ヨハネの傲慢(上) 神の処刑

真波馨

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第5話 チームメイト

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 時也が市民会館で金澤氏の警護にあたっている頃、落合巡査部長はK県警本部庁舎二階の警察食堂で昼食にありついていた。
「まったく、やってらんねえぜ」
 開口一番に吐き捨て、落合巡査部長は割り箸を手に取る。今日の昼食は、大ぶりの豚カツと山盛りの千切りキャベツが載った定食セット。ご飯は白米、味噌汁は赤味噌だ。ご飯はおかわり自由で税込み七百円也。以前は全メニューが一律五百円だったが、原材料費の価格高騰や人件費の引き上げなどの事情が重なり「単品でワンコイン」「セットで七百円」と価格変更されていた。
「職務に不満があるようですね」
 落合の向かいに、組織犯罪対策部所属の大迫雄大が腰を下ろす。彼は組対部時代の落合の部下で、互いを「師匠」「弟子」と呼び合うほどの間柄だ。今でも部署こそ違えど、こうしてランチを共にする関係が続いている。
「不満か。まあ、そうなのかもしれねえが……ちょいと面倒ながいるんだ」
 その一言で、かつての後輩は何かを察したように頷いた。
「ややこしいお客様がいるわけですね」
「そういうこと。くそっ、どうして俺がこんな厄介事を引き受けなきゃならんのだ」
 千切りキャベツと豚カツを豪快に口へと運ぶ。「ゆっくり食べないと喉に詰まらせますよ」と、後輩刑事から母親みたいな心配をされた。
「これならヤクザ相手のほうがずっとマシだ。古巣が懐かしいぜ」
「俺だって寛さんに戻ってきてほしいですけど、ハムが手放さないんでしょう」
 落合は過去に二回ほど組対部への異動希望を出しているが、残念ながらいずれも叶わぬままに公安課勤務も五年目に突入した。落合本人は上昇志向のカケラもなく、故に警察官人生二十八年が経過した今でも巡査部長止まりだ。「どうせ昇進するなら組対部に返り咲いてから警部補試験を受けたい」とは、彼の口癖でもある。
「寛さんも変わってますよね。公安は選りすぐりが集うエリート部署じゃないですか。もし俺が配属されたら、鼻高々になってそこで上を目指したいって思いますけどね」
「お前もハムに来てみりゃ解るよ。俺はこんなところで腐るのは御免だ」
「今の話、上の人に聞かれたらどやされますよ」
「いいんだよ。それで左遷されるならそれも歓迎さ」
「やっぱり、ハムになる人は変わってますよ。寛さんも新宮も」
 牛丼の器を持ち上げながら、大迫は苦笑する。
「大迫は、新宮と警察学校時代の同期だったな」
「ええ。尤も、彼はあの頃から少々変わり者でしたけど」
「どんな風に?」
 大迫は脂が乗った牛肉を一口頬張ってから、器をゆっくりとトレーに戻す。
「何というか……個人プレイを徹底していましたね。もちろん、チームで動くべきときはそれなりに合わせていましたけど。良くも悪くも一匹狼で、宴会も彼が参加しているところはほぼ見たことなかったし。半年も同じ学舎で過ごせば、それなりに気が合う者同士のグループができるじゃないですか。けど、彼はどこにも属していなかったし誰とも連んでいなかった」
「今もあまり変わらねえけどな」
「警察学校時代はもっと尖っていましたよ。今は随分丸くなったと思います。寛さんもハムの仲間も信頼しているみたいだし」
 パーマ男はお茶を啜りながら「へえ」と意外そうな声を上げる。
「そういや、連中とプライベートな話なんて殆どしてねえな。飲みに行っても大概が仕事の話で完結するし」
「真面目なんですね」
「みんな仕事馬鹿なんだよ」
「寛さん、何だかんだ言って今の職場嫌いじゃないんでしょ」
 にやにや笑いを浮かべる後輩に、落合はふんと鼻を鳴らす。
「無駄口叩いていないでさっさと食え。お前、昔より食欲落ちたんじゃないのか。組対の刑事なら食わないとやっていけないぞ」
 豚カツを一切れ、牛丼の上に乗せる。大迫は笑いながら「あざっす」と箸に手をつけた。


 落合が大迫と腹ごしらえしている頃、内海明日夏巡査部長は県警本部庁舎の警備部公安課室にいた。
「ボス、少しお時間よろしいでしょうか」
 タブレット片手に、東海林警部のデクスへ足早に歩み寄る。机上に資料を広げていたチームリーダーは、凛々しい眉を微かに持ち上げて内海を見た。
「捜査に進展があったようだな」
「何故そうお思いに?」
「吉報を持って来たとき、内海は声に力がこもっているからな。近づいてくるときの足音も力強かった。一秒でも早く進捗を知らせたくてうずうずしている……といったところか」
 東海林警部の観察力に「脱帽ですね」と苦笑する。手元のタブレットをボスのデスクに置きながら、
「ゴブリンお掃除隊のアカウント所有者を特定しました。佐野渉、北淮道函立市出身の二十九歳。野嶋系暴力団の葵組に在籍していた元構成員です。傷害および違法薬物取引の前科マエがあります」
「七年前に野嶋組から分裂した、あの葵組か」
「葵組と野嶋組は、四年前に起きた大規模抗争によって分裂したのでは?」
「厳密には違う。葵組の構成員たちは元々野嶋組に属していたが、七年前の二〇二五年、当時の野嶋組幹部だった時任という男を筆頭に組の三分の一が脱退。彼らが新たに組織したのが葵組だ。脱退から三年後の二〇二八年一月、野嶋組が葵組の事務所にカチコミをかけた。これが大規模抗争に繋がったんだ」
「それは、私もテレビで観ました。正月三が日が過ぎてすぐのニュースで騒がれていましたよね。組の事務所に車が突っ込んだり、過激な集団リンチが起きたり……血で血を洗うような凄惨な事件だったと記憶しています。もしかして、ボスも捜査に関わったのですか」
 手にしていたタブレットを机上に置き、東海林警部は回転椅子にゆっくりと背中を預ける。
「俺はその頃既に警備部だったから直接捜査に関わってはいない。だが、出動した警察官の中にも負傷者が出て年明けから慌しかったからな。そうか、葵組か」
「何か気になることでも?」
「いや……野嶋組といえば、県内でも一時期はかなりの勢力を誇る組織だった。そこから分裂した葵組も、分裂直後はまだ勢いがあって色々と派手にやらかしていてな。だが、この数年は組織の規模も縮小の一途を辿るばかりで、四年前の抗争を機に空中分解したとばかり思っていたが」
「佐野渉は葵組の残党の一人。その佐野が市議会議員の失踪に関与しているとすれば、背後でマルBが一枚噛んでいる可能性もありますね」
「それはどうだろうな。ヤメ暴が皆、暴力団との関わりを持ち続けているわけじゃない。佐野の周囲を詳しく調べてみないと何とも判断できないな」
「では、佐野の経歴や現在の状況を洗ってみます。任同はどうしましょう」
「まだ泳がせておこう。SNS上での誹謗中傷だけで引っ張るのは厳しいうえに、現状は佐野と失踪した議員たちの繋がりが何も見つかっていない。もし佐野が失踪事件に関わっているのならもっと確実な証拠を揃える必要がある」
「判りました」
「ゴブリンお掃除隊のアカウント監視およびSNS関連の作業については、サイバー犯罪に精通した捜査員を宛てがう。内海は佐野の視察を頼んだ。チーム編成が決まり次第、すぐにでも着手してほしい」
「視察」とは公安警察の専門用語のひとつだ。対象者の自宅や職場に張り付き、時には尾行もしながらその行動を逐一監視する。同義語に行動確認、略して「行確」もあるが、行確は公安のみならず警察組織全体において使われる言葉だ。
「くれぐれも対象者に気付かれないように注意してくれ。警察慣れしている連中なら、こちらの動向にも鼻が効くだろうからな」
 ボスへの報告を終え、内海は公安課室を辞する。廊下の突き当たりにある自販機兼休憩スペースへ向かうと、意外な先客の姿があった。
「内海、お前今日は非番じゃなかったのか」
 パーマ頭のひょろりとした男が、自販機の取り出し口に片手を突っ込んでいた。ノージャケットスタイルでネクタイをだらしなく締め、目の下にはうっすらとだがクマができている。
「それは一昨日ですよ。落合部長、とても疲れているようですが大丈夫ですか。顔に覇気がありませんよ」
「ひでえ言われ様だな……まあ、最近はまともにベッドで寝ていないからな。この一週間は家に一度も帰っていないし」
 よく見れば、長椅子にはブラックコーヒーの缶が二本並んでいる。落合の右手が握りしめている三本目のコーヒー缶に視線を送りながら、
「カフェインの過剰摂取は健康被害を引き起こしますから気をつけてください。成人のカフェイン摂取目安は一日で四百ミリグラム。マグカップのコーヒーで三杯程度です」
「医者みたいな助言だな」
「以前、従兄弟がカフェイン中毒になって病院にかかったんです」
 雑談を交わしながら、内海も自販機に近づく。尻ポケットから財布を抜き取るより先に、落合がコイン投入口に二百円を入れた。
「内海医師からのアドバイス料だ」
 ニヤリと笑うパーマ頭に礼を述べてから、ミネラルウォーターのボタンを押下する。お釣りを返しながら、ごく自然な流れで落合の隣に腰掛けた。
「そういえば、落合部長と庁舎内でお会いしたのも久しぶりですね」
「ここ一週間は外に出ずっぱりだからな」
「何か重要な作業に関わっているのですか」
「どんな作業だって重要だよ。ま、俺のはちょいとややこしいが……」
 語尾を濁し、パーマ頭を掻きむしる。内海は話を深掘りしない代わりに、別の話題を持ち出した。
「そういえば落合部長、公安課に来る前は組対部に十年間いらしたんですよね」
「ああ。本部に異動して最初に着任したところが組対だった。十年か。長いようで、過ぎてみりゃ案外あっという間だったな」
 コーヒー缶のプルタブを開きながら、落合は懐かしそうに目を細める。
「同じ部署に十年も在籍するなんて、かなり珍しいケースなのでは」
「たしかにあまり聞かないな——言っておくが、俺が駄々捏ねて居座ったわけじゃねえぞ」
「解っています。きっと、落合部長の仕事ぶりに惚れ込んで上が離さなかったのでしょうね」
「だったら退官までマル暴一筋で走り抜けたかったけどな……ところで、藪から棒に組対部の話をするなんてどうしたよ」
「実は、今追っている重要参考人が葵組の元構成員だと判ったんです。私はマル暴の経験がないものですから、落合部長からお知恵を借りたくて」
「葵組って、野嶋組から分裂したあの葵組か。四年前の正月に野嶋組とドンパチやったところだろ。たしか、あの抗争の後に葵組は解散届けを出したんだっけ」
 青髭が残る顎を撫でながら、視線をあらぬ方向に飛ばす。
「その葵組の残党が、今になってある事件の重要参考人に浮上した。もしかすると、葵組の解散は表向きで今でも地下に潜ってひっそりと活動しているんじゃないでしょうか。落合部長は、その後の葵組の動向について何かご存知ではないですか」
「そう言われてもなあ。俺はその抗争が起きた年に警備部へ異動になって、結局捜査は尻切れトンボのまま後輩に引き継いでしまったし」
「そうですか……そもそも、葵組が野嶋組と袂を分つことになったきっかけって何なんでしょう」
「俺も詳しくは知らん。伝え聞きによれば、当時の葵組の組長が野嶋組の組長を裏切ったって話だったが」
「裏切ったって、誰を」
「さあ。情婦イロ絡みって噂もあったが、今となっちゃ真相は藪の中だ。渦中の人物だった葵組と野嶋組の組長も既に鬼籍に入っているし、警察は分裂騒動自体にタッチしていない。捜査の手が及んだのは抗争事件のときだからな」
「葵組と野嶋組の抗争が、実は今も水面下で続いている可能性はないでしょうか」
「抗争後の葵組はすっかり勢力も衰えて、死に体みたいなものだったからな。今でも機能しているかすら怪しいもんだ」
「たしかに解散届を出してはいますけど」
「ああ、そこは勘違いだぜ。そもそも、県警に解散届を出さなくても事実上の解散はできるんだよ。それに、組対やハムの監視の目から逃れたいがために解散届を出して、表向きは組織が解体したように見せかける連中もいる。第一、警察にわざわざ解散届を提出する律儀なマルBなんてそうそういるもんじゃない」
「そういうものですか」
  腕組みして難しい表情を浮かべる内海に、落合は穏やかな眼差しを向ける。
「内海は公安一課ここに来て一年だっけか」
「えっと……去年の春に配属されたので、今年で二年目ですね」
「そうか。どうだ、ハムの仕事には慣れたか」
「正直、まだ」
 微苦笑する後輩に、パーマ頭は「だろうなあ」と間延びした声で返す。
「ほかの部署ならまだしも、ハムに限っては慣れろって方が無理な話だ。まあ、あまり気負わずに頑張れよ。根詰め過ぎると体よりもメンタルが先に崩れるからな」
「落合部長もそんな経験が?」
 キャリア二十八年目に突入した熟練警官は心外そうに眉根を寄せた。
「お前は俺をサイボーグか何かと勘違いしていないか。俺だって人の子だぞ」
「いえ……でも、落合部長は強靭な鋼メンタルの持ち主と思っていたので」
「どんなに鋼の心を持っていても、所詮は人間だよ」
 悟りを開いたような口調に「はあ」と気の抜けた返事をする。
「考えてみれば、公安課に配属されてから先輩とサシでお話ししたことってないかもです。一年目はとにかく仕事をこなすだけで精一杯でしたし、誰かの話にじっくり耳を傾ける余裕なんてなかったですから」
「それじゃ、今度は仕事の話抜きで飲むか」
「え?」
 顔を上げた内海に、「もちろん田端や新宮も誘うんだよ。東海林班のメンバーで」と補足する。
「ああ……そうですね。四人で集まっても、いつも仕事の話が中心ですし。お酒が入っても、みんな冷静でどこか仕事の延長線って感じですものね。でも、そういう飲みも嫌いじゃないですよ。私は」
「それは俺も同意見だよ。けど、たまには堅苦しい話以外も聞きたくてな」
「どうしたんですか、落合部長。急に先輩風を吹かして」
「お前、ほんと見かけによらず口が達者だよな」
「その言い方、私じゃなかったらセクハラになりますよ」
 一通り軽口を叩き合ってから、落合は空のコーヒー缶を手に立ち上がった。
「お前が何を調べているのか詳しくは訊かない。けど、力が必要なときはいつでも言えよ。ハムはどうも個人主義的な風潮があるが、俺らは東海林班のチームメイトだからな」
 気怠げな足取りで立ち去るパーマ男を見送りながら、「チームメイト、か」と小さく呟いた。
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