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第15話 意味深な会話
しおりを挟む七月二十八日、月曜日。四月に事務所荒らしが発生して以来、時也は三ヶ月ぶりに湾岸区吉見町にある〈ニノマエ探偵事務所〉を訪ねた。
「あっ、時也さんじゃないですか。お久しぶりです」
緩くウェーブがかった黒髪の青年が、扉の隙間から顔をのぞかせる。八月一日という希少な苗字を持つ彼は、ニノマエ探偵事務所で働く所長以外の唯一のスタッフだ。もとはアルバイトの事務員として雇われていたが、最近になって探偵助手も兼ねた正社員に昇格したらしい。
「四月の事務所荒らしがあった後、全然顔を見せてくれないって所長がぼやいていましたよ」
扉を全開にして客を迎え入れた八月一日青年は、そのままいそいそとした足取りでキッチンへと向かう。子犬のような愛嬌のある顔立ちに反して、メンズモデルと言っても通用するほど手足がすらりと長い。Vネックの黒シャツに細身のジーンズでまとめたシンプルな格好がプロポーションの良さを最大限に引き出している。
探偵助手は慣れた手つきでアイスコーヒーを用意すると、「どうぞこちらへ」と来客用のテーブルを手で示す。室内を軽く見渡すが、事務所の主の姿が見当たらない。
「ニノマエは不在なのか」
「所長は仕事で出払っています。多分、昼前まで戻らないんじゃないかな……所長にご用件でしたか」
「いや。特にこれといった用があったわけじゃない。たまには顔を出しておこうと気まぐれで来ただけだ」
「それじゃ、所長は残念がるだろうなあ。時也さんが来たことはお伝えしておきますね」
氷がたっぷりと入ったグラスに手を伸ばす。今日の天気は快晴で夏の日差しがいつにも増して強烈だ。よく冷えたアイスコーヒーが身体に染みる。
「事務所荒らし以降、何か変わった出来事はあったかい」
グラスにストローを差しながら、助手の男は「いいえ」と首を横に振る。
「警察の人からも時々電話がかかってきますけど、特に何事もなく平穏です。あの後、事務所のセキュリティ強化のため出入り口にスマートロックのシステムを導入したんです。機械にスマホの画面をかざすだけで鍵の開錠ができるんですよ。もちろん施錠もできますし、機械に登録していない人が侵入しようとするとシステムが作動して警備会社の職員が来てくれます」
「ああ、部屋に入る前に見たよ。随分とハイテクになっていた」
「所長は泣く泣くの決断って感じでしたよ。スマートロックの導入で財布の中身が寂しくなったって。本当は、僕の正社員昇格も来年に引き延ばす予定だったんです」
「事務所荒らしの件で慌しかっただろうからね」
「ええ。でも、所長が『大変なときだからこそ頼れる存在が欲しい』って言ってくれたんです。正直、めちゃめちゃ嬉しかったですよ。大した学歴も職歴もない僕をそこまで信用してくれて」
子犬顔の探偵助手は、両手で包み込むようにグラスを持ち上げる。溶けかけの氷がカラン、と涼しげな音を立てた。
「あいつなりに八月一日君の能力を評価しているんだ。探偵の仕事はそう簡単なものじゃないが、できる限りニノマエを支えてやってほしい」
「もちろんです! これからもっと仕事を頑張って、一人前の探偵を目指します。所長の相棒……と言える日までは程遠いですけど、いつかそうなれるように」
頼もしい言葉を受け取り、事務所を辞した。JRで桜町駅まで戻ると、再び徒歩に切り替えて野田町を目指す。二十分足らずの移動時間にも関わらず、目的地へ到着したときにはシャツが汗で肌に張り付いてしまっていた。
見た目は小綺麗なプレハブ小屋といった建物は、出入り口の扉に〈足立興信所〉のプレートが打ち付けられている。室内へ入った瞬間、クーラーの冷風が全身を直撃して思わず身震いをした。
「先ほど連絡した新宮だが」
カウンターに座る受付嬢が、手元から顔を上げた。冷房対策だろう、淡いパステルカラーのカーディガンを羽織っている。
「はい、仰せつかっております。あちらへどうぞ」
お手本めいた笑顔で案内する嬢に礼を述べ、パーテーションの奥へ進む。大理石のテーブルを挟んで向かい合ったソファの一つを、水色のワイシャツを着た男が占領していた。背中を丸めて目の前のノートパソコンと睨めっこをしている。
「いつ来ても客が俺一人だが、よく潰れないなここは」
「クライアントの数と儲けは比例しないよ。特にこの手の業界に関してはね」
顔を上げた足立衛は上品な笑みをつくる。あっさりとした公家顔のこの男とは、高校時代から腐れ縁が続いていた。かたや警察官、かたや興信所の所長という関係性に発展するとは流石に予想していなかったが。
「ところで、警察官はクールビズを推奨していないのかい。真夏日に上下スーツは見ているこっちまで暑苦しいよ」
「好きで着ているわけじゃないさ……それにしても、ここはクーラーが効きすぎていないか。寒暖差がありすぎて風邪ひくぞ」
月並みな挨拶を交わしている間に、受付嬢がレモンティーを二人分用意してくれていた。きめ細かな薔薇模様がデザインされたガラス製のティーカップに、薄切りしたレモンが一枚浮かんでいる。ホットティーが注がれているところに気配りが垣間見えた。
「それじゃ、三ヶ月ぶりの依頼内容を聞かせてもらおうかな」
レモンティーを一口啜って、足立はソファにゆったりと身を預ける。前回事務所を訪れたときの依頼は、ゾディアック団事件に関与していたある企業の信用調査だった。時也は懐からスマートフォンを取り出すと、画面を素早く操作して株式会社アーステクノロジー研究所の公式サイトを表示させる。
「ここについての全面的な信用調査を頼む。あと、彼についても調べてほしい」
「葛西文明……この研究所の職員か」
検索サイトの画面に目を落としながら、足立はつるりとした顎を撫でる。
「株式会社アーステクノロジー研究所ねえ。もしかして、三日前ニュースになっていた建設会社の社長殺しに関わるのかい」
「相変わらず勘が鋭いな——まだ何とも言えないが、信用調査を頼むくらいだから無関係ではないかもな」
「はぐらかさなくていいよ。ネタばらしをするとね、ニュースを見た次の日に依頼を受けたんだ。例の建設会社に関する信用調査を」
「トクミツ建設か。依頼主はほぼ間違いなく同業者だな」
「そこは企業秘密で。でも、かなり臭うとだけ言っておこうかな」
重松刑事が話していた入札談合の一件だろうか。気にならないと言えば嘘になるが、別客の依頼内容を根掘り葉掘り聞き出すわけにはいかない。その客が警察関係者であるならば尚更だ。
「トクミツ建設といえば、立浜ネクストワールドを任されている会社だろ。あそこはきな臭い噂が多いところだからね。良くも悪くも注目されているのさ」
「犯罪に関与しているのか」
「それは犯罪の定義によるよ。道端に落ちている百円玉をネコババすることが犯罪なら、世の中の人間のほとんどは犯罪者だ」
笑顔で肩を竦める足立に、時也は小さく舌打ちする。残ったレモンティーを一息で飲み干すと、
「さっきの依頼だが、早急に調査を頼む。結果が出たらすぐに連絡をくれ」
「今回は随分とせっかちだな」
「ハムが捜査に使う情報は鮮度が命なんだ」
「そうだったね。じゃあ振込みはいつもの口座でよろしく。あ、追加の依頼があれば多めに振り込んでもらって構わないよ」
「調査結果によるな」
すげなく言い返してソファから立ち上がる。帰り際、受付嬢にレモンティーの礼を伝えようとしたがカウンターのどこにもその姿はなかった。
興信所から銀杏坂に向かってのんびり歩を進めていると、業務用のスマートフォンに着信が入った。金澤氏の警護を担当している滝野という若手の捜査員からだ。
『新宮部長。お休みのところすみません』
「構わないが、何かトラブルか」
『いえ、そうではなくて……ちょっと気になる出来事があって』
どこかの道路沿いからかけているのだろうか、通話口で車のけたたましいクラクションが響いた。
『実は、先ほど男子トイレに入ろうとしたら金澤氏が中で電話していたんです。やけに深刻な声だったので何となく入り損ねたんですけど、その会話の中身が意味深な感じで』
「意味深?」
『一言一句聞き取ったわけではないですが、〈どういうことだ〉〈そんな大事になるなんて私は知らないぞ〉〈こっちには警察が張り付いているんだ。万が一この件がバレたら〉……そんな風に話していました。かなり切羽詰まった声で、焦っている印象を受けました』
「電話の相手は」
『わかりません。名前や相手に関する情報は一切口にしていなかったので。ただ』
「ただ?」
『これは俺の勘ですけど……電話の相手は、金澤氏より立場が上の人物なんじゃないかと。地位とか役職とかそういう意味ではなく、何らかの状況で金澤氏より有利な立場にある人物かもしれません。金澤氏のほうが相手から指示を仰いでいるような、そんな雰囲気でした』
「金澤氏より有利な立場、か」
情報があまりに断片的だが、興味深い事実ではあった。時也が普段接する金澤氏は、常に余裕めいた笑みを浮かべていて太っ腹で寛容。突発的な事態にも泰然自若と構えるキャラクターを演じている。そんな彼の、いつもと異なる一面が垣間見えた瞬間だ。
「金澤氏の電話内容は秘聴したのか」
情報収集の一環として他者の会話を秘密裏に録音することを、公安警察独自の用語で〈秘聴〉と呼ぶ。滝野は「すみません」と小声で囁くと、
『会話の時間が短くてすぐ終わってしまったので、タイミングを逃してしまいました。トイレに他の利用者はいないようでしたが、金澤氏は周囲を警戒するように男子トイレから姿を現してそのまま立ち去りました』
「ちょっと待て。今お前はどこで警護しているんだ」
『銀杏ヶ丘にある県立青少年センターです。今日ここで子ども向けのイベントがあって、金澤氏はそれに参加しているんです。俺もさっきまでセンター内にいたのですが、今は建物の外で通話しています』
銀杏ヶ丘は、時也の現在地から徒歩数分ほどしか離れていない。奇妙な偶然の一致に思わず溜息を吐くと、何か勘違いしたのか滝野の慌てた声が耳に届く。
『あ、金澤氏は今劇場で子どもたちの演劇を鑑賞しています。事務所のスタッフも傍に待機していますし、身の安全は大丈夫かと』
「ああ、別に怒っているわけじゃない。俺も今、銀杏ヶ丘のすぐ近くにいるんだ。プライベートで偶々付近に野暮用があって」
『え、そうなんですね。そういえば、金澤氏が残念がっていましたよ。日中の警護当番が新宮部長じゃないって聞いて。凄いですね、この短期間で市議会議員の先生と仲良くなるなんて』
「単純に顔を見る回数が一番多いからだろう。ザイオンス効果の一種だよ」
『接触回数が増えるごとに相手への好意が大きくなるってやつですね。単純接触効果とも言うんでしたっけ……けどそれが本当なら、刑事がマル被に何度も接触すればマル被を落としやすくなるんじゃないですか』
人間の心理がそれほど単純なら、刑事の仕事はもっと楽になっているだろう——言いかけた言葉を喉元で押し殺しながら、
「滝野も金澤先生とは親しくしておけ。警護の任務から離れたとしても、その伝手がどこかで役立つかもしれないからな。それからさっきの電話の内容だが、一応東海林補佐に報告を上げておくように」
了解です、と歯切れ良い返事と同時に通話が終わった。時也はその場に立ち尽くし数分ほど迷った挙句、青少年センターに隣接する県立図書館を目指して再び歩き出した。
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