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司祭の思惑
手籠めの足がかり
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隣で動く気配がして意識が覚醒する。
眠気の残る瞼を開ければ、いつもの変わらぬ寝室の天井が見える。
数回ほど瞬きをして、視界の隅にサナの存在を捉える。
普段はきりりとした眉を八の字に下げ、決まりが悪そうに俺を見つめ返していた。
珍しい表情を見れたことに喜びを感じつつ、彼女の頬に手を伸ばす。
掌に冷えた彼女の頰が触れた。
片目を瞑るだけで、特段嫌がる様子もなく大人しくしている。
「おはよう、サナ」
「おはよう、ございます」
朝の挨拶を返した彼女の声は昨日の酒でカサついていた。
想定していたよりも酒のダメージが残っていたようで、少なからず顔に出てしまうほど驚く。
水でも取ってきてやろうと上体を起こすと、サナも慌てて体を起こそうとして呻き声を漏らした。
「いててっ……」
弱音を吐かない彼女がポツリと痛みを呟いて腰を摩る。
泥酔するまで飲ませたことに今更罪悪感が込み上げてくる。
と、同時にベッドシーツが捲れた彼女の姿から目を逸らす。
彼女の傷痕に混じって独占欲の赤い証が首を中心に存在感を放っている。
調子に乗って付けたその痕は、清らかな朝には似つかわしいほどに生々しい色香を伴っていた。
昨日の夜は結局彼女の体を洗った頃になって女性用の寝巻きを持っていなかったことを思い出したのだ。
色々と悩んだ挙句、部屋の暖房を稼働させて毛布を被ればいいという結論に至った。
それが今、かなり裏目に出ている。
好きな人が艶かしい姿で隣にいるとなれば反応してしまうのが男の性。
これ以上隣にいては理性が霧散してしまうので、さりげなくベッドから抜け出してクローゼットを漁る。
「今水を取ってきてやる。服は……俺のでいいか」
女性用の服を貸そうかとも思い至ったが、前に貸した時の反応を見る限り却って気を遣わせるだけだと判断して自分のシャツを渡す。
水差しとコップを持ってくる頃には彼女は起き上がって着替え終えていた。
二日酔いの頭痛がひどいようで、呻き声を上げながら頭を抱えている。
彼女のためにコップに水を注ぎながら、視界の端に入る艶かしく眩しい太腿の存在に心の中で毒づく。
シャツを着せたのは間違いだったと認めざるを得ない。
ぶかぶかで余った袖を腕まくりしていることで細い二の腕は見えるし、裾は太腿を覆うが街で見かけるワンピースよりも短い。
サイズの合わないシャツは首元までボタンをしめているというのに首筋は惜しげもなく曝されている。
当然、昨日の痕も丸見え。
おまけに俯いているものだから、なだらかな陰影を持つ鎖骨に目が吸い寄せられてしまう。
「水は一人で飲めそうだな」
「わざわざありがとうございます」
差し出したコップを両手で受け取るという何気ない仕草さえ、今の格好のせいで妙な色気を感じている自分に呆れ果てる。
もし彼女の体調が悪くなければ朝から襲いかかるところだった。
「あの、カインさん。家にお招きいただくだけでなく、泊めてもらって本当に感謝しています。お酒に慣れてきたつもりだったんですが、まさかエールとワインの一杯でこんな風になるまで酔っぱらうなんて……迷惑、でしたよね?」
「ああ……いや、気にしなくていい」
伏し目がちにサナが空になったコップを見つめていた。
彼女のサラサラとした黒い髪が重力に従って肩から滑り落ちる光景に俺は思わず目を細める。
どうやら昨日の夜の記憶はほとんど残っていないようだ。
恐らくワインを飲み終えた前後の記憶がないのだろう。
そうだと仮定すれば、無理やり引き留めた俺に対して律儀に感謝したのも頷ける。
ほんの少しだけ抱いたことが記憶に残っていないことに寂しさを覚えたが、その感情すら彼女を見つめているうちに消えてしまう。
先ほど水を取りに行った時に確認した限り、外は一面白銀の世界と化している。
窓の淵まで高く積もった雪の中を帰ろうとするなら『雪が溶けるまで』と口実をつけて引き止めることができる。
やはり、これは神の導きなのだ。
時間の許す限り彼女を愛し尽くせば、きっと彼女は振り向いてくれるだろう。
その為には彼女の回復が最優先だ。
「朝食の準備をしてこよう」
「あ、手伝い……うぐっ!」
「暫く休むといい。朝食はオートミールでも構わないか?」
「はい、ありがとうございます」
リビングルームの暖炉に火をつけて部屋を暖めている間、キッチンで手早くサナの為に朝食を準備する。
二日酔いならオートミールの方が食べやすいだろうと思い、用意していると寝室から物音がした。
振り返れば、壁に手をつきながらサナがふらふらと危なっかしく移動している。
「ベッドに横になっていても良かったんだが……手を貸そう」
「あああ、手を煩わせて本当にすみません」
彼女の体を支えながらソファーへと連れて行き、大人しく座るように釘を刺す。
まだ本調子でない彼女のために水差しとコップもついでに持ってきてやる。
「あの、カインさん。昨日私が着ていた服は……?」
「それなら雪で濡れていたから洗濯している」
「洗濯……って、魔法式洗濯機を持ってるってことですか!?」
「浴室の横に扉があっただろう。そこに置いてある」
サナは頭を抱えて呻き声を発する。
服を勝手に洗濯したのは不味かったのだろうか?
念のためにポケットに大事なものが入っていないか確認してから洗濯を開始したのだが……。
どう謝罪を切り出したものかと考えていると温めていたミルクが沸騰し始めたので慌てて火を止める。
謝罪は食後でいいかと思い直してボウルによそって彼女の前に置く。
「できたぞ」
「ありがとうございます」
切り替えの早い彼女は呻き声をピタリと止めた。
俺からスプーンを受け取ると静かにオートミールを一口掬って口に運ぶ。
俺の視線に気づくと目尻を緩めて顔を綻ばせた。
「美味しいです」
「それはよかった」
俺を気遣って言ったわけでもなく、本当に心からそう思っているようでテンポ良くオートミールを口に運んでいく。
適切な量をよそえたことに安心しつつ、自分の分ももしゃもしゃと食べる。
ほんの少しの牛乳の甘みは確かに朝食向きだな、と取り止めのないことを考えているとあっという間に完食する。
動けないサナの代わりに食器を片付け、彼女の様子を伺っていると窓の外を向いて肩を落としていた。
近づくとよりはっきりと彼女の顔が見えた。
先ほどまで緩んでいたはずの口角をきゅっと一文字に結んでいる。
「外は地吹雪か」
自然を装いながら、さも今外の景色に気づいたとでも言わんばかりに話しかける。
「地吹雪が止むまで泊まっていくといい」
昨日引き留めた俺が言うのもなんだか変な話だが、こうでもしなければ彼女は萎縮してしまう気がする。
そう提案すれば、サナの張り詰めていた糸が少し緩む。
「重ね重ね申し訳ありません……」
悪いのは俺だと言うのに、サナは謝罪の言葉をポツリと呟く。
いじらしい振る舞いと俺のシャツを一枚だけ羽織っているというちぐはぐな姿にぐらりと理性が揺れる。
さすがに疲労困憊の彼女を襲うわけにはいかない。
気を逸らそうと本棚から読みかけの本を取り出して栞の頁を開く。
「気にしなくてもいい。それより、夜まで暇だろう。本棚にある本で良ければ読むといい」
「ありがとうございます。それじゃあ、お言葉に甘えて……」
手持ち無沙汰に俺を見つめるサナもいいが、俺がそわそわして挙動不審になってしまう。
暇つぶしがてら彼女の読書の系統を知ろうと読書を提案すれば、彼女は気を持ち直して本棚をしげしげと眺める。
暫く本を手に取ってパラパラと捲った後、本棚の奥に目当ての本を見つけたようで手を突っ込む。
引っ張り出したのはどこかで見たことがある本というよりは冊子だった。
「おい待てっ! その本どこにあった!?」
その冊子が目に飛び込んだ瞬間、思わず素っ頓狂な声を上げる。
タイトルも見当たらないその本は、記憶が確かであれば昔にラッセルから押し付けられた成人向けのものだ。
その過激さから出版社を通して製本にすることすら憚られた代物であり、もし彼女がそれを一度目にしたならまず間違いなく軽蔑の眼差しを向けてくるだろう。
慌てて駆け寄って中身を開く前に冊子を取り上げて空間魔法に収納する。
一気に吹き出した冷や汗が背中を流れ落ちる。
「見たか!? この本のなか、見たのか!?」
「いえ、見てませんけど……」
「そうか。……危なかった、間一髪だった」
開いたばかりだったので碌に中身を見ていなかったことに感謝しつつ、頰を伝い落ちる冷や汗を拭う。
危機一髪、まさかこの冊子を本棚に放り込んだまま忘れていたとは我ながらに迂闊だった。
一人暮らしが長く、そういったものへの配慮を失念していた。
「ごめんなさい、奥の方にあったもので気になってしまって……開く前に確認するべきでしたね」
申し訳なさそうに謝罪する彼女の気遣いや優しさが胸を突き刺す。
いきなり乱暴に取り上げたというのに気にしていないあたり、彼女は生粋の善性の持ち主なのだろう。
「あ、いや。これは、アレだ。うん、アレだから気にしなくていい。うん、俺も忘れていたからな」
何一つ明確な情報を渡すまいと慌てて弁解すると余計不審な説明になってしまったが、彼女はきょとんと首を傾げているだけだった。
ひとまず冊子の内容がバレていないことに安堵しつつ、いそいそと読書に戻る。
サナは冊子に興味をなくしたようで、本棚から一冊の本を取り出して俺の隣に座って読み始めた。
◇◆◇◆
夕食を食べ終え、日が沈んだ頃にようやく読みかけだった本を読み終えた。
普段ならもう少し早く読めたはずだったが、隣にサナがいるというだけで自然と意識が伝わってくる体温や身動ぎに向いてしまう。
本のページを捲る細い指先と桃色の爪だとかを目で追いかけては我に返って手元の本に意識を戻したりしているうちにもう夜も遅い時間になっていた。
「む、いかんな。教会の鐘が聞こえないと時間を忘れてしまう」
パタンと本を閉じて体を動かす。
「そろそろ寝るか」
凝り固まっていた全身に血が巡る感覚がして、眉間をグリグリと指圧する。
気を抜くと眉間に皺が寄るというのも変な話だが、どうも癖や習慣と化した表情で人を威圧してしまう。
共有していたブランケットを畳んで立ち上がり、サナに手を差し出す。
「ほら、どうした?」
「……あの、なんでしょうか?」
「予定がないとはいえ、あまり遅くまで起きていると体に悪いぞ」
彼女を気遣っている体を装っているが、本音は『一刻も早く現状では毒でしかない彼女に毛布をかけて視界から隔離したい』である。
だというのに、その姿から目を逸らした途端に惜しい気持ちになってしまうというのも悲しい男の性であるわけで。
生殺し状態に耐えている己の精神力に拍手を送りながら少しでも明日が早くくるように眠ってしまいたいのだ。
少し強引にサナの手を握って立ち上がらせ、寝室に引っ張り込む。
「あの、カインさん。お心遣いいただいて本当に嬉しいんですけど、流石にそのベッドに二人で寝るのは無理がありますって……」
サナが指し示すベッドは確かに二人で横になることは出来るが、寝返りをうつとなると少々手狭なサイズだった。
しかし、密着すればそんな問題はすぐに解決する。
問題はベッドのサイズよりも彼女が今更そんな指摘をしてきたことだった。
「ベッド以外でどこで寝るつもりだ?」
「……ソファーですかね」
「体を痛めるぞ」
「それほど柔じゃないです」
どう言ってサナをベッドに引き摺り込んだものか。
ソファーで寝かせるなど論外であるし、何がなんでも一緒のベッドで寝たい。
かといって強引に押し倒しては今度こそ嫌われてしまいそうだ。
「一人で寝ると、寒いだろ……」
ようやく絞り出した理由はあまりにも子供染みていて、いっそ無言で引き摺り込んだ方がマシなのではないかと思ってしまうほどに情けなかった。
内心では食い下がれば食い下がるほど嫌われてしまったらどうしようという恐怖もあるが、それでもこの子供染みた理由で食い下がるしかなかった。
「暖炉はあるが、ブランケットだけというのも良くない。風邪をひいてしまう」
素直に『一緒に寝たい』と言えればどれほど楽だったか。
とにかく寒さを理由に食い下がっているうちにサナが言葉に詰まる。
脳内で『薪の備蓄が心許ない』といえば良かっただろうか、なんてそれっぽい理屈を考えながらサナの肩を抱いてベッドに引き摺り込む。
「あの、カインさん。それだとカインさんの隈が悪化しますって……あああああっ……」
尚も辞退しようとするサナを壁際に押しやって退路を断つように俺もベッドに横たわる。
さっさと毛布を掛けると小さな呻き声を漏らすだけで抵抗しなくなった。
温かい毛布に脱出する気力を削がれたのだろう。
「お前は小さいからな。そこまで気にしなくても良い」
「ううう……」
「それに、昨日も、その前も一緒に寝ただろう。今更な話だな」
さらに気力を削ぐために追加で口撃すれば、サナは大人しくなった。
すっかり大人しくなった姿につい寝かしつけるように頭を撫でてしまったが、彼女は目を細めるだけで特段咎めたり嫌がったりする様子はない。
瞳がとろんとして、瞬きがゆっくりになり始める。
どうやら彼女の体はまだ休息を求めているようで、いつもより寝つきがいい。
「分かりました……あの、カインさん」
「ん? まだ寒いか?」
追加の毛布でも持ってこようかと悩んでいると、サナが小さな声で「おやすみなさい」と呟く。
呟くなり目を閉じて毛布を目元まで被った。
気恥ずかしいようで、髪から覗く耳は赤く染まっている。
それがまるで親しい間柄に見せる一面のような気がして、彼女が目を閉じていることをいいことにゆるゆると口角が緩んでだらしのない顏になる。
こんなにも明日が待ち遠しいと最後に思ったのはいつだったか。
早く明日になれと願いを込めながら彼女の額に軽くキスをする。
明日の朝、朝食を食べて、昼食の準備を終えたらベッドを組みなおそう。
サナが気兼ねしないように、二人で寝ても十分な広さにしておこう。
それで夕食を食べたら正直に冬籠りの事について話してみよう。
驚くだろうか、それとも俺を軽蔑するだろうか。
なんとなく、彼女なら俺を軽蔑しないという根拠のない自信がある。
もし軽蔑されたとしても今更引き返す道はないのだが。
「おやすみ、サナ」
果たして明日の夜まで理性が待つかという最大の疑問に目を瞑って俺は睡魔に意識を委ねた。
眠気の残る瞼を開ければ、いつもの変わらぬ寝室の天井が見える。
数回ほど瞬きをして、視界の隅にサナの存在を捉える。
普段はきりりとした眉を八の字に下げ、決まりが悪そうに俺を見つめ返していた。
珍しい表情を見れたことに喜びを感じつつ、彼女の頬に手を伸ばす。
掌に冷えた彼女の頰が触れた。
片目を瞑るだけで、特段嫌がる様子もなく大人しくしている。
「おはよう、サナ」
「おはよう、ございます」
朝の挨拶を返した彼女の声は昨日の酒でカサついていた。
想定していたよりも酒のダメージが残っていたようで、少なからず顔に出てしまうほど驚く。
水でも取ってきてやろうと上体を起こすと、サナも慌てて体を起こそうとして呻き声を漏らした。
「いててっ……」
弱音を吐かない彼女がポツリと痛みを呟いて腰を摩る。
泥酔するまで飲ませたことに今更罪悪感が込み上げてくる。
と、同時にベッドシーツが捲れた彼女の姿から目を逸らす。
彼女の傷痕に混じって独占欲の赤い証が首を中心に存在感を放っている。
調子に乗って付けたその痕は、清らかな朝には似つかわしいほどに生々しい色香を伴っていた。
昨日の夜は結局彼女の体を洗った頃になって女性用の寝巻きを持っていなかったことを思い出したのだ。
色々と悩んだ挙句、部屋の暖房を稼働させて毛布を被ればいいという結論に至った。
それが今、かなり裏目に出ている。
好きな人が艶かしい姿で隣にいるとなれば反応してしまうのが男の性。
これ以上隣にいては理性が霧散してしまうので、さりげなくベッドから抜け出してクローゼットを漁る。
「今水を取ってきてやる。服は……俺のでいいか」
女性用の服を貸そうかとも思い至ったが、前に貸した時の反応を見る限り却って気を遣わせるだけだと判断して自分のシャツを渡す。
水差しとコップを持ってくる頃には彼女は起き上がって着替え終えていた。
二日酔いの頭痛がひどいようで、呻き声を上げながら頭を抱えている。
彼女のためにコップに水を注ぎながら、視界の端に入る艶かしく眩しい太腿の存在に心の中で毒づく。
シャツを着せたのは間違いだったと認めざるを得ない。
ぶかぶかで余った袖を腕まくりしていることで細い二の腕は見えるし、裾は太腿を覆うが街で見かけるワンピースよりも短い。
サイズの合わないシャツは首元までボタンをしめているというのに首筋は惜しげもなく曝されている。
当然、昨日の痕も丸見え。
おまけに俯いているものだから、なだらかな陰影を持つ鎖骨に目が吸い寄せられてしまう。
「水は一人で飲めそうだな」
「わざわざありがとうございます」
差し出したコップを両手で受け取るという何気ない仕草さえ、今の格好のせいで妙な色気を感じている自分に呆れ果てる。
もし彼女の体調が悪くなければ朝から襲いかかるところだった。
「あの、カインさん。家にお招きいただくだけでなく、泊めてもらって本当に感謝しています。お酒に慣れてきたつもりだったんですが、まさかエールとワインの一杯でこんな風になるまで酔っぱらうなんて……迷惑、でしたよね?」
「ああ……いや、気にしなくていい」
伏し目がちにサナが空になったコップを見つめていた。
彼女のサラサラとした黒い髪が重力に従って肩から滑り落ちる光景に俺は思わず目を細める。
どうやら昨日の夜の記憶はほとんど残っていないようだ。
恐らくワインを飲み終えた前後の記憶がないのだろう。
そうだと仮定すれば、無理やり引き留めた俺に対して律儀に感謝したのも頷ける。
ほんの少しだけ抱いたことが記憶に残っていないことに寂しさを覚えたが、その感情すら彼女を見つめているうちに消えてしまう。
先ほど水を取りに行った時に確認した限り、外は一面白銀の世界と化している。
窓の淵まで高く積もった雪の中を帰ろうとするなら『雪が溶けるまで』と口実をつけて引き止めることができる。
やはり、これは神の導きなのだ。
時間の許す限り彼女を愛し尽くせば、きっと彼女は振り向いてくれるだろう。
その為には彼女の回復が最優先だ。
「朝食の準備をしてこよう」
「あ、手伝い……うぐっ!」
「暫く休むといい。朝食はオートミールでも構わないか?」
「はい、ありがとうございます」
リビングルームの暖炉に火をつけて部屋を暖めている間、キッチンで手早くサナの為に朝食を準備する。
二日酔いならオートミールの方が食べやすいだろうと思い、用意していると寝室から物音がした。
振り返れば、壁に手をつきながらサナがふらふらと危なっかしく移動している。
「ベッドに横になっていても良かったんだが……手を貸そう」
「あああ、手を煩わせて本当にすみません」
彼女の体を支えながらソファーへと連れて行き、大人しく座るように釘を刺す。
まだ本調子でない彼女のために水差しとコップもついでに持ってきてやる。
「あの、カインさん。昨日私が着ていた服は……?」
「それなら雪で濡れていたから洗濯している」
「洗濯……って、魔法式洗濯機を持ってるってことですか!?」
「浴室の横に扉があっただろう。そこに置いてある」
サナは頭を抱えて呻き声を発する。
服を勝手に洗濯したのは不味かったのだろうか?
念のためにポケットに大事なものが入っていないか確認してから洗濯を開始したのだが……。
どう謝罪を切り出したものかと考えていると温めていたミルクが沸騰し始めたので慌てて火を止める。
謝罪は食後でいいかと思い直してボウルによそって彼女の前に置く。
「できたぞ」
「ありがとうございます」
切り替えの早い彼女は呻き声をピタリと止めた。
俺からスプーンを受け取ると静かにオートミールを一口掬って口に運ぶ。
俺の視線に気づくと目尻を緩めて顔を綻ばせた。
「美味しいです」
「それはよかった」
俺を気遣って言ったわけでもなく、本当に心からそう思っているようでテンポ良くオートミールを口に運んでいく。
適切な量をよそえたことに安心しつつ、自分の分ももしゃもしゃと食べる。
ほんの少しの牛乳の甘みは確かに朝食向きだな、と取り止めのないことを考えているとあっという間に完食する。
動けないサナの代わりに食器を片付け、彼女の様子を伺っていると窓の外を向いて肩を落としていた。
近づくとよりはっきりと彼女の顔が見えた。
先ほどまで緩んでいたはずの口角をきゅっと一文字に結んでいる。
「外は地吹雪か」
自然を装いながら、さも今外の景色に気づいたとでも言わんばかりに話しかける。
「地吹雪が止むまで泊まっていくといい」
昨日引き留めた俺が言うのもなんだか変な話だが、こうでもしなければ彼女は萎縮してしまう気がする。
そう提案すれば、サナの張り詰めていた糸が少し緩む。
「重ね重ね申し訳ありません……」
悪いのは俺だと言うのに、サナは謝罪の言葉をポツリと呟く。
いじらしい振る舞いと俺のシャツを一枚だけ羽織っているというちぐはぐな姿にぐらりと理性が揺れる。
さすがに疲労困憊の彼女を襲うわけにはいかない。
気を逸らそうと本棚から読みかけの本を取り出して栞の頁を開く。
「気にしなくてもいい。それより、夜まで暇だろう。本棚にある本で良ければ読むといい」
「ありがとうございます。それじゃあ、お言葉に甘えて……」
手持ち無沙汰に俺を見つめるサナもいいが、俺がそわそわして挙動不審になってしまう。
暇つぶしがてら彼女の読書の系統を知ろうと読書を提案すれば、彼女は気を持ち直して本棚をしげしげと眺める。
暫く本を手に取ってパラパラと捲った後、本棚の奥に目当ての本を見つけたようで手を突っ込む。
引っ張り出したのはどこかで見たことがある本というよりは冊子だった。
「おい待てっ! その本どこにあった!?」
その冊子が目に飛び込んだ瞬間、思わず素っ頓狂な声を上げる。
タイトルも見当たらないその本は、記憶が確かであれば昔にラッセルから押し付けられた成人向けのものだ。
その過激さから出版社を通して製本にすることすら憚られた代物であり、もし彼女がそれを一度目にしたならまず間違いなく軽蔑の眼差しを向けてくるだろう。
慌てて駆け寄って中身を開く前に冊子を取り上げて空間魔法に収納する。
一気に吹き出した冷や汗が背中を流れ落ちる。
「見たか!? この本のなか、見たのか!?」
「いえ、見てませんけど……」
「そうか。……危なかった、間一髪だった」
開いたばかりだったので碌に中身を見ていなかったことに感謝しつつ、頰を伝い落ちる冷や汗を拭う。
危機一髪、まさかこの冊子を本棚に放り込んだまま忘れていたとは我ながらに迂闊だった。
一人暮らしが長く、そういったものへの配慮を失念していた。
「ごめんなさい、奥の方にあったもので気になってしまって……開く前に確認するべきでしたね」
申し訳なさそうに謝罪する彼女の気遣いや優しさが胸を突き刺す。
いきなり乱暴に取り上げたというのに気にしていないあたり、彼女は生粋の善性の持ち主なのだろう。
「あ、いや。これは、アレだ。うん、アレだから気にしなくていい。うん、俺も忘れていたからな」
何一つ明確な情報を渡すまいと慌てて弁解すると余計不審な説明になってしまったが、彼女はきょとんと首を傾げているだけだった。
ひとまず冊子の内容がバレていないことに安堵しつつ、いそいそと読書に戻る。
サナは冊子に興味をなくしたようで、本棚から一冊の本を取り出して俺の隣に座って読み始めた。
◇◆◇◆
夕食を食べ終え、日が沈んだ頃にようやく読みかけだった本を読み終えた。
普段ならもう少し早く読めたはずだったが、隣にサナがいるというだけで自然と意識が伝わってくる体温や身動ぎに向いてしまう。
本のページを捲る細い指先と桃色の爪だとかを目で追いかけては我に返って手元の本に意識を戻したりしているうちにもう夜も遅い時間になっていた。
「む、いかんな。教会の鐘が聞こえないと時間を忘れてしまう」
パタンと本を閉じて体を動かす。
「そろそろ寝るか」
凝り固まっていた全身に血が巡る感覚がして、眉間をグリグリと指圧する。
気を抜くと眉間に皺が寄るというのも変な話だが、どうも癖や習慣と化した表情で人を威圧してしまう。
共有していたブランケットを畳んで立ち上がり、サナに手を差し出す。
「ほら、どうした?」
「……あの、なんでしょうか?」
「予定がないとはいえ、あまり遅くまで起きていると体に悪いぞ」
彼女を気遣っている体を装っているが、本音は『一刻も早く現状では毒でしかない彼女に毛布をかけて視界から隔離したい』である。
だというのに、その姿から目を逸らした途端に惜しい気持ちになってしまうというのも悲しい男の性であるわけで。
生殺し状態に耐えている己の精神力に拍手を送りながら少しでも明日が早くくるように眠ってしまいたいのだ。
少し強引にサナの手を握って立ち上がらせ、寝室に引っ張り込む。
「あの、カインさん。お心遣いいただいて本当に嬉しいんですけど、流石にそのベッドに二人で寝るのは無理がありますって……」
サナが指し示すベッドは確かに二人で横になることは出来るが、寝返りをうつとなると少々手狭なサイズだった。
しかし、密着すればそんな問題はすぐに解決する。
問題はベッドのサイズよりも彼女が今更そんな指摘をしてきたことだった。
「ベッド以外でどこで寝るつもりだ?」
「……ソファーですかね」
「体を痛めるぞ」
「それほど柔じゃないです」
どう言ってサナをベッドに引き摺り込んだものか。
ソファーで寝かせるなど論外であるし、何がなんでも一緒のベッドで寝たい。
かといって強引に押し倒しては今度こそ嫌われてしまいそうだ。
「一人で寝ると、寒いだろ……」
ようやく絞り出した理由はあまりにも子供染みていて、いっそ無言で引き摺り込んだ方がマシなのではないかと思ってしまうほどに情けなかった。
内心では食い下がれば食い下がるほど嫌われてしまったらどうしようという恐怖もあるが、それでもこの子供染みた理由で食い下がるしかなかった。
「暖炉はあるが、ブランケットだけというのも良くない。風邪をひいてしまう」
素直に『一緒に寝たい』と言えればどれほど楽だったか。
とにかく寒さを理由に食い下がっているうちにサナが言葉に詰まる。
脳内で『薪の備蓄が心許ない』といえば良かっただろうか、なんてそれっぽい理屈を考えながらサナの肩を抱いてベッドに引き摺り込む。
「あの、カインさん。それだとカインさんの隈が悪化しますって……あああああっ……」
尚も辞退しようとするサナを壁際に押しやって退路を断つように俺もベッドに横たわる。
さっさと毛布を掛けると小さな呻き声を漏らすだけで抵抗しなくなった。
温かい毛布に脱出する気力を削がれたのだろう。
「お前は小さいからな。そこまで気にしなくても良い」
「ううう……」
「それに、昨日も、その前も一緒に寝ただろう。今更な話だな」
さらに気力を削ぐために追加で口撃すれば、サナは大人しくなった。
すっかり大人しくなった姿につい寝かしつけるように頭を撫でてしまったが、彼女は目を細めるだけで特段咎めたり嫌がったりする様子はない。
瞳がとろんとして、瞬きがゆっくりになり始める。
どうやら彼女の体はまだ休息を求めているようで、いつもより寝つきがいい。
「分かりました……あの、カインさん」
「ん? まだ寒いか?」
追加の毛布でも持ってこようかと悩んでいると、サナが小さな声で「おやすみなさい」と呟く。
呟くなり目を閉じて毛布を目元まで被った。
気恥ずかしいようで、髪から覗く耳は赤く染まっている。
それがまるで親しい間柄に見せる一面のような気がして、彼女が目を閉じていることをいいことにゆるゆると口角が緩んでだらしのない顏になる。
こんなにも明日が待ち遠しいと最後に思ったのはいつだったか。
早く明日になれと願いを込めながら彼女の額に軽くキスをする。
明日の朝、朝食を食べて、昼食の準備を終えたらベッドを組みなおそう。
サナが気兼ねしないように、二人で寝ても十分な広さにしておこう。
それで夕食を食べたら正直に冬籠りの事について話してみよう。
驚くだろうか、それとも俺を軽蔑するだろうか。
なんとなく、彼女なら俺を軽蔑しないという根拠のない自信がある。
もし軽蔑されたとしても今更引き返す道はないのだが。
「おやすみ、サナ」
果たして明日の夜まで理性が待つかという最大の疑問に目を瞑って俺は睡魔に意識を委ねた。
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どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
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※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
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