ヨハネの傲慢(上) 神の処刑

真波馨

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第12話 葛藤

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 徳光仁が焼死体で発見された次の日の朝。内海巡査部長はK県警本部庁舎の中で町田巡査と出会でくわした。佐野渉の監視を交代した町田は、報告書作成のため本部に戻っていたのだ。
「徳光仁が焼死体で見つかったって、ホンマですか」
 顔を合わせてすぐ、町田は開口一番に問い質した。ゆるりとした関西弁がトレードマークの彼は、内海と同じく一年前に公安課へ配属されたばかりだ。
「耳が早いじゃないの。残念ながら本当よ」
 自販機が並ぶ休憩スペースの壁に寄りかかり、若手の公安捜査員は「やっぱりそうですか」とため息混じりに呟く。
「今朝、監視交代の直前にマル対のアパートに来客がありました。玄関付近に仕掛けた盗聴器で聞いていましたが、刑事部の捜査員が二名、徳光仁についてマル対を質問攻めしていましたよ」
「捜査一課も動きが速いわね。徳光と葵組の関係をもう掴んだのかしら」
 四年前、佐野が所属していた葵組は親組織であった野嶋組と大規模抗争を起こした末に解散。その後の足取りを追っていた組織犯罪対策部の記録によれば、葵組のヤメ暴のある企業に再就職していた。その企業こそ、徳光仁が社長を務めていたトクミツ建設である。
 ヤメ暴——暴力団から身を引いた者の社会復帰には厳しい壁が多く立ちはだかっている。特に再就職に関しては、警察庁の統計によれば暴力団を離脱した者のうち就労者の割合は一割にすら達していないという。要因のひとつには「五年ルール」の適用があり、地方公共団体が定める暴力団排除条例では暴力団を抜けてからもおおむね五年の間は「暴力団関係者」と見做される。このルールが足枷となり、銀行口座の開設や賃貸契約、就職などのあらゆる社会活動に影響が及んでしまうのだ。結果、まともな生活を送れないヤメ暴は非合法な活動でしか生計を立てられず、刑務所に逆戻りしてしまう悪循環に陥る。
 だからこそ、葵組のヤメ暴たちが揃って再就職先を見つけているのは驚くべき事実だった。だがそれも、徳光仁の経歴が判明するとすぐ腑に落ちた。
 徳光仁の過去は、警察のデータを調べるまでもなかった。企業ホームページの社長挨拶に、自身の過去を赤裸々に掲載していたのだ。二十代の頃に暴力団員となり荒れた人生を送っていたこと。三十代に突入する前に何とか足を洗って新しい道を歩み出したこと。社長業の傍らで、自分と同じ経験を持つ若者たちの支援に注力していることなどが飾らない言葉で語られていた。葵組のヤメ暴らを自身の会社に雇ったのも、その支援活動の一環なのだろう。
「気になるのは、肝心のマル対がトクミツ建設に雇われていないってことよね」
 佐野渉を調べる中で、内海ら行確班が真っ先に抱いた疑問だ。佐野は四年前に葵組を脱退してからというもの、日雇いのバイトやパチンコなどで細々と生計を立てている。社会復帰に成功している脱退組と比べても、うだつの上がらない生活ぶりだ。この現状は一体何を意味するのか。
「もしかすると、マル対はずっと警察サツの存在を警戒していたんやないでしょうか。葵組を脱退した四年前から、ずっと」
「四年前から?」
「実際、組対部は葵組の残党たちの行方を探っていたわけでしょう。マル対は警察がトクミツ建設に目を付けると予め予測していた。だから再就職しなかったんやないでしょうか。付き纏われるのは御免やと思てたんかもしれません」
「裏を返せば、葵組の過去以外にも後ろめたい何かを隠していたとか……」
 内海の呟きに「あり得ますね」と後輩も同意する。
「アパートの防犯対策なんて、まさに警戒心の表れやないですか。扉に枯れ草を挟むなんて原始的な方法ですが意外と効果はあります。監視カメラやと映像の差し替えなんか簡単にできますからね」
 佐野の監視を始めた初日、内海は彼が住む西港区藤川町のアパートへ赴き室内に盗聴器やカメラを仕込むつもりだった。だが、佐野の不在時に部屋の前まで足を運んだところでその計画は断念せざるを得なかった。玄関ドアの隙間に枯れ草が数枚、挟まっていたのだ。留守中に何者かが玄関から忍び込めば、ドアに挟んでいた枯れ草が床に落ちて痕跡が残る。アナログな手法だが、佐野が外敵の存在を意識している何よりの証拠だ。迂闊に踏み込めばこちらの手の内を晒しかねない。東海林警部の指示の下、玄関付近には盗聴器を、アパート周辺には複数の監視カメラを拵える最低限の方法で交代制の監視をスタートさせたのだ。
「もしマル対が警察の存在に気付いていて鳴りを潜めているのだとすれば、俺たちの仕事は無意味も同然やないですかね」
 弱音を吐く後輩に、内海は先輩として喝を入れた。
「たしかに今のところマル対が動く様子はないけれど、こちらの油断を誘おうと焦らしているのかもしれないわよ。ここまでくれば我慢比べ。どちらが先に折れるか、辛抱強く待つしかない」
「我慢比べですか。公安らしい手法ではありますね。けど、こうしている間にも刑事部は着実に犯人へ近づいているんやないですか」
「あれは形式的な証言を取りに行っただけよ。マル対は失踪中の市議会議員を誹謗中傷していた。そして三人の議員と徳光仁には、立浜ネクストワールドという共通点がある。それくらいは刑事部の連中ならすぐ調べがつくはずよ。徳光とマル対が間接的に繋がっている事実を掴んだから、関係者として話を聞いたにすぎない……そもそも、仮にマル対と徳光との間に秘密の繋がりがあったとしても彼に徳光は殺せない。私たちが一番よく解っているじゃないの」
 徳光仁が退勤後に殺害されたまさにその時刻、町田自身が佐野のアパートを見張っていた。佐野が住んでいるのは二階建ての二階の角部屋で、外出するには階段を使う必要がある。階段が面する表通りは町田が張っていたし、万一ベランダから裏通りへ抜け出したとしても、道沿いには複数の監視カメラが設置されている。町田の報告でも監視カメラの映像でも、二十六日の深夜から未明にかけて佐野がアパートから一歩も出ていないのは動かしようのない事実だ。
 内海の持論に、町田は「そりゃ、まあそうですけど」と曖昧に返事す。及び腰の後輩に再び喝を入れようと息を吸い込むが、口から出かかった言葉は次の一言で虚空に消えた。
「俺らの仕事って何の意味があるんですかね」
 予想外の発言に、内海は毒気を抜かれて返事すら忘れてしまった。町田は胸中の蟠りを吐き出すように勢いよく言葉を紡ぐ。
「時々考えるんです。俺らは、来る日も来る日も対象者の行動を見張り続ける。奴らが悪さを仕出かさないか目を光らせる。でも、それだけなんやって。交番勤務のときは、困っている身近な人たちを助ける仕事にやりがいを持っていました。本庁に異動が決まったときは、刑事部を志願して一人でも多くの犯人を捕まえたいと意気込んでいました。けれど、蓋を開けてみたら配属先は公安課。正直、公安って何をやっているんやと疑問でしたし、今でもその問いに答えは出せていません」
 後輩の本音を聞きながら、拳をきつく握りしめる。「弱音を言うんじゃない」と即座に一喝できなかったのは、彼女自身も同じ葛藤を抱いた過去があるからだ。
 自販機の稼働音が、気まずい沈黙を誤魔化すように鳴り続けている。ふと顔を上げた内海は、スーツの内ポケットから財布を取り出すとおもむろに缶コーヒーを二つ購入した。そのうち一つを後輩に手渡しながら、
「昔、先輩に言われたんだけど」
 そう前置きしながら、缶コーヒーのプルタブを開ける。
「同じ公安一課の先輩が言ってたの。『公安は日の目を見ない仕事だ。刑事部や組対部のような花形でもなく、市民から直接感謝の言葉をかけられもしない。それどころか、スパイだの卑怯だの後ろ指をさされる。けれど、自分はどの組織よりも己の職務にプライドを持っているし、国の治安を縁の下で支えている自負がある。他者からの見返りなんてなくてもいい、自分が胸を張って誇れる仕事をこなしていくだけだ』って」
 首を垂れていた町田が、ゆっくりと顔を上げる。内海は彼に微笑みかけながら、
「私たちの仕事は、日本の治安と人々の平穏な生活を守ること。公安の捜査に近道はないし、回り道ばかりを辿ってそれでも真相の末端にすら届かないかもしれない。それでも、自分の仕事が国の安全を守っていると信じていればいつか必ず小さな芽が出る。マル対の監視にしても、収穫が見込めない作業を部下に押し付ける真似は上層部もしないはずよ。根気強く監視し続けていれば必ずどこかで尻尾を出す。その瞬間を待つだけよ」
 内海の言葉に黙って耳を傾けていた町田は、深呼吸の後に真正面から先輩を見据えた。その瞳には、先ほどまでなかった強く鋭い光が宿っている。
「そうですね。こんなところで根を上げよったら、犯罪の決定的な瞬間を逃してしまうかもしれへん……先輩、ありがとうございますっ」
 スーツの裾を翻し立ち去る後ろ姿に、内海はじっと視線を注ぐ。つい一年前、公安の世界へ飛び込み行くべき道もわからず懊悩していた、自身の背中を重ねるように。
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