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シャンプー~私と課長のハジメテの夜~
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無言の彼と、手を繋いで歩く。
気まずいような心地いいような、微妙な沈黙。
私より五つ年上の彼――嶋貫課長は私がずっと、憧れていた人だ。
その彼の家に今日、泊まるだなんて誰が想像できただろう。
きっかけは些細なこと。
今日の飲み会で私は、おじさん社員からセクハラを受けていた。
「ほら井町さん、お酌してよ」
「はぁ……」
曖昧に笑い、酒臭い息を吐きかけてくるおじさん社員のグラスへビールを注ぐ。
私が絡まれていても他の人たちは見て見ぬフリ。
自分に被害がおよぶのは嫌だろうし、――それに。
「井町さんっておとなしいよねー。
……あ、飲んでる?」
「はぁ……」
また、曖昧に笑って自分のグラスに口をつける。
おとなしい、というより地味な私がどんな被害に遭っていようと、関心がある人なんているわけがない。
部内のマドンナ、桃園さんが同じ目に遭っているなら別だろうけど。
「ほら、ぐーっと飲んで、ぐーっと」
お酒はあんまり、得意じゃない。
断りたいけど断れない雰囲気。
意を決してグラスの中身を一気に空ければ、あたまがくらくらした。
「いい飲みっぷりだねー」
断れないうちに強引に、おじさん社員がグラスにビールを注いでくる。
「井町さんって彼氏いなさそうだねー」
「はぁ……」
それしか返す言葉がないので、そればかり出てきた。
はっきりなにも言わず、笑って受け流している自分が悪い自覚もあるが、どうしていいのかわからない。
「もしかして処女なんじゃないの?」
ぴくっ、と指が反応する。
そんなの、言われたくない。
けれど私はなにも言えずに笑顔を貼り付けることしかできなかった。
「おじさんが卒業させてあげようか」
にたり、と彼の目がいやらしく歪み、背筋に寒いものが一気に駆け抜けていく。
「あ、ほら、それもぐいっと空けちゃいなよ」
またにたりと彼の目が歪む。
酔わせて、襲う気。
我慢の限界がきて、口を開きかけた、が。
「……!」
不意に、私の手の中からグラスが消えた。
――ゴクゴクゴクゴク!
一気にそれを飲み干し、ぷふぁーっと息を吐いたその人は、その銀縁眼鏡と同じくらい冷たい目でおじさん社員を見下ろした。
「いままでの発言と行動、問題にさせてもらいますから」
「ひぃっ」
ぎろっと眼光鋭くその人――嶋貫課長に睨まれ、おじさん社員が小さく悲鳴を上げる。
そのままおじさん社員は腰が抜けたかのように這って、人のいない部屋の隅へと凄いスピードで去っていった。
「……あのさ」
どさっ、と嶋貫課長が私の隣へ腰を下ろす。
くるくると空いたグラスを弄びながら、彼は説教をはじめた。
「ああいうのにははっきり言わなきゃダメ。
でも、言う前に止めたのは俺だけど」
「……なんで」
「だって井町、あのままだったらあいつ、ひっぱたいてただろ」
図星なだけに言い返せない。
「それだと、井町に正当な理由があっても問題になっちゃうの。
過剰防衛ってわかる?」
「……はい」
嶋貫課長の言うことはもっともだ。
私が冷静に、あのおじさん社員へセクハラだと告げられていればよかっただけの話。
「あー……、それがダメだって言ってるわけじゃないの。
むしろ、よくやった! って褒めたいくらいだし」
くるくる、くるくる。
嶋貫課長はグラスを弄び続ける。
「でもさ、過剰防衛で問題になっちゃうと、あのおじさん、ますます調子に乗っちゃうでしょ?
だから、止めた。
それに俺には、それなりの権力もあるし?」
こっちを向いた彼が、にやっといたずらっぽく右の口端だけを上げて笑う。
その顔にさっきのビールがまだ残っているかのようにかっと顔が熱くなった。
「その、……ありがとう、ございます。
嬉しかったです」
真剣に嶋貫課長へあたまを下げる。
私に不利にならないように、そして最大限おじさん社員へダメージを与えてくれた。
きっと私じゃなく、部下だからだろうけど、それでも嬉しくないわけがない。
「あー……」
ちらっとだけ私を見て、彼は顔を膝の間に沈めた。
「そういう可愛いの、他の男の前でやったらダメだからな」
「え?」
かしかしと、彼の空いている左手が後頭部を掻いている。
意味がわからなくて思わず首がかくんと横に倒れた。
「あー、悪い。
ただの独占欲」
「独占欲……ですか?」
ますますわけがわからなくて、身体が斜めになっていく。
「だからー、そんなに可愛いと俺が襲っちゃうよ? ……って話。
あ、いや、これじゃ俺も、あのおっさんのこと言えないな」
がばっと勢いよく顔を上げたかと思ったら、目の前のビール瓶を掴んでグラスに注ぎ、嶋貫課長は一気に飲み干した。
「わ、私は、その、嶋貫課長にだったら、……襲われたい、って……いうか」
「……は?」
彼の目が、その眼鏡のフレームと同じくらい大きく見開かれる。
自分でもなにを言っているんだろうとは思うが、きっとさっき飲んだビールで少し、気が大きくなっている。
「なに言ってんの?
それ正気?」
冗談だとしか思っていないのか、笑いながら嶋貫課長はグラスにさらにビールを注ごうとした。
が、瓶は空だったらしく、テーブルに戻す。
そんな彼の袖を熱くて上げられない顔でそっと引いた。
「確かに酔っているかもしれません。
でも、本気、……です」
「あー……」
困惑した声と、がしがしとあたまを掻く音が聞こえてくる。
私はただ、彼を困らせているだけなんだろうか。
困らせるしかできないのならいっそ、取り消した方が。
「……なら、抜けようか」
唐突にぼそっと耳もとで囁かれ、驚いて顔を上げる。
レンズ越しに目のあった嶋貫課長は右頬だけを歪めて人の悪い顔でにやっと笑った。
「どうする?」
唇に僅かな笑みをのせたまま、嶋貫課長が私をじっと見つめる。
その挑発するような顔に知らず知らず喉がごくりと音を立てた。
「……はい」
「なー、井町、酔ってるみたいだから送っていくわー」
返事をした瞬間、嶋貫課長は全員に聞こえるように声を出した。
「ほら、行くぞ」
「あ、はい!」
促されて、荷物を持って立ち上がる。
慌てて立ったせいか足がもつれて、本当に酔っ払っているかのようだった。
「あぶねーな」
さりげなく、嶋貫課長が支えてくれる。
ふわっと香った、ムスクの匂いにどきっとした。
「ほら、こんな具合だから。
あと頼むなー」
気をつけてー、なんて声に送られて会場になっていた居酒屋を出る。
通りに出てすぐに、嶋貫課長はタクシーを拾った。
「――まで」
彼が告げた場所は最寄り駅でも私の住所でもないからきっと、彼が住んでいる場所なんだろう。
嶋貫課長はずっと、窓に頬杖を突いて黙って外を見ている。
私もどうしていいかわからずに、なにも言わずに俯いていた。
「なあ。
本当に俺でいいの?」
視線はずっと外、なので彼がどんな顔をしているのかなんてわからない。
「はい」
「後悔、しない?」
「しないです。
私はずっと、嶋貫課長がその、……好き、だったから」
「そう」
それっきり彼は再び黙ってしまい、会話は続かない。
もしかして二十七の処女をもらってくれとか迷惑な話だったんだろうか。
後悔はしないと言ったばかりなのに、違う後悔が襲ってくる。
嶋貫課長がタクシーを停めたのは、コンビニの前だった。
「ここ……ですか?」
「いや、もうちょっと先。
うち、飲みもんとかなんもないから、買わないとだろ」
コンビニへ入っていく彼を追う。
「あの、お気遣いは無用ですので」
「あー……。
俺が、飲みたいの。
飲み足りないの、さっきのじゃ」
嶋貫課長の顔が唇が触れてしまいそうなほど至近距離まで近づいて、思わず背中がのけぞった。
「あ、はい。
わかりました……」
「うん」
私の返事で満足したのか、嶋貫課長はカゴを手に店内をうろうろしはじめた。
することがない私も、適当に店内を見て回る。
「あ……」
化粧品コーナーでふと気づく。
今日はたぶん、嶋貫課長のお宅にお泊まりになるわけで。
そうなると、基礎化粧品とか持ってきていないわけで。
「買っといた方がいいよね……」
最近のコンビニは気が利くというか、お泊まり用に小分けパックになっているのがあって非常に助かる。
「あ、シャンプーとかも買っとけよ。
うち、女性用なんてないからな」
「ひっ」
突然、後ろから手がにゅっと出てきて、目の前のシャンプーセットを掴んだ。
おかげで悲鳴が出てしまう。
「なんだ、変な声出して?」
「あ、いえ……」
不意打ち、は心臓に悪いです。
……でも。
『うち、女性用なんてないから』
それってここ最近、付き合っている女性はいないって思っていいですよね。
少なくとも、同棲している女性はいないのは確か。
まあ、そうじゃないと私を誘ったりしないだろうけど。
「ほら」
ぐいっと、嶋貫課長がカゴを差し出してくる。
「いえ、自分で買いますので……」
「いいよ、そんくらい買ってやる」
くいっとなぜか、嶋貫課長は眼鏡をその大きな手で覆うようにあげた。
「じゃあ……」
数本のビールと、おつまみの入ったカゴの中に基礎化粧品セットと、シャンプーのセットを入れる。
「あとお前のお茶とかコンビニスイーツとか入れろ」
「あの……」
「いいから」
なんだか有無を言わせないから、適当にいつも飲んでいるお茶とプリンを入れた。
レジに向かい、一緒に並んで会計を待つ。
上から順に店員がバーコードを通していき、おつまみの下から小さな箱が出てきた。
なんだろ、とか思っているうちに店員がバーコードを通す。
液晶画面に出てきた商品名は「コンドーム」だった。
「……!」
一気に顔が熱を持つ。
これって、こんなに堂々と買うものなんだろうか。
それに男女で一緒にこれをお買い物って、いかにもいまからヤります! って……。
「ああ。
恥ずかしいか?」
お金を払って店員から袋を受け取りながら、嶋貫課長が聞いてくる。
なにも言えない私はただ、熱い顔で黙ってこくこくと頷いた。
「でも俺が、それだけ由希恵を大事にしたい、って証だから」
さりげない名前呼びでつい、彼を見上げる。
顔を上げたら、嶋貫課長がくいっと眼鏡をあげたところだった。
街灯で光ったレンズが得意げに見えたけど、弦のかかる耳は真っ赤になっていた。
「手でも繋ぐか」
嶋貫課長が、空いている左手を差し出してくる。
おそるおそるその手に、自分の手をのせた。
のせた途端、指を絡めて彼が握ってくる。
「なんかあれだよな、初カノができたときを思い出す」
そのまま嶋貫課長は黙ってしまったけれど、楽しそうに繋いだ手が揺れた。
きっと私だけじゃなく、彼もドキドキしてくれている。
嶋貫課長でよかった。
着いたのはちょっと立派なマンションだった。
適当に座っていて、そう言われてうちより広いリビングの、黒い革張りソファーに座る。
すぐに冷蔵庫へ買ったものをしまった嶋貫課長が、隣に座ってきた。
「由希恵」
そっと嶋貫課長の手が私の頬に触れ、眼鏡の下の目がまるで眩しいものでも見るかのようにうっとりと細められる。
「好きだ」
ゆっくりと彼の顔が近づいてきて、目を閉じる。
すぐに柔らかいそれが唇に触れた。
「……ん」
触れては離れ、離れては触れるそれがもどかしくて、甘い吐息が鼻から抜けていく。
そのタイミングを待っていたかのようにぬるりと肉厚なそれが唇を割って入ってきた。
「……ん……ふっ……」
静かな室内に、密やかに情欲に濡れた吐息の音が響き出す。
あたまの芯が甘く痺れ、なにも考えられない。
唇が離れたときにはぐったりと、嶋貫課長に寄りかかっていた。
「嶋貫、課長……」
情に溺れた瞳で彼を見上げる。
「ん?」
見上げた眼鏡の向こうから、欲に濡れた瞳が私を見ていた。
「琉生」
「え?」
「琉生、だ」
彼の手が私の頬に触れ、濡れた唇を親指がなぞる。
「りゅう、せい……」
「ん」
よくできましたと言わんばかりにまた、嶋貫課長――琉生の唇が重なる。
次に離れたときは、寝室に連れていかれた。
ベッドに押し倒されて、唇を貪られる。
そのまま――。
「痛かったらごめんな」
何度も絶頂を味わわされ、朦朧としたあたまで琉生がゴムを着けるのを見ていた。
ちゅっと軽く唇を重ねたあと、ゆっくりと彼が入ってくる。
痛くて悲鳴が出そうだったけれど、飲み込んだ。
彼もつらそうに顔を歪ませていたから。
「はい、った……」
ほっと息を吐いた琉生が、まるで褒めるみたいに私の髪を撫でてくれた。
それがなんだか、嬉しい。
「痛くないか?」
心配そうに彼の手が、目尻の涙を拭ってくれる。
まだ痛かったけど心配させたくなくて首を横に振った。
「そうか」
目を細めて、本当に幸せそうに琉生が笑う。
その顔に胸がきゅんとときめいたし、実際、私も彼と結ばれて幸せだった。
そのあとも琉生は最後まで私を大事にしてくれた。
こんな人に私の初めてを捧げられて幸せだ。
「由希恵」
疲れてうとうとしていたら、ゆっくりと琉生が髪を撫でてくれる。
それが凄く気持ちいい。
「一生、大事にするから」
それってプロポーズみたいですよ、なんてツッコみたいけど眠くて声が出ない。
そのまま眠ってしまったんだけど……。
まさか、本当に琉生がプロポーズのつもりだっただなんて、知るのはあとほんの少し先の話。
【終】
気まずいような心地いいような、微妙な沈黙。
私より五つ年上の彼――嶋貫課長は私がずっと、憧れていた人だ。
その彼の家に今日、泊まるだなんて誰が想像できただろう。
きっかけは些細なこと。
今日の飲み会で私は、おじさん社員からセクハラを受けていた。
「ほら井町さん、お酌してよ」
「はぁ……」
曖昧に笑い、酒臭い息を吐きかけてくるおじさん社員のグラスへビールを注ぐ。
私が絡まれていても他の人たちは見て見ぬフリ。
自分に被害がおよぶのは嫌だろうし、――それに。
「井町さんっておとなしいよねー。
……あ、飲んでる?」
「はぁ……」
また、曖昧に笑って自分のグラスに口をつける。
おとなしい、というより地味な私がどんな被害に遭っていようと、関心がある人なんているわけがない。
部内のマドンナ、桃園さんが同じ目に遭っているなら別だろうけど。
「ほら、ぐーっと飲んで、ぐーっと」
お酒はあんまり、得意じゃない。
断りたいけど断れない雰囲気。
意を決してグラスの中身を一気に空ければ、あたまがくらくらした。
「いい飲みっぷりだねー」
断れないうちに強引に、おじさん社員がグラスにビールを注いでくる。
「井町さんって彼氏いなさそうだねー」
「はぁ……」
それしか返す言葉がないので、そればかり出てきた。
はっきりなにも言わず、笑って受け流している自分が悪い自覚もあるが、どうしていいのかわからない。
「もしかして処女なんじゃないの?」
ぴくっ、と指が反応する。
そんなの、言われたくない。
けれど私はなにも言えずに笑顔を貼り付けることしかできなかった。
「おじさんが卒業させてあげようか」
にたり、と彼の目がいやらしく歪み、背筋に寒いものが一気に駆け抜けていく。
「あ、ほら、それもぐいっと空けちゃいなよ」
またにたりと彼の目が歪む。
酔わせて、襲う気。
我慢の限界がきて、口を開きかけた、が。
「……!」
不意に、私の手の中からグラスが消えた。
――ゴクゴクゴクゴク!
一気にそれを飲み干し、ぷふぁーっと息を吐いたその人は、その銀縁眼鏡と同じくらい冷たい目でおじさん社員を見下ろした。
「いままでの発言と行動、問題にさせてもらいますから」
「ひぃっ」
ぎろっと眼光鋭くその人――嶋貫課長に睨まれ、おじさん社員が小さく悲鳴を上げる。
そのままおじさん社員は腰が抜けたかのように這って、人のいない部屋の隅へと凄いスピードで去っていった。
「……あのさ」
どさっ、と嶋貫課長が私の隣へ腰を下ろす。
くるくると空いたグラスを弄びながら、彼は説教をはじめた。
「ああいうのにははっきり言わなきゃダメ。
でも、言う前に止めたのは俺だけど」
「……なんで」
「だって井町、あのままだったらあいつ、ひっぱたいてただろ」
図星なだけに言い返せない。
「それだと、井町に正当な理由があっても問題になっちゃうの。
過剰防衛ってわかる?」
「……はい」
嶋貫課長の言うことはもっともだ。
私が冷静に、あのおじさん社員へセクハラだと告げられていればよかっただけの話。
「あー……、それがダメだって言ってるわけじゃないの。
むしろ、よくやった! って褒めたいくらいだし」
くるくる、くるくる。
嶋貫課長はグラスを弄び続ける。
「でもさ、過剰防衛で問題になっちゃうと、あのおじさん、ますます調子に乗っちゃうでしょ?
だから、止めた。
それに俺には、それなりの権力もあるし?」
こっちを向いた彼が、にやっといたずらっぽく右の口端だけを上げて笑う。
その顔にさっきのビールがまだ残っているかのようにかっと顔が熱くなった。
「その、……ありがとう、ございます。
嬉しかったです」
真剣に嶋貫課長へあたまを下げる。
私に不利にならないように、そして最大限おじさん社員へダメージを与えてくれた。
きっと私じゃなく、部下だからだろうけど、それでも嬉しくないわけがない。
「あー……」
ちらっとだけ私を見て、彼は顔を膝の間に沈めた。
「そういう可愛いの、他の男の前でやったらダメだからな」
「え?」
かしかしと、彼の空いている左手が後頭部を掻いている。
意味がわからなくて思わず首がかくんと横に倒れた。
「あー、悪い。
ただの独占欲」
「独占欲……ですか?」
ますますわけがわからなくて、身体が斜めになっていく。
「だからー、そんなに可愛いと俺が襲っちゃうよ? ……って話。
あ、いや、これじゃ俺も、あのおっさんのこと言えないな」
がばっと勢いよく顔を上げたかと思ったら、目の前のビール瓶を掴んでグラスに注ぎ、嶋貫課長は一気に飲み干した。
「わ、私は、その、嶋貫課長にだったら、……襲われたい、って……いうか」
「……は?」
彼の目が、その眼鏡のフレームと同じくらい大きく見開かれる。
自分でもなにを言っているんだろうとは思うが、きっとさっき飲んだビールで少し、気が大きくなっている。
「なに言ってんの?
それ正気?」
冗談だとしか思っていないのか、笑いながら嶋貫課長はグラスにさらにビールを注ごうとした。
が、瓶は空だったらしく、テーブルに戻す。
そんな彼の袖を熱くて上げられない顔でそっと引いた。
「確かに酔っているかもしれません。
でも、本気、……です」
「あー……」
困惑した声と、がしがしとあたまを掻く音が聞こえてくる。
私はただ、彼を困らせているだけなんだろうか。
困らせるしかできないのならいっそ、取り消した方が。
「……なら、抜けようか」
唐突にぼそっと耳もとで囁かれ、驚いて顔を上げる。
レンズ越しに目のあった嶋貫課長は右頬だけを歪めて人の悪い顔でにやっと笑った。
「どうする?」
唇に僅かな笑みをのせたまま、嶋貫課長が私をじっと見つめる。
その挑発するような顔に知らず知らず喉がごくりと音を立てた。
「……はい」
「なー、井町、酔ってるみたいだから送っていくわー」
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「あ、はい!」
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あと頼むなー」
気をつけてー、なんて声に送られて会場になっていた居酒屋を出る。
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「――まで」
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嶋貫課長はずっと、窓に頬杖を突いて黙って外を見ている。
私もどうしていいかわからずに、なにも言わずに俯いていた。
「なあ。
本当に俺でいいの?」
視線はずっと外、なので彼がどんな顔をしているのかなんてわからない。
「はい」
「後悔、しない?」
「しないです。
私はずっと、嶋貫課長がその、……好き、だったから」
「そう」
それっきり彼は再び黙ってしまい、会話は続かない。
もしかして二十七の処女をもらってくれとか迷惑な話だったんだろうか。
後悔はしないと言ったばかりなのに、違う後悔が襲ってくる。
嶋貫課長がタクシーを停めたのは、コンビニの前だった。
「ここ……ですか?」
「いや、もうちょっと先。
うち、飲みもんとかなんもないから、買わないとだろ」
コンビニへ入っていく彼を追う。
「あの、お気遣いは無用ですので」
「あー……。
俺が、飲みたいの。
飲み足りないの、さっきのじゃ」
嶋貫課長の顔が唇が触れてしまいそうなほど至近距離まで近づいて、思わず背中がのけぞった。
「あ、はい。
わかりました……」
「うん」
私の返事で満足したのか、嶋貫課長はカゴを手に店内をうろうろしはじめた。
することがない私も、適当に店内を見て回る。
「あ……」
化粧品コーナーでふと気づく。
今日はたぶん、嶋貫課長のお宅にお泊まりになるわけで。
そうなると、基礎化粧品とか持ってきていないわけで。
「買っといた方がいいよね……」
最近のコンビニは気が利くというか、お泊まり用に小分けパックになっているのがあって非常に助かる。
「あ、シャンプーとかも買っとけよ。
うち、女性用なんてないからな」
「ひっ」
突然、後ろから手がにゅっと出てきて、目の前のシャンプーセットを掴んだ。
おかげで悲鳴が出てしまう。
「なんだ、変な声出して?」
「あ、いえ……」
不意打ち、は心臓に悪いです。
……でも。
『うち、女性用なんてないから』
それってここ最近、付き合っている女性はいないって思っていいですよね。
少なくとも、同棲している女性はいないのは確か。
まあ、そうじゃないと私を誘ったりしないだろうけど。
「ほら」
ぐいっと、嶋貫課長がカゴを差し出してくる。
「いえ、自分で買いますので……」
「いいよ、そんくらい買ってやる」
くいっとなぜか、嶋貫課長は眼鏡をその大きな手で覆うようにあげた。
「じゃあ……」
数本のビールと、おつまみの入ったカゴの中に基礎化粧品セットと、シャンプーのセットを入れる。
「あとお前のお茶とかコンビニスイーツとか入れろ」
「あの……」
「いいから」
なんだか有無を言わせないから、適当にいつも飲んでいるお茶とプリンを入れた。
レジに向かい、一緒に並んで会計を待つ。
上から順に店員がバーコードを通していき、おつまみの下から小さな箱が出てきた。
なんだろ、とか思っているうちに店員がバーコードを通す。
液晶画面に出てきた商品名は「コンドーム」だった。
「……!」
一気に顔が熱を持つ。
これって、こんなに堂々と買うものなんだろうか。
それに男女で一緒にこれをお買い物って、いかにもいまからヤります! って……。
「ああ。
恥ずかしいか?」
お金を払って店員から袋を受け取りながら、嶋貫課長が聞いてくる。
なにも言えない私はただ、熱い顔で黙ってこくこくと頷いた。
「でも俺が、それだけ由希恵を大事にしたい、って証だから」
さりげない名前呼びでつい、彼を見上げる。
顔を上げたら、嶋貫課長がくいっと眼鏡をあげたところだった。
街灯で光ったレンズが得意げに見えたけど、弦のかかる耳は真っ赤になっていた。
「手でも繋ぐか」
嶋貫課長が、空いている左手を差し出してくる。
おそるおそるその手に、自分の手をのせた。
のせた途端、指を絡めて彼が握ってくる。
「なんかあれだよな、初カノができたときを思い出す」
そのまま嶋貫課長は黙ってしまったけれど、楽しそうに繋いだ手が揺れた。
きっと私だけじゃなく、彼もドキドキしてくれている。
嶋貫課長でよかった。
着いたのはちょっと立派なマンションだった。
適当に座っていて、そう言われてうちより広いリビングの、黒い革張りソファーに座る。
すぐに冷蔵庫へ買ったものをしまった嶋貫課長が、隣に座ってきた。
「由希恵」
そっと嶋貫課長の手が私の頬に触れ、眼鏡の下の目がまるで眩しいものでも見るかのようにうっとりと細められる。
「好きだ」
ゆっくりと彼の顔が近づいてきて、目を閉じる。
すぐに柔らかいそれが唇に触れた。
「……ん」
触れては離れ、離れては触れるそれがもどかしくて、甘い吐息が鼻から抜けていく。
そのタイミングを待っていたかのようにぬるりと肉厚なそれが唇を割って入ってきた。
「……ん……ふっ……」
静かな室内に、密やかに情欲に濡れた吐息の音が響き出す。
あたまの芯が甘く痺れ、なにも考えられない。
唇が離れたときにはぐったりと、嶋貫課長に寄りかかっていた。
「嶋貫、課長……」
情に溺れた瞳で彼を見上げる。
「ん?」
見上げた眼鏡の向こうから、欲に濡れた瞳が私を見ていた。
「琉生」
「え?」
「琉生、だ」
彼の手が私の頬に触れ、濡れた唇を親指がなぞる。
「りゅう、せい……」
「ん」
よくできましたと言わんばかりにまた、嶋貫課長――琉生の唇が重なる。
次に離れたときは、寝室に連れていかれた。
ベッドに押し倒されて、唇を貪られる。
そのまま――。
「痛かったらごめんな」
何度も絶頂を味わわされ、朦朧としたあたまで琉生がゴムを着けるのを見ていた。
ちゅっと軽く唇を重ねたあと、ゆっくりと彼が入ってくる。
痛くて悲鳴が出そうだったけれど、飲み込んだ。
彼もつらそうに顔を歪ませていたから。
「はい、った……」
ほっと息を吐いた琉生が、まるで褒めるみたいに私の髪を撫でてくれた。
それがなんだか、嬉しい。
「痛くないか?」
心配そうに彼の手が、目尻の涙を拭ってくれる。
まだ痛かったけど心配させたくなくて首を横に振った。
「そうか」
目を細めて、本当に幸せそうに琉生が笑う。
その顔に胸がきゅんとときめいたし、実際、私も彼と結ばれて幸せだった。
そのあとも琉生は最後まで私を大事にしてくれた。
こんな人に私の初めてを捧げられて幸せだ。
「由希恵」
疲れてうとうとしていたら、ゆっくりと琉生が髪を撫でてくれる。
それが凄く気持ちいい。
「一生、大事にするから」
それってプロポーズみたいですよ、なんてツッコみたいけど眠くて声が出ない。
そのまま眠ってしまったんだけど……。
まさか、本当に琉生がプロポーズのつもりだっただなんて、知るのはあとほんの少し先の話。
【終】
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「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
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