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第12章 知ってしまった深い愛と絶望

12-3 傍にいたいんだけど

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 目を開けるとカーテンの隙間は少し、明るくなっていた。

「もうすぐ朝……」

 デジタルメモはいつの間にか、電源が落ちている。
 キーの上に手をのせたまま、眠っていたみたいだ。

「まだ頑張れる、から……」

 再びキーに手をのせ、猛然と叩き出す。

 昨日まで書いていた、完成間近の例の小説は破棄した。
 そして新たに、小説を書いている。

 ――深い愛情と絶望を、知ったから。

 ――ガンガンガン、ガンガンガン!

「紅夏、生きてる?
紅夏!?」

 遠くで、立川さんの声がする。

「紅夏?
紅夏!?」

 もー、いま気持ちよく寝ているんだから……って!
 がばっと、突っ伏して眠っていた机から思いっきり起き上がる。

「はい!
ちょっと待ってください!」

 戸をがたがたやっている立川さんは破壊も辞さない勢いで、慌てて鍵を開けた。

「紅夏!」

 待てないかのように戸が開く。
 しかもいきなり、抱きつかれた。

「心配したんだよ。
電話しても出ないし、呼んでも返事がないから」

「すみません、書きながら寝落ちてました……」

「とにかく無事でよかった」

 立川さんは涙さえ浮かべていて、思わず胸がきゅんと音を立てる。

「はい、本当にすみません」

 よしよしって、……子供扱いですか!?

「本当によかった。
そういえば、朝ごはんは食べた?」

「いえ、まだですけど……」

「じゃあ、一緒に食べよう。
美味しいパン屋で買ってきたんだ」

 持ってきた袋を立川さんが掲げてみせる。

「……はい」

 私も笑って、彼を中へ入れた。


 私がやるって言ったけれど、立川さんは座っていてと紅茶を淹れてくれた。

「紅夏の家ってコーヒーがないんだね。
僕はコーヒー派なんだけど、今度、買ってきていいかな」

「はい」

 ……って。
 これってもしかして、たびたびうちに来るので、自分用のを置いていていいかってことですか。

「猫のお皿、空だけど、餌を入れてもいいかな」

「えっ、そんなこと私がやりますよ!」

「いいから僕にさせて。
だって、セバスチャンと仲良くなりたいし。
……餌はこれ?
カップ一杯でいい?」

「じゃあ、お願いします」

 立川さんは鼻歌さえ歌いそうな感じでセバスチャンのお皿にごはんを入れているけれど。
 当のセバスチャンといえば、ドアの影からじっと警戒して見ている。
 喜んで飛んでいく、松岡くんのときとは大違い。

「じゃあ、食べようか」

「はい」

 手を洗ってきた立川さんと一緒に、買ってきてくれたパンを食べる。
 美味しいお店だということだったけど、ツナサンドは私が苦手な酸っぱい奴だった。

「美味しかったです、ごちそうさまでした」

「うん。
紅夏はまた、いまから書くの?」

「できればそうしたいんですけど……」

 ちらっと立川さんをうかがう。
 書きたいのは山々だが、彼がいるとなればそういうわけにはいかない。

「僕のことは気にしないで。
紅夏が書きたいのなら書くのが一番だと思うし。
でも、今日は休みだし、ここにいていいかな」

「え?」

 集中したいのでできればひとりにしてほしい。
 それにもし集中してしまったら、立川さんの存在なんて忘れてしまうだろうから、悪いし。

「紅夏が心配なんだ。
あんなことがあったばかりだろ?
また、松岡がなにかしてこないとは限らないし」

 どんどん、立川さんの顔が曇っていく。
 そんなに心配してくれているのだと、申し訳なくなってくる。

「あと、僕の好きな紅夏の傍に少しでも一緒にいたいんだけど。
……ダメ、かな」

 小首を傾げて可愛く聞かれたもーダメ。
 私の首は勝手に縦に振っている。

「よかったー」

 ぱーっと立川さんの顔が輝く。
 そういうのほんと、眩しいです。


 仕事部屋に戻り、デジタルメモを立ち上げる。
 蒼海文芸大賞の締め切りまでもう、一ヶ月しかない。
 ほぼ初稿の状態で出すことになるだろうが、それでもどうしても出したかった。

「その前に……」

 携帯を手に取るが予想通り、充電が切れていた。
 苦笑いで充電器を差し込み、電源を入れる。
 画面にはいくつも立川さんからの着信が通知されていた。

「ほんと、すみません」

 こんなに心配させることになるのなら、これからは充電切れなんてないようにしないと。
 着信履歴の中にはひだまり家政婦紹介所からのものもあった。

「松岡くんの件だよねー」

 少し迷って、着信履歴をタップして電話をかける。

 ――プルルルッ。

 呼び出し音を聞きながら、今日は土曜日だと気づいた。

 ……もしかして、休みかな。

『はい、いつもお世話になっております、ひだまり家政婦紹介所です』

 思いがけず繋がって、一瞬言葉を失った。
 が、すぐに気を取り直して口を開く。

「そちらに家政夫をお願いしている、葛西と申しますが」

『葛西様ですね。
少々お待ちください』

 待っている間、携帯を持つ手がじっとりと汗を掻いてくる。

『お電話代わりました、林と申します。
昨日、松岡の方から契約解除だとうかがっておりますが間違いないでしょうか』

「はい、間違いないです。
松岡くんは――」

 私を騙して卑劣な嫌がらせをしていたから。
 そう言いかけて口をつぐむ。

『松岡がいかがいたしましたでしょうか。
もし、なにかございましたのならなんなりと仰ってください』

「いえ、なんでもないです」

 別にこれが知れて彼がクビになったら可哀想……などと思っていない。
 思っていないのだ。

 ただ、説明が面倒だっただけ。
 本当にそれだけ。

 それにきっと、彼が警察に呼ばれたりすれば自然と会社にも伝わるだろうし。

『では、解約の書類をお送りいたしますので、そちらにご署名の上、返送をお願いいたします』

 すんなりと解約できそうでほっとした。
 が、問題がもうひとつある。

「あの」

『なんでしょう?』

「松岡くんが置いていった荷物があって。
できれば取りに来ていただけないでしょうか。
その、……松岡くん以外の人が」

『……松岡がなにかいたしましたでしょうか』

 林さんの声はこちらを探っているようだ。
 まあ、社員がなにか問題行動を起こしたとなると、会社としては大問題だもんね。

「いえ、別に。
とにかく、彼以外の方でお願いします」

『かしこまりました、のちほど私がお伺いいたします。
そうですね……十三時頃とかいかがでしょうか』

「はい、それでお願いいたします」

『ではのちほど、お伺いいたします』

 電話を切ってほっと息をつく。
 とりあえず松岡くんには会わずにすみそうだ。

 気の重い用件が済み、今度こそデジタルメモのキーの上に手をのせる。

 ……早く、これを書いてしまわなきゃ。

 深呼吸をしてキーを叩きはじめる。
 立川さんがいたら集中できないかも、などという心配は杞憂に終わった。
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