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さよならロックスター
3.警察の犬
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「千中さん、こちらです」
「んー。まさか観客がワーキャー言ってる裏で、マジモンの悲鳴があったとはね」
ここは都内のコンサートホール『Musica-polis』、MUGI.控え室。やはりVIP用だけあって、そこそこ居心地のよさそうな空間。
もちろん、
真ん中に死体が倒れていることを除けば、の話。
周囲の圧で疲れ切って、
『ライブはどうでしたか?』
『早く帰って寝たいです』
に脳みそを支配された高千穂。スマホに上司から『通報があった』と通報があった時の絶望と言ったら。
そんな彼女を労わることなく、松実は腰に手を当てている。
「千中さん! 一緒にライブ来てたのに、どうして一人だけ来るのが遅いんですか!」
「ライブで疲れちゃってさぁ。外の空気吸いに行ってたの」
「空気ってかタバコでしょ」
「カリカリしないの。コンビニで晩ご飯買ってきたんだから」
買い物袋を突き出し、めずらしく優しさを発揮する高千穂。
しかし普段が普段だけに、松実は素直に受け取れない。
「『君の分はないよ』とか言ったら張り倒しますよ?」
割と失礼な物言いを無視して、彼女はテーブルへ勝手に買い物袋を置いた。そこから中身をポイポイ取り出して並べる。
「そんなことしないよ、うふふ。私はハンバーガーでぇ、松実ちゃんにはシリアル買ってきたよ」
「……シリアルは普通朝食では?」
「ん?」
「ん、じゃなくて」
「でも好きって言ってたじゃない」
「チョコ味のコーンとか好きですけど……」
「牛乳も買ってきたんだよ?」
このままでは晩ご飯問答になってしまう。
松実は高千穂がハンバーガーの包みを開けるまえに、必要な話を済ませることにした。
「それでですね千中さん、殺されたのは桃田透子さん。死因は胸部をこちらの」
ペンで床を指す。落ちているのは
「ナイフで一突きされたことによると思われます」
「確かに胸元をタオルで押さえてるね」
「おそらく止血を試みたんでしょう」
「ふーん」
高千穂は死体の側にしゃがみ込むと、松実の方へ手を伸ばす。
「ペン貸して」
「はい」
高千穂は受け取ったペンで、死体へ直接触れないよう腕を少し動かしたり。いろいろ突く。
「応援が到着するまで、あんまりいじらないでくださいよ? あと人のペンで死体触るのも」
「それよりここはMUGI.の控え室でしょ? 被害者はどうしてこんなところにいたんだろう。この人がMUGI.?」
「違います。被害者はスタッフでして、ここでMUGI.さんの荷物番をしていたそうです」
「へー、そうだったの」
「あ、そうだ」
松実は何か思い出したように廊下へ。
すぐに女性を伴って戻ってくる。
「こちら、第一発見者の丹下紬さんです」
「丹下です」
「これはこれは。えーと、本日は本当に飛んだことで。お察しします。私、警視庁捜査一課の千中高千穂と申します」
「ありがとうございます……」
返事はする紬だが、その目は相手を見ていない。視線が向いているのはテーブルの上。
「あの、刑事さん」
「なんでしょう」
「なんであんなものが置いてあるんですか?」
指差した先にあるのは、松実の夕飯用に高千穂が買ってきたアレである。
「あぁ、あれは我々晩御飯がまだなので。松実ちゃんが食べるシリアルです」
「あの、あれはシリアルではなくドッグフードではないでしょうか」
「はぁ!?」
衝撃の事実に、松実が思わず声を上げる。
対して高千穂はあくまで余裕の様子。他人事だし。
「あれぇ? おかしいなぁ。間違えちゃったかなぁ」
「ドッグフードを食べろと!?」
「そもそもお皿がないので、シリアルだったとしても食べられないと思うんですが。ポテトチップス感覚ならともかく」
「それもそうですね。うふふ」
「うふふじゃないんですが!?」
高千穂は抗議を無視して、話を進めてしまう。これが松実の人生である。
「それよりですね、丹下さん。大変お辛いところ恐縮なんですが。遺体を発見された時のこと、詳しくお伺いできますか?」
「あ、ホントだ! 犬の顔がプリントされてる!」
職務そっちのけでご飯を確認する松実が何か言っているが。紬の耳には届かない。
来た。でも大丈夫。落ち着いて、まえもって考えたとおりに答えればいい。
彼女は目立たないように深呼吸すると、歌詞を覚えるように覚えたストーリーを語る。
「はい。私がライブを終えて控え室に戻ったら、彼女はすでに亡くなっていて」
「待ってください?」
「えっ」
早速高千穂が手で制してくるので、紬は喉がヒュッと鳴った。
え、まさか、私もう何かボロ出した? 嘘?
頭から血が引くのを物理的に感じ取る紬だが、彼女が食い付いたのは全然違うことだった。
「ライブを終えたということは、もしかして、あなたがMUGI.さん?」
「え? あ、はい。そういう名義で活動させていただいてます」
「ほ、本当に!?」
ドッグフードと睨めっこしていた松実もこちらを振り返る。
さっきまではお堅い聴取の雰囲気を出していた二人だが。急に砕けたというか、テンションの高い空気を醸しはじめる。
「いやぁ~これはこれは! 私あなたの大ファンなんです。握手してください」
「ちょっと! ライトなファンなんでしょ? どいてください! MUGI.さんサインください!」
松実が高千穂を押しのけて、メモ帳を差し出してくる。
「あ。でも刑事さん。今聴取中……」
彼も仕事中のはずなのに、ファンって不思議な生き物だな……。
やや引いている紬が高千穂の方を見ると。
彼女は「こいつはこういうやつです」とでも言うように、少し肩を竦める。
「お気になさらず。私は待ちますので、どうかサインしてやってください」
「はぁ。えっと、じゃあ、このメモ帳に書けばいいかな」
「お願いします!」
たまにはサインペンと色紙じゃないのも、オツなものかもしれない。彼女はささっとペンを走らせた。
「はいどうぞ」
「やったあアアアアアア! 警察やっててよかったぁ!」
「えーと、それで。あなたがここに戻ってきたら、現場は既にこうなっていた、と」
有頂天の松実が、完全に職務など忘れた様子ではしゃぐ。
それを肘で押し遣りながら高千穂が話を修正する。まぁ最初に脇道へやったのはこいつだが。
「はい。そっくりそのまま」
「そうですか、ありがとうございます。では一つよろしいですか?」
「なんでしょう」
紬の返事がスイッチかのように、彼女の人差し指がピンと立つ。
「亡くなった桃田さん、荷物番してらっしゃったんですよね」
「はい」
高千穂は軽く周囲を見回す。
「その桃田さんが殺されたわけですが、何か盗られたものはありませんか?」
「あ……。いえ、特に」
少し「しまった」と息を呑む。
確かに状況は見るからに、誰かが控え室に押し入って透子を殺害したわけだが。
強盗でもなかったのなら、他にもっともらしい理由がいる。
「おかしいなぁ。どうして犯人は楽屋に来て、被害者を殺したんだろう」
「……」
紬の予想を裏付けるように、この怪しげなヘルメット刑事(警察手帳を見せた小男が上司扱いしているのだから、偽物ってことはないだろうが)もうろうろしながら呟く。
「何か心当たりはありませんか? そうだな、たとえば……、誰かに恨まれるような」
誰かに恨まれるというワードと、高千穂の横で転がっている透子の姿。
両者が同時に脳内へ流れた瞬間、彼女はあることを思い付いた。
「……そうだ」
「なんでしょう」
今から言うことは大体嘘じゃない。
本当に嘘がうまい人は、全てを嘘で塗り固めるのではなく。本当のことに嘘を混ぜるとか。
だから。せっかくだし君の素行を利用させてもらうよ、透子ちゃん。
「透子ちゃんじゃなくて私なんですけども……。実はストーカーがいまして」
「ほう!」
「これでもアーティストですからまぁ。ありがたいことに、熱心なファンの方がついてくださってるんですけど……。それで脅迫状が届いたりとか」
「それはもう売れに売れてますからねぇ。避けられない宿命かもしれません」
「それであの子、私と間違えて殺されたのかも。私の控え室にいたから……」
なんだか人気アピールっぽくなってしまったが、この業界宣伝してナンボである。衝撃のエピソードも過ぎれば武勇伝になる。
うまく行けば最高のプレゼントになるよ、透子ちゃん。その分君は、私の掛け替えないものを奪ったけど。
アーティストらしく死体にも言葉を贈っていると、
「うふふ、それはないでしょう」
高千穂がニヤリと笑うのでこの世に引き戻される。
「どうしてでしょう?」
「だってあなたライブなさってたじゃないですか。誰だって控え室にいるのが本人じゃないことは丸分かりです」
「あぁ、確かに……」
すると、ようやく気持ちが職務へ戻ったのだろう。松実が牛乳片手に割り込んでくる。
「休憩時間ですよ休憩時間!」
「ん?」
「ライブ中に一回小休止があったじゃないですか。きっと犯人は『舞台上の相手は無理でも、今なら控え室でやれる!』って思ったんですよ!」
「なるほど」
「実際僕も、控え室行ったらMUGI.さんに会えると思って探しましたもん!」
「え、何してくれてるんですか」
「あっ」
正体不明で売っているアーティスト。あからさまに不快な顔をしたので、松実は平謝りすることになった。
しかしそんな身も心も小男を無視して、女性陣は話を進めてしまう。
「まぁ、松実ちゃんの言うことが当たっているかは。のちほど死亡推定時刻を割り出せば、はっきりするでしょう」
「はい」
「ちなみにMUGI.さんはその時間、実際はどこにいらっしゃったんです?」
「舞台袖で着替えてました」
「おや大胆! うふふ、でもまぁなるほど。どうりで五分くらいでステージに戻ってこられたわけです」
「みんなを待たせてもよくないですから」
「ありがたいお心掛けです。あ、そうだ」
柔和にニコニコ微笑んでいた高千穂だが。不意に手をポンッと打って紬へ人差し指を向ける。
「先ほどストーカーというお話がありましたが、その人物に心当たりは?」
「いえ、特には」
紬が素直に答えると、高千穂は口と鼻を両手で覆いながら。やや笑っているような上目遣いで彼女を見据えた。
「となると、状況はまだ危ないかもしれませんねぇ」
「どうしてですか? もうMUGI.さんを殺したと思って襲ってこないのでは?」
平謝りが無視されていることにようやく気付いた松実が割り込む。高千穂は教育番組かのように人差し指を立てる。
「考えてごらん? たとえ被害者を殺したタイミングが休憩時間だとしても。結局すぐライブは再開したんだ。当然音も聞こえて来る。殺したと思った相手が、何事もなくライブを続けてたら。いくらなんでも殺せてないこと、人違いに気がつくよ」
「確かに」
「だからもし、犯人が執念深かったら。今でも近くでチャンスを窺ってるかもしれない」
「ありえますね」
高千穂は改めて紬の方へ向きなおる。
「お住まいはどちらですか?」
「えっと、和歌山ですけど」
「ということは、本日はホテルへお泊まりになる」
「そうです」
彼女は少し考えるような仕草をすると、
「でしたら。犯人が捕まっていない現状、お一人でお帰りになるのは危険ですので。警察の増援が来たら、パトカーでホテルまでお送りします。ホテルにも警官を数名お付けしまして……、よろしいですか?」
窺うように紬の瞳を覗き込む。
「はい。ありがとうございます」
「それと、犯人がストーカーの線を考えると。しばらく和歌山にお帰りになるのも控えた方がいい。あなたがライブを終えて戻ると踏んで、そちらへ向かうだろうし。そもそも普段からストーキングされているなら。おそらく向こうの根城も和歌山でしょう」
「でしょうね」
「ホテルの滞在費用は我々が負担しますので、お気になさらず。ドラマでよく見るあれです」
「何から何まで、本当にありがとうございます」
紬は慇懃に頭を下げるが、高千穂はそれを見ずに一人で手をポンと叩いている。
「あと、あなたがMUGI.であることをご存知の方って、どのくらいおられます?」
「えーと、ほんの数人ですけど」
「一応その方々のリストとか上げといていただけますか? それと、聴取もしたいので。東京以外の方も地元に帰らないよう言ってくださると助かります」
「分かりました。ただ、そうなると彼女たちの滞在費用も」
「持ちます待ちます。松実ちゃん、書類作って出しといてね」
「僕!?」
めんどくさい作業を部下へ丸投げできるのは上司の特権(だからと言って誉められたものではない)。
彼女は嫌がる松実を意図的に視界から外すと
「ま、今はこんなところかな」
一息吐いて椅子に腰掛け、ハンバーガーを手に取った。
「最近のコンビニハンバーガーは美味しいですよねぇ。立派な企業努力です。うふふ、私は昔の、妙にしなしななバンズも嫌いじゃなかったんですけども」
「千中さん! 僕にも分けてください! ドッグフードなんて食べられません!」
「自分で出前でも取りなさい」
「そんなぁ!」
「あ、そうだ丹下さん」
もそもそ包装を剥がす高千穂の手が止まる。
「なんでしょう」
「亡くなった桃田さん、荷物番以外に何か役割とかありましたか?」
「え……」
紬は脳が固まる感覚を味わった。
どうしてそのことを? いったいどこから? 何かミスが? もしかしてもう全てバレて……
「え……、と。いえ、特には……」
「そうですか。ありがとうございます」
「どうしてそんなこと聞くんですか?」
聞きたかったことを松実が代わりに聞いてくれる。なかなか便利である。
対して高千穂は、何やら楽しそうな声で答える。
「被害者が殺されたのはここじゃないんだよ」
「えぇっ!?」
「……どういうことでしょう」
彼女はハンバーガーを置いて椅子から立ち上がり、大仰な動きで床を指差す。
「ご覧ください。床が全然汚れていない。刺された現場がここなら、床に血が流れて汚れるはずなんです」
「でも、傷口をタオルで押さえてますよ? 止血ばっちり」
松実が反論すると、高千穂はあからさまに「何言ってんだこいつ」という顔をした。
「ナイフで刺された人間が。血を一滴も溢さず即座にタオルで覆うなんて、できるわけないでしょ」
「なるほど」
「そのうえ室内は椅子も倒れてないし、そこ」
続いてテーブルの上を指差す。そこには、透子が散々飲み食いしていた寛ぎセット。
「あれが何か?」
「お茶が溢れてすらいない。争った形跡がないんだよ。やっぱり他所で殺されてると思うんだなぁ」
「となると、トイレにでも行った時でしょうか」
一応紬も協力的な態度を示すべく、そしてせめて少しでもミスリードすべく。見解を述べてみる。
「ですね! トイレ調べてきます!」
松実が天啓を受けてラリった信者かのように、廊下へ飛び出していく。彼も『熱心なファン』の一人かもしれない。
しかし高千穂はやはり、彼とは違うようだ。あごに手を当て、立ち止まっている。
「んー」
「どうかしましたか?」
「いえね? トイレなのかなぁ、と思って」
「それはどういう……」
質問文を言い切るまえに、彼女は質問を被せてくる。
「丹下さん。本当に桃田さん、荷物番以外の役割はなかったんですね?」
紬はギクリと肩が跳ねるところだった。
なぜこの人はそこにこだわるの? 私が一番触れられたくないところに。
まさか私が透子ちゃんを舞台袖に呼び出したことがバレてるの?
しかし彼女は、あくまで平静を装う。
「……いえ、ございません」
すると高千穂はあっさり微笑んだ。
「そうですか。それよりお腹空いたんで、失礼して晩ご飯を」
「あ、どうぞ」
許可をもらった彼女は再度ハンバーガーを手に取り、
「うふふ、……ん?」
「どうしました?」
急に妙な呟きとともに静止。
気になった紬が近寄ると、高千穂はテーブルの上のあるものを指差す。
そこには
「ドッグフードの封が開いてる……」
「え……」
「んー。まさか観客がワーキャー言ってる裏で、マジモンの悲鳴があったとはね」
ここは都内のコンサートホール『Musica-polis』、MUGI.控え室。やはりVIP用だけあって、そこそこ居心地のよさそうな空間。
もちろん、
真ん中に死体が倒れていることを除けば、の話。
周囲の圧で疲れ切って、
『ライブはどうでしたか?』
『早く帰って寝たいです』
に脳みそを支配された高千穂。スマホに上司から『通報があった』と通報があった時の絶望と言ったら。
そんな彼女を労わることなく、松実は腰に手を当てている。
「千中さん! 一緒にライブ来てたのに、どうして一人だけ来るのが遅いんですか!」
「ライブで疲れちゃってさぁ。外の空気吸いに行ってたの」
「空気ってかタバコでしょ」
「カリカリしないの。コンビニで晩ご飯買ってきたんだから」
買い物袋を突き出し、めずらしく優しさを発揮する高千穂。
しかし普段が普段だけに、松実は素直に受け取れない。
「『君の分はないよ』とか言ったら張り倒しますよ?」
割と失礼な物言いを無視して、彼女はテーブルへ勝手に買い物袋を置いた。そこから中身をポイポイ取り出して並べる。
「そんなことしないよ、うふふ。私はハンバーガーでぇ、松実ちゃんにはシリアル買ってきたよ」
「……シリアルは普通朝食では?」
「ん?」
「ん、じゃなくて」
「でも好きって言ってたじゃない」
「チョコ味のコーンとか好きですけど……」
「牛乳も買ってきたんだよ?」
このままでは晩ご飯問答になってしまう。
松実は高千穂がハンバーガーの包みを開けるまえに、必要な話を済ませることにした。
「それでですね千中さん、殺されたのは桃田透子さん。死因は胸部をこちらの」
ペンで床を指す。落ちているのは
「ナイフで一突きされたことによると思われます」
「確かに胸元をタオルで押さえてるね」
「おそらく止血を試みたんでしょう」
「ふーん」
高千穂は死体の側にしゃがみ込むと、松実の方へ手を伸ばす。
「ペン貸して」
「はい」
高千穂は受け取ったペンで、死体へ直接触れないよう腕を少し動かしたり。いろいろ突く。
「応援が到着するまで、あんまりいじらないでくださいよ? あと人のペンで死体触るのも」
「それよりここはMUGI.の控え室でしょ? 被害者はどうしてこんなところにいたんだろう。この人がMUGI.?」
「違います。被害者はスタッフでして、ここでMUGI.さんの荷物番をしていたそうです」
「へー、そうだったの」
「あ、そうだ」
松実は何か思い出したように廊下へ。
すぐに女性を伴って戻ってくる。
「こちら、第一発見者の丹下紬さんです」
「丹下です」
「これはこれは。えーと、本日は本当に飛んだことで。お察しします。私、警視庁捜査一課の千中高千穂と申します」
「ありがとうございます……」
返事はする紬だが、その目は相手を見ていない。視線が向いているのはテーブルの上。
「あの、刑事さん」
「なんでしょう」
「なんであんなものが置いてあるんですか?」
指差した先にあるのは、松実の夕飯用に高千穂が買ってきたアレである。
「あぁ、あれは我々晩御飯がまだなので。松実ちゃんが食べるシリアルです」
「あの、あれはシリアルではなくドッグフードではないでしょうか」
「はぁ!?」
衝撃の事実に、松実が思わず声を上げる。
対して高千穂はあくまで余裕の様子。他人事だし。
「あれぇ? おかしいなぁ。間違えちゃったかなぁ」
「ドッグフードを食べろと!?」
「そもそもお皿がないので、シリアルだったとしても食べられないと思うんですが。ポテトチップス感覚ならともかく」
「それもそうですね。うふふ」
「うふふじゃないんですが!?」
高千穂は抗議を無視して、話を進めてしまう。これが松実の人生である。
「それよりですね、丹下さん。大変お辛いところ恐縮なんですが。遺体を発見された時のこと、詳しくお伺いできますか?」
「あ、ホントだ! 犬の顔がプリントされてる!」
職務そっちのけでご飯を確認する松実が何か言っているが。紬の耳には届かない。
来た。でも大丈夫。落ち着いて、まえもって考えたとおりに答えればいい。
彼女は目立たないように深呼吸すると、歌詞を覚えるように覚えたストーリーを語る。
「はい。私がライブを終えて控え室に戻ったら、彼女はすでに亡くなっていて」
「待ってください?」
「えっ」
早速高千穂が手で制してくるので、紬は喉がヒュッと鳴った。
え、まさか、私もう何かボロ出した? 嘘?
頭から血が引くのを物理的に感じ取る紬だが、彼女が食い付いたのは全然違うことだった。
「ライブを終えたということは、もしかして、あなたがMUGI.さん?」
「え? あ、はい。そういう名義で活動させていただいてます」
「ほ、本当に!?」
ドッグフードと睨めっこしていた松実もこちらを振り返る。
さっきまではお堅い聴取の雰囲気を出していた二人だが。急に砕けたというか、テンションの高い空気を醸しはじめる。
「いやぁ~これはこれは! 私あなたの大ファンなんです。握手してください」
「ちょっと! ライトなファンなんでしょ? どいてください! MUGI.さんサインください!」
松実が高千穂を押しのけて、メモ帳を差し出してくる。
「あ。でも刑事さん。今聴取中……」
彼も仕事中のはずなのに、ファンって不思議な生き物だな……。
やや引いている紬が高千穂の方を見ると。
彼女は「こいつはこういうやつです」とでも言うように、少し肩を竦める。
「お気になさらず。私は待ちますので、どうかサインしてやってください」
「はぁ。えっと、じゃあ、このメモ帳に書けばいいかな」
「お願いします!」
たまにはサインペンと色紙じゃないのも、オツなものかもしれない。彼女はささっとペンを走らせた。
「はいどうぞ」
「やったあアアアアアア! 警察やっててよかったぁ!」
「えーと、それで。あなたがここに戻ってきたら、現場は既にこうなっていた、と」
有頂天の松実が、完全に職務など忘れた様子ではしゃぐ。
それを肘で押し遣りながら高千穂が話を修正する。まぁ最初に脇道へやったのはこいつだが。
「はい。そっくりそのまま」
「そうですか、ありがとうございます。では一つよろしいですか?」
「なんでしょう」
紬の返事がスイッチかのように、彼女の人差し指がピンと立つ。
「亡くなった桃田さん、荷物番してらっしゃったんですよね」
「はい」
高千穂は軽く周囲を見回す。
「その桃田さんが殺されたわけですが、何か盗られたものはありませんか?」
「あ……。いえ、特に」
少し「しまった」と息を呑む。
確かに状況は見るからに、誰かが控え室に押し入って透子を殺害したわけだが。
強盗でもなかったのなら、他にもっともらしい理由がいる。
「おかしいなぁ。どうして犯人は楽屋に来て、被害者を殺したんだろう」
「……」
紬の予想を裏付けるように、この怪しげなヘルメット刑事(警察手帳を見せた小男が上司扱いしているのだから、偽物ってことはないだろうが)もうろうろしながら呟く。
「何か心当たりはありませんか? そうだな、たとえば……、誰かに恨まれるような」
誰かに恨まれるというワードと、高千穂の横で転がっている透子の姿。
両者が同時に脳内へ流れた瞬間、彼女はあることを思い付いた。
「……そうだ」
「なんでしょう」
今から言うことは大体嘘じゃない。
本当に嘘がうまい人は、全てを嘘で塗り固めるのではなく。本当のことに嘘を混ぜるとか。
だから。せっかくだし君の素行を利用させてもらうよ、透子ちゃん。
「透子ちゃんじゃなくて私なんですけども……。実はストーカーがいまして」
「ほう!」
「これでもアーティストですからまぁ。ありがたいことに、熱心なファンの方がついてくださってるんですけど……。それで脅迫状が届いたりとか」
「それはもう売れに売れてますからねぇ。避けられない宿命かもしれません」
「それであの子、私と間違えて殺されたのかも。私の控え室にいたから……」
なんだか人気アピールっぽくなってしまったが、この業界宣伝してナンボである。衝撃のエピソードも過ぎれば武勇伝になる。
うまく行けば最高のプレゼントになるよ、透子ちゃん。その分君は、私の掛け替えないものを奪ったけど。
アーティストらしく死体にも言葉を贈っていると、
「うふふ、それはないでしょう」
高千穂がニヤリと笑うのでこの世に引き戻される。
「どうしてでしょう?」
「だってあなたライブなさってたじゃないですか。誰だって控え室にいるのが本人じゃないことは丸分かりです」
「あぁ、確かに……」
すると、ようやく気持ちが職務へ戻ったのだろう。松実が牛乳片手に割り込んでくる。
「休憩時間ですよ休憩時間!」
「ん?」
「ライブ中に一回小休止があったじゃないですか。きっと犯人は『舞台上の相手は無理でも、今なら控え室でやれる!』って思ったんですよ!」
「なるほど」
「実際僕も、控え室行ったらMUGI.さんに会えると思って探しましたもん!」
「え、何してくれてるんですか」
「あっ」
正体不明で売っているアーティスト。あからさまに不快な顔をしたので、松実は平謝りすることになった。
しかしそんな身も心も小男を無視して、女性陣は話を進めてしまう。
「まぁ、松実ちゃんの言うことが当たっているかは。のちほど死亡推定時刻を割り出せば、はっきりするでしょう」
「はい」
「ちなみにMUGI.さんはその時間、実際はどこにいらっしゃったんです?」
「舞台袖で着替えてました」
「おや大胆! うふふ、でもまぁなるほど。どうりで五分くらいでステージに戻ってこられたわけです」
「みんなを待たせてもよくないですから」
「ありがたいお心掛けです。あ、そうだ」
柔和にニコニコ微笑んでいた高千穂だが。不意に手をポンッと打って紬へ人差し指を向ける。
「先ほどストーカーというお話がありましたが、その人物に心当たりは?」
「いえ、特には」
紬が素直に答えると、高千穂は口と鼻を両手で覆いながら。やや笑っているような上目遣いで彼女を見据えた。
「となると、状況はまだ危ないかもしれませんねぇ」
「どうしてですか? もうMUGI.さんを殺したと思って襲ってこないのでは?」
平謝りが無視されていることにようやく気付いた松実が割り込む。高千穂は教育番組かのように人差し指を立てる。
「考えてごらん? たとえ被害者を殺したタイミングが休憩時間だとしても。結局すぐライブは再開したんだ。当然音も聞こえて来る。殺したと思った相手が、何事もなくライブを続けてたら。いくらなんでも殺せてないこと、人違いに気がつくよ」
「確かに」
「だからもし、犯人が執念深かったら。今でも近くでチャンスを窺ってるかもしれない」
「ありえますね」
高千穂は改めて紬の方へ向きなおる。
「お住まいはどちらですか?」
「えっと、和歌山ですけど」
「ということは、本日はホテルへお泊まりになる」
「そうです」
彼女は少し考えるような仕草をすると、
「でしたら。犯人が捕まっていない現状、お一人でお帰りになるのは危険ですので。警察の増援が来たら、パトカーでホテルまでお送りします。ホテルにも警官を数名お付けしまして……、よろしいですか?」
窺うように紬の瞳を覗き込む。
「はい。ありがとうございます」
「それと、犯人がストーカーの線を考えると。しばらく和歌山にお帰りになるのも控えた方がいい。あなたがライブを終えて戻ると踏んで、そちらへ向かうだろうし。そもそも普段からストーキングされているなら。おそらく向こうの根城も和歌山でしょう」
「でしょうね」
「ホテルの滞在費用は我々が負担しますので、お気になさらず。ドラマでよく見るあれです」
「何から何まで、本当にありがとうございます」
紬は慇懃に頭を下げるが、高千穂はそれを見ずに一人で手をポンと叩いている。
「あと、あなたがMUGI.であることをご存知の方って、どのくらいおられます?」
「えーと、ほんの数人ですけど」
「一応その方々のリストとか上げといていただけますか? それと、聴取もしたいので。東京以外の方も地元に帰らないよう言ってくださると助かります」
「分かりました。ただ、そうなると彼女たちの滞在費用も」
「持ちます待ちます。松実ちゃん、書類作って出しといてね」
「僕!?」
めんどくさい作業を部下へ丸投げできるのは上司の特権(だからと言って誉められたものではない)。
彼女は嫌がる松実を意図的に視界から外すと
「ま、今はこんなところかな」
一息吐いて椅子に腰掛け、ハンバーガーを手に取った。
「最近のコンビニハンバーガーは美味しいですよねぇ。立派な企業努力です。うふふ、私は昔の、妙にしなしななバンズも嫌いじゃなかったんですけども」
「千中さん! 僕にも分けてください! ドッグフードなんて食べられません!」
「自分で出前でも取りなさい」
「そんなぁ!」
「あ、そうだ丹下さん」
もそもそ包装を剥がす高千穂の手が止まる。
「なんでしょう」
「亡くなった桃田さん、荷物番以外に何か役割とかありましたか?」
「え……」
紬は脳が固まる感覚を味わった。
どうしてそのことを? いったいどこから? 何かミスが? もしかしてもう全てバレて……
「え……、と。いえ、特には……」
「そうですか。ありがとうございます」
「どうしてそんなこと聞くんですか?」
聞きたかったことを松実が代わりに聞いてくれる。なかなか便利である。
対して高千穂は、何やら楽しそうな声で答える。
「被害者が殺されたのはここじゃないんだよ」
「えぇっ!?」
「……どういうことでしょう」
彼女はハンバーガーを置いて椅子から立ち上がり、大仰な動きで床を指差す。
「ご覧ください。床が全然汚れていない。刺された現場がここなら、床に血が流れて汚れるはずなんです」
「でも、傷口をタオルで押さえてますよ? 止血ばっちり」
松実が反論すると、高千穂はあからさまに「何言ってんだこいつ」という顔をした。
「ナイフで刺された人間が。血を一滴も溢さず即座にタオルで覆うなんて、できるわけないでしょ」
「なるほど」
「そのうえ室内は椅子も倒れてないし、そこ」
続いてテーブルの上を指差す。そこには、透子が散々飲み食いしていた寛ぎセット。
「あれが何か?」
「お茶が溢れてすらいない。争った形跡がないんだよ。やっぱり他所で殺されてると思うんだなぁ」
「となると、トイレにでも行った時でしょうか」
一応紬も協力的な態度を示すべく、そしてせめて少しでもミスリードすべく。見解を述べてみる。
「ですね! トイレ調べてきます!」
松実が天啓を受けてラリった信者かのように、廊下へ飛び出していく。彼も『熱心なファン』の一人かもしれない。
しかし高千穂はやはり、彼とは違うようだ。あごに手を当て、立ち止まっている。
「んー」
「どうかしましたか?」
「いえね? トイレなのかなぁ、と思って」
「それはどういう……」
質問文を言い切るまえに、彼女は質問を被せてくる。
「丹下さん。本当に桃田さん、荷物番以外の役割はなかったんですね?」
紬はギクリと肩が跳ねるところだった。
なぜこの人はそこにこだわるの? 私が一番触れられたくないところに。
まさか私が透子ちゃんを舞台袖に呼び出したことがバレてるの?
しかし彼女は、あくまで平静を装う。
「……いえ、ございません」
すると高千穂はあっさり微笑んだ。
「そうですか。それよりお腹空いたんで、失礼して晩ご飯を」
「あ、どうぞ」
許可をもらった彼女は再度ハンバーガーを手に取り、
「うふふ、……ん?」
「どうしました?」
急に妙な呟きとともに静止。
気になった紬が近寄ると、高千穂はテーブルの上のあるものを指差す。
そこには
「ドッグフードの封が開いてる……」
「え……」
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