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第一章 学園編
憎悪の対象<皇女シンシア視点>
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ルシアンの父が公爵位を賜ったという知らせを聞いた。
カーライル王国の王族の血が入っているから、侯爵とは言っても、事実上公爵としての扱いを受けていたアルト家。
お母様はアルト家と縁続きになることを強く望んだ。
詳しくは教えて下さらないけれど、アルト家には特別な力があって、それをどの国も欲しがっているということだった。
ルシアンの叔父とお姉様を婚姻させようとして、婚約直前まで進んだけれど、その叔父に子を残す能力がないことが分かり破談。お姉様は皇国の侯爵に嫁いだ。
叔父は失意のままカーライル王国にひっこんだと聞いている。さすがに皇族と婚姻出来ないとなれば、恥を感じて皇都にはいられないだろうから、当然の反応だと思うわ。
アルト家を諦めきれないお母様は、私にルシアンと婚姻を結べと命じた。
学院で見かけたルシアンは、ガリガリで猫背で髪はボサボサで厚底眼鏡で、何を考えてるのか全く分からないし、背も低いしで、いくらお母様のご命令とは言え、私には受け入れ難かった。
私は皇国の花と呼ばれるだけの容姿をしているのに。誰もが褒めそやすこの私が、あんな、頭だけは良い辺境の属国の、しかも王族でもない者と結婚だなんて!
しかもルシアンは、私に最低限の敬意しか払わない。この私に!
ルシアンは、ある時から厚底眼鏡を止めた。
眼鏡が厚すぎて見えなかった素顔は、虚弱な美少年といった風で、黒髪が肌の白さを際立たせていた。
勝手にその容貌から、本好きの、人との会話も満足に出来ない人間だと思っていたのに。
話をしてみれば、淀みなく簡潔に答えていく。何にも動じず、表情を変えない。
金色の瞳は鋭く、こちらの心を見透かすようで、ルシアンと目があったと喜ぶ令嬢たちを見ると、何故か腹立たしく感じた。
ダンスと剣術と乗馬を始めたというルシアンはすっかり猫背も直り、身体も鍛えられ、身長も伸びて私より高くなった。
立ち居振る舞いは紳士然として落ち着きがあり、頭の良さは言わずもがな。
日増しに美しい男になっていくルシアンに私は夢中になっていった。辺境の貴族でも良い。この美しい男は私にこそ相応しい。
そんな折ルシアンが自国の令嬢と婚約したと聞いた。
私は我慢がならなかった。
ルシアンを呼び出し、今すぐ婚約を破棄するよう命じた。
「この婚約は私が強く望むものです」
言外に婚約破棄などあり得ないと言ってのける。
「そなたが望んだ婚約だと言うの?」
「えぇ、強引に」
それ程までにその令嬢に想いを寄せていると言うの?
この私には靡かないのに?!
これまで私は何度となくルシアンにそう言った態度を表し続けた。誰もが私の気持ちを察した。
それなのにルシアンはそれを受け入れない。皇女である私を全く受け入れようとしない。
例え私を愛せないとしても、皇国の皇女との婚姻が不利に働くことはない。
これまで私の気まぐれな誘いに靡かない男なんて一人もいなかったのに。
「陛下は私とそなたの婚姻を望んでらっしゃるの」
女皇が望むのだ。だから今すぐその婚約を破棄しろと脅すも、ルシアンの表情は変わらない。
「何故でしょう?」
「陛下の深き御心は私如きには分からないわ」
「皇女殿下のお相手であれば、私などより相応しき方が大勢いらっしゃいます」
調べさせた所、ルシアンがダンスを始めたのも、乗馬も剣術も、婚約したその令嬢の為だということだった。
その為だけに、あのルシアンが。
令嬢の姿絵を持ってこさせたら、なんて事のない太った見た目で、私はこんな女に負けたのかと思うと腹立たしくて堪らなかった。
何倍も私の方が美しいのに、何故なの!
ルシアンが婚約したと知っても、私も他の令嬢達もルシアンを諦めたりはしなかった。
辺境の国の令嬢と皇都の令嬢では価値が違う。
婚約をしたと言ってもまだ時間はある。
ルシアンは乗馬大会で優勝した。
彼の愛馬のオージュは主人と同じように美しかった。
貴公子と呼ぶに相応しい佇まいに私も他の令嬢も揃って見惚れた。
剣術大会でのルシアンは圧倒的な強さで予選を勝ち抜き、本戦に出場した。
皇国の騎士団長の子息達と対戦した時にはさすがに無理なのではハラハラした。でも、一切動じず、次々と倒し、優勝した。
強く、賢く、美しいルシアン。
誰にも渡しはしない。
ルシアンは私のもの。
婚約者になど渡しはしない。
それは突然のことで、私は手に持っていたカップを落として割ってしまった。
慌てて侍女が割れたカップの破片を片付け始める。
「なん……ですっ……て……」
震える声で侍従は言った。
「ルシアン様は、高等部での履修課程も全て終えてご帰国なさいます」
信じられなかった。
いくら優秀だからと言って、あれだけ多方面に成績を残しておきながら、高等部での履修課程もわずか二年間で全て終えているだなんて。
「十六歳にならねば始まらない魔道学はカーライル王国の学園で学ばれるそうです」
*****
ルシアンに会いたくて堪らなかった私は、かの国での魔道研究の結果をダシにして、カーライル王国に行くことを決めた。
私とルシアンの婚姻を望むお母様はその事に反対はなさらなかった。
今度こそ絶対にルシアンを私の物にしなくては。
あの太った婚約者と私を並べて見れば、如何に私の方が美しいのか、どちらがルシアンに相応しいのか、いくら何でも分かる筈!
準備を進めていた私にまたしても侍従が信じられないことを言った。
「ルシアン様は婚約をなさっていたご令嬢と、婚姻を結ばれました。
噂では、その……婚姻前にルシアン様がご令嬢を……ご自身の物にされたと……」
それでも行くのかと言いたげな侍従を睨み、下がらせる。
きっと、婚約者がルシアンのあまりの美しさに、誰かに奪われまいと誘惑したに違いない。
あの美しさに心惑わされない令嬢がいるものか。
許せない。
不愉快なことと言うのは続く。
私は魔力の器を持たない。
十六歳になって直ぐの測定でも器はないと言われた。けれどそんなことは大した問題ではなかった。
なくてもこれまでは何ら問題なかったのだから。
再測定の結果でも無いと言われた。
事態は一変する。
カーライル王国のカーネリアンとかいう研究者の研究結果では、平民の血が混じらない限り、魔力の器を必ず身の内の何処かに持っているとのことだった。
それはつまり、私のこの高貴な身に下賤の血が混じっているということだ。
そんな筈は無い。
ありえない。
それなのに、私はお母様の部屋で燃え残った紙を見てしまったのだ。
お父様が伯爵と平民の侍女の間に生まれた子であると書かれた調査結果を。
あまりのことに目眩がした。
私もお姉様も弟も、下賤な平民の血を身に入れてしまったというの?
このままでは何がきっかけで私が魔力の器を持たないことを知られるか分からない。
叔母の息がかかった議会に知られでもしたら、皇位継承権そのものを剥奪されてしまうかも知れない。
平民の血が混じってしまったことを知られない為にも、私はこの身に器を持たねばならない。
カーネリアンとかいう研究者に魔力の器を作らせよう。
そうすれば、私も弟も大丈夫なのだから。
夜会で一年ぶりに会ったルシアンは、以前より更に美しくなっていた。
あぁ、ルシアン。
嬉しいでしょう?
私がわざわざ迎えに来てあげたのよ?
ダンスをルシアンと踊る。
この逞しい腕に、胸に早く抱かれたい。
離れがたく、もう一曲とルシアンにせがむ。
ルシアンは何やら考えているようだった。
ルシアンの妻だという女は、似姿とは全く違っていて、ほっそりとした華奢な姿をしていた。
妖精姫などと呼ばれているらしい。
私とは違って身体の凹凸のない平たい身体。あれでは魅力を感じないだろう。
その女──ミチルに、ルシアンと同じく皇都に留学に来ていたフィオニアが、ダンスを申し込んでいるのが見えた。
ルシアンは私の手を離し、ミチルとフィオニアの間に割って入る。
私を放り出して、ダンスに誘われた妻を踊らせまいとするその姿に、私の自尊心は酷く傷付けられた。
何故なのルシアン!
何故私を見ないの?!
また一緒にいられると思った学園では、ルシアンは三年へと昇級していて、同じクラスではなかった。
あれだけ同じクラスにしろと命じておいたのに!
その事を王子に訴えても、学年が違うのだから同じクラスには出来ないとにべもなく言われてしまった。
なんて腹立たしい! 辺境の属国の王子風情が!!
授業は全てロストア語だった。
それは分かっていた。でも気にしていなかった。
私はすぐにでもルシアンを連れて皇都に戻るつもりでいたのだから。
こんな辺境で使われる言葉など、私がわざわざ覚えるような言葉ではない。
ロストア語が使えるようになるまでと言われ、城に閉じ込められ学園に行くことすら許されない。
嫌よ、嫌! こんな田舎の言葉を覚える気はないわ!
何一つ上手くいかない。
私はただ、ルシアンを自分の物にしたいだけなのに。
アレは私の物なのに。
何故こんなにも上手くいかないの?!
カーネリアンに魔力の器を作れと命令したのに、あの女は無理だと答えた。
私の中に平民の血が混じっているから無理だと。
聞けばこの研究はあの女も加わっていたという。
詰め寄った所、カーネリアンはこの女にそんな才能はなく、ルシアンとの婚約に箔をつける為に准研究員になっただけだと言った。
あぁ、なんて浅ましいの!
でもそうでしょうね! そうでもしなければこんな女がルシアンを物に出来る筈などないもの!
今は権威など失われて久しいと言われる魔道研究院だけれど、名誉は辛うじて残ってる。
その名を求めたのだわ。
嘘を吐いて准研究員になり、誘惑をしてルシアンと結婚するなんて本当に忌々しい女!!
今すぐルシアンとの婚姻を解消して、継いだという領地の経営でもすれば良いと命じると、王子がまたしても私に楯突いた。
怒りのままに属国風情がと罵ったのを、間の悪い事にカーライル王に聞かれ、私はカーライル王国から強引に追い出された。
きっと、王子とあの女がそうさせたのだわ。
*****
お母様は私の報告を聞いてため息を吐かれた。
「そなたに求めた妾が悪かったのであろう。
もう良い、下がれ」
反論しようとした私を無視して、お母様は自室に入られてしまった。
それから何度となくお母様にお時間をと望んだけれど叶わなかった。
鬱々としながら部屋にいた時、侍従がおずおずとしながら声をかけてきた。
「皇女様、ウィルニア教団とはどういったご関係なのですか……?」
ウィルニア教団?
初めて聞く言葉に首をひねった。
「何度も何度も皇女様宛にお手紙が届いております。贈り物も……」
手紙など読む気にはならなかったけれど、その贈り物とやらが私の目に叶うだけのものなら、この鬱々とした気持ちもいくらか晴れるかも知れない。
美しいものはそれだけの力がある。
そう思った私は侍従に贈り物を見せるように命じた。
しばらくして、私の前に恐ろしい量の宝石や珍しい調度品が並べられた。
「これを……その教団とやらが……?」
王族でもなければ手に入れられないような、貴重な物まで混じっている。
「さようにございます」
「手紙とやらを持ってきて」
侍従は既に持って来ていたようで、私に手紙の束を差し出した。
「片付けておきなさい」
献上品を片付けるよう命じ、手紙の束を古いものから順に読み進めていく。
手紙には、私ほど高貴な存在はいないと、私は教団の聖女なのだと書かれていた。
「私が……聖女……?」
ウィルニア教団に謁見の許可を与えた。
肥えた卑しい顔の男と、細身の目が少しつり上がった男が恭しく私の前に首を垂れた。
「シンシア皇女様のご尊顔を拝する栄誉に浴しましたる事、この身の誉れにございます」
肥えた男は名をベンフラッドといった。もう一人はレクンハイマー。
ベンフラッドはにやにやと笑いながら私の姿の美しいことをひたすら褒め称えた。
当たり前のことを言われても何ら心に響かない。
いい加減に鬱陶しいと思い始めた時、レクンハイマーが恐れながら、と直答することを望んだ。
「直答を許可します」
「ありがたき幸せにございます」
レクンハイマーは軽く頭を下げると、私を真っ直ぐに見つめながら話し始めた。
それはウィルニア教団の教えだった。
そんなものはどうでも良いけれど、私を聖女と称したことに関しては詳しく聞きたい。
長い話の後、レクンハイマーが言った。
「この世の憂いを晴らす為、神がこの世界に遣わしたる至高の存在を聖女──つまりシンシア皇女様こそが、この爛れた世界を救うのです。
我らウィルニア教団は、シンシア皇女様の手となり足となり、その世界に光をもたらす存在なのです」
「何故、私が聖女だと?」
胡散臭い者達だとは思うものの、自分の事を至高の存在と呼ばれることに不快感はない。
「お疑いになるのも至極もっともな事。気高き御身に躙り寄る不浄なる者共は、それこそ塵芥のようにおります。
我らは神より託宣を賜りました。
西の大いなる都。玉座を守る気高き女皇の皇女こそ、光まといし聖女である、と」
神の託宣。
私を聖女だと。
あぁ、それにしても、なんだか頭がぼぅっとする。
考えがまとまらない。
きっと昨日よく眠れなかった所為だわ。
「我らをお疑いであれば何なりとお命じ下さい。
必ずや成し遂げてご覧にいれましょう」
このような者達と深く付き合う気になどなれない。
でも、そうね。
私の手を汚さず、私の憂いを晴らしてくれるのなら──。
「私はそなた達に何かを命じたりなどはしないわ」
扇子を開き、口元を隠す。
「ここから言うことは私の独り言。聞いてはならないわ」
レクンハイマーをじっと見つめて私は独り言を言った。
「カーライル王国宰相の嫡子、ルシアン・アルト伯爵の妻、ミチル・レイ・アレクサンドリア・アルトが……ルシアンの前から消えたなら……」
ふぅ、とため息をわざと吐く。
「私の心は、どれだけ晴れ晴れとするかしら……」
ベンフラッドとレクンハイマーは微笑みを浮かべ、首を垂れた。
「御心のままに」
カーライル王国の王族の血が入っているから、侯爵とは言っても、事実上公爵としての扱いを受けていたアルト家。
お母様はアルト家と縁続きになることを強く望んだ。
詳しくは教えて下さらないけれど、アルト家には特別な力があって、それをどの国も欲しがっているということだった。
ルシアンの叔父とお姉様を婚姻させようとして、婚約直前まで進んだけれど、その叔父に子を残す能力がないことが分かり破談。お姉様は皇国の侯爵に嫁いだ。
叔父は失意のままカーライル王国にひっこんだと聞いている。さすがに皇族と婚姻出来ないとなれば、恥を感じて皇都にはいられないだろうから、当然の反応だと思うわ。
アルト家を諦めきれないお母様は、私にルシアンと婚姻を結べと命じた。
学院で見かけたルシアンは、ガリガリで猫背で髪はボサボサで厚底眼鏡で、何を考えてるのか全く分からないし、背も低いしで、いくらお母様のご命令とは言え、私には受け入れ難かった。
私は皇国の花と呼ばれるだけの容姿をしているのに。誰もが褒めそやすこの私が、あんな、頭だけは良い辺境の属国の、しかも王族でもない者と結婚だなんて!
しかもルシアンは、私に最低限の敬意しか払わない。この私に!
ルシアンは、ある時から厚底眼鏡を止めた。
眼鏡が厚すぎて見えなかった素顔は、虚弱な美少年といった風で、黒髪が肌の白さを際立たせていた。
勝手にその容貌から、本好きの、人との会話も満足に出来ない人間だと思っていたのに。
話をしてみれば、淀みなく簡潔に答えていく。何にも動じず、表情を変えない。
金色の瞳は鋭く、こちらの心を見透かすようで、ルシアンと目があったと喜ぶ令嬢たちを見ると、何故か腹立たしく感じた。
ダンスと剣術と乗馬を始めたというルシアンはすっかり猫背も直り、身体も鍛えられ、身長も伸びて私より高くなった。
立ち居振る舞いは紳士然として落ち着きがあり、頭の良さは言わずもがな。
日増しに美しい男になっていくルシアンに私は夢中になっていった。辺境の貴族でも良い。この美しい男は私にこそ相応しい。
そんな折ルシアンが自国の令嬢と婚約したと聞いた。
私は我慢がならなかった。
ルシアンを呼び出し、今すぐ婚約を破棄するよう命じた。
「この婚約は私が強く望むものです」
言外に婚約破棄などあり得ないと言ってのける。
「そなたが望んだ婚約だと言うの?」
「えぇ、強引に」
それ程までにその令嬢に想いを寄せていると言うの?
この私には靡かないのに?!
これまで私は何度となくルシアンにそう言った態度を表し続けた。誰もが私の気持ちを察した。
それなのにルシアンはそれを受け入れない。皇女である私を全く受け入れようとしない。
例え私を愛せないとしても、皇国の皇女との婚姻が不利に働くことはない。
これまで私の気まぐれな誘いに靡かない男なんて一人もいなかったのに。
「陛下は私とそなたの婚姻を望んでらっしゃるの」
女皇が望むのだ。だから今すぐその婚約を破棄しろと脅すも、ルシアンの表情は変わらない。
「何故でしょう?」
「陛下の深き御心は私如きには分からないわ」
「皇女殿下のお相手であれば、私などより相応しき方が大勢いらっしゃいます」
調べさせた所、ルシアンがダンスを始めたのも、乗馬も剣術も、婚約したその令嬢の為だということだった。
その為だけに、あのルシアンが。
令嬢の姿絵を持ってこさせたら、なんて事のない太った見た目で、私はこんな女に負けたのかと思うと腹立たしくて堪らなかった。
何倍も私の方が美しいのに、何故なの!
ルシアンが婚約したと知っても、私も他の令嬢達もルシアンを諦めたりはしなかった。
辺境の国の令嬢と皇都の令嬢では価値が違う。
婚約をしたと言ってもまだ時間はある。
ルシアンは乗馬大会で優勝した。
彼の愛馬のオージュは主人と同じように美しかった。
貴公子と呼ぶに相応しい佇まいに私も他の令嬢も揃って見惚れた。
剣術大会でのルシアンは圧倒的な強さで予選を勝ち抜き、本戦に出場した。
皇国の騎士団長の子息達と対戦した時にはさすがに無理なのではハラハラした。でも、一切動じず、次々と倒し、優勝した。
強く、賢く、美しいルシアン。
誰にも渡しはしない。
ルシアンは私のもの。
婚約者になど渡しはしない。
それは突然のことで、私は手に持っていたカップを落として割ってしまった。
慌てて侍女が割れたカップの破片を片付け始める。
「なん……ですっ……て……」
震える声で侍従は言った。
「ルシアン様は、高等部での履修課程も全て終えてご帰国なさいます」
信じられなかった。
いくら優秀だからと言って、あれだけ多方面に成績を残しておきながら、高等部での履修課程もわずか二年間で全て終えているだなんて。
「十六歳にならねば始まらない魔道学はカーライル王国の学園で学ばれるそうです」
*****
ルシアンに会いたくて堪らなかった私は、かの国での魔道研究の結果をダシにして、カーライル王国に行くことを決めた。
私とルシアンの婚姻を望むお母様はその事に反対はなさらなかった。
今度こそ絶対にルシアンを私の物にしなくては。
あの太った婚約者と私を並べて見れば、如何に私の方が美しいのか、どちらがルシアンに相応しいのか、いくら何でも分かる筈!
準備を進めていた私にまたしても侍従が信じられないことを言った。
「ルシアン様は婚約をなさっていたご令嬢と、婚姻を結ばれました。
噂では、その……婚姻前にルシアン様がご令嬢を……ご自身の物にされたと……」
それでも行くのかと言いたげな侍従を睨み、下がらせる。
きっと、婚約者がルシアンのあまりの美しさに、誰かに奪われまいと誘惑したに違いない。
あの美しさに心惑わされない令嬢がいるものか。
許せない。
不愉快なことと言うのは続く。
私は魔力の器を持たない。
十六歳になって直ぐの測定でも器はないと言われた。けれどそんなことは大した問題ではなかった。
なくてもこれまでは何ら問題なかったのだから。
再測定の結果でも無いと言われた。
事態は一変する。
カーライル王国のカーネリアンとかいう研究者の研究結果では、平民の血が混じらない限り、魔力の器を必ず身の内の何処かに持っているとのことだった。
それはつまり、私のこの高貴な身に下賤の血が混じっているということだ。
そんな筈は無い。
ありえない。
それなのに、私はお母様の部屋で燃え残った紙を見てしまったのだ。
お父様が伯爵と平民の侍女の間に生まれた子であると書かれた調査結果を。
あまりのことに目眩がした。
私もお姉様も弟も、下賤な平民の血を身に入れてしまったというの?
このままでは何がきっかけで私が魔力の器を持たないことを知られるか分からない。
叔母の息がかかった議会に知られでもしたら、皇位継承権そのものを剥奪されてしまうかも知れない。
平民の血が混じってしまったことを知られない為にも、私はこの身に器を持たねばならない。
カーネリアンとかいう研究者に魔力の器を作らせよう。
そうすれば、私も弟も大丈夫なのだから。
夜会で一年ぶりに会ったルシアンは、以前より更に美しくなっていた。
あぁ、ルシアン。
嬉しいでしょう?
私がわざわざ迎えに来てあげたのよ?
ダンスをルシアンと踊る。
この逞しい腕に、胸に早く抱かれたい。
離れがたく、もう一曲とルシアンにせがむ。
ルシアンは何やら考えているようだった。
ルシアンの妻だという女は、似姿とは全く違っていて、ほっそりとした華奢な姿をしていた。
妖精姫などと呼ばれているらしい。
私とは違って身体の凹凸のない平たい身体。あれでは魅力を感じないだろう。
その女──ミチルに、ルシアンと同じく皇都に留学に来ていたフィオニアが、ダンスを申し込んでいるのが見えた。
ルシアンは私の手を離し、ミチルとフィオニアの間に割って入る。
私を放り出して、ダンスに誘われた妻を踊らせまいとするその姿に、私の自尊心は酷く傷付けられた。
何故なのルシアン!
何故私を見ないの?!
また一緒にいられると思った学園では、ルシアンは三年へと昇級していて、同じクラスではなかった。
あれだけ同じクラスにしろと命じておいたのに!
その事を王子に訴えても、学年が違うのだから同じクラスには出来ないとにべもなく言われてしまった。
なんて腹立たしい! 辺境の属国の王子風情が!!
授業は全てロストア語だった。
それは分かっていた。でも気にしていなかった。
私はすぐにでもルシアンを連れて皇都に戻るつもりでいたのだから。
こんな辺境で使われる言葉など、私がわざわざ覚えるような言葉ではない。
ロストア語が使えるようになるまでと言われ、城に閉じ込められ学園に行くことすら許されない。
嫌よ、嫌! こんな田舎の言葉を覚える気はないわ!
何一つ上手くいかない。
私はただ、ルシアンを自分の物にしたいだけなのに。
アレは私の物なのに。
何故こんなにも上手くいかないの?!
カーネリアンに魔力の器を作れと命令したのに、あの女は無理だと答えた。
私の中に平民の血が混じっているから無理だと。
聞けばこの研究はあの女も加わっていたという。
詰め寄った所、カーネリアンはこの女にそんな才能はなく、ルシアンとの婚約に箔をつける為に准研究員になっただけだと言った。
あぁ、なんて浅ましいの!
でもそうでしょうね! そうでもしなければこんな女がルシアンを物に出来る筈などないもの!
今は権威など失われて久しいと言われる魔道研究院だけれど、名誉は辛うじて残ってる。
その名を求めたのだわ。
嘘を吐いて准研究員になり、誘惑をしてルシアンと結婚するなんて本当に忌々しい女!!
今すぐルシアンとの婚姻を解消して、継いだという領地の経営でもすれば良いと命じると、王子がまたしても私に楯突いた。
怒りのままに属国風情がと罵ったのを、間の悪い事にカーライル王に聞かれ、私はカーライル王国から強引に追い出された。
きっと、王子とあの女がそうさせたのだわ。
*****
お母様は私の報告を聞いてため息を吐かれた。
「そなたに求めた妾が悪かったのであろう。
もう良い、下がれ」
反論しようとした私を無視して、お母様は自室に入られてしまった。
それから何度となくお母様にお時間をと望んだけれど叶わなかった。
鬱々としながら部屋にいた時、侍従がおずおずとしながら声をかけてきた。
「皇女様、ウィルニア教団とはどういったご関係なのですか……?」
ウィルニア教団?
初めて聞く言葉に首をひねった。
「何度も何度も皇女様宛にお手紙が届いております。贈り物も……」
手紙など読む気にはならなかったけれど、その贈り物とやらが私の目に叶うだけのものなら、この鬱々とした気持ちもいくらか晴れるかも知れない。
美しいものはそれだけの力がある。
そう思った私は侍従に贈り物を見せるように命じた。
しばらくして、私の前に恐ろしい量の宝石や珍しい調度品が並べられた。
「これを……その教団とやらが……?」
王族でもなければ手に入れられないような、貴重な物まで混じっている。
「さようにございます」
「手紙とやらを持ってきて」
侍従は既に持って来ていたようで、私に手紙の束を差し出した。
「片付けておきなさい」
献上品を片付けるよう命じ、手紙の束を古いものから順に読み進めていく。
手紙には、私ほど高貴な存在はいないと、私は教団の聖女なのだと書かれていた。
「私が……聖女……?」
ウィルニア教団に謁見の許可を与えた。
肥えた卑しい顔の男と、細身の目が少しつり上がった男が恭しく私の前に首を垂れた。
「シンシア皇女様のご尊顔を拝する栄誉に浴しましたる事、この身の誉れにございます」
肥えた男は名をベンフラッドといった。もう一人はレクンハイマー。
ベンフラッドはにやにやと笑いながら私の姿の美しいことをひたすら褒め称えた。
当たり前のことを言われても何ら心に響かない。
いい加減に鬱陶しいと思い始めた時、レクンハイマーが恐れながら、と直答することを望んだ。
「直答を許可します」
「ありがたき幸せにございます」
レクンハイマーは軽く頭を下げると、私を真っ直ぐに見つめながら話し始めた。
それはウィルニア教団の教えだった。
そんなものはどうでも良いけれど、私を聖女と称したことに関しては詳しく聞きたい。
長い話の後、レクンハイマーが言った。
「この世の憂いを晴らす為、神がこの世界に遣わしたる至高の存在を聖女──つまりシンシア皇女様こそが、この爛れた世界を救うのです。
我らウィルニア教団は、シンシア皇女様の手となり足となり、その世界に光をもたらす存在なのです」
「何故、私が聖女だと?」
胡散臭い者達だとは思うものの、自分の事を至高の存在と呼ばれることに不快感はない。
「お疑いになるのも至極もっともな事。気高き御身に躙り寄る不浄なる者共は、それこそ塵芥のようにおります。
我らは神より託宣を賜りました。
西の大いなる都。玉座を守る気高き女皇の皇女こそ、光まといし聖女である、と」
神の託宣。
私を聖女だと。
あぁ、それにしても、なんだか頭がぼぅっとする。
考えがまとまらない。
きっと昨日よく眠れなかった所為だわ。
「我らをお疑いであれば何なりとお命じ下さい。
必ずや成し遂げてご覧にいれましょう」
このような者達と深く付き合う気になどなれない。
でも、そうね。
私の手を汚さず、私の憂いを晴らしてくれるのなら──。
「私はそなた達に何かを命じたりなどはしないわ」
扇子を開き、口元を隠す。
「ここから言うことは私の独り言。聞いてはならないわ」
レクンハイマーをじっと見つめて私は独り言を言った。
「カーライル王国宰相の嫡子、ルシアン・アルト伯爵の妻、ミチル・レイ・アレクサンドリア・アルトが……ルシアンの前から消えたなら……」
ふぅ、とため息をわざと吐く。
「私の心は、どれだけ晴れ晴れとするかしら……」
ベンフラッドとレクンハイマーは微笑みを浮かべ、首を垂れた。
「御心のままに」
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