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雨の日と飴玉と
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買い物を終えると、外は雨だった。
上空で水の入ったタライでもひっくり返したのだろうか。そんなことを考えさせられるくらいには強い雨で、傘があっても踏み出していくのは少々躊躇われる。
しばらく店先で待っていると、雨足こそ弱まったものの、一向に降りやむ気配はない。
呆然と空を見上げる買い物客たちを横目に、俺は傘を開いて雨の中へと踏み出した。
雨は思っていたほど強くはない。
むしろ地面にできた水たまりの方がよっぽど気になるくらいで、これなら充分歩きで帰れるだろう。
家を出る前、珍しく傘を渡してきたあの男には感謝しなければならない。ネットの天気予報でも見たのだろうか、普段は天気なんて然程気にしないのに珍しいこともあるものだ。
…さて。
本当はこのまま帰るつもりだったが、それもなんとなく勿体ないような気もする。
今日は生鮮食品は買っていないし、この後特に用事があるわけでもない。懸念があるとすれば、せいぜい留守を任せてきた同居人が心配することくらいだろうか。まあ、それだって連絡を入れておけばいいだけの話だ。
早く帰りたいと思う気持ちも無くはない。でも、こんな日にはいつもと違う道から帰りたくなる。
これといって、理由もないが。
◇◇◇
雨の中、傘を差して遠回りで帰路に着く。
いつも通る道とは別のこの道は前に一度通ったかどうかというくらいで、普段はほとんど通らない道だが、偶に歩くくらいであれば目新しくて丁度いいかもしれない。
平日の午後、小学生たちの下校時間にも早いこの時間は、道行く人も少なく、耳に届く音はザーザー降り続く雨音と時々横を通り過ぎる車の起こす水飛沫くらいだ。
普段より静かな帰り道を、ちょっとした考え事をしつつ足を進めていると、いつの間にか自宅からも程近い辺りまで歩いていたらしい。
閑静な住宅街のすぐ隣に、そこそこ車通りの多い交差点がある。そこに設置された歩道橋の下、一人の老婦人が立っているのが見えた。
よく見れば、その顔には見覚えがある。
困ったように空を眺めていたのは、少し前に偶然知り合ったご婦人である。
軽く挨拶をしてから聞けば、突然降り始めた大雨に、ここで雨宿りをしていたものの降りやまない雨に途方に暮れていたのだという。
俺と同じく買い物袋を携えたご婦人は気の毒になるくらい濡れていて、このままでは風邪をひいてしまいそうだ。どうせ急いでいる訳でもないし、このまま放っておいて体調でも崩されたらなんだか申し訳ない。
ご婦人に、傘あるし送って行こうか、と提案すると、何度か遠慮されたものの結局最後には申し訳なさそうにしながらも何とか頷いてくれたのでほっとする。
これが相合傘ってやつかしら。
そう言って上品に笑うご婦人には、困ったように笑ってみせることしかできなかったが。
ご婦人の家まで、それほど距離がないのは幸いだった。十数分ほど歩いた先で、ご婦人の暮らす家が見える。一度お邪魔したことがあるが、いかにも日本家屋といった外見に反し中は色々とリフォームされた現代的な家だった。
時々息子夫婦が孫を連れて訪ねて来るくらいで、普段はあまり来客もないこの家に、彼女は一人で住んでいるのだという。
タオルだけ借りて、玄関先で雫を落とす。
ある程度拭き終えた所でご婦人がお茶を淹れてくれたので、ご厚意に甘えて一杯だけ頂く。冷えた体に、温かいお茶が沁み入るようだ。
飲み干した湯呑みを置くと、『もう少しゆっくりしていけばいいのに』とご婦人は言ってくれたが、これ以上お邪魔するのも忍びない。同居人から心配のLINEも来ているし、そろそろ帰った方がいいだろう。
お言葉は有難いけど、同居人が家で待っているから。そう伝えれば、ご婦人はじゃあお礼にと小さな巾着袋をくれた。
袋の中身は飴。お知り合いに頂いたんだけど食べ切れないから…ということらしい。有難く頂いて行くことにしよう。
お礼を言って家を出ると、先ほどまでよりは雨は弱まっていた。
しとしと降りしきる雨の中、また、傘を差して歩き出す。
◇◇◇
ご婦人の家も見えなくなった頃、ふと思い立って、貰った巾着を開けてみた。
中には、透明の個包装で包まれた色とりどりの飴がぎっしり入っている。とある老舗菓子店の作る昔ながらの古風な飴玉で、手毬を模した可愛らしい品だ。
道端で開けるのは行儀が悪いとは思いつつも、誰も見ていないしいいかと一つ舐めてみることにする。手に取ったのは青色の飴玉で、パッケージにはソーダ味とある。
自分は甘い物はそれほど好まないが、素材の甘味をそのまま引き出したようなしつこくない仄かな甘さは普通に楽しめた。
甘党なあの男だってきっと気に入るだろう。いい土産ができた。
飴玉を舌の上で転がしながら、ぼんやりと考える。
とりとめもない思考は、ソーダの泡の如くふっと湧き出ては不意に消えていった。
昔、この国には『ハイカラ』なんていう言葉があったという。「近代風な」「洒落ている」といった意味をもつ言葉だそうだが、あのご婦人を含め、現代を生きる人々はこの言葉を古臭いと言う。
それはそうだ。今から見れば100年ほど前の言葉なのだから。しかし、たった二十数年しか生きていない自分からしてみれば、その言葉は一周回って物珍しく目新しい。現代語のもつそれよりもずっと洒落ているのではないだろうかとすら思う。
口の中で、飴玉がカランと音を立てて転がる。
舌の上で溶け出す甘く爽やかなソーダの味はどこか儚く、初めて口にした筈なのになぜか懐かしかった。
この飴には、『お洒落』なんて言葉よりも『ハイカラ』という言葉がよく似合う。
なんとなく、そんな気がした。
小さな飴玉が儚く溶けて消えていく頃には、雨はすっかりあがっていた。
◇◇◇
降り続いた雨もようやく止んだ頃、俺はようやく自宅に辿り着く。
インターホンを鳴らせば、待ち構えていたように玄関の鍵が開いた。
「おかえり、祐樹」
「…ただいま」
開いた扉の向こう側で、あいつが俺の帰りを待っていた。
上空で水の入ったタライでもひっくり返したのだろうか。そんなことを考えさせられるくらいには強い雨で、傘があっても踏み出していくのは少々躊躇われる。
しばらく店先で待っていると、雨足こそ弱まったものの、一向に降りやむ気配はない。
呆然と空を見上げる買い物客たちを横目に、俺は傘を開いて雨の中へと踏み出した。
雨は思っていたほど強くはない。
むしろ地面にできた水たまりの方がよっぽど気になるくらいで、これなら充分歩きで帰れるだろう。
家を出る前、珍しく傘を渡してきたあの男には感謝しなければならない。ネットの天気予報でも見たのだろうか、普段は天気なんて然程気にしないのに珍しいこともあるものだ。
…さて。
本当はこのまま帰るつもりだったが、それもなんとなく勿体ないような気もする。
今日は生鮮食品は買っていないし、この後特に用事があるわけでもない。懸念があるとすれば、せいぜい留守を任せてきた同居人が心配することくらいだろうか。まあ、それだって連絡を入れておけばいいだけの話だ。
早く帰りたいと思う気持ちも無くはない。でも、こんな日にはいつもと違う道から帰りたくなる。
これといって、理由もないが。
◇◇◇
雨の中、傘を差して遠回りで帰路に着く。
いつも通る道とは別のこの道は前に一度通ったかどうかというくらいで、普段はほとんど通らない道だが、偶に歩くくらいであれば目新しくて丁度いいかもしれない。
平日の午後、小学生たちの下校時間にも早いこの時間は、道行く人も少なく、耳に届く音はザーザー降り続く雨音と時々横を通り過ぎる車の起こす水飛沫くらいだ。
普段より静かな帰り道を、ちょっとした考え事をしつつ足を進めていると、いつの間にか自宅からも程近い辺りまで歩いていたらしい。
閑静な住宅街のすぐ隣に、そこそこ車通りの多い交差点がある。そこに設置された歩道橋の下、一人の老婦人が立っているのが見えた。
よく見れば、その顔には見覚えがある。
困ったように空を眺めていたのは、少し前に偶然知り合ったご婦人である。
軽く挨拶をしてから聞けば、突然降り始めた大雨に、ここで雨宿りをしていたものの降りやまない雨に途方に暮れていたのだという。
俺と同じく買い物袋を携えたご婦人は気の毒になるくらい濡れていて、このままでは風邪をひいてしまいそうだ。どうせ急いでいる訳でもないし、このまま放っておいて体調でも崩されたらなんだか申し訳ない。
ご婦人に、傘あるし送って行こうか、と提案すると、何度か遠慮されたものの結局最後には申し訳なさそうにしながらも何とか頷いてくれたのでほっとする。
これが相合傘ってやつかしら。
そう言って上品に笑うご婦人には、困ったように笑ってみせることしかできなかったが。
ご婦人の家まで、それほど距離がないのは幸いだった。十数分ほど歩いた先で、ご婦人の暮らす家が見える。一度お邪魔したことがあるが、いかにも日本家屋といった外見に反し中は色々とリフォームされた現代的な家だった。
時々息子夫婦が孫を連れて訪ねて来るくらいで、普段はあまり来客もないこの家に、彼女は一人で住んでいるのだという。
タオルだけ借りて、玄関先で雫を落とす。
ある程度拭き終えた所でご婦人がお茶を淹れてくれたので、ご厚意に甘えて一杯だけ頂く。冷えた体に、温かいお茶が沁み入るようだ。
飲み干した湯呑みを置くと、『もう少しゆっくりしていけばいいのに』とご婦人は言ってくれたが、これ以上お邪魔するのも忍びない。同居人から心配のLINEも来ているし、そろそろ帰った方がいいだろう。
お言葉は有難いけど、同居人が家で待っているから。そう伝えれば、ご婦人はじゃあお礼にと小さな巾着袋をくれた。
袋の中身は飴。お知り合いに頂いたんだけど食べ切れないから…ということらしい。有難く頂いて行くことにしよう。
お礼を言って家を出ると、先ほどまでよりは雨は弱まっていた。
しとしと降りしきる雨の中、また、傘を差して歩き出す。
◇◇◇
ご婦人の家も見えなくなった頃、ふと思い立って、貰った巾着を開けてみた。
中には、透明の個包装で包まれた色とりどりの飴がぎっしり入っている。とある老舗菓子店の作る昔ながらの古風な飴玉で、手毬を模した可愛らしい品だ。
道端で開けるのは行儀が悪いとは思いつつも、誰も見ていないしいいかと一つ舐めてみることにする。手に取ったのは青色の飴玉で、パッケージにはソーダ味とある。
自分は甘い物はそれほど好まないが、素材の甘味をそのまま引き出したようなしつこくない仄かな甘さは普通に楽しめた。
甘党なあの男だってきっと気に入るだろう。いい土産ができた。
飴玉を舌の上で転がしながら、ぼんやりと考える。
とりとめもない思考は、ソーダの泡の如くふっと湧き出ては不意に消えていった。
昔、この国には『ハイカラ』なんていう言葉があったという。「近代風な」「洒落ている」といった意味をもつ言葉だそうだが、あのご婦人を含め、現代を生きる人々はこの言葉を古臭いと言う。
それはそうだ。今から見れば100年ほど前の言葉なのだから。しかし、たった二十数年しか生きていない自分からしてみれば、その言葉は一周回って物珍しく目新しい。現代語のもつそれよりもずっと洒落ているのではないだろうかとすら思う。
口の中で、飴玉がカランと音を立てて転がる。
舌の上で溶け出す甘く爽やかなソーダの味はどこか儚く、初めて口にした筈なのになぜか懐かしかった。
この飴には、『お洒落』なんて言葉よりも『ハイカラ』という言葉がよく似合う。
なんとなく、そんな気がした。
小さな飴玉が儚く溶けて消えていく頃には、雨はすっかりあがっていた。
◇◇◇
降り続いた雨もようやく止んだ頃、俺はようやく自宅に辿り着く。
インターホンを鳴らせば、待ち構えていたように玄関の鍵が開いた。
「おかえり、祐樹」
「…ただいま」
開いた扉の向こう側で、あいつが俺の帰りを待っていた。
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