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狼谷縁起

魔女と呼ばれるあの人は

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「ねえ、蘭は『魔女』なの?」
 色褪せた木扉に手をかけた瞬間に聞こえてきた高い声に、息が止まる。
「さあ、どうだろう」
 しかし続いて聞こえてきた懐かしい声で身体の強張りを溶かすと、章は立て付けの悪い扉を一杯の力で横に引いた。
「あら」
 膝の上の子供に読み聞かせていた絵本から顔を上げた、この家の主、蘭が、章に小さく微笑みかける。育ての親の表情に章がほっと息を吐く前に、蘭は膝の上から子供を抱き下ろすと、部屋の奥にある戸棚の一番上から小さな包みを取り出した。
「これを、上にある大巫女様の祠に供えておいで、啓」
 立ち上がった子供の小さな手に包みを乗せた蘭が、章と同じ色の黒髪を揺らす子供の頭を撫でる。
「墓所に水を供えるのも忘れないで」
「はーい」
 あの包みの中身は、多分蘭お手製の饅頭。包みの中身をちらりと見た、啓という名の子供の表情でそれを察する。章自身も、ここで蘭と一緒に暮らしていた時にはしばしば、蘭自身が作った美味しいお菓子を、この『谷』を守護する『大巫女様』を奉る祠に持って行っていた。その祠の側にある、一族を葬る墓所の世話も、蘭の役目。
「さあ、汚れた服は脱いだり脱いだり」
 啓という名の子供の姿が見えなくなるや否や、蘭は戸棚の真ん中から布の塊を取り出す。受け取った重い布は、確かに、章の斜め前に見える織機で蘭が織った布を、蘭自身が『谷』の服に縫い上げたもの。
「身体を拭いたら御飯だね。それともお菓子にする?」
「あの子も、危険な能力を持っているのか?」
 何でも入っている戸棚から皿や鍋を取り出す蘭の背に、全てをはぐらかすためにそう尋ねる。
「預かっているだけ。あの子のお母さん、もうすぐ出産だから」
 あの子は、自分とは違うんだ。返ってきた答えに、安堵と小さな嫉妬を覚える。章は小さく首を振ると、汗と泥が染みこんだ服を脱ぎ捨てた。
 蘭が用意してくれた盥のお湯で身体を清めながら、ふと、様々なものが雑多に置かれている作業机に目を留める。あの、薄汚れた本は、先程まで蘭が啓に読み聞かせていたもの。……いや、蘭が、かつての章のために作ってくれた、『谷』の言葉で書かれた世界の御伽噺の本。子供を掠い、食べるという『魔女』の話も、確か載っていたはず。
 『谷』の外に広がる世界で語り継がれている物語の中に出てくる『魔女』は、目の前の蘭に少しだけ似ている気がする。美味しそうな匂いを漂わせ始めた鍋の中身を掻き回す小さな背中に、微笑む。章が生まれる前からずっと、『谷』の外れに独りで暮らし、薬草を煎じたり、自分で績み染めた糸で布を織ったりし、そして、章のような、やっかいな『能力』を持つ子供を預かり育てている。
 大陸の外れに暮らす『狼谷』の人々は、必ず一つ以上の『能力』を持って生まれてくる。蘭の能力は『不死身』と『不老不死』。そして章が持っているのは、怒りのままに人を殺めてしまう、能力。その能力の制御を教えてくれたのは、章の怒りにずっと付き合ってくれた、蘭。
「蘭」
 鍋の中身を味見する背中に、口を開く。
 しかし全てを話す必要は無かった。
「村長は、あなたをあの国に引き渡すでしょうね」
 あくまで静かな蘭の声が、無音の空間に響く。
「『谷』を守るために」
「……」
 続いた言葉に、章は頷く他無かった。
 分かっていた。小さく首を横に振る。一族の能力は、一族の安住の地である『谷』のために使う。それが、暗黙の了解。
「……許せなかったんだ」
 蘭に、ではなく、自分の心に向かって、小さく呟く。
 自分が追われていることは、分かっている。
 数日前、章は、滞在していたとある国の暴君を暗殺した。その暴君は、国際社会ではお金をばらまいて良い顔をしていたが、自分の国では圧政を敷き、特に女性や貧しい人々からは搾れるだけ搾り取っていた。同じ女性を苦しめるなんて、許せない。あの国の裏路地で何度も見せつけられた横暴が、脳裏を過ぎる。怒りを静めるために、章は頭の中で十数えた。感情を制御するこの方法も、かつて蘭から教わった。でも、あの時は、……自分の感情を抑えることができなかった。物陰から見ていた軍事パレードの真ん中に件の暴君を認め、怒りを爆発させた次の瞬間、暴君は、軍人達の間に倒れていた。ただ、それだけ。
 章の怒りは、誰にも見られていない、と思っていた。だが、急くようにその国を去った章を疑う者がいてもおかしくはない。おそらく章の、『谷』の一族の証である、蘭と同じ灰色の瞳を覚えていた人がいたのだろう、どこへ行っても章は追われ、それでも何とか、この場所へと戻ってきた。
 だが。章に背を向けたままの蘭の静かさに、もう一度首を横に振る。
 助けてほしいから、ここに戻ってきたのではない。ただ、……最後に、一番大好きだった、蘭の顔が見たかっただけ。
 だから。
「御飯食べたら、出て行くね」
 作業机の上に鍋敷きと鍋を乗せる蘭に、力無く微笑む。
 蘭は何も言わず、小さな茶碗を章に差し出した。

 霧の向こうに、複数のうごめく人影が映る。
 その人影の真ん中にいた小柄な影に、章はあっと声を上げた。
 後ろ手に縛られ、屈強な男達に囲まれて歩かされているのは、章が着ていた薄汚れた服を着た蘭。なぜ、蘭が自分の服を? それよりも、なぜ、蘭が、あの国の軍人達に捕まっている? ……まさか。
「蘭!」
 自分の叫び声が、聞こえない。
 聞こえたのは、広場の真ん中に設えられた台に立たされた蘭を無造作に撃つ、轟音だけ。

 はっと、目を覚ます。
 ごつごつとした低い天井が、戸惑う章を出迎えた。
 ここは? 怒りの感情を抑えながら、辺りを見回す。ここは、……見たことがある。『谷』を守る『大巫女様』を奉る祠の裏にある、洞窟。でも、なぜ、章はここに? 舌に残る苦さが、章に答えを教えた。おそらく蘭は、あの食事に毒を盛った。深く眠る、毒を。
 怒りが、空間を震わせる。しかし次の瞬間、降ってきた白い布が、章の怒りを戸惑いに変えた。
「収まったか?」
 蘭に似た、しかし蘭より高慢な声が、章の耳に響く。身体に絡まる布を何とか引きはがすと、蘭によく似た、しかし蘭より小柄な女性が章の前で微笑んでいた。
「ここを壊されたら、妾の場所が無くなってしまうのでな」
 もしかして、……大巫女様? 僅かな風に揺れる白い左袖から、かつて蘭から教わった『谷』の歴史を思い出す。幼い頃、僅かな予感を頼ってこの場所に辿り着く前に、大巫女様は怪我により左手を失った。それでも、一族が安住できる『谷』を見つけた大巫女様が、目の前にいる。その事実に、章の全身は震えに震えた。
「そんなに怯えなくとも良い」
 その章に、大巫女様が蘭と同じ笑みを見せる。
「蘭から、聞いている」
 そして大巫女様は微笑んだまま、章が握り締める白い布を指差した。
「しばらくはそれを被って、蘭の代理をせよ」
 『不死身』の能力者である蘭ならば、章の代わりに殺されても問題は無い。だから『谷』の人々は、章の代わりに蘭を差し出した。世界に散らばる一族の様々な『能力』を結集し、殺されて晒される蘭の身体を盗み出し、安全な場所で復活させるための協力体制も整いつつある。『谷』と、『谷』に繋がる一族を守るのが蘭の、そして一族の定め。大巫女様の確かな声に、章はほっと胸を撫で下ろした。
「だからそなたは安心して、ここにいろ」
 一族に、特に蘭に何も問題が無ければ、それで良い。だから、章は、微笑む大巫女様に向かって、大きく頷いた。
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