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眼鏡を外した、その先で。
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「最悪!
この世の終わりよ!」
「……本当に?」
私をじっと見つめる熱い瞳に息が止まる。
私は――。
遡ること二時間前。
久しぶりにお父様が帰ってきたと聞き、私は書斎へと急いでいた。
私のお父様は外食産業を主とするグループ会社の会長で、本宅に帰ってくることは滅多にない。
云っておくが帰ってこないのは忙しいためで、普段は若干辺鄙なところにある本宅ではなく、主に会社近くのマンションにお母様と住んでいる。
現在、本宅に住んでいるのは大学四年の私と、祖母、それに私たちの世話をするためのお手伝いさんがひとりと、……執事の高原。
私はその、高原のことで話があってお父様の帰りを待っていたのだ。
「おとう……」
『そうか。こりゃ、めでたい』
書斎のドアをノックしようとしたとき。
お父様の声が聞こえてきて手が止まった。
中にいるのは……お父様と高原?
立ち聞きなんてはしたないこと、そう思いつつも嬉しそうなお父様の声につい、耳をそばだててしまう。
『ありがとうございます』
『うん。それで式はいつにする?
早いほうがいいな』
『いえ、旦那様。
プロポーズはまだですので』
『ああそうだった。
すまん、すまん。
しかしもう、決まりだろ』
『だといいのですが……』
ゆっくりとドアから身体を離し、音を立てないようにその場をあとにした。
……式?
プロポーズ?
高原、誰かと結婚するんだ。
というか、付き合っている人、いたんだ。
泣きたくないのに涙はぽろぽろ零れていく。
……あーあ。
最悪。
怒られることがわかっていながら、高原の部屋に忍び込んだ。
ベッドに寝転ぶと、流れる涙はシーツに吸い込まれていく。
私が夜、部屋を訪れるたび、高原はキスして抱いてくれた。
いつもは冷静で感情を見せない高原だけど、眼鏡を外したそのときだけは、やけどしそうなくらい熱い瞳で私を見つめていて。
私は高原に愛されているのだと……勘違い、していた。
高原にしてみればただ、雇い主の娘の求めることなので、仕方なく抱いていたのかもしれない。
いや、最悪、ただ自分の欲望のはけ口にしていたということだって考えられる。
よくよく思い出せば私はそのたびに好きだ、愛していると繰り返しているが、高原の口からは一度たりとも聞いたことがないのだ。
泣き疲れてぼんやりとしたあたまで机の上を見ると、小さな箱がのっていた。
グレーの、……リングケース。
開けてみると思った通り、上品なデザインの、ダイヤの指環が入っていた。
……これ持って、プロポーズに行くんだ。
いいな、これをもらえる人は。
思わず手に取った指環を床にたたきつけようとして……できなかった。
指環をなくして、愛されないどころか軽蔑までされるなんて耐えられない。
ケースに戻しかけて……つい、自分の左手薬指に嵌めてみた。
……私にサイズ、ぴったり。
デザインだって私に似合っている。
どんな女に渡すのか知らないが、……私の方がきっと似合っているのに。
視界が滲んで止まったはずの涙がまた、ぽたぽたと落ちてくる。
ああもう、ほんと最悪だ。
早く泣き止まなきゃ。
ちゃんと笑って、高原にお祝いを云うんだから。
気持ちが落ち着き、指環を外す。
指環は私の指から……外れない。
それはきっちりと私の指に嵌まり、関節を抜けないのだ。
……嘘でしょ!?
焦ったところで指環は抜けない。
石鹸で滑らせれば抜けやすくなると聞いた覚えがあって、慌てて洗面所に飛び込む。
温めるよりも冷やした方がいい気がして、水を出し石鹸を塗りつける。
しかし、いくらやっても指環は抜ける気配がない。
「最悪……。
この世の終わりよ……」
凍るように冷たい水にさらされ、指は真っ赤になってしまっている。
もう感覚すらないのに、抜けない指環に泣きたくなる。
私がこんなことをしてしまったと知ったらきっと、高原は私を軽蔑する。
嫌いになる。
そんなの、高原が結婚してしまうことよりももっと怖い。
高原に嫌われたら私、……生きていけない。
「お嬢様?
先程からなにをなさっているのですか?」
「た、高原!?
なんでもないわよ!」
不意に背後から掛けられた声に慌てて水を止め、左手を背中に隠す。
高原は怪訝そうだけど……とぼけてみせなきゃ。
「そうですか?
……先程また、私の部屋にお入りになりませんでしたか?」
「は、入ってないわよ」
銀縁眼鏡の向こうから、冷たい瞳が私を見つめる。
本当のことを白状してしまいそうになるけれど、曖昧に笑って誤魔化した。
「そうですか。
……なら、この手はなんですか!?」
「きゃっ」
背中にまわった手に腕を掴まれ、指環の抜けない左手を目の前に突きつけられた。
レンズの奥の凍てついた瞳に、私の身体は無意識に震えていた。
「どういうことですか、これは」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
つい、出来心だったの。
指、切断してでも外して返すから、許して」
「……はぁーっ。
そんなことをしたら、あなたの身体に傷がついてしまうでしょう?」
ため息をついた高原は膝をつき、そっと私の左手を取った。
涙目で恐る恐る見下ろすと、高原と視線が合った。
感情の見えない、高原の冷たい瞳はじっと私を見つめている。
「なぜ、こんなことを?」
「さっきお父様の部屋で話してるの、聞いたの。
高原が結婚する、って。
それで悲しくて……」
「立ち聞きなどとはしたないことを。
嘘をつくのもダメだと、いつも申し上げているでしょう?」
「……ごめんなさい」
「……この指環は抜けなくてもかまわないのです」
ふっ、珍しく高原が薄く笑った。
立ち上がると眼鏡を外し、胸ポケットにしまう。
「え?」
「これはあなたのものなのですから」
掴んだままだった左手に口づけしてにやりと笑う。
そんな高原は初めてで、心臓がばくばくと激しく鼓動する。
「あなたのためにご用意したのですよ。
……意味、おわかりになりますよね?」
いつもと違う高原に、ただ黙ってこくこくと頷いた。
「それで?
お返事は?」
「……高原は、私のことなんか、愛してないのかと」
深呼吸を繰り返し、どうにか声を絞り出す。
そんな私になぜか高原は楽しそうだ。
「なぜそんなことを思われたのですか?」
「……高原は私に、その、……好きとか……愛してるとか、……云ってくれないから」
「あんなに毎回、愛して差し上げているのに?」
「……!」
右の口角だけをつり上げて笑う高原に、頬がかっと熱くなった。
高原がこんなに性格が悪いだなんて知らなかった。
「……大体、なによ。
いつも無表情の癖して」
「ああ、あれは仕事用の顔です。
ご存じなかったのですか」
「最悪!
あんたと結婚なんてこの世の終わりよ!」
「……本当に?」
熱い瞳にじっと見つめられて息が止まる。
あの目を私は知っている。
だっていつも部屋を訪れるたび、高原は眼鏡を外し、あの目で私のことを見つめていたのだから。
そして私はあの熱い瞳の、高原のことが……好き、なのだから。
「……嘘、です」
「嘘はダメだと、何度も申し上げているはずですが」
「……はい。
ごめんな、さい」
満足そうに笑った高原が私を抱き寄せる。
顎を持ち上げられたと思ったら、熱い唇が押しつけられた。
ゆっくりと目を閉じ、腕を高原の背中にまわす。
唇が離れると、高原の口からも甘い吐息が落ちた。
「……愛しています、これからもずっと」
熱い瞳で見つめられ、私の身体は本当に燃えてしまいそうだった。
【終】
この世の終わりよ!」
「……本当に?」
私をじっと見つめる熱い瞳に息が止まる。
私は――。
遡ること二時間前。
久しぶりにお父様が帰ってきたと聞き、私は書斎へと急いでいた。
私のお父様は外食産業を主とするグループ会社の会長で、本宅に帰ってくることは滅多にない。
云っておくが帰ってこないのは忙しいためで、普段は若干辺鄙なところにある本宅ではなく、主に会社近くのマンションにお母様と住んでいる。
現在、本宅に住んでいるのは大学四年の私と、祖母、それに私たちの世話をするためのお手伝いさんがひとりと、……執事の高原。
私はその、高原のことで話があってお父様の帰りを待っていたのだ。
「おとう……」
『そうか。こりゃ、めでたい』
書斎のドアをノックしようとしたとき。
お父様の声が聞こえてきて手が止まった。
中にいるのは……お父様と高原?
立ち聞きなんてはしたないこと、そう思いつつも嬉しそうなお父様の声につい、耳をそばだててしまう。
『ありがとうございます』
『うん。それで式はいつにする?
早いほうがいいな』
『いえ、旦那様。
プロポーズはまだですので』
『ああそうだった。
すまん、すまん。
しかしもう、決まりだろ』
『だといいのですが……』
ゆっくりとドアから身体を離し、音を立てないようにその場をあとにした。
……式?
プロポーズ?
高原、誰かと結婚するんだ。
というか、付き合っている人、いたんだ。
泣きたくないのに涙はぽろぽろ零れていく。
……あーあ。
最悪。
怒られることがわかっていながら、高原の部屋に忍び込んだ。
ベッドに寝転ぶと、流れる涙はシーツに吸い込まれていく。
私が夜、部屋を訪れるたび、高原はキスして抱いてくれた。
いつもは冷静で感情を見せない高原だけど、眼鏡を外したそのときだけは、やけどしそうなくらい熱い瞳で私を見つめていて。
私は高原に愛されているのだと……勘違い、していた。
高原にしてみればただ、雇い主の娘の求めることなので、仕方なく抱いていたのかもしれない。
いや、最悪、ただ自分の欲望のはけ口にしていたということだって考えられる。
よくよく思い出せば私はそのたびに好きだ、愛していると繰り返しているが、高原の口からは一度たりとも聞いたことがないのだ。
泣き疲れてぼんやりとしたあたまで机の上を見ると、小さな箱がのっていた。
グレーの、……リングケース。
開けてみると思った通り、上品なデザインの、ダイヤの指環が入っていた。
……これ持って、プロポーズに行くんだ。
いいな、これをもらえる人は。
思わず手に取った指環を床にたたきつけようとして……できなかった。
指環をなくして、愛されないどころか軽蔑までされるなんて耐えられない。
ケースに戻しかけて……つい、自分の左手薬指に嵌めてみた。
……私にサイズ、ぴったり。
デザインだって私に似合っている。
どんな女に渡すのか知らないが、……私の方がきっと似合っているのに。
視界が滲んで止まったはずの涙がまた、ぽたぽたと落ちてくる。
ああもう、ほんと最悪だ。
早く泣き止まなきゃ。
ちゃんと笑って、高原にお祝いを云うんだから。
気持ちが落ち着き、指環を外す。
指環は私の指から……外れない。
それはきっちりと私の指に嵌まり、関節を抜けないのだ。
……嘘でしょ!?
焦ったところで指環は抜けない。
石鹸で滑らせれば抜けやすくなると聞いた覚えがあって、慌てて洗面所に飛び込む。
温めるよりも冷やした方がいい気がして、水を出し石鹸を塗りつける。
しかし、いくらやっても指環は抜ける気配がない。
「最悪……。
この世の終わりよ……」
凍るように冷たい水にさらされ、指は真っ赤になってしまっている。
もう感覚すらないのに、抜けない指環に泣きたくなる。
私がこんなことをしてしまったと知ったらきっと、高原は私を軽蔑する。
嫌いになる。
そんなの、高原が結婚してしまうことよりももっと怖い。
高原に嫌われたら私、……生きていけない。
「お嬢様?
先程からなにをなさっているのですか?」
「た、高原!?
なんでもないわよ!」
不意に背後から掛けられた声に慌てて水を止め、左手を背中に隠す。
高原は怪訝そうだけど……とぼけてみせなきゃ。
「そうですか?
……先程また、私の部屋にお入りになりませんでしたか?」
「は、入ってないわよ」
銀縁眼鏡の向こうから、冷たい瞳が私を見つめる。
本当のことを白状してしまいそうになるけれど、曖昧に笑って誤魔化した。
「そうですか。
……なら、この手はなんですか!?」
「きゃっ」
背中にまわった手に腕を掴まれ、指環の抜けない左手を目の前に突きつけられた。
レンズの奥の凍てついた瞳に、私の身体は無意識に震えていた。
「どういうことですか、これは」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
つい、出来心だったの。
指、切断してでも外して返すから、許して」
「……はぁーっ。
そんなことをしたら、あなたの身体に傷がついてしまうでしょう?」
ため息をついた高原は膝をつき、そっと私の左手を取った。
涙目で恐る恐る見下ろすと、高原と視線が合った。
感情の見えない、高原の冷たい瞳はじっと私を見つめている。
「なぜ、こんなことを?」
「さっきお父様の部屋で話してるの、聞いたの。
高原が結婚する、って。
それで悲しくて……」
「立ち聞きなどとはしたないことを。
嘘をつくのもダメだと、いつも申し上げているでしょう?」
「……ごめんなさい」
「……この指環は抜けなくてもかまわないのです」
ふっ、珍しく高原が薄く笑った。
立ち上がると眼鏡を外し、胸ポケットにしまう。
「え?」
「これはあなたのものなのですから」
掴んだままだった左手に口づけしてにやりと笑う。
そんな高原は初めてで、心臓がばくばくと激しく鼓動する。
「あなたのためにご用意したのですよ。
……意味、おわかりになりますよね?」
いつもと違う高原に、ただ黙ってこくこくと頷いた。
「それで?
お返事は?」
「……高原は、私のことなんか、愛してないのかと」
深呼吸を繰り返し、どうにか声を絞り出す。
そんな私になぜか高原は楽しそうだ。
「なぜそんなことを思われたのですか?」
「……高原は私に、その、……好きとか……愛してるとか、……云ってくれないから」
「あんなに毎回、愛して差し上げているのに?」
「……!」
右の口角だけをつり上げて笑う高原に、頬がかっと熱くなった。
高原がこんなに性格が悪いだなんて知らなかった。
「……大体、なによ。
いつも無表情の癖して」
「ああ、あれは仕事用の顔です。
ご存じなかったのですか」
「最悪!
あんたと結婚なんてこの世の終わりよ!」
「……本当に?」
熱い瞳にじっと見つめられて息が止まる。
あの目を私は知っている。
だっていつも部屋を訪れるたび、高原は眼鏡を外し、あの目で私のことを見つめていたのだから。
そして私はあの熱い瞳の、高原のことが……好き、なのだから。
「……嘘、です」
「嘘はダメだと、何度も申し上げているはずですが」
「……はい。
ごめんな、さい」
満足そうに笑った高原が私を抱き寄せる。
顎を持ち上げられたと思ったら、熱い唇が押しつけられた。
ゆっくりと目を閉じ、腕を高原の背中にまわす。
唇が離れると、高原の口からも甘い吐息が落ちた。
「……愛しています、これからもずっと」
熱い瞳で見つめられ、私の身体は本当に燃えてしまいそうだった。
【終】
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