6 / 63
3-1
しおりを挟む
〈……全く〉
溜息をつきながら、傍らで眠っているティアの銀色の髪を撫でる。
ヴァリスのその手がくすぐったかったのか、ティアは笑うように身をよじって寝返りを打った。
ヴェクハールの外れにある共同住宅の、ヴァリスの部屋。セティの為にティアの部屋を一時的に明け渡したので、ティアは今ヴァリスの部屋の床で眠っている。ベッドで寝ろとヴァリスは言ったのだが、ティアはヴァリスのベッドを奪いたくないと断固拒否したのだ。こういうところに関しては、ティアは頑固だ。眠っているティアをベッドに運んだところで、次の日に申し訳なさそうに「ありがとう」と言うだけ。しゅんとしたティアの顔など、見たくはない。それならば一緒に床で眠った方がまだマシである。と、いう理屈で、ヴァリスは今、床に設えた自分の寝床に座っている。
〈なぜこいつは、困っている人を見ると簡単に手を差し伸べてしまうのだろう?〉
もう一度、ティアの髪を撫でる。今度は、ティアは動かなかった。
「やはり、奥方様の血を引いているからだろうか?」
ヴァリスの言う『奥方様』とは、ティアの母セターニア。ヴァリスを拾ってくれた、優しい人。
セターニアと初めて出逢った時のことは、今でもまざまざと思い出すことができる。
「姉様の髪と、同じ色」
そう言ってヴァリスの髪を撫でてから、抱きしめてくれた。その腕の温かさは、絶対に忘れない。まだ赤ん坊の頃にヴェクハール聖堂の物陰に捨てられ、聖堂で男達によって育てられたヴァリスにとって、その腕は正しく『母の腕』だった。
その時、セターニアは双子の姉リルーニアを探す為に、ヴェクハールを訪れたのだそうだ。しかしこの街では姉を見つけることができず、その代わり、というわけでもないのだろうが、ヴァリスを引き取ってソセアルの森へと帰った。……そう、セターニアは『ソセアル』の一族、だったのだ。
一年ほど、ヴァリスはセターニアと一緒にソセアルの森で暮らした。
森に帰ってから十月ほど経った頃、セターニアはティアを産んだ。そしてそれから三月後、ふとした風邪が原因でセターニアは亡くなった。その為、ヴァリスはティアとともにヴェクハールに戻され、現在に至っている。
あれからもう、十二年になるのか。ティアの年を数えて、溜息をつく。育ててくれた聖堂の人々に、文句は全く無い。だが、セターニアとの時間は『特別』なのだ。
窓から入ってくる微かな月明かりが、ティアの髪をぼうっと光らせる。ティアの髪の色は、母であるセターニアと同じ銀色。そして自分の髪の色は、セターニアが一生懸命探していた双子の姉リルーニアと同じであるらしい。それが、それだけが、セターニアが自分を引き取ってくれた理由だろうと、思う。それでも、ヴァリスは嬉しかったのだ。
ヴァリスには、分かっている。森へ行っても、徒労にしかならないだろうということが。セターニアの息子であるティアの瞳の色は、赤だ。ティアは『影』を祓う『呪歌』を歌うことができるが、セティが暮らしている島で起きている事件を解決する『力』を持っているとは思えない。セターニア以外に紫の瞳を持つ人を、ヴァリスは知らない。セターニアの姉であるリルーニアという人物もおそらく紫の瞳を持っているだろうが、彼女が行方不明である現在、『ソセアル』の一族は絶えたといっても言い過ぎではないだろう。しかし、それを言うことは、ヴァリスにはできなかった。セティはともかく、ティアを落胆させることは、ヴァリスにはできない。
だから。無駄だと分かっているティアの提案に、ヴァリスは頷いた。
……嫌々ながら。
ヴァリスが不本意な理由は、もう一つある。セティの、事だ。
いや、セティ自身がどうだというわけではない。セティが『アルリネットの巫女』だというのが問題なのだ。
アルリネットは、大地の女神。命ある者を生み出す、豊穣の女神。ヴァリスの所属する聖堂が信仰する絶対の天空神スーヴァルドとは、対極の存在。大陸ではスーヴァルドの方が優勢だが、セティの故郷であるアルトティス島には大規模なアルリネット神殿があり、少なからぬ人々が巡礼に訪れているという。
アルリネットの神殿には、様々な噂が付き纏っている。曰く、悪臭で悪霊を呼び出し、人を惑わす予言をする。曰く、神に仕える際は必ず、酩酊状態になる特殊な薬を飲み、神殿内で踊り狂う。曰く、巡礼の為にアルトティス島を訪れた人々を相手に、春をひさぐ。それら全てが正しいとは、ヴァリスも思わない。ヴェクハールは商業都市で、大陸の東西南北から様々な人間がやってくる。思想や信条、信仰する神も様々な人間を見てきているので、多少は公正で理知的な思考ができるとヴァリスは自負している。アルリネット神殿についてのこれらの噂も、スーヴァルド側、特にスーヴァルドを最高神と崇める北の王国ノイトトースの神官達が悪意を持って広めた噂だと、思えなくもない。
だが。特に最後の噂が、ヴァリスの思考を止める。
そんな不潔な場所に、ティアは連れて行けない。
だから。
明日からの冒険がうまくいかないことを、ヴァリスは神に祈った。
溜息をつきながら、傍らで眠っているティアの銀色の髪を撫でる。
ヴァリスのその手がくすぐったかったのか、ティアは笑うように身をよじって寝返りを打った。
ヴェクハールの外れにある共同住宅の、ヴァリスの部屋。セティの為にティアの部屋を一時的に明け渡したので、ティアは今ヴァリスの部屋の床で眠っている。ベッドで寝ろとヴァリスは言ったのだが、ティアはヴァリスのベッドを奪いたくないと断固拒否したのだ。こういうところに関しては、ティアは頑固だ。眠っているティアをベッドに運んだところで、次の日に申し訳なさそうに「ありがとう」と言うだけ。しゅんとしたティアの顔など、見たくはない。それならば一緒に床で眠った方がまだマシである。と、いう理屈で、ヴァリスは今、床に設えた自分の寝床に座っている。
〈なぜこいつは、困っている人を見ると簡単に手を差し伸べてしまうのだろう?〉
もう一度、ティアの髪を撫でる。今度は、ティアは動かなかった。
「やはり、奥方様の血を引いているからだろうか?」
ヴァリスの言う『奥方様』とは、ティアの母セターニア。ヴァリスを拾ってくれた、優しい人。
セターニアと初めて出逢った時のことは、今でもまざまざと思い出すことができる。
「姉様の髪と、同じ色」
そう言ってヴァリスの髪を撫でてから、抱きしめてくれた。その腕の温かさは、絶対に忘れない。まだ赤ん坊の頃にヴェクハール聖堂の物陰に捨てられ、聖堂で男達によって育てられたヴァリスにとって、その腕は正しく『母の腕』だった。
その時、セターニアは双子の姉リルーニアを探す為に、ヴェクハールを訪れたのだそうだ。しかしこの街では姉を見つけることができず、その代わり、というわけでもないのだろうが、ヴァリスを引き取ってソセアルの森へと帰った。……そう、セターニアは『ソセアル』の一族、だったのだ。
一年ほど、ヴァリスはセターニアと一緒にソセアルの森で暮らした。
森に帰ってから十月ほど経った頃、セターニアはティアを産んだ。そしてそれから三月後、ふとした風邪が原因でセターニアは亡くなった。その為、ヴァリスはティアとともにヴェクハールに戻され、現在に至っている。
あれからもう、十二年になるのか。ティアの年を数えて、溜息をつく。育ててくれた聖堂の人々に、文句は全く無い。だが、セターニアとの時間は『特別』なのだ。
窓から入ってくる微かな月明かりが、ティアの髪をぼうっと光らせる。ティアの髪の色は、母であるセターニアと同じ銀色。そして自分の髪の色は、セターニアが一生懸命探していた双子の姉リルーニアと同じであるらしい。それが、それだけが、セターニアが自分を引き取ってくれた理由だろうと、思う。それでも、ヴァリスは嬉しかったのだ。
ヴァリスには、分かっている。森へ行っても、徒労にしかならないだろうということが。セターニアの息子であるティアの瞳の色は、赤だ。ティアは『影』を祓う『呪歌』を歌うことができるが、セティが暮らしている島で起きている事件を解決する『力』を持っているとは思えない。セターニア以外に紫の瞳を持つ人を、ヴァリスは知らない。セターニアの姉であるリルーニアという人物もおそらく紫の瞳を持っているだろうが、彼女が行方不明である現在、『ソセアル』の一族は絶えたといっても言い過ぎではないだろう。しかし、それを言うことは、ヴァリスにはできなかった。セティはともかく、ティアを落胆させることは、ヴァリスにはできない。
だから。無駄だと分かっているティアの提案に、ヴァリスは頷いた。
……嫌々ながら。
ヴァリスが不本意な理由は、もう一つある。セティの、事だ。
いや、セティ自身がどうだというわけではない。セティが『アルリネットの巫女』だというのが問題なのだ。
アルリネットは、大地の女神。命ある者を生み出す、豊穣の女神。ヴァリスの所属する聖堂が信仰する絶対の天空神スーヴァルドとは、対極の存在。大陸ではスーヴァルドの方が優勢だが、セティの故郷であるアルトティス島には大規模なアルリネット神殿があり、少なからぬ人々が巡礼に訪れているという。
アルリネットの神殿には、様々な噂が付き纏っている。曰く、悪臭で悪霊を呼び出し、人を惑わす予言をする。曰く、神に仕える際は必ず、酩酊状態になる特殊な薬を飲み、神殿内で踊り狂う。曰く、巡礼の為にアルトティス島を訪れた人々を相手に、春をひさぐ。それら全てが正しいとは、ヴァリスも思わない。ヴェクハールは商業都市で、大陸の東西南北から様々な人間がやってくる。思想や信条、信仰する神も様々な人間を見てきているので、多少は公正で理知的な思考ができるとヴァリスは自負している。アルリネット神殿についてのこれらの噂も、スーヴァルド側、特にスーヴァルドを最高神と崇める北の王国ノイトトースの神官達が悪意を持って広めた噂だと、思えなくもない。
だが。特に最後の噂が、ヴァリスの思考を止める。
そんな不潔な場所に、ティアは連れて行けない。
だから。
明日からの冒険がうまくいかないことを、ヴァリスは神に祈った。
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/fantasy.png?id=6ceb1e9b892a4a252212)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
〖完結〗その子は私の子ではありません。どうぞ、平民の愛人とお幸せに。
藍川みいな
恋愛
愛する人と結婚した…はずだった……
結婚式を終えて帰る途中、見知らぬ男達に襲われた。
ジュラン様を庇い、顔に傷痕が残ってしまった私を、彼は醜いと言い放った。それだけではなく、彼の子を身篭った愛人を連れて来て、彼女が産む子を私達の子として育てると言い出した。
愛していた彼の本性を知った私は、復讐する決意をする。決してあなたの思い通りになんてさせない。
*設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
*全16話で完結になります。
*番外編、追加しました。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。
松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。
そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。
しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。
いい子ちゃんなんて嫌いだわ
F.conoe
ファンタジー
異世界召喚され、聖女として厚遇されたが
聖女じゃなかったと手のひら返しをされた。
おまけだと思われていたあの子が聖女だという。いい子で優しい聖女さま。
どうしてあなたは、もっと早く名乗らなかったの。
それが優しさだと思ったの?
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
誰の代わりに愛されているのか知った私は優しい嘘に溺れていく
矢野りと
恋愛
彼がかつて愛した人は私の知っている人だった。
髪色、瞳の色、そして後ろ姿は私にとても似ている。
いいえ違う…、似ているのは彼女ではなく私だ。望まれて嫁いだから愛されているのかと思っていたけれども、それは間違いだと知ってしまった。
『私はただの身代わりだったのね…』
彼は変わらない。
いつも優しい言葉を紡いでくれる。
でも真実を知ってしまった私にはそれが嘘だと分かっているから…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる