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忠珍鱈

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翌日のことだった。

表面上はいつも通り業務をこなしていた駈だったが、やはり昨日の諸々で疲れがたまっていたらしい。

目頭を揉みながら席を立ち、ブースの皆に声を掛ける。
「休憩行ってきます」
立ち上がりながら羽根田の様子を見やる。
彼もまた普段通りにパソコンに向かっているようだったが、その表情は暗く沈んだままだった。


足早にビルの外へと出ようとして、一つ目の自動ドアを過ぎたところで足を止める。
「……」
朝方から大分怪しい空模様だったが、とうとうぽつぽつと雨が降り出してしまっていた。
傘も無く、歩いて数分とはいえいつものカフェへと向かうのもなぁ……と、駈はビル横にある自販機へと向かうことにした。


「やあ、お疲れ様」

取り出し口に手を突っ込んでいると、後ろから声を掛けられる。
振り向くと、そこにいたのは駈の前任者の男だった。

駈より十歳ほど年上のその男は、身体に張り付くようなサテン地のベストに細身のスラックスという、この職場にしては少し堅い――というより、妙にきまった恰好で髪をかき上げた。

「ああ、お疲れ様です。先日は色々と教えて頂いて」
軽く頭を下げながらそう言うと、男は「いやいや大したことは」と笑って見せた。

「それより……なにやら随分と大変なことになっているねぇ」

男は手にしていた缶を捨てると、「吸っても?」と煙草の箱を取り出した。

自販機の隣は簡易的な喫煙スペースになっている。肩身の狭い愛煙家たちがよくたむろしているそこは、この天候のためか男の他は誰もいなかった。

この場所でそう言われては断る訳にもいかない。
面倒な奴に捕まったな……と思いながら、駈は屋根の下でコーヒーのプルタブに指を掛けた。
男は箱を振って一本を取り出し火をつけると、目を瞑ってそれを肺一杯に吸い込んだ後、ふーっと長く煙を吐き出した。

「気を悪くしたなら謝るよ。ただ、黙っていてもいろいろと噂は聞こえてくるものでね。まったく、君も配属されて一年そこそこで引責とは、運が悪いというか……同情するよ」
「……」

駈の握りしめていた缶が小さい音を立てて凹む。流石に彼の言葉を額面通りに受け取る奴はいない。

駈は缶の中身を無理やり喉へと流し込むと、何とかその表情を繕った。
「いや、同情だなんて……」

すると男はまたふうっと煙を撒き散らすと、大げさなほどに悲痛そうな顔をした。

「だって……僕がいた頃にはそんなこと、一度も起こらなかったんだよ?」


こいつは何が言いたいんだ――そんな激しい苛立ちが募る。

こんな所にいるのは時間の無駄だと、駈はわざとらしく時計を確認する。
「すみません、そろそろ仕事に――」
そう言って踵を返そうとする駈に、男は構わず話を続けた。

「今だから言うけどね……僕は正直、異動には乗り気じゃなかったんだよ。でも、あのやり手の部長の肝煎りだっていうから、君への期待も込めて了承したわけだけど――」

部長の名前に、つい足を止めてしまう。
駈のその反応に、男は口元を醜く歪めた。

「でも……期待っていうのは往々にして裏切られるものだよね」
「……」

駈はきつく奥歯を噛み締める。

自分がどう言われようと別に構わない。
だが、この男はさっきは羽根田、そして今度は遠回しに時田部長のことまで貶しているのだ。


「失礼します」

雨はさっきより格段に強まり、スペースから一歩踏み出した駈の身体をあっという間に濡らしていく。

「ああ、待ってくれないか」
と、雨の中の駈を男は呼び止める。

「一つ伝えておこうと思ったことがあってね。君……僕と配置換えになるらしいよ」
「……!」
駈が振り返ると、男は煙の中でニヤリと笑った。

「営業、は初めてだろう? まぁ、飛び込みではないし、行くところもすることも全部決まっているからそう心配はいらないよ。何より……向こうには尻ぬぐいさせられるような部下もいないしね」

悪意を隠そうともしない挑発めいた言い回しに、乗ってやるもんかと思うも怒りが沸いて止まらない。
身体は完全にずぶ濡れになっているというのに、その冷たさも不快さも最早感じられなかった。


「……アドバイス、ありがとうございます」

そうとだけ告げて今度こそ走り出す。
そんな駈の背中に向かって、男は声を張り上げた。

「同僚の皆に、またよろしくと言っておいてくれるかな」


駈はもう振り返ることは無かった。
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