残り香

霧内杳/眼鏡のさきっぽ

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最終話 愛してる

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「柴崎さん……」
「おまえがいつまでもあぶなっかしーから目が離せないだろ」
 死神の口から出たのはいつも柴崎さんが口癖のように言っていた言葉だった。
 そっとフードを落とすと、眼鏡の奥で柴崎さんが笑っている。
「柴崎さん、柴崎さん、柴崎さん……」
 いままで泣けなかったのが嘘のように、涙がどんどん溢れてくる。
 泣きじゃくる私をそっと、柴崎さんは片手で抱き寄せた。
 柴崎さんが死神になって私の前に現れるなど、都合のいい夢を見てるんだろうか。
 けれど夢だろうとなんだろうとかまわない。
柴崎さんがいま、私の前にいるという事実さえあればいい。
「柴崎さんが好き。柴崎さんが好きなんです」
「そっか。ありがとうな」
 柴崎さんは私の身体を離すと、指で涙を拭ってくれた。
 嬉しそうに目を細め、柴崎さんが笑っている。
 それだけで幸せで、せっかく拭ってもらったのまた涙が溢れてくる。
「一緒にあの世に連れて行ってください」
「ダメだ」
 きっぱりとした声に身体がびくんと固まって涙が止まった。
 強い意志を込めた瞳で柴崎さんは私を見つめている。
「ダメだ。水城はまだ生きろ」
「なん、で……」
 どうして拒否されるのかわからない。
 柴崎さんはそのために私のところに来たはずなのだ。
「おまえが今日、死ぬ予定になってるのは俺のせいだ。俺が死ななければおまえはこんなに早く死ぬはずじゃなかった。すまん」
 あたまを下げられても困る。
 柴崎さんが死んだのは柴崎さんが悪いんじゃない。
「おまえはもともと定まっていた寿命をちゃんと生きろ。わかったな」
「どうして」
 とん、俯いて柴崎さんの胸を拳で叩く。
「どうしてそんなこと言うんですか? 柴崎さんがいないなら、生きていてもしょうがない」
 責めるようにどんどん胸を叩き続けるが、反応はない。
 涙は再びぼろぼろとこぼれ落ちていく。
「柴崎さんが好きなんです。もう離れたくない。一緒にあの世に連れて行ってください」
「……すまない。それはできない」
 一瞬、柴崎さんの両手が私の背中にふれて離れる。
 再びこわごわふれたその手は、私をぎゅっと抱きしめた。
「本当に、すまない」
 いままで泣けなかった分を取り戻すかのように、涙はこぼれ落ち続ける。
 ひたすら子供のように泣きじゃくる私を、柴崎さんは黙って抱きしめていてくれた。
 泣きすぎてぼーっとなったあたまで、柴崎さんに縋りつく。
 死神のくせに柴崎さんの身体は生者のように温かく、安心できた。
「……なんで、私のところに来たんですか」
 来たのが柴崎さん以外の死神なら、私はあの世に逝けてたのだ。
 もしお迎えは知り合いが、とかいう規則でもあるのなら勘弁して欲しい。
「おまえから目が離せなかったからに決まってるだろ。あぶなっかしーからな、おまえは」
「……ひどい」
 くいっと柴崎さんがブリッジを人差し指であげるのがなんか得意げに見える。
 それが少しおかしくなってふふっと小さく笑いが漏れた。
「でも事実だろ。あんなに無茶して仕事しやがって」
「……ごめんなさい」
 死んでまで心配をかけていたのは大変申し訳ない。
「死んで、あの世には逝ったんだ。でも転生するのには時間がかかるらしい。ほら、いま少子化で子供が少ないだろ」
「はい」
 まさか、現世の事情があの世に影響しているなんて思わなかった。
 柴崎さんも意外だったらしく、おかしそうにくすくすと笑っている。
「待ってるあいだ、死神になって仕事すれば現世に行けるっていうし。あの世は全面禁煙だからな。煙草吸いたかったし」
 またくいっと眼鏡を押し上げた柴崎さんの、眼鏡の弦のかかる耳は赤くなっている。
 もしかして煙草は口実で、私の様子を見に来たかったのだろうか。
 そうだとしたら、嬉しい。
「今日の名簿に水城の名前が載ってるのを見つけて、担当を変わってもらったんだ。俺の死がこんなにおまえを苦しめるなんて知らなかった。……すまない」
 再びあたまを下げる柴崎さんにふるふると首を横に振る。
 まだ納得したくなかったが、柴崎さんの死はしょうがないものだったのだ。
 目の前で車に轢かれそうになっている子供がいれば、柴崎さんは迷いなく助けるだろう。
 それが私が好きになった、柴崎真人まことという人間なのだから。
 それに死んでまでも柴崎さんをこんなに心配させている自分が情けない。
 こんなことをしていれば、柴崎さんに怒られるのはわかっていた。
 わかっていた時点でやめるべきだった。
「私も心配かけて、すみませんでした」
「わかればいい」
 ぽんぽん、私のあたまにふれた柴崎さんの手は、相変わらず優しい。
 そっと甘えるように柴崎さんに寄りかかりながら、あとどのくらいこうしていられるのか気になった。
「柴崎さん」
「ん?」
 愛おしそうに柴崎さんが私の髪を撫でる。
 しかしその身体からはきらきらと細かい光の粒が静かに立ちのぼり、少しずつ消え始めていた。
「柴崎さん!」
「ん? ああ」
 消えていく自分の身体を確認してもなお、柴崎さんは笑っている。
「生者に干渉して死亡予定を変えるのは厳罰なんだ。魂を消される」
「なら、なんで!」
 そんなに重い罪なら私の魂などさっさと回収すればよかったのだ。
 生きろなどと説得などせずに。
 こんな状況になっても柴崎さんは笑っている。
 うっとりと柴崎さんの両手が、私の頬にふれる。
「それでも野乃花に生きていて欲しかった」
 初めて、柴崎さんの唇が私の唇にふれた。
 抱きしめると腕は虚しく宙を切る。
「野乃花、愛してる」
「柴崎さん!」
 私の耳にかろうじて届いた柴崎さんの声を最後に、光の粒は全部消えてしまった。
「柴崎さん! 柴崎さん!」
 さっき一生分泣いたかというほど泣いたはずなのに、涙は再びこぼれ落ちていく。
 ――そして。


 目が覚めると泣いていた。
「なんで……」
 とても幸せでとても悲しい夢を見ていた気がする。
 柴崎さんが死神になって私の元に現れる夢。
 時刻を確認すると携帯の画面の表示は七時になっていた。
 そろそろ出勤の準備をしなければいけないが、ここのところずっと不休で働きづめだったから、久しぶりに休んでもいいかと思う。
「ほんとに夢、だったのかな……」
 夢の中でした、柴崎さんとのキスの感触が唇にある。
 ほんのりと温かく柔らかいこの感触は、夢だとは思えない。
 それに柴崎さんの最後の言葉がいつまでも耳に残っていた。
「あれ……?」
 部屋の中で煙草のにおいがするのに気がついた。
 私は煙草を吸わないのに。
 煙草の残り香はあれは夢ではなかったと私に直感させた。
 確かに、柴崎さんは私に会いに来てくれたのだと。
「私は生きるよ、柴崎さんの分まで」
 浮いてきた涙を私は、ぐいっと力強く拭い去った。

【終】
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