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第8話 建設コンサルタント
しおりを挟む七月二十四日の木曜日、朝十時。時也は湾岸区下山町にある香賀町警察署を訪れた。今日は十六時からの警護に割り振られており、半日はフリーだ。
廊下に据え置かれたソファで待つこと、およそ十五分。小柄で禿頭の男が時也の傍へ近づいた。香賀町署捜査二課で空き巣や窃盗事件を担当している田辺一穂警部補だ。
「田辺さん。またお邪魔しています」
素早く立ち上がり、頭を下げる。中年男は頭をぼりぼりと掻きながら、
「来てもらうのは結構ですが、状況は変わっていませんよ。三好友希は相変わらず行方知れずのまま、何の進展もありません」
「三好のアパートはどうなりましたか」
「既に新しい住人が入居しています。あの不動産会社も、今度ばかりは保証人もきっちりと立てて真面目にやっているみたいですわ」
ゾディアック団事件の重要参考人である三好友希は、一人暮らしのアパートから忽然と姿を晦まして以降、その行方は杳として知れないままだ。家財一式を置いて身一つで行方不明になったため、アパートを管理していた不動産会社は香賀町署とひと悶着起こしたらしい。もともとは保証人不要で入居者確認さえおざなりに済ませていた対応が問題なのだが、その後は心を入れ替えて経営を続けているようだ。
「ニノマエ探偵事務所から何か連絡はありましたか」
「そんなの、おたくのほうがよく知っているでしょうに」
「同じ警察といっても、探偵事務所荒らしはうちの管轄ではありませんから。ニノマエも三好の件で何かあればこちらに連絡を入れると思いますよ」
「ふうん。そんなもんですかね」
禿頭を掻きながら、傍にある自動販売機へ近づく。時也はすかさず懐から財布を取り出すと「私も買います」と小銭を投入した。二人分のコーヒー缶を取り出して、一本を田辺に渡す。
「ああ、こりゃどうも……ところで、三好は本当にただの事務所荒らし犯なんですかね」
「と、いいますと」
「ここだけの話、おたくら三好について何か隠してるんじゃないですか」
コーヒー缶のプルタブを開きながら、田辺は時也を一瞥する。
「私はこれでも、警察官になってこの道三十五年。そこらの者より真偽を見極める目はついているつもりですがね」
時也より頭ひとつ分低い位置から、鋭い目つきで見上げてくる。その瞳が「私はあなたを疑っていますよ」とはっきり告げていた。犯人を地の果てまででも追い詰めんとする刑事の目だ。
「三好友希が残したノート。私はどうもあれが気になっているんですわ。あのノートにはよく解らん日付や言葉がびっしりと書き殴られていましたが、中でもひとつ、妙に引っかかる言葉があるんです――〈ZODIAC〉という言葉がね」
田辺は時也を睨み据えたまま、
「部下は『占星術とか星占いに関する言葉みたいですね』と呑気に言っていましたが、私はどうにも解せんのですわ。三好が占いに凝っていた様子はありませんでしたし、新宮さんはそのあたりどうお考えですか」
初めて名前を呼ばれた。時也は薄く微笑みながら、
「たしか、昔アメリカで起きた凶悪事件の名前にその言葉が使われていたと記憶していますが」
「アメリカの事件ねえ。ほかのページにはそんな内容は記されていませんでしたが、三好は外国犯罪に興味があったのでしょうか」
「さあ、どうでしょう……そういえば、三好の部屋から押収したパソコンやスマートフォンに何か残っていたのでは」
「それが、パソコンの中身は空っぽで怪しげなデータは一切保存されていませんでした。インターネットの検索履歴も、地域の天気やら電車の時刻やら何の変哲もない内容ばかり。スマートフォンも同様です」
「連絡先は?」
「通話履歴は探偵事務所の二人がほとんどで、内容も事務的なやり取りがメインだったようです。あとは携帯会社や理髪店といった具合ですかね。特に気になる通話先は見つかりませんでした」
三好友希がゾディアック団の一員であるならば、必ず何かしらの方法で仲間とコンタクトを取っていたはずだ。携帯電話は通話記録から足がつくため連絡用に使わなかったのかもしれない。
「彼の思考を探る唯一の手がかりは、やはり例のノートですね」
「それで、今日もそのノートを見に来たんでしょう」
「今回は田辺刑事と話しに来ました。電話よりも直接お会いするほうが、有益な収穫があるのではないかと思いまして」
とびきりの営業スマイルを見せるが、熟練刑事相手にその手は通用しない。ふんと鼻を鳴らすと、無言のまま踵を返す。
「また近いうちに伺いますよ——最後の一人を捕まえるまで、何度でも」
後半の一言を放つより先に、田辺の背中は廊下の角に吸い込まれた。無人の空間を消えかけの蛍光灯が弱々しく照らしている。時也は玄関で立番をしている警官に「廊下の電灯が切れかかっていますよ」と伝えて香賀町署を辞した。
遅めの昼食を自宅で済ませ、K区尾口通にある金澤氏の事務所に到着したのは十五時五十分頃。日中担当の捜査員と交代して数分後、事務所の扉から氏が顔をのぞかせた。同時に、時也の背後に高級車が音もなく停車する。ダークスーツに身を包んだ運転手が素早い動きで後部座席のドアを開けた。どこかで監視していたかのようなタイミングだ。
「新宮さんも、私のボディガードばかりでは他の業務が捗らないのではないかね」
氏専用の移動車両に乗り込みながら、爽やかな笑顔で話しかけられる。皺ひとつないハリのある肌は五十歳目前とは思えず、実年齢より十歳近くは若く見えた。
「私に与えられた任務は、金澤先生を危険から護ることですから」
「そうか。警察官も大変だろう、色々な人種を相手にしなければならない。命懸けで事件に立ち向かっていかなければならない。心休まる暇もないのでは?」
「それが生き甲斐だという者もいます」
金澤氏は「はっはっは」と大袈裟に声を上げると、
「模範解答だ。尤も、君の本音にも聞こえるがね」
「私に限って言えば、そうですね。この仕事にはやりがいを持っていますし、自分の選択は後悔していまません」
「新宮さんのように、誇りを持って警察官になった者が私をガードしてくれているのは非常に心強い。最近の若者は、兎角自分の意思よりも周りの声を優先しがちだ。揺るぎない信念がどうにも備わっていないと感じるのだよ。ともすれば善悪の判断すらも他人に委ねて、責任を放棄する者が増えている……偏見かもしれないがね」
賛同も否定もせず、「そうですか」と頷くだけに留める。警護を始めて数日、金澤氏は時也に随分と気を許しているらしく時折ポロリと本音を漏らす瞬間があった。
「おっと、若者の悪口を言っているように聞こえたならすまない。これでも、私は日本の将来を背負う者たちに期待しているのだよ。これから向かう場所でも、国の未来を担う若人たちが熱心に研究しているのだから」
車はいつの間にか首都高速を走っていた。高層ビルが物凄い勢いで車窓を通り過ぎていく。これだけ移動が多いと、たしかに公共交通機関よりも専用車両を使うほうが便利だろう。
十六時二十分過ぎ、高級車は立浜市朝丘区にある〈株式会社アーステクノロジー研究所〉の駐車場に滑り込んだ。
「ここは、いわゆる建設コンサルティングを請け負っている研究施設だ。インフラ事業も兼ねていて、道路や上下水道施設、電力施設、公共施設などの様々な建設計画を専門の知識と技術でサポートしている」
「建設計画の策定や地盤調査などを担っているのですか」
「さすが刑事さん、話が早い。実際の工事は建築会社や土木会社に任せていて、ここでは着工までの具体的なアドバイスを行っているんだ」
「立浜ネクストワールド建設にも協力しているのですか」
「そうだ。私が直々にここへ依頼した。これから会う人はかつて大学で地学の教鞭を取っていたが、今は活躍の場をここに移しているんだ」
研究所と聞いて箱型の建築物を想像していたが、アーステクノロジーはドーム型の屋根を拵えた近未来的な外観だ。外壁はガラス張りで鏡のようになっており、透き通った夏空が映り込んでいる。
金澤氏は入口の自動ドアの前に立ち、壁に備え付けられたカードリーダーに免許証サイズのカードをかざす。次の瞬間、目の前のドアが音もなく開き、どこからともなく「ようこそ、アーステクノロジー研究所へ」と機械的な声が降ってきた。
「これは来客専用の認証カードだ。事前にアポイントを取った者にのみ配られ、アポなし訪問は受け付けない。徹底しているだろう」
「ええ。セキュリティも厳重なのでしょうね」
「重要かつ膨大な研究データが保管されているし、貴重な実験施設もあるからね。誰でも簡単に入れる場所じゃないんだ」
これから面会する相手は、それだけ金澤氏に信頼を置いているのだろう。同時に、素朴な疑問が頭をよぎる。
「それほどガードが堅い研究施設に、初対面の私が足を踏み入れても良いのでしょうか」
施設内を歩き回っている時点で後の祭りだが、氏は「構わんさ」と鷹揚に笑う。
「新宮さんの話は事前に向こうへ伝えている。私を護ってくれる優秀な刑事さんだとね。警察手帳を見せれば納得してくれるだろう」
四方をガラスで覆われたエレベーターに乗り込み、四階フロアを目指す。建物内は中央に太い柱が聳え立つ吹き抜け構造で、その柱部分にエレベーターが内蔵されていた。
金澤氏の説明によれば、四階には管理責任者以上の役職者のみが研究室を構えている。エレベーターを降り、二人が訪ねたのはドアプレートに〈Fumiaki Kasai〉と刻まれた部屋だ。
「先生。金澤です、遅くなりました」
三回目のノックとほぼ同タイミングで「どうぞ」と声がする。扉を開けると、左右の壁にずらりと書籍を敷き詰めた光景が視界に広がった。棚からはみ出して今にも床に落下しそうな本が数冊ほど目に留まる。部屋の奥には大きなスチールデスクが据え置かれ、夥しい数のファイルが山積みになっていた。大学の教授室を彷彿とさせる、いかにも研究者らしい乱雑ぶりだ。
「金澤先生。お忙しいところようこそお越しくださいました」
男が椅子から立ち上がった。濃紺色の高級スーツに橙色のネクタイを合わせるセンスが垢抜けている。均整の取れた体躯に洋装がよく似合っていた。外国人並みの大きな口と均等に並んだ白い歯、自然にカールした栗色の巻き毛も相まって、研究者よりも舞台俳優めいている。
「いえいえ。再びここを訪問できて嬉しいですよ。相変わらず、いつ見ても飽きませんね。流石は先生自ら設計した建物だ」
ニコニコと人当たりの良い笑みを浮かべていた男が、ふと金澤氏の肩越しに目を転じる。
「もしかして、そちらが例の刑事さん?」
「ああ、そうです。紹介しましょう、K県警察本部の新宮時也さんです。新宮さん、こちらは葛西文明先生。アーステクノロジー研究所の主任研究員だ」
巻き毛の男は、いつか金澤氏がそうしたように欧米式の握手を時也に求めた。
「はじめまして、新宮さん。アーステクノロジー研究所の葛西です。金澤先生からお話は伺っていますよ。優秀な刑事さんだと」
「とんでもない……金澤先生の警護を担当する、県警本部の新宮です。以後お見知り置きを」
スラリとした指が右手に絡みつく。長いまつ毛に縁どられた瞳が、値踏みするように時也をじっくりと見つめた。
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