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狼谷縁起

その人、は

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 目の前に立った影に、背中が震える。
 恐れと戸惑いを隠す為に、こうは唇を結んで顔を上げ、その影を睨み付けた。と、言っても、晃の目の前にいるのは猛獣でも強者でもない。
「大丈夫か?」
 低く優しい声が、目の前の小柄な影から発せられる。夕方近くの微かな風が、目の前の人物の肩近くで切り揃えられた髪を揺らした。
 返事を、しなければならない。それは分かっている。彼女は自分のことを心配していることは、その口調からすぐに感じることができたし、それに、彼女は、見た目は自分より少し年上の少女だが、自分よりずっと目上の人。だが、声が出てこない。首を動かすことすら、できない。だから晃は、先程崖から落ちて痛めた足を庇いつつ、尻餅をついた状態で少し後ろに下がった。彼女を怖がる必要はないのだが、それでも、感情を抑えることができない。
 晃の目の前にいる、その女人の名は、らん。同じ谷に棲む、一族の一員。谷の西端に位置する茜沢にたった一人で暮らし、その『不死身』の能力故に、誰でも一つ以上の『能力』を持って生まれる一族の中でも特に畏怖されている存在。晃も、谷に棲む他の男の子達も、蘭のことだけは少し恐れていた。だから、かもしれないが、この『蘭』という存在は、遠くから悪口を言って逃げるからかいの対象にもなっていた。
 その『蘭』が、目の前にいる。晃の震えは最大限に達して、いた。
 と。
 つと、蘭がその細い腕を伸ばす。晃が戸惑うより先に、丸い指が晃の腫れた足首に触れていた。
「じっとしてな」
 蘭のその腕を撥ね付けようとした晃の腕が、蘭の優しい瞳で止まる。蘭が腰の袋から薬草と布を出し、晃の足の手当をする間、晃は腕を下ろして押し黙ったまま、身を固くして蘭の行動を見つめていた。
「じき、日が暮れる」
 手当が終わるとすぐに、蘭は晃に背を向ける。
「乗りな」
 一瞬躊躇ったが、晃はそっと蘭の背にその身を預けた。
 夜の森は危険だし、怪我した足では歩けない。負われる恥ずかしさより実利が勝った形だが、やはり、羞恥は感じる。早く下ろして欲しい、徐々に暗くなりつつある森の中で、意外と温かい蘭の背を感じながら、晃はそれだけを念じていた。
 不意に、目の前が開ける。眼前に広がった光景に、晃は口をあんぐりと開いた。ここは、……自分の棲む、藍ヶ丘。蘭が棲み、自分が蘭と出会った地点とは真反対の場所ではないか。何故、わざわざ森の中を遠回りしたのだろうか。森を出て、谷を横切れば済むことなのに。そこまで考えてはっとする。……自分の、為だ。蘭は、自分が男の子達のからかいの対象であるのを知っていて、晃までからかわれないようにする為に、谷の西端から東端までわざと遠回りしたのだ。
 森と谷の境界線で、蘭は晃を背から降ろす。
 そのまま森の中へ再び姿を消す小柄な背に向かって、晃は「ありがとう」の一言すら、呟くことができなかった。
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