』
「やっぱり把握していたのか」
『四年前の大抗争で、野嶋組と葵組の動向は組対部の連中みんなが注目していたさ。俺はこっちに異動してから聞かされたが、それからも奴らの動きはちょいちょい耳に入っていた』
大迫によれば、葵組は四年前に野嶋組から受けた粛清によって組織としての機能を喪失。同年の春に県警へ解散届を提出し、以降は警察沙汰やトラブルなどの記録も特に残されていない。当時の葵組組長だった時任忍は野嶋組構成員への暴行と監禁の罪で逮捕されたものの、二年後に獄中で病死。関東圏の暴力団界隈でカリスマ的存在として名を轟かせていた男の最期は、孤独で呆気ないものだった。
残された葵組の元構成員たちは、時任の縁を頼ってトクミツ建設に身を寄せる。ここで時也を驚かせたのは、徳光仁がかつて暴力団に所属していたヤメ暴で、しかも所属先が野嶋組である事実だった。
「例えば、徳光仁はもともと野嶋組に属していたものの、組織を裏切って時任派についたことで野嶋組の連中から恨まれていたんじゃないのか。だとすれば、今回の殺しに野嶋組が関与している可能性も考えられる」
息巻く時也に対して、組対部の若きホープは「それはない」と一刀両断する。
『二年前に獄中死した時任は当時三十七歳だ。徳光仁が野嶋組に属していたのは二十代。その頃、時任はまだ中学生くらいの年齢だから計算が合わない。それに、徳光がヤメ暴になったのは葵組が野嶋組から分裂するよりずっと前の話だ。そんな過去の軋轢を野嶋組の奴らが引きずるとは考えにくい』
隙のない反論に、大人しく「それもそうか」と引き下がる。
『それから、もう一つ気になる点がある』
「気になる点?」
『ガイシャの殺され方だよ。後頭部を強打されて気絶した後、体に火を点けられ焼かれた。マルBがそんな回りくどい殺し方を選ぶとはどうにも思えない。しかも、殺した直後に自ら警察に通報までしているんだ』
「そりゃおかしな話だな」と初めて聞いた風を装う。大迫はやや早口になり、
『交番から警官が臨場したとき、通報者の姿は既になかったらしい。だとすれば、犯人は出頭目的で電話したわけじゃない。あれは一種のパフォーマンスだ』
「パフォーマンス、ね。警察をおちょくっているのか」
『挑発しているのか愉快犯なのかはわからない。だが、徳光殺しに限って言えば過去に関わったマルBの因縁って説はないと思うぜ。むしろ、もっと根深い闇が潜んでいそうなヤマだな』
「闇、か」
不吉な予言めいた言葉に、時也は暫し沈黙する。市議会議員の失踪やAPARの一件も含めると、事件の背後にもっと大きな何かが蠢いているのではないか——とは、前から薄々とだが感じていた。それが、公安一課の宿敵でもある〈新組織〉なのか、はたまた別の存在なのかは判然としない。はっきりしているのは、これが個人の私怨や金目当てといった単純明快な事件ではないということだ。
「なあ、大迫。徳光殺しについてほかに何か判っていることはあるのか」
『おっと、俺を介して殺しの情報を引っ張り出そうって魂胆か』
「別にお前をスパイに仕立て上げるつもりはない。そんな小細工、俺らの仲には不要だろ」
肯定する代わりに、大迫は電話口で低く笑う。
『残念だが、今話した以上の進捗はほとんどない。トクミツ建設の従業員は任意による事情聴取の真っ最中だ。ガイシャは保田谷区に建設予定のテーマパーク工事を市から請け負っていたが、二課によれば市職員から便宜を図ってもらっていたとかで嫌疑をかけていたようだ』
「入札談合か。たしか、美土里区の緑地公園事業も官製談合で捜査中だったよな」
『情報が早いな。二課は大わらわだよ。二件の談合事件を抱えそうになるわ、関係者が殺されるわで猫の手でも借りたいところだろうさ』
糖分補給のコーヒー牛乳を日夜コンビニで買い求める重松刑事が、安易と想像できた。
「ありがとう。こっちも殺しに繋がりそうなネタが出てきたら連絡する」
『期待しているぞ……なあ、一つだけ教えてくれるか』
通話終了のボタンを寸でのところで押しかける。
「何だ」
『トクミツ建設に唯一再就職しなかった葵組の元構成員がいるんだが、そいつをハムが調べているって噂は本当なのか』
数秒ほど考え込んでから、「ああ」と短く答える。大迫はそれ以上追求せずに、
『そうか。邪魔して悪かったな、それじゃまた』
同期との通話を終えた直後、再びスマホに着信が入った。今度は東海林警部からだ。
『新宮か。悪いな、こんな時間に』
抑え気味だが切羽詰まった声色に、非常事態を察する。時也はクローゼットから仕事用のスーツ一式を取り出しながら、
「ボス、一体何事ですか」
『佐野の尾行中に内海が襲われた。今から〈けいあい病院〉へ行く』
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