パラダイス・ロスト

真波馨

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第35話 潰れた龍

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 四月二十九日、火曜日。落合巡査部長が県警本部で古川夏生と対峙していた頃、西神名河のパチンコ店にK県警生活安全部と組織犯罪対策部の捜査員らが一斉に踏み込んだ。不意打ちで突撃した闖入者に、遊技機と対面していた客たちは何事かと顔を振り向かせる。客と客の間を勢いよく突き進む捜査員と「警察です。誰も動かず外にも出ないで!」と店内の騒ぎを鎮めようとする捜査員とで、現場は一時騒然とした空気に包まれた。
 捜査員の列は途中で二手に別れ、一方の集団が店の最奥にある扉の前にたどり着く。従業員以外立ち入り禁止ともスタッフオンリーとも表示されていない、謎の空間だ。先頭を率いていた男性捜査員は、後ろに控える他の仲間たちに軽く目くばせをしてから扉を押し開けた。
「警察だ! 誰も動くな!」
 室内にいた誰もが、驚き呆気にとられた顔を部屋の出入り口に向けていた。四十代から六十代と思われる男が二人と、その男に押し倒されるようにして床に寝そべっている若い女性二人。その傍で折りたたみ式ミラーを開き口紅を引いている女性が一人。
 生活安全部保安課風紀第二係の平塚穣警部補は、目の前の光景から一瞬たりとも視線を逸らすことなく部屋に踏み入る。その顔に、呆れとやるせなさが綯い交ぜになった複雑な表情が浮かべながら。
 もう一方の集団は、「STAFF ONLY」のステッカーが貼られた扉の前に列を作っていた。先導するのは、組織犯罪対策部暴力団捜査課の木戸憲司警部補。鯥科を連想させるぎょろりとした目は、鉄の塊の向こうを見透かすかのように正面へ注がれている。背後に待機する捜査員たちに指で小さく合図を送って、扉を派手に蹴破った。
 紫煙が充満する空間には、スーツを着崩した男たちが椅子やソファにだらしなく身を預けている。そのうち一人の若い男が、開いた扉を一瞥し「やべっ」と小さく声を上げた。
「おやおや、随分と暇そうにしているな。制服を着た兄ちゃんや姉ちゃんは表であくせく働いているってのに」
 拳銃を突き付けたまま、木戸警部補は大股で部屋に侵入する。背後に捜査員らがぞろぞろと詰めかけ、唯一の脱出口である扉は完全封鎖されていた。煙草を指から落とした男たちは、「おい誰だチクったのは」「俺じゃねえよ」「じゃあお前か」と小学生のような罪の擦り付け合いを展開させている。
「おいおい、しっかりしてくれよ。てめえらがそんなんじゃ青龍会の名が泣くぜ――尤も、派手に暴れまわっていた龍も俺らが踏み込んだ今となっては潰れたも同然だがな」
 銃口でこめかみを掻きながら、ヤクザ以上にヤクザらしい顔つきの警部補は呆れ返る。盛大なため息を吐き出してから、
「売春防止法違反周旋の容疑で、お前ら全員しょっ引くからな!」
 後方で待機していた警官たちが、一斉に部屋へ雪崩れ込んだ。

 
 警察の乱入によってMERCURYの店内が混乱の渦に陥る最中、客やスタッフの間をするすると抜けて一人の女性が店の扉の前に立った。横開き式の自動ドアは、女性が足を一歩前に出した瞬間に滑らかな動きで開く。
 長い黒髪に化粧っ気のない、一見すると「地味」という一言で言い表されるような容貌の女は、そのまま何食わぬ顔で店の外に出た。自動ドアを隔てた向こうで大掛かりな捕物帳が繰り広げられていることなど感じさせない、四月下旬の春麗らかな陽気に女は顔をほころばせる。
 ハイヒールで横断歩道を闊歩すると、颯爽とした足取りで最寄りのコインパーキングへ向かう。精算を済ませ、奥のスペースに駐車している真っ赤なポルシェの横で立ち止まった。咥えていた煙草を唇から離し、足元に落とす。
 女はおもむろに自らの頭頂部に手を置くと、そのまま髪を鷲掴みにした。勢いよく上方へ引っ張ると、艶のない黒髪の下から鮮やかにカラーリングされた真っ赤な髪が現れる。チェリーレッドの髪色は、清々しい春の青空によく映えた。
 コンパクトサイズのショルダーバッグから化粧ポーチを取り出し、鏡も見ずに口紅をひく。真っ赤なルージュで染めた唇を持ち上げて、
「さよなら、愚かな刑事さんたち」
 緩くパーマがかった赤髪をかき上げてから、運転席の扉を開ける。赤いポルシェはそのまま駐車場を後にした。


 西神名河のMERCURYで捜査官と青龍会が混乱を極めている頃、県警本部生活安全部保安課風紀第二係の宇和島すみれ警部補は、大量の段ボールを抱えた捜査員を引き連れて方蔵町にある株式会社賢者の石立浜支店を訪れていた。店が通常営業していることは既に確認済みである。入口にぞろぞろと吸い寄せられるように入るスーツの捜査員たちを、道行く人たちが物珍しそうに眺めていた。
 階段で二階へと上がり、事務所らしい扉をノックもせず押し開ける。各々のデスクで作業をしていた数名のスタッフが一斉に顔を上げた。うち一人、ノーネクタイでスーツを着用している男性がつかつかと入り口へ歩み寄り、
「あなた達、突然何ですか。こんな時間にアポは入っていないはずですが」
「ええ、アポは取っていません。私、K県警察本部生活安全部保安課の宇和島と申します。本日、株式会社賢者の石立浜支店に捜索差押許可状が発行されましたので、伺った次第です」
「捜索差押? 聞いていませんよ、そんな話」
「ですから、お伝えしていないと申し上げたはずです。ところで、狭間慎二支店長はどちらに?」
 毅然とした態度を貫く女警部補に、男性社員はひるんだように後退りする。
「さ、さあ。本日はまだ出勤していませんが」
「では、狭間さんのデスクを確認させていただきます」
 問答無用で奥のデスクへと足を向ける宇和島警部補。「ちょ、ちょっと待ってください」と引き留めようとする男性社員を、別の捜査員が取り押さえた。
「たしかに、支店長さんはまだ出勤されていないようですね」
 店のトップらしく広々とした机上は、最低限の書類やクリアファイル、固定電話機以外に何も置かれていない。整理整頓されすぎていて気持ち悪いほどである。転勤を下命された社員が、身辺整理のため荷物を片付けたかのようだ。
 宇和島捜査官は無線イヤホンに指先を当て、何かを囁く。くるりと回れ右をすると、室内をゆっくり見渡してから高らかに宣言した。
「今からこちらにあるすべての物を、証拠品として差し押さえます。みなさん、くれぐれもここから出ないように!」
 同時刻、方蔵町から車で十五分ほど離れたところにある狭間慎二のマンションでは、生活安全部保安課の別の捜査員が在宅中の狭間慎二に逮捕状を突き付けていた。警察の動きを察知した狭間氏が店へ出ないかもしれないと踏んだ宇和島警部補が、数名の捜査員を彼のマンションへ向かわせていたのである。女捜査官から「こっちには出ていないわ。そちらをよろしく」と指示を受けて、狭間氏の部屋へと踏込んだのだった。
 狭間氏逮捕の罪状は、青龍会との共謀による売春斡旋の容疑、薬物を違法に売買しようと画策した麻薬特例法違反未遂の容疑、そして支店社員である木内冬実を脅迫して肉体関係を迫っていた強要罪の容疑である。
 狭間氏が裏で何らかの犯罪に関わっているのではと察した木内は、勇敢にも本人に直接問いただした。「会社ぐるみで悪事を働いていたら、私の今後にも影響が出るかもしれないので思い切って訊ねてみたんです」とは、木内嬢が時也に漏らした言である。だが、青龍会と懇ろの関係である狭間氏が素直に「そうですか、では悪事は止めましょう」と引き下がるわけもない。どころか、暴力団がバックにいることを暗に仄めかして木内嬢を口封じしたのである。
 狭間氏の悪巧みはこれだけに留まらなかった。シングルマザーで苦労している木内の家庭事情をネタに、「生活資金を援助するから男女の関係になれ」と脅したのだ。拒絶もできたはずだが、拒絶すれば大事な一人娘に危害が及ぶかもしれない――狭間氏に立ち向かおうとした時点で、すでに彼女の退路は断たれていたのだ。
 木内嬢が方蔵いこいカフェで時也に打ち明けたのは、狭間氏との関係と支店の疑惑のことであった。今回、宇和島捜査官が狭間氏逮捕の統括者として任命されたのは、彼女率いる捜査チームが株式会社賢者の石を密かにマークして内々で捜査を続けていたからにほかならない。
 こうして、売春斡旋に関与した青龍会と狭間慎二の逮捕劇は慌ただしく幕を引いたのであった。
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