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出会えそうで出会えない男
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「ぐっ、まさかこの私がここまで追い詰められようとは……!」
「さあ、これで終わりだ! 観念しろ、魔王!」
西洋風の石造りの城の中に、青年の声が鋭く響き渡った。
豪奢な玉座風の椅子が奥にあって、そこから部屋の出口まで伸びるように真紅の絨毯が走っている。しかし装飾らしい装飾といえばそれ位で、気味の悪い薄暗さも風景の寂しさをより駆り立てているように思えた。
椅子の前には黒い鎧や兜を纏い、頭部に角を生やした生物が片膝をついていて、その前には白銀の鎧を装着し、七色に輝く剣を手にした青年が立っている。
そして今、青年が振り上げた剣を下ろそうとしていた。だが。
「待てっ! ここで我を見逃してくれれば、世界の二十分の一をやろう!」
「二十分の一ってどれくらいだ……?」
青年が腕を上げた体勢のままで思わず考え込んでしまった、その瞬間。魔王と呼ばれた異界の生物は、口の端を吊り上げて高らかな笑い声をあげ、
「がーはっはっは! 引っ掛かったな勇者よ!」
そう言いながら手のひらを自身の前の空間に向けると、そこに空間の歪とでもいうべきものが発生した。魔王はそれに飛び込みながら青年の方を振り返る。
「さらばだ勇者よ! 我はここでやられはせん! 別の世界に逃げてやるぞ!」
空間の歪に飲み込まれるようにして徐々に身体が消えていく魔王。しかし、勇者からは意外な言葉が飛び出る。
「ちょっと待てよ! 世界の二十分の一もくれるんだったら見逃してやろうかと思ってたのに!」
「ええっ、それは本当か!? もう飛び込んでしまったではないか、おい、ちょっと引っ張ってくれ!」
「間に合えーっ!」
「うわあーーーーっ!」
「魔王ーーーーーーーーっ!!!!」
こうして魔王は、別の世界へと姿を消したのであった。
☆ ☆ ☆
「夢か……」
目を開ければ、そこには見慣れた白い天井があった。
カーテンの隙間から漏れ出る陽光が部屋を照らしていて、僅かに漏れ聞こえる鳥の鳴き声や冷えた空気が朝の到来を教えてくれる。
「…………」
奇妙な夢を見た気がするんだけど、内容をまるで思い出せない。何だかファンタジー風の異世界で、勇者と魔王が戦う、みたいな……。
とはいえ夢の内容を思い出せないなんてのはよくあることなので、枕元にあった眼鏡をかけてベッドから降りると、そのままベランダへと向かう。
ぼくの一日はキャロラインへの挨拶から始まる。
キャロラインというのはぼくの親友にして恋人だ。以前に母が家庭菜園をするために植木鉢とほうれん草の種を買って来たんだけど、すぐに飽きてしまったので代わりにぼくが育てている。それがキャロライン。つまりほうれん草だ。
カーテンをよけてベランダへと通じるガラス戸に手をかける。そしてそれを一気に開けると片手をあげて挨拶を……。
「ガーッハッハッハ! よくここまで来たな人間よ! 我こそは魔王。貴様らを絶望の淵に陥れるため、深淵の闇より出てきてやったぞ! さあ」
スッ……。
そっと扉を閉めて顎に手をやり、思索を巡らせた。
ぼくの見間違いでなければ、キャロラインが植えられているはずの鉢に何か奇妙な生物の頭だけが生えていた。そう、頭だけが。そいつは今もガラス越しにぼくに向かって何かを必死に叫んでいる。
「…………」
うん、何もわからないのに考えても仕方がない。冷静になるために一度深呼吸をしてからもう一度ガラス戸を開けてみる。
「おい聞いているのか人間! 貴様なんぞ本気を出せば今この場で血祭りにあげることもできるのだぞ!」
黒い兜の中からは深紅の眼が覗き、骸骨のようにやせこけた頬にはかろうじて紫という不健康な色の皮がついている。
特注デザインの兜なのか頭部には二本の角が突き出ていて、何か喋ると呼応するようにうねうねと動いていて気持ちが悪い。
本人が魔王と言っているんだし、とりあえずはそういうことにしておこう。
あれこれと考えごとをしているとその沈黙をどう捉えたのか、魔王は相変わらず威勢よく喋り続ける。
「くっ……フハハハ! そうかそうか、恐怖で動けぬか! よいよい、命まではとらぬ。いいかまずは食料を持ってこい!」
あまりに図にのった言葉に、ぼくは眼鏡を押し上げながら反論した。
「それ、人にものを頼む態度じゃないよね?」
「何だと?」
「食料が欲しいんだったら、何か食べ物を分けてくださいお願いします、でしょ」
それを聞いた途端、魔王は怒りに顔を歪めてわなわなと顔を震わせた。
「貴様っ、どうやら自分の立場がわかっておらぬようだな!」
「それはこっちの台詞なんだけど」
「『ファイア』!」
何か魔法の名前のようなものが宣言された。けど。
「…………」
「…………」
何も起きない。近所の子供たちが、友達とじゃれ合いながら元気に登校をする声が住宅街に響いている。
「ぬ? 何故だ! 『ファイア』!」
「…………」
「『ファイア』!『ファイア』!ならば少しためて……ハアアッ『ファイア!』」
ぼくの家の前を車や原付が行き交っているのをエンジン音で察する。普段は閑静な自宅周辺も、通学通勤のピークである今の時間帯は相応に騒がしい。
「『ファイア』!『ファイア』『ファイア』『ファイア』アアァァ……うおおおおん、何故だぁ……何故使えぬのだぁ……」
遂には泣き出してしまう魔王。あまりにもあわれ過ぎる光景に、逆に何を言ってやったらいいのかわからなくなってしまう。
「うぐっ、ひっく……さっきまでは使えたのにい……」
「えと、元気だしなよ。ほら、その内使えるかもしれないじゃん、ファイア」
「そうかなぁ、使えるようになるかなぁ」
「うん、きっとなるよ。だから元気を出してさ」
「ありがとう。お前、人間のくせにいいやつだなぁ」
魔王が少しだけ落ち着いてきたところで気付いたけど、今日は普通に学校がある日だし、そろそろ準備をしなければ。
「それじゃあぼくはそろそろ行くね。ご飯は後で持ってきてあげるから」
「あ、ありがとうございます。ファイアごときも使えない私に、食料をありがとうございます……」
まだ少し涙を流しながらそう言う魔王。そんなに使えないとまずい魔法なんだろうか……ファイア。ていうか今更だけど魔法ってなんだよ。
色々聞きたいことはあったけど、とりあえず朝食を摂らなければと、ぼくは踵を返してベランダを後にした。
部屋を出てリビングに入ると朝食の香りが鼻腔をくすぐり、食欲を駆り立てる。すでに妹がテーブルに着いて母さんはキッチンで洗い物やらをしていた。父さんはもう仕事にいったらしく姿は見えない。
これが山口家の標準的な朝食風景だ。
「のぼる、ご飯できてるわよ」
「うん」
適当に返事をしてから妹の向かいに座る。そこにはすでに僕の分の朝食が用意されていた。
本日のメニューを確認していると、正面から声がかかる。
「おはようございます、お兄様」
「おはよう」
腰にまで伸びる黒髪はウェーブがかかり、少し目尻の下がった双眸は穏やかにこちらを見つめている。
薄桃色の小振りな唇が静かに笑みの形を作っていた。
たった今挨拶をしてくれたのが妹である舞香だ。ぼくは彼女の前に置かれた朝食を眺めながら口を開いた。
「……舞香は今日もたまごかけご飯なんだね」
「はい、ご飯の中心に穴を空けて卵の黄身と醤油を注ぎ込み、一気に混ぜた上でその香りを楽しむのが私の日課なのでございます」
優しい微笑みを浮かべながらそう言うと、舞香は気品を感じさせる動作でたまごかけご飯の匂いを堪能し始めた。
舞香は昔母さんに読まされた古い少女漫画の影響で、喋り方や服装をその漫画的お嬢様のイメージに近づけようとする傾向がある。でもうちは所詮一般家庭、結局のところ色んなところが庶民派というギャップを生んでしまっていた。
セーラー服もスカートをやたらと長くしているせいで逆に目立つし、ぼくに似ず整った容姿も相まってちょっとした有名人なので、外ではなるべく一緒にいないようにしている。
まあそんなことはいい。早くご飯を食べて学校に行こう……そう思って箸を持ちいただきますをしてから目玉焼きをつまんで口に入れる。
それを味わいながら咀嚼していると、招かれざる客のことを思い出したのでキッチンにいる母さんに声をかけた。
「母さーん」
ぼくに背中を向けて洗い物をしながら応じる母さん。
「何ー?」
「適当につまめるものとかあるー?」
「何でー?」
「ベランダの植木鉢から魔王が生えてきてさー。お腹減ったって言うからー」
「まお……何てー?」
「だから魔王がさー」
そこで母さんは手を止めると、蛇口を閉めてタオルで手を拭きながらこちらに歩いてきた。
舞香は何があったのかと、ぼくと母さんを交互に見ながら首を傾げている。
「魔王って言ったの? あんた」
「うん」
「熱でもあるのかしら、やーねえ」
ぼくの体温を測ろうというのか、救急箱のある棚に向けて歩き出す母さんの背中に慌てて声をかけた。
「いやいや、後でぼくの部屋に行けばわかるから。とにかくさっさと魔王にご飯をあげて学校に行かないと遅刻しちゃうよ」
「しょうがないわねえ」
「ありがとう」
納得がいかない様子ながらも、とりあえずご飯は用意してくれるみたいだ。キッチンに戻る母さんの背中を見送ってから朝食に戻った。
ぼくが豪快にご飯と焼きベーコンを口の中に放り込んでいく一方で、舞香は小動物のようにちびちびと食べる。先に食べ始めたのにも関わらず、舞香の方が食の進み具合は遅くなってしまっていた。
朝食を食べ終えてキッチンに食器を運ぶと、サイドテーブルの上にあるお皿におやつ的なメニューが盛り付けられている。
その皿を持ち上げながら母さんに声をかけておく。
「ありがとう。じゃあ魔王に持っていってから学校に行くよ」
「後でお母さんにも魔王を見せなさいよ」
「わかってる」
踵を返して部屋に向かおうとすると、後ろから声がかかった。
「お兄様」
舞香だ。振り返ってそちらを見るともうご飯は食べ終わったらしく、手に何かを持ったままこちらに歩み寄ってくる。
「どうしたの?」
「私、魔王にご挨拶に伺いたいのですが、よろしいでしょうか?」
舞香の顔にはいつもの穏やかな微笑みが浮かんでいた。
魔王と聞いて挨拶をしようと考える女子高生なんて聞いたことがない。ぼくの妹は今日もぶっ飛んでいるみたいで安心した。
眼鏡を押し上げながら、釘を刺しておこうと口を開く。
「別にいいけど、早くしないと遅刻するよ」
「存じておりますわ。それでは参りましょうか」
「手に持ってるそれは?」
「『おじいちゃんのぼとぼと焼き』にございます」
「おじいちゃんのぼとぼと焼き」はロングセラーを誇る国民的駄菓子だ。どうやら魔王にあげるつもりらしい。食料をあげすぎて調子に乗ると何をしでかすかわからないのでよくないと思うんだけど……それをどう説明したものだろうか。
「あんまり餌付けしすぎると癖にならないかな?」
「まあ、魔王というのは犬なのですか?」
瞳を大きく見開く舞香。
「わからないけど、少なくとも犬ではないかな」
「では大丈夫です。参りましょう」
にっこり、と舞香は屈託のない笑みを見せてくれた。
舞香と接する時に重要なのは、何故そういった行動や発言をしたのかを深く考えたり本人に追及したりしないことだ。疑問を解決しようとすると新たな疑問が生まれ、余計に疑問が増えるという負のスパイラルにはまり込んでしまう。だから、ぼくはここで「何が大丈夫なのか」なんて聞いたりはしない。
舞香に背を向け、自室を目指して歩き出した。
自室前に到着してドアノブに手をかけたところで、舞香がご機嫌に、独り言のようにつぶやいた。
「どんな魔王なのでしょう。楽しみですわ」
何種類か魔王をみたことがあるのだろうかと、そんな喉元まで出かかった疑問をどうにか抑え込みながら扉を押し開く。
部屋の中も終始無言で突き進んでいき、ベランダに通じるガラス戸の前に到着。カーテンを開ける前にもう一度舞香の方を振り返った。
「ベランダに魔王がいるんだけど、危ないから迂闊に近づかないようにね」
「危ないのですか?」
首を傾げる舞香に、なるべく低めのトーンになるように意識して喋る。
「ああ、何でも今はファイアが使えないらしいんだけど……もしかしたらサンダーやブリザードは使えるかもしれない」
「まあ。それはきちんとしつけてあげなければいけませんわね」
ぼくの言葉そのものは理解してもらえたみたいなので、ベランダの方を向いてカーテンをよけると、ガラス戸に手を掛けて一気に開く。
「あっ、お疲れ様です」
すっかり大人しくなった魔王が挨拶をしてくれた。さっきのぼくの優しさが身に染みたのか、敬語になってしまっている。
「ご飯を持って来たよ」
「ありがとうございます。いやあすっかり腹が減ってしまって……ガッハッハ」
母さんが用意してくれた分を魔王に食べさせてやると、すごい勢いでおつまみが消えていった。本当に腹が減っていたらしい。
早く紹介して欲しいのか、ぼとぼと焼きを食べさせてあげたいのか。舞香が目を輝かせながらそわそわとしているので、立ち上がって手で示しながら紹介した。
「魔王。この子がぼくの妹だ」
「舞香です、よろしくお願いいたします」
ぼとぼと焼きを置き、スカートの裾をつまんで優雅にお辞儀をする舞香。すると魔王は途端に顔を綻ばせた。
「舞香様、というのですか。そういえばあの、あなた様のお名前は……」
「様付けまでしなくてもいいと思うけど。ぼくはのぼるだよ」
「のぼる様に、舞香様ですか。素敵なお名前ですな。ガッハッハ」
どうでもいいけど笑い方気持ち悪いな。可哀そうだから言わないけど。
「マオちゃん、こちらは私からのお近づきの印ですわ」
「これはこれはご丁寧に、ありがとうございます」
舞香は魔王の近くで屈みこむと「おじいちゃんのぼとぼと焼き」を袋から一枚取り出し、包装紙を取ってから食べさせてあげた。
「おいしいですか?」
「はい、とても!」
「それはよろしゅうございましたわ」
和む二人を眺めながら、ぼくは気になったことを尋ねる。
「舞香、マオちゃんってのはもしかしなくても魔王の名前?」
「はい。魔王だからマオちゃんですわ」
「そっか」
まあ、呼びたいように呼べばいいか。たしかに魔王魔王って名前を出すのも家族以外の人間がいる時にはやめた方がいいと思うし。
スマホをポケットから取り出して時刻を確認すると、もうすでに家を出ないとまずい頃合いになっていた。ガラス戸の方を顎で示しながら、舞香に告げる。
「じゃあそろそろ行こうか。魔王、ぼくたちは学校に行って来るよ。ファイアが使えるようになっても無闇に使わないようにね」
「学校……ですか、かしこまりました」
若干きょとんとしている様子の魔王。学校を知らないのかもしれない。そういえばまだこいつには聞かないといけないことが山ほどある。どこから来たのかとか、そもそもキャロラインはどこに行ったのかとか。
でも今はとにかく学校だ。ぼくはガラス戸に向かって歩き出す。
「ではマオちゃん、行ってまいりますわ」
「いってらっしゃいませ」
そんな二人のやり取りを背後に聞きながら学校に向かうべく家を後にした。
暖かく心地よい風が肌を撫でていく。桜の梢がすっかり緑になって、早くも春が過ぎ去ろうとしているのを感じる今日この頃。とはいえ気まぐれな気象のせいで、道行く人には薄着の人もいれば厚着の人もいたりする。
ぼくはと言えば上着を羽織らずに長袖のワイシャツを着ていて、舞香はセーラー服の春服だ。ちなみにうちの制服はブレザーでセーラー服じゃない。
舞香に何故セーラー服を着るのかと聞くと「学生と言えばセーラー服を着るものではないのですか?」ときょとんとされてしまい、さすがに校則違反だろうと教師に聞けば「まあいいんじゃないか? 山口だし」と言われてしまった。
世の中の理不尽さにあてられたのもあって段々どうでもよくなってきたので、それ以降ぼくは舞香の服装については触れないことにしている。
いつもの通学路を二人で並んで歩いていると、舞香が話題にあげるのは魔王改めマオちゃんのことばかりだ。
「放課後になったらホームセンターで色々買ってあげないといけませんわね……」
視線を宙に躍らせて何やら考え込んだかと思うと、舞香はぽんっと両手を合わせながら微笑んだ。
「そうだ、まずはお家を買ってあげるというのはどうでしょう」
「お家……小屋のこと?」
さすがにマンションとか一戸建てのことじゃないだろう。
「はい、あのままですと雨の日や風が強い日になると可哀そうですわ」
「うん。そうだね」
犬小屋の中にすっぽり収まった、魔王イン植木鉢を想像してみる。舞香の言っていることは一理あるけど、見た目的には余計に惨めになった気がするな。
未だに魔王が何なのかよくわかっていないけど、一度関わった以上は放置するのも気が引ける。舞香の提案には賛成だ。
「そうだね、じゃあ放課後にでも買いに行って来るよ」
それから他に買っておきたいものはないかとかを舞香に聞いていると、後ろから不意に声がかかった。
「あら、珍しいじゃない。兄妹揃って登校なんて」
振り向くと、良く見知った一人の女の子が片手をあげながら元気よくこちらに歩み寄って来ているところだった。
赤みがかった黒髪を後ろで結っていて、まなじりのわずかに吊り上がった双眸が爛々と輝きながらこちらを見据えている。
ぼくらに追いついて舞香の横に並んだその子が挨拶を口にした。
「舞香ちゃんに、のぼるも。おはよう」
「おはようございます、由美お姉さま」
「おはよう」
この子は近所に住む幼馴染の林由美。
普段舞香の相手ばかりをしていると、ぼくの周りで唯一まともな由美に会った時は十年来の戦友と再会したかのような安心感がある。
前を見ながら感慨にふけっていたら、由美がからかうような笑みを浮かべつつ、舞香越しにぼくの顔を覗き込んで来た。
「で、どうしたの? どうせ寝坊でもしたんでしょ」
ただでさえ兄妹で通学するのが恥ずかしい上に、舞香は目立つのでいつもは一緒に登校しない。だから由美がこういう風に尋ねて来るわけだ。
試しにありのままを話してみることにした。
「朝起きたらベランダの植木鉢から魔王が生えて来ててさ。ご飯とかあげてたらこんな時間になっちゃったんだ」
「…………そうなんだ。へえ~すごいねえ~」
由美は正面を向き、いかにもしらけたと言わんばかりに横目でこちらを睨んでいる。どうやらつまらないボケだと思われてしまったらしい。
そう、これだ。これが普通の反応なんだ。ぼくとしては挨拶をしにいきたいとか言われないだけでも非常にありがたい。
由美に対する安心感を募らせていると、舞香が彼女の方を向いて柔らかな微笑みを浮かべた。
「もしよければ、今度またうちに遊びにいらしてくださいな。きっとお姉さまもマオちゃんを気に入ってくださいますわ」
こちらを振り返って目線を合わせてくる由美。「マオちゃんって何? どういうこと?」と聞いているのだろう。
うちの妹と本当の姉妹同然に仲良くしてくれている由美だけど、それでも舞香の発言の意味がわからないことは往々にしてある。そんな時はこうやってぼくにこっそりとアイコンタクトなどで聞く、というわけだ。
けど、この問いかけに今のぼくが答えることは出来ない。それにはまず植木鉢から魔王が生えて来たという話を信じてもらないといけないからだ。一般的な女子高生である由美にそれは酷だろう。
恐らく舞香は、由美が魔王というペットの一種を嫌いだからしらけた態度を取ったと勘違いし、「魔王が嫌いでも、うちの魔王は好きになってもらえると思う。それくらいかわいいんですよ」と言っているんだと思う。
ぼくは静かに首を横に振る。すると由美は一瞬だけ、信頼していた仲間に裏切られた冒険者のような顔をしてから苦笑する。
「そ、そっか。じゃあ、次行った時に見せてもらおっかなぁ~」
「はい。お待ちしております」
それからはいつも通りの他愛のない会話を交わしながら進んでいく。そしてある十字路の手前まで来た時のことだった。
右側の通路の奥から何やら声が聞こえてきた。
「いっけな~い! 遅刻遅刻ぅ~!」
そしてそこから、食パンを口にくわえた女子高生が走って現れる。しかし。
「遅刻ぅ~……」
女子高生はこちらに曲がってくることはなく、ぼくの前を右から左へと走り去っていった。
立ち止まって食パン女子が消えていった方向を見つめていると、後ろから声をかけられる。
「お兄さま、どうなさったのですか?」
「いや、何でもないよ」
振り返ってそう返事をすると、舞香も由美も不思議そうに首を傾げていた。
悩み、というほどのことでもないんだけど、ぼくの周りではそこそこの頻度で今みたいなことが起こる。どういえばいいのか……「フラグが立ちそうで立たない」あるいは「出会えそうで出会えない」というべきか。
例えば漫画やアニメのラブコメで古風なワンシーンとして、女の子が食パンをくわえながら「遅刻遅刻ぅ~」と言いつつ走って、曲がり角で主人公と衝突するというのがある。そして出会いを果たし、物語が始まる……みたいなの。
ここで注目して欲しいのは、そもそも現実に食パンをくわえながら「遅刻遅刻ぅ~!」とか言って走る女の子なんていないという点だ。
しかし、ぼくの前には今のように、ラブコメの中にしかいないと思われていた女の子が現れる。現れるけど、出会えない。こんな感じで、不思議な出会いが果たせそうで果たせない謎の現象がここ数年で何件も発生していた。
初めてこれに遭遇した時は戸惑ったけど、今ではすっかり慣れてしまったので、特に気に留めることもなく再び学校に向かって歩き出した。
校門をくぐる頃にはHRの開始時間ぎりぎりになっていて、昇降口までの道のりは急ぎ足の生徒がそこそこに見受けられた。
部活の朝練を終えて校舎へと入る生徒。いつもこれくらいの時間に来ているのか遅刻も恐れずにのんびりと歩く生徒。
そんな校庭の風景の中を歩いていると、あちこちから声をかけられる。
「舞香ちゃんおはよう」
「おはようございます」
「山口さん、おはよ~!」
「おはようございます」
舞香は鞄の取っ手を両手で持ったまま、上品な所作で身体を折り曲げて挨拶を返していく。
「由美、おはよ!」
「おはよ~」
「由美ちゃんおはよう!」
「おはよう!」
同じように無数の挨拶が飛び掛かってくると、由美はそれにフリフリと小さく手を振りながら返していった。
「…………」
ぼくには一切声がかからない。何故なら友達がいないからだ。
「お兄さま、舞香はいつでもお兄さまの味方ですわ」
「わ、私もね……」
微笑む舞香と何やら頬をほんのりと赤らめた由美を眺め、二人は何を言っているんだろうかと考えている内に昇降口に到着した。
靴を脱ぎ上履きを履いて普通教室棟の方へと歩く。教室棟はわかりやすく一階が一学年、二階が二学年、三階が三学年のフロアだ。ちなみに僕と由美は二学年で、舞香は一学年だから、棟に入ってから階段の下で分かれることになる。
「それじゃまたね」
「ごきげんよう」
優雅に一礼しながら去っていく舞香を二人で見送る。ぼくは片手だけをあげて声は出さない。
踵を返し、階段を上がって二階へ。そのまま廊下を歩いて教室に入った。
朝の忙しい喧騒をくぐり、自分の席に着く。すると早々に話しかけてくるやつがいた。
「ようのぼる。元気か?」
「おはよう、岡田」
短髪というか坊主で背も低く、動物に例えるならサルっぽい顔をしているこいつは岡田。友達というほど親しくはないけどある程度は仲の良い同級生だ。
決して人気者ではないとはいえ、いじられキャラとしてクラスでの地位を確立しつつあって最近は少し調子に乗っている。でも基本的にはいいやつだ。
岡田はぼくの前の席に椅子を横にして座ると、早々に話題を切り出した。
「なんか今日転校生が来るらしいぜ」
「えっ、そうなんだ」
男かな、女かな、と考えていると岡田はそれを見透かしたように意地の悪そうな笑みを浮かべる。
「ちなみに、転校生は女の子だってよ」
「……そうなんだ」
あまり感情は出さずに机の下で強く拳を握った。
「あ、なんだ興味ねえのか?」
「いや、めちゃくちゃあるけど」
「そうか。そりゃそうだよな」
感情を隠した意味がまるでなかった。
間もなくチャイムが鳴り朝のHRが開始されることを知らせる。岡田は席を立ってぼくを見下ろしながら言った。
「転校生、可愛い子だったらいいな」
「だね」
そして岡田が自分の席に戻ったのとほぼ同時のタイミングで担任の先生が教室に入って来る。中肉中背で禿頭の中年男性、出島功先生だ。
出島先生は教壇に立って教室を一通り見渡すと、みんなが静かになるのを無言のまま待ってから口を開いた。
「えー、今日は転校生を紹介します」
途端に色めき立つ教室。一体どんな人なのか、男子なのか女子なのか、それぞれに期待を膨らませる瞬間だ。
「それでは琴吹さん、どうぞ」
出島先生の言葉と共に教室前方の入り口が開いて一人の女子が入って来た。
流れるような銀髪が窓から入る陽射しを反射して煌めく。すらりと伸びる手足はしなやかで、女優とかモデルだと言われれば信じてしまいそうだ。
その女子は背筋を伸ばして立ち、堂々とした佇まいで教壇からぼくたちを眺めながら自らの名前を口にする。
「今日からこのクラスに転入してきた琴吹彩音です。よろしくお願いします」
琴吹さんが丁寧に腰を折る中で、クラスは突然の銀髪美少女の登場に騒然としていた。
ぼくはと言えば、いや、銀髪美少女の転校生なんて現実に有り得るのかよ……という気持ちで一杯になっている。岡田の反応が気になってちらりと視線をやれば、こちらに向かって片目を瞑りながら親指を立てていた。
琴吹さんが軽い自己紹介を終えて先生にバトンを戻すと、先生は空席を探しているのか、教室をぐるりと眺めている。
「じゃあ、席は山口の隣……」
…………。
「と思ったけど、今日は石田が休みだからあの席に座ってくれ」
「はい」
だよね。何だかそんな気はしていた。でも石田さんは明日からどうするんだろう……まあいいか。
とはいえどこか納得いかない気持ちのまま、転校生が席に向かって歩いていくのを静かに見つめていた。
それ以降、特に変わった出来事もなくいつも通りに全ての授業が終了。今日は犬小屋を買いに行きたいんだけど、とりあえず部活に顔を出すだけ出さないといけないので部室に移動する。
部室は部室棟にあるので移動がめんどくさい。うちの校舎は普通教室棟と特別教室棟が向かい合うように立っていて、その間に昇降口がある「コ」の字型の形をしているんだけど、それに蓋をするように、少し離れた位置に部室棟がある。
階段を下りるとそのまま校舎を出て渡り廊下を歩いて行く。HRが終わった直後の今は部活動へ帰宅へと校舎内を移動する生徒でごった返していて、普段なら人混みが落ち着くのを待ってから移動しているところだ。
今日は早めに帰りたいからしょうがないかとため息をつきながら、ちょっとしたお祭り騒ぎのような喧騒をくぐっていった。
部室棟に入って階段を上がって三階へ。無機質に照明を反射するリノリウムの床を踏みしめながら歩き、部室前に到着。
そういえば、早過ぎて部室が開いていない可能性を考えていなかった。もしそうだったらどうしようと思いながら扉に手をかけると、簡単に開いてくれた。
「早いね、大山君」
「こんにちは、山口君」
人懐っこそうな、ふんわりとした笑みと共にぼくを迎え入れてくれたのはこの部でぼく以外の唯一の部員にして部長、大山駿君だ。
さらさらのミディアムヘアーに目尻の垂れ下がった優しそうな目。その中性的な顔立ちは服装の手伝いがなければ性別を判断することが難しい。ちなみに、一応男子だということになっている。
しかしこの大山君、ただの美少年ではない。
部室の扉を開けて中を覗くと、まず目に入るのは徹底的なまでの黒一色の風景。陽光はすべて暗幕に遮られ、室内を照らすのは昨今では見るも珍しい蝋燭数本の灯りのみ。
大山君の服装も制服ではなく、いや制服なんだけど、その上からまるでおとぎ話の中から持って来たかのような黒いローブを羽織りとんがり帽子を被っている。
そう、ぼくが入っている部活動……それは「暗黒魔術部」だ。
何故こういった部活に入ることになったのか、そのきっかけは約一か月ほど前、新学期が始まったばかりの頃に遡る……。
〇 〇 〇
(おい山口、ちょっと)
(はい)
(お前帰宅部だったろ。ちょっと入ってやって欲しい部活があるのだが)
(わかりました)
(そこを何とか……えっ、いいの?)
(場所はどこですか?)
(部室棟の三階の……)
〇 〇 〇
先生に強制的にちょっと風変わりな部活に入らされて、学校内でも噂の美少女と出会う。出会えそうで出会えない現象が続いているけど、、これなら確実に出会えるだろうし、もし違うなら入部しなければいい。
そんな甘い考えと期待のもとにここに来てみれば、そこには学園内でも噂の美少女ではなく美少年がいたというわけだ。おまけに部活は風変わりどころか少しだけ頭のおかしい感じだったっていう。
そして挨拶をすると「君が噂の山口君だね、顧問の先生から話は聞いてるよ」と邪気のない満面の笑みで言われて入部の辞退もしづらくなり今に至る。
と、今は回想にふけっている時じゃない。心苦しいけど、さっさと大山君に今日の活動に参加出来ないことを伝えなければ。
「大山君、悪いんだけど今日はちょっと用事があって部活には参加出来ないんだ。それだけ伝えようと思ってさ」
「あっ……そうなんだ。用事があるならしょうがないね」
少し寂し気な笑みを浮かべる大山君。ぼくが年上の女子だったら思わず抱きしめてしまいそうだ。罪悪感を覚えて彼から視線を逸らすと、何やらその背後に机の上にセットされた、怪しげなフラスコとアルコールランプが目に入る。
普段なら嫌な予感がして見なかったことにする代物だけど、気まずい雰囲気も手伝って、気付けばぼくはそれに触れてしまっていた。
「あのフラスコは?」
「ああ、もう少しで新しい実験が完成しそうなんだ。だけどトカゲの尻尾が手に入らなくて」
実験というのは暗黒魔術が成功するかどうかの実験だ。ぼくも暗黒魔術が何かは良く知らないんだけど、とにかく現代にそんなものがあるわけはないので、成功したことは一度もないらしい。
それでも現代に暗黒魔術を再現をしようと、ひたすらに使えるかどうかの実験をするのがこの部の主な活動内容だ。
「トカゲの尻尾?」
「うん。山口君、もし見かけたら持って来てくれない?」
「わかった」
あまり深く考えずに承諾してしまったけど、それはトカゲを見かけたら尻尾を強奪して来いということなんだろうか。
その後別れの挨拶を交わしてすぐに教室を後にした。
サッカー部や陸上部、野球部など各種運動部が青春の日々を過ごす様子を眺めながら校庭を横切っていく。岡田がいるかなと野球部の練習風景をじっと見つめてみたけどいなかった。野球部員じゃないんだから当然だ。
学校を出ると、いつも歩いている通学路とは違うコースへと進んで街に出る。道を行き交う人はそんなに多くなく、昼とも夕方とも言えないこの微妙な時間帯の街はどこかのんびりとしていた。
途中でコンビニに寄って、お金を下ろしてからホームセンターへ。
繁華街からは少し離れた場所にある、駐車場が広々としたこの店は日曜品や大工用品から食料、そしてペット用品まで品揃えが豊富だ。ペット用品のコーナーはそこまで広くないけど、特にこだわりがないぼくには充分だろう。
しかし、犬小屋を前にしてぼくは腕を組んだまま固まってしまっていた。
意外と高いな……犬小屋ってこんなにするのか。一応多めにお金を持って来たから買えないこともないけど、まさかそのうちほとんどを使うことになるなんて思ってもみなかった。
魔王用だし後で親にお金を出してもらえることを願って、ここは腹を括ろう。
レジまで商品カードを持っていって、郵送で送ってもらった。到着は早ければ明日といったところだろう。
他に特に用事もなかったので、それだけ終えると早々に家路についた。
家にはまだ誰も帰っていなかった。舞香は部活だし、母さんはパートか。
魔王の様子を見るべく、まっすぐに自室へ。静かな家の中に木製の床を踏みしめる自分の足音だけが響き渡る。
部屋に入るとすぐにカーテンを開けてガラス戸を引き開けた。
「のぼる様、お疲れ様です」
「やあ」
やっぱりいた。これは現実であって夢じゃなかったんだと改めて認識する。
「お腹空いてる?」
「少しだけ……」
どこか申し訳なさそうに俯きながらつぶやいた魔王へ、コンビニで買ったお菓子を食べさせてやる。
「ありがとうございます。……ふむ、中々に美味な菓子ですな。私たちがいた世界にはないものです」
「そっちではどんなものを食べてたの?」
「肉全般、特に人間の血と肉、魂は美味でしたね」
「やけに物騒だな」
私たちがいた世界、か。当たり前だけど、やっぱり魔王はここではない別の世界からやって来たみたいだ。少し掘り下げてみよう。
「魔王はどうやってこっちの世界に来たの?」
「勇者と戦い、敗北しそうになって適当に別の世界へと飛ぶ魔法を使ったのですが……なぜかこのような状態になってしまいまして」
「そっか」
聞いたところでまぬけな魔王だな、という感想しか浮かんでこない。それを直接口に出すのは気がはばかられるので、話題を変えることにした。
「そういえばさ、暗黒魔術って知ってる?」
「はて、知らないですね。『魔法』と少し響きが似ているような気もしますが」
「魔法……朝使おうとしてたファイアがそれ?」
「そうです。それがどうかしましたか?」
「いや、学校にその暗黒魔術ってのを好きな友達がいてね……」
「ほう、中々やりますな」
中々やりますな? 不思議な相槌をうたれてしまった。
話題に出したことで大山君の顔が脳裏に浮かぶ。そう言えば彼からとかげの尻尾を拾ってくれと依頼されたんだったか。適当に承諾してしまったものの、あの中性的な美少年の笑顔を守らねばならないと、魔王に相談してみることにした。
「あのさ、魔法でとかげの尻尾を召喚出来たりしない?」
「出来ません」
「それもそうか……」
そんなに都合よくことが運ぶはずもない。自力で探すしかないかと、諦めて話を終えようとした時だった。
「とかげの尻尾が必要なのですか?」
魔王が話題を掘り下げて来た。どういうつもりかと内心では不思議に思いながら返事をする。
「え、うん。その暗黒魔術の実験とやらに必要らしくてね」
「ふむ……」
相変わらず頭部だけを植木鉢から出しながら、真剣な顔で思案する魔王はやがて驚くべきことを口にした。
「とかげを召喚することは出来ませんが、のぼるさまの元にとかげが来るよう、呼び寄せることは出来ます」
「それはやめて欲しいんだけど……どう違うの?」
「私の使える魔法の原則は基本的に『等価交換+α』なのです。すでにあるものを少しだけいじる、という感じですね。例えばファイアは、空気中の成分を少しだけいじって火を発生させるものです」
「うん」
「ですから何もないところからとかげを発生させることは出来ませんが、すでにいるとかげがのぼるさまに近付くよう、運気みたいなものをいじることは可能というわけですな」
「へえ。それはそれですごいな」
とりあえず返事はしたものの、話が現実離れし過ぎて正直よくわかっていない。すごいことには違いないと思うけど。
そこまで喋ったところで、魔王は突然にしゅんとうなだれた。
「ですが朝に見てもらった通り、今の私は魔法の使えない家畜以下の雑草野郎ですので、それも出来るかどうかはわかりません」
「…………」
どう返していいものかわからない。正直雑草も頑張って生きてるから雑草に謝って欲しいところだけど、今の魔王にそれを言う気にはなれなかった。
とりあえず励ましておくことにする。
「まあ、魔法だって何かのせいで朝使えなかっただけかもしれないし……試すだけ試してみたら? その、とかげを呼び寄せるやつ」
「そうですね。ちょっとやってみます」
そう言って、魔王は瞑目して頭をぷるぷると震わせ始めた。そしていきなりカッと目を見開き、
「ふんぬらばっぱ、ぽっぽらぽ! ハァッ!」
それだけ叫ぶと、ぼくを見ながら固まってしまう。
「突然どうしたの?」
「のぼるさま、私、魔法が使えました!」
「えっ」
「とかげをのぼるさまに呼び寄せる魔法の使用に成功しました。恐らく、近いうちにのぼるさまの前にとかげが現れると思います!」
「普通に嫌なんだけど」
まさか本当に使えるなんて。ぼく虫苦手なんだよな……それに、他にもツッコむべきところがたくさんある。
「何で魔法が成功したってわかるの?」
「のぼるさまの身体に私の魔力が纏わりついたからです」
「言葉の響きが気持ち悪い」
「申し訳ありませんが事実ですので。もしかするとのぼるさまの仰る通り、朝には魔力が尽きていただけで、食料をいただいた拍子にそれが回復したのかもしれませんなあ。がっはっは」
「…………」
元気が出たようで何より。話が一段落したところで、ぼくは部屋に戻ることにした。
「それじゃまた後でご飯持ってくるから」
「かしこまりました」
これまでで一番元気な魔王の返事がとても印象的だった。
昨日はあれから母さんと父さんに魔王を紹介した。母さんは「あらまあ」くらいしか言ってなかったけど、父さんは未だに信じられないらしく、会社に行く前に病院によるらしい。自分の頭がおかしくなったと思っているみたいだ。
朝食を食べて準備を整えると、一人で家を出た。舞香は魔王が大層気に入ったらしく、今日も食べ物をあげてから来るらしい。
いつもの通学路を歩いていると後ろから声をかけられた。
「お、今日は早いじゃん」
「そっちこそ」
振り返ると由美がとてて、とこちらに走り寄ってくるところだった。彼女はぼくの隣に並ぶと早々に話を切り出してくる。
「で、昨日のあれは結局なんだったのよ」
「昨日のあれって?」
「魔王がどうのこうのってやつに決まってるでしょ」
少し怒ったようにこちらを睨む由美。けどそんな態度に慣れっこなぼくは、慌てることもなくゆっくりとこの場面をどうするか考えた。
正直に話したってまた呆れられるか余計に怒らせてしまうだけだ。ここは一つ、嘘をついて誤魔化すしかないか。
「一昨日の夜に野良犬を拾ったんだよ」
「へー! なになに、どんな犬? 種類は?」
まずい、何かめっちゃ食いついて来た。こちらを見る由美の目がきらきらと眩しく輝いている。
そういえば由美、犬好きだったっけ……猫とかにしておくべきだったな。犬の種類とかよくわかんないし、何だっけあのゴールデン、ゴールデン……。
「ゴールデンラブラドール」
「何その無駄にゴージャスそうな犬種。ゴールデンレトリバーかラブラドールじゃないの?」
「ああ、それそれ。ゴールデンレトリバー」
取り繕うように、けど表情を変えないようにそう言ったぼくを、由美は特に疑うでもなく前を向いた。
「ふ~ん、ゴールデンかぁ。で、それと魔王ってのがどう関係あんのよ」
「その犬がかなり魔王っぽかったんだよ。それで舞香が『マオちゃん』とか名前を付けっちゃってさ」
「どういうこと?」
途端に眉をひそめる由美。ぼくも自分で言ってて意味がわからないのだから当然の反応だと思う。それでも何とか押し切るしかない。
一瞬嘘を吐いたのは申し訳ないけど、信じてもらえないから話さないのであって別に隠しているわけじゃないんだから、要は家まで誘導して実際に見てもらえばいいんだ。
「とにかく、今度家に見に来てよ。そしたらわかるから」
「何か怖いんだけど……わかった。今度学校帰りにでも行こっかな」
若干引きながらも承諾してくれた。かと思えば、由美はそっぽを向きながら頬をほんのりと赤らめて言った。
「でも、のぼるから家に誘ってくれるなんて珍しいねっ」
「えっ、何か言った?」
そっぽを向いてるせいでよく聞き取れなかった。
間抜けなぼくの言葉に反応して由美が「だからさ……」と言いつつこちらに顔を向けた、その時だ。
「あっ」
たまに食パン女子の現れる十字路の真ん中にとかげの尻尾らしきものが落ちているように見える。そんなバカなと思い、走り屈みこんで間近で見てみると、どうやら本当にとかげの尻尾らしい。
「どうしたの?」
そう言いながら、由美が背後からこちらに歩み寄る気配がする。ぼくがそちらに振り返って説明をしようと立ち上がると。
「いっけな~い! 遅刻遅刻ぅ~!」
いつも食パン女子がやってくる側の通路から、あのフレーズが聞こえて来た。こっ、これはまさか……。
次の瞬間、強烈な衝撃と共に「きゃっ!」という黄色い悲鳴があがる。
よろめいたぼくが体勢を立て直してそちらを見ると、あの食パン女子が尻もちをついて「痛たぁ~」と言いながら「まる見え」の状態になっていた。
ぼくがようやく果たせた出会いの衝撃で呆然と突っ立っていると、食パン女子は何かに気付いた様子で「隠し」ながら慌てて立ち上がり、
「何見てんのよ、サイテー!」
と、やはりお決まりの文句を口にしながら走り去って行った。
これでいつか食パン女子がうちに転校して来たり、あるいは街中で買い物とかしてる時にばったりと会って「あの時の覗き魔!」とか言われるに違いない。
あれこれと放課後に立ち寄る場所に思索を巡らせながらほくそ笑んでいると、ぼくの正面で呆気に取られていた由美がまたも若干引いていた。
「なに女の子のぱんつ見てにやにやしてんの? 気持ち悪っ」
「ああ、由美。これは違うんだよ」
「何が違うの?」
ぼくは眼鏡を押し上げながら決め台詞っぽく言った。
「ぼくはね、ようやく運命の出会いを果たせたんだ」
「は?」
「これからぼくを主人公にしたラブコメが始まるんだよ」
「そのラブコメってのはよくわかんないけど……なにあんた、運命の出会いを求めてたの?」
「そんな感じかな」
「…………」
これまで出会えそうで出会えなかったけど、どういうわけかようやく出会えた。こうなってしまえば後はこちらのものだ。あの食パン女子を初めとして、数々のラブコメ的出会いを果たし、すぐに彼女も出来るだろう。
何故なら、ぼくはいわゆる鈍感難聴主人公ではないからだ。
ラブコメがいつまで経ってもヒロインとくっつかないのは、物語の都合で主人公が鈍感で難聴にさせられているからだ。その点ぼくは違う。女の子の好意にはすぐ気付けるし、自分に都合の良い言葉も聞き逃したりはしない。
「運命的っていうんなら、近くに幼馴染がいるじゃん……」
「えっ、何か言った?」
「何でもない!」
由美は何故か急に不機嫌になって先に行ってしまった。
「さあ、これで終わりだ! 観念しろ、魔王!」
西洋風の石造りの城の中に、青年の声が鋭く響き渡った。
豪奢な玉座風の椅子が奥にあって、そこから部屋の出口まで伸びるように真紅の絨毯が走っている。しかし装飾らしい装飾といえばそれ位で、気味の悪い薄暗さも風景の寂しさをより駆り立てているように思えた。
椅子の前には黒い鎧や兜を纏い、頭部に角を生やした生物が片膝をついていて、その前には白銀の鎧を装着し、七色に輝く剣を手にした青年が立っている。
そして今、青年が振り上げた剣を下ろそうとしていた。だが。
「待てっ! ここで我を見逃してくれれば、世界の二十分の一をやろう!」
「二十分の一ってどれくらいだ……?」
青年が腕を上げた体勢のままで思わず考え込んでしまった、その瞬間。魔王と呼ばれた異界の生物は、口の端を吊り上げて高らかな笑い声をあげ、
「がーはっはっは! 引っ掛かったな勇者よ!」
そう言いながら手のひらを自身の前の空間に向けると、そこに空間の歪とでもいうべきものが発生した。魔王はそれに飛び込みながら青年の方を振り返る。
「さらばだ勇者よ! 我はここでやられはせん! 別の世界に逃げてやるぞ!」
空間の歪に飲み込まれるようにして徐々に身体が消えていく魔王。しかし、勇者からは意外な言葉が飛び出る。
「ちょっと待てよ! 世界の二十分の一もくれるんだったら見逃してやろうかと思ってたのに!」
「ええっ、それは本当か!? もう飛び込んでしまったではないか、おい、ちょっと引っ張ってくれ!」
「間に合えーっ!」
「うわあーーーーっ!」
「魔王ーーーーーーーーっ!!!!」
こうして魔王は、別の世界へと姿を消したのであった。
☆ ☆ ☆
「夢か……」
目を開ければ、そこには見慣れた白い天井があった。
カーテンの隙間から漏れ出る陽光が部屋を照らしていて、僅かに漏れ聞こえる鳥の鳴き声や冷えた空気が朝の到来を教えてくれる。
「…………」
奇妙な夢を見た気がするんだけど、内容をまるで思い出せない。何だかファンタジー風の異世界で、勇者と魔王が戦う、みたいな……。
とはいえ夢の内容を思い出せないなんてのはよくあることなので、枕元にあった眼鏡をかけてベッドから降りると、そのままベランダへと向かう。
ぼくの一日はキャロラインへの挨拶から始まる。
キャロラインというのはぼくの親友にして恋人だ。以前に母が家庭菜園をするために植木鉢とほうれん草の種を買って来たんだけど、すぐに飽きてしまったので代わりにぼくが育てている。それがキャロライン。つまりほうれん草だ。
カーテンをよけてベランダへと通じるガラス戸に手をかける。そしてそれを一気に開けると片手をあげて挨拶を……。
「ガーッハッハッハ! よくここまで来たな人間よ! 我こそは魔王。貴様らを絶望の淵に陥れるため、深淵の闇より出てきてやったぞ! さあ」
スッ……。
そっと扉を閉めて顎に手をやり、思索を巡らせた。
ぼくの見間違いでなければ、キャロラインが植えられているはずの鉢に何か奇妙な生物の頭だけが生えていた。そう、頭だけが。そいつは今もガラス越しにぼくに向かって何かを必死に叫んでいる。
「…………」
うん、何もわからないのに考えても仕方がない。冷静になるために一度深呼吸をしてからもう一度ガラス戸を開けてみる。
「おい聞いているのか人間! 貴様なんぞ本気を出せば今この場で血祭りにあげることもできるのだぞ!」
黒い兜の中からは深紅の眼が覗き、骸骨のようにやせこけた頬にはかろうじて紫という不健康な色の皮がついている。
特注デザインの兜なのか頭部には二本の角が突き出ていて、何か喋ると呼応するようにうねうねと動いていて気持ちが悪い。
本人が魔王と言っているんだし、とりあえずはそういうことにしておこう。
あれこれと考えごとをしているとその沈黙をどう捉えたのか、魔王は相変わらず威勢よく喋り続ける。
「くっ……フハハハ! そうかそうか、恐怖で動けぬか! よいよい、命まではとらぬ。いいかまずは食料を持ってこい!」
あまりに図にのった言葉に、ぼくは眼鏡を押し上げながら反論した。
「それ、人にものを頼む態度じゃないよね?」
「何だと?」
「食料が欲しいんだったら、何か食べ物を分けてくださいお願いします、でしょ」
それを聞いた途端、魔王は怒りに顔を歪めてわなわなと顔を震わせた。
「貴様っ、どうやら自分の立場がわかっておらぬようだな!」
「それはこっちの台詞なんだけど」
「『ファイア』!」
何か魔法の名前のようなものが宣言された。けど。
「…………」
「…………」
何も起きない。近所の子供たちが、友達とじゃれ合いながら元気に登校をする声が住宅街に響いている。
「ぬ? 何故だ! 『ファイア』!」
「…………」
「『ファイア』!『ファイア』!ならば少しためて……ハアアッ『ファイア!』」
ぼくの家の前を車や原付が行き交っているのをエンジン音で察する。普段は閑静な自宅周辺も、通学通勤のピークである今の時間帯は相応に騒がしい。
「『ファイア』!『ファイア』『ファイア』『ファイア』アアァァ……うおおおおん、何故だぁ……何故使えぬのだぁ……」
遂には泣き出してしまう魔王。あまりにもあわれ過ぎる光景に、逆に何を言ってやったらいいのかわからなくなってしまう。
「うぐっ、ひっく……さっきまでは使えたのにい……」
「えと、元気だしなよ。ほら、その内使えるかもしれないじゃん、ファイア」
「そうかなぁ、使えるようになるかなぁ」
「うん、きっとなるよ。だから元気を出してさ」
「ありがとう。お前、人間のくせにいいやつだなぁ」
魔王が少しだけ落ち着いてきたところで気付いたけど、今日は普通に学校がある日だし、そろそろ準備をしなければ。
「それじゃあぼくはそろそろ行くね。ご飯は後で持ってきてあげるから」
「あ、ありがとうございます。ファイアごときも使えない私に、食料をありがとうございます……」
まだ少し涙を流しながらそう言う魔王。そんなに使えないとまずい魔法なんだろうか……ファイア。ていうか今更だけど魔法ってなんだよ。
色々聞きたいことはあったけど、とりあえず朝食を摂らなければと、ぼくは踵を返してベランダを後にした。
部屋を出てリビングに入ると朝食の香りが鼻腔をくすぐり、食欲を駆り立てる。すでに妹がテーブルに着いて母さんはキッチンで洗い物やらをしていた。父さんはもう仕事にいったらしく姿は見えない。
これが山口家の標準的な朝食風景だ。
「のぼる、ご飯できてるわよ」
「うん」
適当に返事をしてから妹の向かいに座る。そこにはすでに僕の分の朝食が用意されていた。
本日のメニューを確認していると、正面から声がかかる。
「おはようございます、お兄様」
「おはよう」
腰にまで伸びる黒髪はウェーブがかかり、少し目尻の下がった双眸は穏やかにこちらを見つめている。
薄桃色の小振りな唇が静かに笑みの形を作っていた。
たった今挨拶をしてくれたのが妹である舞香だ。ぼくは彼女の前に置かれた朝食を眺めながら口を開いた。
「……舞香は今日もたまごかけご飯なんだね」
「はい、ご飯の中心に穴を空けて卵の黄身と醤油を注ぎ込み、一気に混ぜた上でその香りを楽しむのが私の日課なのでございます」
優しい微笑みを浮かべながらそう言うと、舞香は気品を感じさせる動作でたまごかけご飯の匂いを堪能し始めた。
舞香は昔母さんに読まされた古い少女漫画の影響で、喋り方や服装をその漫画的お嬢様のイメージに近づけようとする傾向がある。でもうちは所詮一般家庭、結局のところ色んなところが庶民派というギャップを生んでしまっていた。
セーラー服もスカートをやたらと長くしているせいで逆に目立つし、ぼくに似ず整った容姿も相まってちょっとした有名人なので、外ではなるべく一緒にいないようにしている。
まあそんなことはいい。早くご飯を食べて学校に行こう……そう思って箸を持ちいただきますをしてから目玉焼きをつまんで口に入れる。
それを味わいながら咀嚼していると、招かれざる客のことを思い出したのでキッチンにいる母さんに声をかけた。
「母さーん」
ぼくに背中を向けて洗い物をしながら応じる母さん。
「何ー?」
「適当につまめるものとかあるー?」
「何でー?」
「ベランダの植木鉢から魔王が生えてきてさー。お腹減ったって言うからー」
「まお……何てー?」
「だから魔王がさー」
そこで母さんは手を止めると、蛇口を閉めてタオルで手を拭きながらこちらに歩いてきた。
舞香は何があったのかと、ぼくと母さんを交互に見ながら首を傾げている。
「魔王って言ったの? あんた」
「うん」
「熱でもあるのかしら、やーねえ」
ぼくの体温を測ろうというのか、救急箱のある棚に向けて歩き出す母さんの背中に慌てて声をかけた。
「いやいや、後でぼくの部屋に行けばわかるから。とにかくさっさと魔王にご飯をあげて学校に行かないと遅刻しちゃうよ」
「しょうがないわねえ」
「ありがとう」
納得がいかない様子ながらも、とりあえずご飯は用意してくれるみたいだ。キッチンに戻る母さんの背中を見送ってから朝食に戻った。
ぼくが豪快にご飯と焼きベーコンを口の中に放り込んでいく一方で、舞香は小動物のようにちびちびと食べる。先に食べ始めたのにも関わらず、舞香の方が食の進み具合は遅くなってしまっていた。
朝食を食べ終えてキッチンに食器を運ぶと、サイドテーブルの上にあるお皿におやつ的なメニューが盛り付けられている。
その皿を持ち上げながら母さんに声をかけておく。
「ありがとう。じゃあ魔王に持っていってから学校に行くよ」
「後でお母さんにも魔王を見せなさいよ」
「わかってる」
踵を返して部屋に向かおうとすると、後ろから声がかかった。
「お兄様」
舞香だ。振り返ってそちらを見るともうご飯は食べ終わったらしく、手に何かを持ったままこちらに歩み寄ってくる。
「どうしたの?」
「私、魔王にご挨拶に伺いたいのですが、よろしいでしょうか?」
舞香の顔にはいつもの穏やかな微笑みが浮かんでいた。
魔王と聞いて挨拶をしようと考える女子高生なんて聞いたことがない。ぼくの妹は今日もぶっ飛んでいるみたいで安心した。
眼鏡を押し上げながら、釘を刺しておこうと口を開く。
「別にいいけど、早くしないと遅刻するよ」
「存じておりますわ。それでは参りましょうか」
「手に持ってるそれは?」
「『おじいちゃんのぼとぼと焼き』にございます」
「おじいちゃんのぼとぼと焼き」はロングセラーを誇る国民的駄菓子だ。どうやら魔王にあげるつもりらしい。食料をあげすぎて調子に乗ると何をしでかすかわからないのでよくないと思うんだけど……それをどう説明したものだろうか。
「あんまり餌付けしすぎると癖にならないかな?」
「まあ、魔王というのは犬なのですか?」
瞳を大きく見開く舞香。
「わからないけど、少なくとも犬ではないかな」
「では大丈夫です。参りましょう」
にっこり、と舞香は屈託のない笑みを見せてくれた。
舞香と接する時に重要なのは、何故そういった行動や発言をしたのかを深く考えたり本人に追及したりしないことだ。疑問を解決しようとすると新たな疑問が生まれ、余計に疑問が増えるという負のスパイラルにはまり込んでしまう。だから、ぼくはここで「何が大丈夫なのか」なんて聞いたりはしない。
舞香に背を向け、自室を目指して歩き出した。
自室前に到着してドアノブに手をかけたところで、舞香がご機嫌に、独り言のようにつぶやいた。
「どんな魔王なのでしょう。楽しみですわ」
何種類か魔王をみたことがあるのだろうかと、そんな喉元まで出かかった疑問をどうにか抑え込みながら扉を押し開く。
部屋の中も終始無言で突き進んでいき、ベランダに通じるガラス戸の前に到着。カーテンを開ける前にもう一度舞香の方を振り返った。
「ベランダに魔王がいるんだけど、危ないから迂闊に近づかないようにね」
「危ないのですか?」
首を傾げる舞香に、なるべく低めのトーンになるように意識して喋る。
「ああ、何でも今はファイアが使えないらしいんだけど……もしかしたらサンダーやブリザードは使えるかもしれない」
「まあ。それはきちんとしつけてあげなければいけませんわね」
ぼくの言葉そのものは理解してもらえたみたいなので、ベランダの方を向いてカーテンをよけると、ガラス戸に手を掛けて一気に開く。
「あっ、お疲れ様です」
すっかり大人しくなった魔王が挨拶をしてくれた。さっきのぼくの優しさが身に染みたのか、敬語になってしまっている。
「ご飯を持って来たよ」
「ありがとうございます。いやあすっかり腹が減ってしまって……ガッハッハ」
母さんが用意してくれた分を魔王に食べさせてやると、すごい勢いでおつまみが消えていった。本当に腹が減っていたらしい。
早く紹介して欲しいのか、ぼとぼと焼きを食べさせてあげたいのか。舞香が目を輝かせながらそわそわとしているので、立ち上がって手で示しながら紹介した。
「魔王。この子がぼくの妹だ」
「舞香です、よろしくお願いいたします」
ぼとぼと焼きを置き、スカートの裾をつまんで優雅にお辞儀をする舞香。すると魔王は途端に顔を綻ばせた。
「舞香様、というのですか。そういえばあの、あなた様のお名前は……」
「様付けまでしなくてもいいと思うけど。ぼくはのぼるだよ」
「のぼる様に、舞香様ですか。素敵なお名前ですな。ガッハッハ」
どうでもいいけど笑い方気持ち悪いな。可哀そうだから言わないけど。
「マオちゃん、こちらは私からのお近づきの印ですわ」
「これはこれはご丁寧に、ありがとうございます」
舞香は魔王の近くで屈みこむと「おじいちゃんのぼとぼと焼き」を袋から一枚取り出し、包装紙を取ってから食べさせてあげた。
「おいしいですか?」
「はい、とても!」
「それはよろしゅうございましたわ」
和む二人を眺めながら、ぼくは気になったことを尋ねる。
「舞香、マオちゃんってのはもしかしなくても魔王の名前?」
「はい。魔王だからマオちゃんですわ」
「そっか」
まあ、呼びたいように呼べばいいか。たしかに魔王魔王って名前を出すのも家族以外の人間がいる時にはやめた方がいいと思うし。
スマホをポケットから取り出して時刻を確認すると、もうすでに家を出ないとまずい頃合いになっていた。ガラス戸の方を顎で示しながら、舞香に告げる。
「じゃあそろそろ行こうか。魔王、ぼくたちは学校に行って来るよ。ファイアが使えるようになっても無闇に使わないようにね」
「学校……ですか、かしこまりました」
若干きょとんとしている様子の魔王。学校を知らないのかもしれない。そういえばまだこいつには聞かないといけないことが山ほどある。どこから来たのかとか、そもそもキャロラインはどこに行ったのかとか。
でも今はとにかく学校だ。ぼくはガラス戸に向かって歩き出す。
「ではマオちゃん、行ってまいりますわ」
「いってらっしゃいませ」
そんな二人のやり取りを背後に聞きながら学校に向かうべく家を後にした。
暖かく心地よい風が肌を撫でていく。桜の梢がすっかり緑になって、早くも春が過ぎ去ろうとしているのを感じる今日この頃。とはいえ気まぐれな気象のせいで、道行く人には薄着の人もいれば厚着の人もいたりする。
ぼくはと言えば上着を羽織らずに長袖のワイシャツを着ていて、舞香はセーラー服の春服だ。ちなみにうちの制服はブレザーでセーラー服じゃない。
舞香に何故セーラー服を着るのかと聞くと「学生と言えばセーラー服を着るものではないのですか?」ときょとんとされてしまい、さすがに校則違反だろうと教師に聞けば「まあいいんじゃないか? 山口だし」と言われてしまった。
世の中の理不尽さにあてられたのもあって段々どうでもよくなってきたので、それ以降ぼくは舞香の服装については触れないことにしている。
いつもの通学路を二人で並んで歩いていると、舞香が話題にあげるのは魔王改めマオちゃんのことばかりだ。
「放課後になったらホームセンターで色々買ってあげないといけませんわね……」
視線を宙に躍らせて何やら考え込んだかと思うと、舞香はぽんっと両手を合わせながら微笑んだ。
「そうだ、まずはお家を買ってあげるというのはどうでしょう」
「お家……小屋のこと?」
さすがにマンションとか一戸建てのことじゃないだろう。
「はい、あのままですと雨の日や風が強い日になると可哀そうですわ」
「うん。そうだね」
犬小屋の中にすっぽり収まった、魔王イン植木鉢を想像してみる。舞香の言っていることは一理あるけど、見た目的には余計に惨めになった気がするな。
未だに魔王が何なのかよくわかっていないけど、一度関わった以上は放置するのも気が引ける。舞香の提案には賛成だ。
「そうだね、じゃあ放課後にでも買いに行って来るよ」
それから他に買っておきたいものはないかとかを舞香に聞いていると、後ろから不意に声がかかった。
「あら、珍しいじゃない。兄妹揃って登校なんて」
振り向くと、良く見知った一人の女の子が片手をあげながら元気よくこちらに歩み寄って来ているところだった。
赤みがかった黒髪を後ろで結っていて、まなじりのわずかに吊り上がった双眸が爛々と輝きながらこちらを見据えている。
ぼくらに追いついて舞香の横に並んだその子が挨拶を口にした。
「舞香ちゃんに、のぼるも。おはよう」
「おはようございます、由美お姉さま」
「おはよう」
この子は近所に住む幼馴染の林由美。
普段舞香の相手ばかりをしていると、ぼくの周りで唯一まともな由美に会った時は十年来の戦友と再会したかのような安心感がある。
前を見ながら感慨にふけっていたら、由美がからかうような笑みを浮かべつつ、舞香越しにぼくの顔を覗き込んで来た。
「で、どうしたの? どうせ寝坊でもしたんでしょ」
ただでさえ兄妹で通学するのが恥ずかしい上に、舞香は目立つのでいつもは一緒に登校しない。だから由美がこういう風に尋ねて来るわけだ。
試しにありのままを話してみることにした。
「朝起きたらベランダの植木鉢から魔王が生えて来ててさ。ご飯とかあげてたらこんな時間になっちゃったんだ」
「…………そうなんだ。へえ~すごいねえ~」
由美は正面を向き、いかにもしらけたと言わんばかりに横目でこちらを睨んでいる。どうやらつまらないボケだと思われてしまったらしい。
そう、これだ。これが普通の反応なんだ。ぼくとしては挨拶をしにいきたいとか言われないだけでも非常にありがたい。
由美に対する安心感を募らせていると、舞香が彼女の方を向いて柔らかな微笑みを浮かべた。
「もしよければ、今度またうちに遊びにいらしてくださいな。きっとお姉さまもマオちゃんを気に入ってくださいますわ」
こちらを振り返って目線を合わせてくる由美。「マオちゃんって何? どういうこと?」と聞いているのだろう。
うちの妹と本当の姉妹同然に仲良くしてくれている由美だけど、それでも舞香の発言の意味がわからないことは往々にしてある。そんな時はこうやってぼくにこっそりとアイコンタクトなどで聞く、というわけだ。
けど、この問いかけに今のぼくが答えることは出来ない。それにはまず植木鉢から魔王が生えて来たという話を信じてもらないといけないからだ。一般的な女子高生である由美にそれは酷だろう。
恐らく舞香は、由美が魔王というペットの一種を嫌いだからしらけた態度を取ったと勘違いし、「魔王が嫌いでも、うちの魔王は好きになってもらえると思う。それくらいかわいいんですよ」と言っているんだと思う。
ぼくは静かに首を横に振る。すると由美は一瞬だけ、信頼していた仲間に裏切られた冒険者のような顔をしてから苦笑する。
「そ、そっか。じゃあ、次行った時に見せてもらおっかなぁ~」
「はい。お待ちしております」
それからはいつも通りの他愛のない会話を交わしながら進んでいく。そしてある十字路の手前まで来た時のことだった。
右側の通路の奥から何やら声が聞こえてきた。
「いっけな~い! 遅刻遅刻ぅ~!」
そしてそこから、食パンを口にくわえた女子高生が走って現れる。しかし。
「遅刻ぅ~……」
女子高生はこちらに曲がってくることはなく、ぼくの前を右から左へと走り去っていった。
立ち止まって食パン女子が消えていった方向を見つめていると、後ろから声をかけられる。
「お兄さま、どうなさったのですか?」
「いや、何でもないよ」
振り返ってそう返事をすると、舞香も由美も不思議そうに首を傾げていた。
悩み、というほどのことでもないんだけど、ぼくの周りではそこそこの頻度で今みたいなことが起こる。どういえばいいのか……「フラグが立ちそうで立たない」あるいは「出会えそうで出会えない」というべきか。
例えば漫画やアニメのラブコメで古風なワンシーンとして、女の子が食パンをくわえながら「遅刻遅刻ぅ~」と言いつつ走って、曲がり角で主人公と衝突するというのがある。そして出会いを果たし、物語が始まる……みたいなの。
ここで注目して欲しいのは、そもそも現実に食パンをくわえながら「遅刻遅刻ぅ~!」とか言って走る女の子なんていないという点だ。
しかし、ぼくの前には今のように、ラブコメの中にしかいないと思われていた女の子が現れる。現れるけど、出会えない。こんな感じで、不思議な出会いが果たせそうで果たせない謎の現象がここ数年で何件も発生していた。
初めてこれに遭遇した時は戸惑ったけど、今ではすっかり慣れてしまったので、特に気に留めることもなく再び学校に向かって歩き出した。
校門をくぐる頃にはHRの開始時間ぎりぎりになっていて、昇降口までの道のりは急ぎ足の生徒がそこそこに見受けられた。
部活の朝練を終えて校舎へと入る生徒。いつもこれくらいの時間に来ているのか遅刻も恐れずにのんびりと歩く生徒。
そんな校庭の風景の中を歩いていると、あちこちから声をかけられる。
「舞香ちゃんおはよう」
「おはようございます」
「山口さん、おはよ~!」
「おはようございます」
舞香は鞄の取っ手を両手で持ったまま、上品な所作で身体を折り曲げて挨拶を返していく。
「由美、おはよ!」
「おはよ~」
「由美ちゃんおはよう!」
「おはよう!」
同じように無数の挨拶が飛び掛かってくると、由美はそれにフリフリと小さく手を振りながら返していった。
「…………」
ぼくには一切声がかからない。何故なら友達がいないからだ。
「お兄さま、舞香はいつでもお兄さまの味方ですわ」
「わ、私もね……」
微笑む舞香と何やら頬をほんのりと赤らめた由美を眺め、二人は何を言っているんだろうかと考えている内に昇降口に到着した。
靴を脱ぎ上履きを履いて普通教室棟の方へと歩く。教室棟はわかりやすく一階が一学年、二階が二学年、三階が三学年のフロアだ。ちなみに僕と由美は二学年で、舞香は一学年だから、棟に入ってから階段の下で分かれることになる。
「それじゃまたね」
「ごきげんよう」
優雅に一礼しながら去っていく舞香を二人で見送る。ぼくは片手だけをあげて声は出さない。
踵を返し、階段を上がって二階へ。そのまま廊下を歩いて教室に入った。
朝の忙しい喧騒をくぐり、自分の席に着く。すると早々に話しかけてくるやつがいた。
「ようのぼる。元気か?」
「おはよう、岡田」
短髪というか坊主で背も低く、動物に例えるならサルっぽい顔をしているこいつは岡田。友達というほど親しくはないけどある程度は仲の良い同級生だ。
決して人気者ではないとはいえ、いじられキャラとしてクラスでの地位を確立しつつあって最近は少し調子に乗っている。でも基本的にはいいやつだ。
岡田はぼくの前の席に椅子を横にして座ると、早々に話題を切り出した。
「なんか今日転校生が来るらしいぜ」
「えっ、そうなんだ」
男かな、女かな、と考えていると岡田はそれを見透かしたように意地の悪そうな笑みを浮かべる。
「ちなみに、転校生は女の子だってよ」
「……そうなんだ」
あまり感情は出さずに机の下で強く拳を握った。
「あ、なんだ興味ねえのか?」
「いや、めちゃくちゃあるけど」
「そうか。そりゃそうだよな」
感情を隠した意味がまるでなかった。
間もなくチャイムが鳴り朝のHRが開始されることを知らせる。岡田は席を立ってぼくを見下ろしながら言った。
「転校生、可愛い子だったらいいな」
「だね」
そして岡田が自分の席に戻ったのとほぼ同時のタイミングで担任の先生が教室に入って来る。中肉中背で禿頭の中年男性、出島功先生だ。
出島先生は教壇に立って教室を一通り見渡すと、みんなが静かになるのを無言のまま待ってから口を開いた。
「えー、今日は転校生を紹介します」
途端に色めき立つ教室。一体どんな人なのか、男子なのか女子なのか、それぞれに期待を膨らませる瞬間だ。
「それでは琴吹さん、どうぞ」
出島先生の言葉と共に教室前方の入り口が開いて一人の女子が入って来た。
流れるような銀髪が窓から入る陽射しを反射して煌めく。すらりと伸びる手足はしなやかで、女優とかモデルだと言われれば信じてしまいそうだ。
その女子は背筋を伸ばして立ち、堂々とした佇まいで教壇からぼくたちを眺めながら自らの名前を口にする。
「今日からこのクラスに転入してきた琴吹彩音です。よろしくお願いします」
琴吹さんが丁寧に腰を折る中で、クラスは突然の銀髪美少女の登場に騒然としていた。
ぼくはと言えば、いや、銀髪美少女の転校生なんて現実に有り得るのかよ……という気持ちで一杯になっている。岡田の反応が気になってちらりと視線をやれば、こちらに向かって片目を瞑りながら親指を立てていた。
琴吹さんが軽い自己紹介を終えて先生にバトンを戻すと、先生は空席を探しているのか、教室をぐるりと眺めている。
「じゃあ、席は山口の隣……」
…………。
「と思ったけど、今日は石田が休みだからあの席に座ってくれ」
「はい」
だよね。何だかそんな気はしていた。でも石田さんは明日からどうするんだろう……まあいいか。
とはいえどこか納得いかない気持ちのまま、転校生が席に向かって歩いていくのを静かに見つめていた。
それ以降、特に変わった出来事もなくいつも通りに全ての授業が終了。今日は犬小屋を買いに行きたいんだけど、とりあえず部活に顔を出すだけ出さないといけないので部室に移動する。
部室は部室棟にあるので移動がめんどくさい。うちの校舎は普通教室棟と特別教室棟が向かい合うように立っていて、その間に昇降口がある「コ」の字型の形をしているんだけど、それに蓋をするように、少し離れた位置に部室棟がある。
階段を下りるとそのまま校舎を出て渡り廊下を歩いて行く。HRが終わった直後の今は部活動へ帰宅へと校舎内を移動する生徒でごった返していて、普段なら人混みが落ち着くのを待ってから移動しているところだ。
今日は早めに帰りたいからしょうがないかとため息をつきながら、ちょっとしたお祭り騒ぎのような喧騒をくぐっていった。
部室棟に入って階段を上がって三階へ。無機質に照明を反射するリノリウムの床を踏みしめながら歩き、部室前に到着。
そういえば、早過ぎて部室が開いていない可能性を考えていなかった。もしそうだったらどうしようと思いながら扉に手をかけると、簡単に開いてくれた。
「早いね、大山君」
「こんにちは、山口君」
人懐っこそうな、ふんわりとした笑みと共にぼくを迎え入れてくれたのはこの部でぼく以外の唯一の部員にして部長、大山駿君だ。
さらさらのミディアムヘアーに目尻の垂れ下がった優しそうな目。その中性的な顔立ちは服装の手伝いがなければ性別を判断することが難しい。ちなみに、一応男子だということになっている。
しかしこの大山君、ただの美少年ではない。
部室の扉を開けて中を覗くと、まず目に入るのは徹底的なまでの黒一色の風景。陽光はすべて暗幕に遮られ、室内を照らすのは昨今では見るも珍しい蝋燭数本の灯りのみ。
大山君の服装も制服ではなく、いや制服なんだけど、その上からまるでおとぎ話の中から持って来たかのような黒いローブを羽織りとんがり帽子を被っている。
そう、ぼくが入っている部活動……それは「暗黒魔術部」だ。
何故こういった部活に入ることになったのか、そのきっかけは約一か月ほど前、新学期が始まったばかりの頃に遡る……。
〇 〇 〇
(おい山口、ちょっと)
(はい)
(お前帰宅部だったろ。ちょっと入ってやって欲しい部活があるのだが)
(わかりました)
(そこを何とか……えっ、いいの?)
(場所はどこですか?)
(部室棟の三階の……)
〇 〇 〇
先生に強制的にちょっと風変わりな部活に入らされて、学校内でも噂の美少女と出会う。出会えそうで出会えない現象が続いているけど、、これなら確実に出会えるだろうし、もし違うなら入部しなければいい。
そんな甘い考えと期待のもとにここに来てみれば、そこには学園内でも噂の美少女ではなく美少年がいたというわけだ。おまけに部活は風変わりどころか少しだけ頭のおかしい感じだったっていう。
そして挨拶をすると「君が噂の山口君だね、顧問の先生から話は聞いてるよ」と邪気のない満面の笑みで言われて入部の辞退もしづらくなり今に至る。
と、今は回想にふけっている時じゃない。心苦しいけど、さっさと大山君に今日の活動に参加出来ないことを伝えなければ。
「大山君、悪いんだけど今日はちょっと用事があって部活には参加出来ないんだ。それだけ伝えようと思ってさ」
「あっ……そうなんだ。用事があるならしょうがないね」
少し寂し気な笑みを浮かべる大山君。ぼくが年上の女子だったら思わず抱きしめてしまいそうだ。罪悪感を覚えて彼から視線を逸らすと、何やらその背後に机の上にセットされた、怪しげなフラスコとアルコールランプが目に入る。
普段なら嫌な予感がして見なかったことにする代物だけど、気まずい雰囲気も手伝って、気付けばぼくはそれに触れてしまっていた。
「あのフラスコは?」
「ああ、もう少しで新しい実験が完成しそうなんだ。だけどトカゲの尻尾が手に入らなくて」
実験というのは暗黒魔術が成功するかどうかの実験だ。ぼくも暗黒魔術が何かは良く知らないんだけど、とにかく現代にそんなものがあるわけはないので、成功したことは一度もないらしい。
それでも現代に暗黒魔術を再現をしようと、ひたすらに使えるかどうかの実験をするのがこの部の主な活動内容だ。
「トカゲの尻尾?」
「うん。山口君、もし見かけたら持って来てくれない?」
「わかった」
あまり深く考えずに承諾してしまったけど、それはトカゲを見かけたら尻尾を強奪して来いということなんだろうか。
その後別れの挨拶を交わしてすぐに教室を後にした。
サッカー部や陸上部、野球部など各種運動部が青春の日々を過ごす様子を眺めながら校庭を横切っていく。岡田がいるかなと野球部の練習風景をじっと見つめてみたけどいなかった。野球部員じゃないんだから当然だ。
学校を出ると、いつも歩いている通学路とは違うコースへと進んで街に出る。道を行き交う人はそんなに多くなく、昼とも夕方とも言えないこの微妙な時間帯の街はどこかのんびりとしていた。
途中でコンビニに寄って、お金を下ろしてからホームセンターへ。
繁華街からは少し離れた場所にある、駐車場が広々としたこの店は日曜品や大工用品から食料、そしてペット用品まで品揃えが豊富だ。ペット用品のコーナーはそこまで広くないけど、特にこだわりがないぼくには充分だろう。
しかし、犬小屋を前にしてぼくは腕を組んだまま固まってしまっていた。
意外と高いな……犬小屋ってこんなにするのか。一応多めにお金を持って来たから買えないこともないけど、まさかそのうちほとんどを使うことになるなんて思ってもみなかった。
魔王用だし後で親にお金を出してもらえることを願って、ここは腹を括ろう。
レジまで商品カードを持っていって、郵送で送ってもらった。到着は早ければ明日といったところだろう。
他に特に用事もなかったので、それだけ終えると早々に家路についた。
家にはまだ誰も帰っていなかった。舞香は部活だし、母さんはパートか。
魔王の様子を見るべく、まっすぐに自室へ。静かな家の中に木製の床を踏みしめる自分の足音だけが響き渡る。
部屋に入るとすぐにカーテンを開けてガラス戸を引き開けた。
「のぼる様、お疲れ様です」
「やあ」
やっぱりいた。これは現実であって夢じゃなかったんだと改めて認識する。
「お腹空いてる?」
「少しだけ……」
どこか申し訳なさそうに俯きながらつぶやいた魔王へ、コンビニで買ったお菓子を食べさせてやる。
「ありがとうございます。……ふむ、中々に美味な菓子ですな。私たちがいた世界にはないものです」
「そっちではどんなものを食べてたの?」
「肉全般、特に人間の血と肉、魂は美味でしたね」
「やけに物騒だな」
私たちがいた世界、か。当たり前だけど、やっぱり魔王はここではない別の世界からやって来たみたいだ。少し掘り下げてみよう。
「魔王はどうやってこっちの世界に来たの?」
「勇者と戦い、敗北しそうになって適当に別の世界へと飛ぶ魔法を使ったのですが……なぜかこのような状態になってしまいまして」
「そっか」
聞いたところでまぬけな魔王だな、という感想しか浮かんでこない。それを直接口に出すのは気がはばかられるので、話題を変えることにした。
「そういえばさ、暗黒魔術って知ってる?」
「はて、知らないですね。『魔法』と少し響きが似ているような気もしますが」
「魔法……朝使おうとしてたファイアがそれ?」
「そうです。それがどうかしましたか?」
「いや、学校にその暗黒魔術ってのを好きな友達がいてね……」
「ほう、中々やりますな」
中々やりますな? 不思議な相槌をうたれてしまった。
話題に出したことで大山君の顔が脳裏に浮かぶ。そう言えば彼からとかげの尻尾を拾ってくれと依頼されたんだったか。適当に承諾してしまったものの、あの中性的な美少年の笑顔を守らねばならないと、魔王に相談してみることにした。
「あのさ、魔法でとかげの尻尾を召喚出来たりしない?」
「出来ません」
「それもそうか……」
そんなに都合よくことが運ぶはずもない。自力で探すしかないかと、諦めて話を終えようとした時だった。
「とかげの尻尾が必要なのですか?」
魔王が話題を掘り下げて来た。どういうつもりかと内心では不思議に思いながら返事をする。
「え、うん。その暗黒魔術の実験とやらに必要らしくてね」
「ふむ……」
相変わらず頭部だけを植木鉢から出しながら、真剣な顔で思案する魔王はやがて驚くべきことを口にした。
「とかげを召喚することは出来ませんが、のぼるさまの元にとかげが来るよう、呼び寄せることは出来ます」
「それはやめて欲しいんだけど……どう違うの?」
「私の使える魔法の原則は基本的に『等価交換+α』なのです。すでにあるものを少しだけいじる、という感じですね。例えばファイアは、空気中の成分を少しだけいじって火を発生させるものです」
「うん」
「ですから何もないところからとかげを発生させることは出来ませんが、すでにいるとかげがのぼるさまに近付くよう、運気みたいなものをいじることは可能というわけですな」
「へえ。それはそれですごいな」
とりあえず返事はしたものの、話が現実離れし過ぎて正直よくわかっていない。すごいことには違いないと思うけど。
そこまで喋ったところで、魔王は突然にしゅんとうなだれた。
「ですが朝に見てもらった通り、今の私は魔法の使えない家畜以下の雑草野郎ですので、それも出来るかどうかはわかりません」
「…………」
どう返していいものかわからない。正直雑草も頑張って生きてるから雑草に謝って欲しいところだけど、今の魔王にそれを言う気にはなれなかった。
とりあえず励ましておくことにする。
「まあ、魔法だって何かのせいで朝使えなかっただけかもしれないし……試すだけ試してみたら? その、とかげを呼び寄せるやつ」
「そうですね。ちょっとやってみます」
そう言って、魔王は瞑目して頭をぷるぷると震わせ始めた。そしていきなりカッと目を見開き、
「ふんぬらばっぱ、ぽっぽらぽ! ハァッ!」
それだけ叫ぶと、ぼくを見ながら固まってしまう。
「突然どうしたの?」
「のぼるさま、私、魔法が使えました!」
「えっ」
「とかげをのぼるさまに呼び寄せる魔法の使用に成功しました。恐らく、近いうちにのぼるさまの前にとかげが現れると思います!」
「普通に嫌なんだけど」
まさか本当に使えるなんて。ぼく虫苦手なんだよな……それに、他にもツッコむべきところがたくさんある。
「何で魔法が成功したってわかるの?」
「のぼるさまの身体に私の魔力が纏わりついたからです」
「言葉の響きが気持ち悪い」
「申し訳ありませんが事実ですので。もしかするとのぼるさまの仰る通り、朝には魔力が尽きていただけで、食料をいただいた拍子にそれが回復したのかもしれませんなあ。がっはっは」
「…………」
元気が出たようで何より。話が一段落したところで、ぼくは部屋に戻ることにした。
「それじゃまた後でご飯持ってくるから」
「かしこまりました」
これまでで一番元気な魔王の返事がとても印象的だった。
昨日はあれから母さんと父さんに魔王を紹介した。母さんは「あらまあ」くらいしか言ってなかったけど、父さんは未だに信じられないらしく、会社に行く前に病院によるらしい。自分の頭がおかしくなったと思っているみたいだ。
朝食を食べて準備を整えると、一人で家を出た。舞香は魔王が大層気に入ったらしく、今日も食べ物をあげてから来るらしい。
いつもの通学路を歩いていると後ろから声をかけられた。
「お、今日は早いじゃん」
「そっちこそ」
振り返ると由美がとてて、とこちらに走り寄ってくるところだった。彼女はぼくの隣に並ぶと早々に話を切り出してくる。
「で、昨日のあれは結局なんだったのよ」
「昨日のあれって?」
「魔王がどうのこうのってやつに決まってるでしょ」
少し怒ったようにこちらを睨む由美。けどそんな態度に慣れっこなぼくは、慌てることもなくゆっくりとこの場面をどうするか考えた。
正直に話したってまた呆れられるか余計に怒らせてしまうだけだ。ここは一つ、嘘をついて誤魔化すしかないか。
「一昨日の夜に野良犬を拾ったんだよ」
「へー! なになに、どんな犬? 種類は?」
まずい、何かめっちゃ食いついて来た。こちらを見る由美の目がきらきらと眩しく輝いている。
そういえば由美、犬好きだったっけ……猫とかにしておくべきだったな。犬の種類とかよくわかんないし、何だっけあのゴールデン、ゴールデン……。
「ゴールデンラブラドール」
「何その無駄にゴージャスそうな犬種。ゴールデンレトリバーかラブラドールじゃないの?」
「ああ、それそれ。ゴールデンレトリバー」
取り繕うように、けど表情を変えないようにそう言ったぼくを、由美は特に疑うでもなく前を向いた。
「ふ~ん、ゴールデンかぁ。で、それと魔王ってのがどう関係あんのよ」
「その犬がかなり魔王っぽかったんだよ。それで舞香が『マオちゃん』とか名前を付けっちゃってさ」
「どういうこと?」
途端に眉をひそめる由美。ぼくも自分で言ってて意味がわからないのだから当然の反応だと思う。それでも何とか押し切るしかない。
一瞬嘘を吐いたのは申し訳ないけど、信じてもらえないから話さないのであって別に隠しているわけじゃないんだから、要は家まで誘導して実際に見てもらえばいいんだ。
「とにかく、今度家に見に来てよ。そしたらわかるから」
「何か怖いんだけど……わかった。今度学校帰りにでも行こっかな」
若干引きながらも承諾してくれた。かと思えば、由美はそっぽを向きながら頬をほんのりと赤らめて言った。
「でも、のぼるから家に誘ってくれるなんて珍しいねっ」
「えっ、何か言った?」
そっぽを向いてるせいでよく聞き取れなかった。
間抜けなぼくの言葉に反応して由美が「だからさ……」と言いつつこちらに顔を向けた、その時だ。
「あっ」
たまに食パン女子の現れる十字路の真ん中にとかげの尻尾らしきものが落ちているように見える。そんなバカなと思い、走り屈みこんで間近で見てみると、どうやら本当にとかげの尻尾らしい。
「どうしたの?」
そう言いながら、由美が背後からこちらに歩み寄る気配がする。ぼくがそちらに振り返って説明をしようと立ち上がると。
「いっけな~い! 遅刻遅刻ぅ~!」
いつも食パン女子がやってくる側の通路から、あのフレーズが聞こえて来た。こっ、これはまさか……。
次の瞬間、強烈な衝撃と共に「きゃっ!」という黄色い悲鳴があがる。
よろめいたぼくが体勢を立て直してそちらを見ると、あの食パン女子が尻もちをついて「痛たぁ~」と言いながら「まる見え」の状態になっていた。
ぼくがようやく果たせた出会いの衝撃で呆然と突っ立っていると、食パン女子は何かに気付いた様子で「隠し」ながら慌てて立ち上がり、
「何見てんのよ、サイテー!」
と、やはりお決まりの文句を口にしながら走り去って行った。
これでいつか食パン女子がうちに転校して来たり、あるいは街中で買い物とかしてる時にばったりと会って「あの時の覗き魔!」とか言われるに違いない。
あれこれと放課後に立ち寄る場所に思索を巡らせながらほくそ笑んでいると、ぼくの正面で呆気に取られていた由美がまたも若干引いていた。
「なに女の子のぱんつ見てにやにやしてんの? 気持ち悪っ」
「ああ、由美。これは違うんだよ」
「何が違うの?」
ぼくは眼鏡を押し上げながら決め台詞っぽく言った。
「ぼくはね、ようやく運命の出会いを果たせたんだ」
「は?」
「これからぼくを主人公にしたラブコメが始まるんだよ」
「そのラブコメってのはよくわかんないけど……なにあんた、運命の出会いを求めてたの?」
「そんな感じかな」
「…………」
これまで出会えそうで出会えなかったけど、どういうわけかようやく出会えた。こうなってしまえば後はこちらのものだ。あの食パン女子を初めとして、数々のラブコメ的出会いを果たし、すぐに彼女も出来るだろう。
何故なら、ぼくはいわゆる鈍感難聴主人公ではないからだ。
ラブコメがいつまで経ってもヒロインとくっつかないのは、物語の都合で主人公が鈍感で難聴にさせられているからだ。その点ぼくは違う。女の子の好意にはすぐ気付けるし、自分に都合の良い言葉も聞き逃したりはしない。
「運命的っていうんなら、近くに幼馴染がいるじゃん……」
「えっ、何か言った?」
「何でもない!」
由美は何故か急に不機嫌になって先に行ってしまった。
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