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忠珍鱈

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……というのが、今からほんの一週間前の出来事である。

別に隠しているわけではなかったが、とりたてて触れ回りたいことでもないし、まだ残務処理で普通に職場にも顔を出しているため、知っている人のほうが少ないはずだった。

「その話、どこから……」
すぐに思い当たったのが英だったが、山潟が出した名前は予想外のものだった。
「お前のところの瞬太から聞いてさ」
「瞬太?」
耳馴染のないその名前に眉を寄せる。山潟は即座にその男の名字を付け足した。
「瞬太……藤河瞬太。知っているだろ?」
「あっ……!」
その様子に、山潟はにっこり笑いながらあご髭を撫でた。
「あいつ、俺の大学時代の後輩なんだ」

「もう、大変だったんだよ~、あいつに泣きつかれてさ」
コーヒーを一気に啜った後、山潟はそう言って大げさにため息を吐いた。
「泣きつく? あいつが?」
あまりに似つかわない単語に、思わずそんな言い方をしてしまう。
というのも……つい先日、退職の話を直接伝えた際の彼は、いたって普段通りの様子だったからだ。

その日、エレベーターホールで行き会った藤河を、駈はいつものカフェへと誘った。
数日前まで目の下に隈を作っていた彼は、とうとう修羅場を抜けたらしく、その顔にはいつもの元気さが戻ってきていた。
今しかない、と、駈は例によって死ぬほど甘そうなフラペチーノを啜っている男へと向き直った。

「……」
藤河は黙って駈の話を聞いていた。
そして、話が終わった後、
「少し寂しくなりますが、頑張ってくださいね」
そう言って爽やかに微笑んでくれたのだ。

駈が話している間中、山潟は肩を震わせながら吹き出しそうになるのを堪えていた。
そしてそれが落ち着くと、今度は「あいつは本当にまったく……」とやれやれと額に手をやる。
山潟は薄くなってきたコーヒーをずず、と啜ると、ニヤリと口角を上げた。
「それはな……樋野、お前の前だからだよ」
「……?」
駈が首を傾げると、山潟はさらにニヤニヤとしながらまたあご髭を撫でた。
「そりゃさぁ、憧れの人の前でみっともない姿は見せられないだろ」
「……え?」
「あいつな、お前がいたからあの会社に入ったぐらいなんだぜ」

駈はまたもや目を見開いた。

「え、何で俺……?」

思い当たる節もなく、逆に不安を募らせている駈に、山潟は「それも言っていないんだな」と苦笑した。
「お前があの会社に入ってすぐに関わったゲームがあっただろ?」
「……」
駈は今となっては昔のことになってしまったその当時を振り返る。
だが、そのタイトルは苦労せずともすぐに思い出すことができた。念願のクリエイター職に配属され、初めて担当したゲームだったからだ。
「ああ、○○のことだよな? あのRPG系のシュミレーションの……」
山潟は「ああ、それそれ!」と人差し指を立てた。
「瞬太はそれの大ファンだったらしくてな。いよいよ就活って段階でちょうどその話が出てきて、そのサウンドクリエイターが同級生だって漏らしたら、自分もそこに行くって言い出して……」

明かされたまさかの事実に、駈はポカンと口を開けることしか出来なかった。

「まったく、本当は俺の会社に引っ張るつもりだったのにさぁ」
ため息交じりに吐き出されたその言葉に、駈は意識を戻す。
「……お前、会社持ってんのか?」
そう問いかけると、山潟は「ああ!」と元気に頷く。
「大学を出て、三年ぐらい普通にサラリーマンやって……その後に立ち上げたんだ」
「へぇ……凄いなぁ」
素直にそう言うと、山潟は「いや……単純に、勤め人が向かなかったのさ」と笑った。

そして、徐に胸元からシルバーのケースを取り出すと、名刺を一枚、テーブルに置く。
差し出されたそれを覗き込み、駈はバッと顔を上げた。
「お前、ここの社長だったのか!」
直接関係したことは無かったとは思うが、ゲームに限らず色々なサウンド関連の仕事を取り扱っているそこは、最近あちこちで目にするようになってきた会社だった。
「一流企業の社員に知ってもらえているなんて光栄だな!」
普通なら嫌味に取られかねないその言葉だが、その快活な笑顔と山潟の人となりを知っているため、駈はいちいち突っかかったりはせず、「もう辞めるんだけどな」と笑って首を竦めた。

「……で、これが今日、君を呼び出した理由なんですが」
山潟は突然、そうかしこまると、その表情を引き締める。さらに、その机の上の名刺をずい、と駈の方へと押しやった。
そして、今まで見たこともないような真剣な顔で駈を見つめた。
「樋野、よかったらウチで働かないか?」
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