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忠珍鱈

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そんな地獄過ぎる初体験により、駈がセックスに対して求める理想は著しく低くなってしまった。しかも、それによって様々な弊害も生まれてしまった訳だが……とにかくそれ以来、駈は一度たりとも、自分自身の手で身体を慣らさずに事に臨むなんてことはしなかった。

もちろんそれには危険回避という目的もあったが、それ以上に……ただ、怖かったのだ。
はじめから、相手に全て委ねきってしまうこと――駈にとって、それは何よりも耐え難いことだった。


駈の背中に嫌な汗が流れ落ちる。
だが、英は駈の訴えを聞いているのかいないのか、そのシンプルな外観の箱を包むフィルムを剥がすと、中からその一つを取り出す。
英はそれをまじまじと見ながら、「入るかな……」などと抜かしていた。

「おい、マジでこのままする気じゃないよな……?」
「……」
英の反応はない。

もちろん、英が男のような凶行に及ぶとは到底思えなかったが……その興奮に曇った目は、否が応にも駈にその日のことを思い起こさせた。

駈はもう恥も外聞もかなぐり捨てて、英へと縋りつく。

「なぁ、俺ほんと、なんだよ……」
「……」
「英……っ」

と、その悲痛な声がやっと耳に届いたのか、英の顔がはっと駈へと向けられる。そして、その欲に染まった眼がだんだんといつもの澄んだ色へと戻っていく。
その様子に、駈はホッと胸を撫で下ろしたのだが――

目の前の男は、また駈から顔を背けると、すうっと息を大きく吸い、それを倍以上の時間をかけて吐き出した。
興奮を落ち着けようとするその動作を、駈はただ黙って見ていたのだが……突然、その片手が大きく振り上げられる。

あっ、と思った次の瞬間。

車内に響き渡る、バチン、という激しい音。
振り下ろされたその手は、その勢いそのままに、英自身の頬をしたたかに打ち据えていた。

「わっ! おま、何やってんだよ!!」

駈が慌てて彼の手を掴む。
英は「痛った……」と目を瞑って呻いていた。
駈はそこへと顔を寄せる。商売道具の一つでもあるというのに、そこは既にすこし腫れてきていた。

英が突飛な行動を取って駈を仰天させるのは今に始まったことではないが、流石にこれはやりすぎだろう……と、駈はその頬に水の入ったペットボトルをそっと押し付けながら咎める視線を送る。
だが、英の方はその行動のおかげで、やっと冷静さを取り戻せたらしかった。

「ごめんな、駈」

まだ少し目を潤ませたままの駈に、それよりよほど涙目の英はそう言って肩を落とした。

「俺、最低だな……駈の嫌がることはしない、って決めてたのにさ……」

「……」

(…………ん?)

駈は危うく、心の中の声をそのまま出してしまいそうになった。


英との情事の最中、この男が一体何をしでかしてきたのか――駈はこれまでのあれこれを高速で振り返り、やはり「何を言っているんだ?」という顔で彼を見た。

駈はつい口癖のように拒絶の言葉を吐いてしまうことがあるにはあるのだが、中には本当に死ぬほど恥ずかしくて、頼むからやめてくれと思うことも何度かあった。
だがそうやって泣きべそをかく駈に、何の根拠も無しに「大丈夫!」と力強く言い切り、結局は自分のしたいようにしてしまう――それが英という男だった。

ただ、最大限譲歩してやるとすれば……確かに英は、最後の最後、絶対に踏み込んでほしくないその一線を乗り越えることだけは決してしなかった……気がする。


「ごめん」

もう一度落とされた言葉に、駈は首を振る。

「ん……別に」

英が自らに加えた制裁と、彼の今までの行動に免じて、駈はズッと鼻をすするとぶっきらぼうにそう呟いた。


車の中は二人の吐き出した呼気と上がりまくった体温のせいですっかり熱が籠り、窓ガラスは白く曇ってしまっていた。
それが、さっきまでの二人の欲に塗れた時間をそのまま表しているようで、駈は見ていられず顔を背けた。

「駈」

シートから少し身体を起こした英が、静かにそう名前を呼ぶ。

「……何だよ」

声の方へと振り向けば、英は今日一番の真摯な顔で駈をじっと見つめていた。

「ここでは、しない。それは約束する」

英は誓いを立てるように、駈の頬へと片手を添える。
駈もまた、その大きくて温かい手に自分の手を重ね置いた。

英のシャープな輪郭が、差し込んできた月明かりに冴え冴えと浮かび上がる。
だが、その瞳の奥には、駈を再び飲み込まんとする情熱的な炎が立ち上り始めていた。

「英……」

目を合わせているだけで、駈の身体もまた煽られ昂っていく。

ゆっくりと近付いてくる顔に、駈は懲りずに高鳴り出した胸を押さえながらぎゅっと目を瞑った。

……が、すぐにでも感じられるはずの柔らかい感触が、いつまでたっても訪れない。
駈が目を開けると、英は駈の寝そべるシートの下に落っこちていたあの小さな箱を拾い上げるところだった。

「英……! お前、約束――」

駈は英にそう噛みつこうとしたのだが。
その続きが出るより、英の唇の方が早かった。

「ん……ン、ぁっ……」

宥めるようなキスなのに、英は駈が悦ぶところを的確に押さえてくる。駈はこれ以上絆されてなるものかと目を吊り上げた。

そんな駈は想定の範囲内だったのか、英はあっさりとその唇を解いた。

「もちろん、ここでしないよ」

英はもう一度、念押しするように駈へと語り掛ける。
その表情はやはり至って真面目だったが……そのもの言いに、駈はピクリと眉を跳ね上げる。
なんだか、妙に引っかかるような――

「でもさ……手でするなら、いいでしょ?」

英はそう囁いてそのまっすぐな眉を寝かせると、イケメンだの何だのと褒めそやされる端正な顔をこてんと傾けた。
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