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3.春が逃げてく

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 今日も黄砂が舞っている。せっかく仕立てた桜色のクルマが黄色く汚れてしまっていた。桜の散り始めは風が強くなると言うけれど、今年は細かい砂塵が轟々と舞い踊る。
 萌子もえこは黄ばんだクルマを見てため息を付いた。今日もまた洗車をしなければと思うと気分が滅入る。住処はアパートなので気軽に洗車できる環境にない。故に職場近くの洗車場に寄って、その都度500円課金する。水洗いのみであれば100円で洗えるが、愛車にはいつまでも美しくいてもらいたいので、専らシャンプーコースを選んでいる。萌子なりのカーメンテナンスでもあった。

 仕事を終えて、萌子は即座に車内へ駆け込んだ。エンジンボタンを押して、愛車が元気に声を上げたことを確認すると、シフトをDにして駐車場を後にした。麗々しい走行音が、萌子の疲れをほぐしてくれる。その癒やしも束の間、クルマは洗車場に入った。
 洗車場はこれ以上ないほどに盛況していた。ブースは全部で3箇所、今敷地内にいるのは5台。つまり、萌子と先客の1台がブース空きを待っている状況だ。

 先に代金を用意しようと、萌子は財布を確認する。小銭入れを除いたら、あろうことか100円玉が底をついていた。この洗車場は100円玉専用なので、いくら大金を持っていても細かくできなきゃ意味がなかった。細かくするには喉が乾いていなくとも、敷地内の自動販売機で必ず何かしらの飲料を買わなければいけないのである。財布には1000円札があったので、一番安価な水を買うことにした。

 クルマを降りてそれの前に立とうとすると、先客と思われる一人の若い男が隣で同じようにしていた。手には1000円札が握られている。クルマは、濃さは違えど同じ桜色だった。順番的にも彼が先だろうから、萌子は購買権利を譲ることにした。
 彼は会釈をしてすぐに飲料を買った。萌子の出番になり、水を買う。返却口から小銭を取り出すと、後ろから男の声がした。

「そのクルマ、俺と同じ色ですね」

 振り向くと、さっきの男が微笑んでいる。人懐っこそうな笑みはまるで小型犬のようだった。

 萌子は一瞬呆然とするも急に小っ恥ずかしくなり、そそくさとクルマを走らせた。これ以上ここにいるとあの男にずっと話しかけられそうな気がしてならなかった。
 もしこれが恋の始まりならば、好機を逃したことになる。しかし、愛車は逃げない。桜のクルマは今日も麗々しくエンジンを吹かした。
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