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第1章 自由or不自由?
1.最悪の出会い
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「たったこれだけのことに、どれだけ手間をかけさせる気だ!?」
コツコツと音を立て、目の前に立つ銀縁眼鏡の男がカウンターをイライラと指で叩く。
「す、すみません!
今度こそ、ちゃんとした用紙を持ってきますので……」
ひたすらぺこぺこと男にあたまを下げた。
彼が怒っているのは当然だ。
ものの五分とかからない手続きなのに、もう十分以上たっているがいまだに完了しないのだから。
「もう新入社員というわけじゃないんだから、しっかりしてもらわないと困る」
「……はい」
季節はすでに春。
もう数日もすれば入社式が行われ、新入社員たちが入ってくる。
なのに私はいまだに、転居届の書類一枚すら、満足に書いてもらうことができない。
「あの、どうかされましたか」
来客が帰ったのか、戻ってきた杉原課長がこわごわ、イラついている男に声をかけた。
「どうもこうも。
転居届を出しに来ただけなのに、彼女が用紙をくれないから」
杉原課長が私に下がっているようにと目配せし、小さくあたまを下げて私は自分の席に戻った。
「転居届ですね。
すぐにご用意します」
事務所の中で杉原課長が開けた棚は、私が見ていた棚とはまるで正反対の方向だった。
「こちらにお願いします」
「ああ」
用紙を受け取り、男は無言でそれを埋めていく。
「高鷹部長、お引っ越しされたんですか」
自分よりもずいぶん若い男に、杉原課長は敬語だった。
まあ、役職があちらの方が上だからだろうけど。
「マンションを買ったんだ。
それで。
……これでいいか」
「はい、手続きしておきます。
お手数おかけして、申し訳ございませんでした」
杉原課長は書類を確認し、目の前の男――高鷹部長へ丁寧にあたまを下げた。
「あれ、香芝専務の娘だろ。
会社に遊びに来ているとかいう」
皮肉るように高鷹部長は、その端正な顔の右頬だけを歪めて笑った。
途端にかっと頬に熱が走り、俯いて唇を噛む。
「君も大変だな、子守を任せされて」
「いえ……」
曖昧に杉原課長が笑う。
「じゃあ、頼んだぞ」
「はい」
高鷹部長は冷たい視線で私の方を一瞥だけして、部屋を出ていった。
彼がいなくなって杉原課長がはぁーっと重いため息をつき、それでなくても薄くなっているあたまから髪が一本、はらりと落ちた。
「……香芝さん」
「はい」
きっと怒られるのだろうと、姿勢を正して顔を上げる。
――けれど。
「すみません、僕がいたらないばかりに嫌な思いをさせてしまいましたね。
まったく、あなたをひとりにして皆、席を外すなんて。
本当にすみません。
気分転換に外でお茶でもしてきてください」
私を怒るどころか、おどおどと怯えている杉原課長にがっかりした。
が、これはいつものことなのだ。
「いえ、仕事中にそのようなことできませんので。
おかまいなく」
にっこりと笑顔を作り、やんわりと杉原課長の申し出を断る。
「でも、僕が専務に怒られてしまいますので……」
だんだん、杉原課長の顔が泣きだしそうに歪んでいく。
父を持ち出してここまで怯えられると、もうそれ以上拒否できなくなる。
「お心遣い、ありがとうございます。
ではお言葉に甘えて、少しだけ出てきますね」
「はい、ぜひ、そうしてください!
一時間でも二時間でも!」
さっきまでの憂鬱な顔が嘘のように、杉原課長はにこにこと笑っている。
その笑顔に心の中でため息をつきながら、携帯だけ掴んで部屋を出た。
私が社内を歩くと誰も彼も道を譲ってくれる。
その光景にまた、心の中でため息をつく。
会社を出て三軒隣のコーヒーチェーン店で、期間限定の桜のフラッペを頼む。
それを飲みながら、ぼーっと道を挟んで反対側の桜並木を見ていた。
……ほんと、嫌になっちゃう。
杉原課長が下っ端でずっと年下の私に敬語なのも、あんなに気を遣うのも、父のせいだ。
父は私がいま勤めている会社、業界大手の家電メーカー『SMOOTH』の専務をしている。
専務が溺愛している娘、となれば、誰もが父の顔色をうかがって気を遣うのは仕方ないかもしれない。
さらには入社初日に遅刻してしまった私を叱った男がそのすぐ後、下請け倉庫会社に飛ばされたとなれば。
「あーあ……」
ちらほらと花が咲きはじめた桜の下を、女の子たちが楽しそうに笑いながら歩いていく。
私もああなりたかったのだ。
なのに。
――チロリロリン。
携帯が通知音を立て、画面に視線を落とす。
アプリの画面の中では、電柱の後ろから猫がこっちを見ている。
――チロリロリン。
再び通知音が鳴り、メッセージが表示された。
【高鷹部長に怒鳴られたんだって?
気にすることないよ。
あの人、すぐ怒鳴るから】
【終わったら今日、食事に行こう。
気分転換】
【なにが食べたい?
考えておいて。
なんでも愛乃の好きなもの、食べに連れていってあげる】
もう春熙にまで話が伝わっていて、さらに気が重くなってくる。
少しだけ考えて、画面に指を走らせた。
【もう最悪なんだよ】
【焼き肉が食べたいな】
うさぎが可愛くお願いしているスタンプを貼り付けて送信する。
父には私が焼き肉を食べたいなんて言うと嫌な顔をされるが、今日は少し、悪い子になりたい気分。
すぐにさっきの猫がOKと笑っているスタンプが送り返されてくる。
【いつもの店、予約しておくね】
【あれだったら今日、もうこのまま休んじゃえば?
僕から杉原課長には言っておくし】
私の気持ちなんて春熙は全然わかっていない。
いままでだってわかってくれたことはなかったし、きっとこれからだって理解してくれることはないのだろう。
【あと二時間くらいだから、大丈夫。
気遣ってくれてありがとう】
可愛く愛してるってスタンプを送りながら、苦笑いしてしまう。
すぐに春熙からも愛してるのスタンプが返ってきて会話は終了。
無意識にストローを吸うとズッと音がした。
携帯に表示されている時間は、私が会社を出てからすでに一時間近くたとうとしている。
そろそろ頃合いかと、席を立った。
コツコツと音を立て、目の前に立つ銀縁眼鏡の男がカウンターをイライラと指で叩く。
「す、すみません!
今度こそ、ちゃんとした用紙を持ってきますので……」
ひたすらぺこぺこと男にあたまを下げた。
彼が怒っているのは当然だ。
ものの五分とかからない手続きなのに、もう十分以上たっているがいまだに完了しないのだから。
「もう新入社員というわけじゃないんだから、しっかりしてもらわないと困る」
「……はい」
季節はすでに春。
もう数日もすれば入社式が行われ、新入社員たちが入ってくる。
なのに私はいまだに、転居届の書類一枚すら、満足に書いてもらうことができない。
「あの、どうかされましたか」
来客が帰ったのか、戻ってきた杉原課長がこわごわ、イラついている男に声をかけた。
「どうもこうも。
転居届を出しに来ただけなのに、彼女が用紙をくれないから」
杉原課長が私に下がっているようにと目配せし、小さくあたまを下げて私は自分の席に戻った。
「転居届ですね。
すぐにご用意します」
事務所の中で杉原課長が開けた棚は、私が見ていた棚とはまるで正反対の方向だった。
「こちらにお願いします」
「ああ」
用紙を受け取り、男は無言でそれを埋めていく。
「高鷹部長、お引っ越しされたんですか」
自分よりもずいぶん若い男に、杉原課長は敬語だった。
まあ、役職があちらの方が上だからだろうけど。
「マンションを買ったんだ。
それで。
……これでいいか」
「はい、手続きしておきます。
お手数おかけして、申し訳ございませんでした」
杉原課長は書類を確認し、目の前の男――高鷹部長へ丁寧にあたまを下げた。
「あれ、香芝専務の娘だろ。
会社に遊びに来ているとかいう」
皮肉るように高鷹部長は、その端正な顔の右頬だけを歪めて笑った。
途端にかっと頬に熱が走り、俯いて唇を噛む。
「君も大変だな、子守を任せされて」
「いえ……」
曖昧に杉原課長が笑う。
「じゃあ、頼んだぞ」
「はい」
高鷹部長は冷たい視線で私の方を一瞥だけして、部屋を出ていった。
彼がいなくなって杉原課長がはぁーっと重いため息をつき、それでなくても薄くなっているあたまから髪が一本、はらりと落ちた。
「……香芝さん」
「はい」
きっと怒られるのだろうと、姿勢を正して顔を上げる。
――けれど。
「すみません、僕がいたらないばかりに嫌な思いをさせてしまいましたね。
まったく、あなたをひとりにして皆、席を外すなんて。
本当にすみません。
気分転換に外でお茶でもしてきてください」
私を怒るどころか、おどおどと怯えている杉原課長にがっかりした。
が、これはいつものことなのだ。
「いえ、仕事中にそのようなことできませんので。
おかまいなく」
にっこりと笑顔を作り、やんわりと杉原課長の申し出を断る。
「でも、僕が専務に怒られてしまいますので……」
だんだん、杉原課長の顔が泣きだしそうに歪んでいく。
父を持ち出してここまで怯えられると、もうそれ以上拒否できなくなる。
「お心遣い、ありがとうございます。
ではお言葉に甘えて、少しだけ出てきますね」
「はい、ぜひ、そうしてください!
一時間でも二時間でも!」
さっきまでの憂鬱な顔が嘘のように、杉原課長はにこにこと笑っている。
その笑顔に心の中でため息をつきながら、携帯だけ掴んで部屋を出た。
私が社内を歩くと誰も彼も道を譲ってくれる。
その光景にまた、心の中でため息をつく。
会社を出て三軒隣のコーヒーチェーン店で、期間限定の桜のフラッペを頼む。
それを飲みながら、ぼーっと道を挟んで反対側の桜並木を見ていた。
……ほんと、嫌になっちゃう。
杉原課長が下っ端でずっと年下の私に敬語なのも、あんなに気を遣うのも、父のせいだ。
父は私がいま勤めている会社、業界大手の家電メーカー『SMOOTH』の専務をしている。
専務が溺愛している娘、となれば、誰もが父の顔色をうかがって気を遣うのは仕方ないかもしれない。
さらには入社初日に遅刻してしまった私を叱った男がそのすぐ後、下請け倉庫会社に飛ばされたとなれば。
「あーあ……」
ちらほらと花が咲きはじめた桜の下を、女の子たちが楽しそうに笑いながら歩いていく。
私もああなりたかったのだ。
なのに。
――チロリロリン。
携帯が通知音を立て、画面に視線を落とす。
アプリの画面の中では、電柱の後ろから猫がこっちを見ている。
――チロリロリン。
再び通知音が鳴り、メッセージが表示された。
【高鷹部長に怒鳴られたんだって?
気にすることないよ。
あの人、すぐ怒鳴るから】
【終わったら今日、食事に行こう。
気分転換】
【なにが食べたい?
考えておいて。
なんでも愛乃の好きなもの、食べに連れていってあげる】
もう春熙にまで話が伝わっていて、さらに気が重くなってくる。
少しだけ考えて、画面に指を走らせた。
【もう最悪なんだよ】
【焼き肉が食べたいな】
うさぎが可愛くお願いしているスタンプを貼り付けて送信する。
父には私が焼き肉を食べたいなんて言うと嫌な顔をされるが、今日は少し、悪い子になりたい気分。
すぐにさっきの猫がOKと笑っているスタンプが送り返されてくる。
【いつもの店、予約しておくね】
【あれだったら今日、もうこのまま休んじゃえば?
僕から杉原課長には言っておくし】
私の気持ちなんて春熙は全然わかっていない。
いままでだってわかってくれたことはなかったし、きっとこれからだって理解してくれることはないのだろう。
【あと二時間くらいだから、大丈夫。
気遣ってくれてありがとう】
可愛く愛してるってスタンプを送りながら、苦笑いしてしまう。
すぐに春熙からも愛してるのスタンプが返ってきて会話は終了。
無意識にストローを吸うとズッと音がした。
携帯に表示されている時間は、私が会社を出てからすでに一時間近くたとうとしている。
そろそろ頃合いかと、席を立った。
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