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九十九冒険譚
翳り
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黄昏の街に、悲痛な声が響く。
その、今にも消え入りそうな声を耳にするや否や、禎理の足は声の方に向かって猛ダッシュで走り出して、いた。
全く、旅から帰ってきたばかりなのに、もうこれだ。自分の行動に内心苦笑しつつ通りを曲がると、視界には、幾人もの大男に囲まれた小さい影が確かに見えた。大男達は皆、十分成長しきった大人達ばかりなのに対し、小さな影は年端も行かない少年だ。勿論、禎理が味方するのは少年の方。理由はどうであれ、多対一は卑怯すぎる。
音も立てずに、少年を小突いている大男の背後に忍び寄り、傍に落ちていた棒切れでその後頭部を思い切り殴る。突然の攻撃に大男達が動揺した隙に、禎理は急所を狙って次々と大男達に蹴りを入れた。そして彼らが呻いている間に、真ん中の少年の腕を引っ張って大急ぎで逃げる。大男達は勿論二人を追って来たが、彼らには通れない細い路地を選んで逃げたおかげで、うまく振り切ることができた。
「大丈夫?」
人通りのある、広場に近い通りの端で一息ついてから、まだ腕を掴んでいた少年にそう尋ねる。
「は、はい」
少年の返事を聞いてから、禎理はどこか怪我をしていないかと少年を頭から爪先までしっかりと眺めた。服が少々と、練習用の剣を吊るす為に肩から掛ける剣帯が破れているだけだ。それを確認した禎理はほっとして、破れた剣帯を直そうと手を伸ばした。
〈……おや?〉
この剣帯には、見覚えがある。確かめるように手にとって裏返し、縫い目を見る。予想通り、縫いしろの間に自分の名前が刺繍してあった。……これは、自分が『無限流』道場で修業中に作成したものだ。それを確認した禎理はもう一度、少年の姿をまじまじと見つめた。
「……?」
禎理の視線に小首を傾げる少年の服装は、武人階級の簡素なもの。武術を習う者が着ていてもおかしくはない。無限流道場では、年長の者が使っていたものを後輩も使う風習がある。と、すると、やはり。彼は、自分の後輩にあたるのだ。なんて偶然。禎理は思わず顔を綻ばせた。
と、その時。
「……あっ!」
馬蹄の音と共に、聞き知った涼やかな声が禎理の耳に入ってくる。
「こんなところで何をしている、景」
禎理はゆっくりと振り向き、声の主の名を呼んだ。
「須臾」
西日の所為で、馬上の人物の顔は見えない。だが、声の感じと身に纏った雰囲気で、須臾が焦っていることだけは何となく分かった。
天楚の貴族騎士である須臾と、賎民の冒険者である禎理には身分にかなりの隔たりがあるが、無限流道場の宿舎で四年間相部屋だった仲である。禎理の方が二年先輩で、修行中は色々世話を焼いた――焼かれることの方が多かったかもしれない――のだから、須臾の気持ちの動きぐらいは簡単に読める。
「禎理か。久しぶりだな」
その禎理の観察には構わず、馬を下りた須臾が少年の傍に立つ。その行動が、少年を庇うように見えたので、禎理の不審はますます募った。
「私のところの小姓が、何かしたのか?」
「え。……ううん」
須臾を見上げた少年の瞳が、バツの悪そうな色に変わったのが分かる。だから禎理は、須臾に向かって首を横に振った。
「なら、良いが」
その禎理の答えを聞いた須臾の顔が、一瞬、溜息をつきそうになる。だがすぐに、須臾は少年の方に向き直り、厳しい声で言った。
「早く帰らないと、もうすぐ門限だぞ」
「は、はい」
須臾の言葉に、少年は慌てた声でそう返すと、禎理に向かってぺこりとお辞儀をしてから足早に貴族街の方へと去って行った。
「気をつけて帰るんだぞ」
その背中に、須臾がそう、声を掛ける。
そして禎理の方を向き直ると、静かに頭を下げた。
「助けてくれて感謝するよ、禎理」
「あ、うん」
貴族の須臾に頭を下げられて、正直戸惑う。だが、その須臾の言葉に、禎理は微かな違和感を確かに感じて、いた。……まさか須臾は、少年が大男達に苛められた原因を知っているのでは?
「やはり、そうか」
その禎理の疑問が顔に表れていたらしい。須臾は苦笑すると、次の瞬間、やけにあっさりと原因を口にした。
「分裂したんだ。『無限流』は」
そもそも『無限流』は、変わり者ぞろいで知られる六角公家の一員である野名師匠が、大陸中を旅して身につけた剣術や体術を天楚の若者に教えるために興した武術流派である。野名師匠自身は貴族出身だが、道場では実力主義を取り、禎理のような身分の低い者でも素質さえあれば快く入門を許していた。
だが、老衰で亡くなった野名師匠の跡を、その息子である一名が継いだ時期から、この原則が崩れてしまう。六角公家の一員だが、現在の六角公との血の繋がりが薄い一名はそのことをコンプレックスとしているらしく、そしてそれゆえに、貴族・武人階級以外の出身者を道場から排除してしまった。勿論、排除された側も黙ってはいない。ここ数年の駆け引きや闘争の末、無限流は、一名を頂点とする『旧派』と、一名に反発を覚えた者達で組織した『新派』に分裂してしまった。
「……そう、なの」
須臾の話を聞いた禎理の心の中が、苦くなる。野名師匠が心血を注いで創り上げた『無限流』が、壊れてしまうとは。分裂しないで共存できる道は無かったのか? ふと、そう思う。野名師匠は、低身分の者と高身分の者とが対立することを特に嫌っていた。確かに一名はもの凄く嫌な奴だが、それでも分裂は、師匠の為にも、……避けて欲しかった。禎理は思わず、須臾から目を逸らし、暗くなった地面を見つめた。
「禎理の考えも分かるよ」
そんな禎理の心を読んだように、須臾がぽつりと言う。
「我々も、できることなら分裂はしたくなかった。……だが、無限流の理念を失ってはいけない」
それは、分かる。そっと腰の短剣に手を伸ばす。禎理の背で手斧と共に光っているその短剣は、野名師匠が残してくれた『証の剣』。師匠の想いがあったからこそ、禎理は冒険者として、傍に居る人々を守れるくらいの武術を身につけることができたのだ。
「だから。……くれぐれも気をつけて欲しい」
もう帰らなくては。そう言って再び馬上の人となった須臾が、静かに言う。
「分かった」
その須臾の目を見てから、禎理はしっかりと頷いた。
たとえ理由はどうであれ、旧派と揉め事を起こせば、一名達はそれを利用して新派潰しにかかるだろう。須臾の為にも、野名師匠の為にも、あの少年の為にも、それだけは避けなければならない。
「なるべく、喧嘩は買わないようにする」
「できるのか?」
決意のような禎理の言葉に、須臾が初めて笑顔を見せる。確かに、弱い者虐めを見ると割って入るような禎理に、そんなことができるはずがない。それは、禎理自身が一番よく分かっていた。
「努力は……する」
だから禎理は、須臾を見てから、苦笑して頭を掻いた。
その、次の日。
冒険者宿三叉亭で昼食を取ろうと下宿先から大通りに出た禎理の目の前に、大柄な男がいきなり立ち塞がる。
〈こいつ、一体、何の用だ?〉
大男の顔色に不穏な動きを読み取る。完全に退路を絶たれる前に逃げようと、禎理はその小柄な身体を横に動かした。だが。辺りを見回して、自分の考えが甘いことに気付く。左右にも、後ろにも、大柄な男が退路を塞ぐように立っていた。その男の一人の手に、奇妙な膨らみがあることを、禎理はその素早い目で確かめた。あのような手のタコは、無限流で教わる手裏剣術でできるもの。間違いない。彼らは『旧派』の者、だ。
「我々と一緒に来て欲しい」
最初に禎理の目の前に立ち塞がった男が、静かな命令口調でそう言う。その物言いに一瞬ムカッと来た禎理だが、須臾の顔を思い出して自分を何とか堪えた。
大男を見上げ、睨みつけてから、静かにこくんと頷く。四人の大男に取り囲まれながら、禎理は久しぶりに道場の門をくぐった。
道場で最初に感じたのは、荒れた、物悲しい雰囲気。おそらく、分裂してから修行者がかなり減ったのだろう。そんなことを考えながら、禎理は導かれるままに、道場の奥、『総長部屋』と大書された看板の掛かる大きくて豪勢な部屋に入っていった。その部屋にいたのは、予想された人物。
「久しぶり、ですね」
見るのも嫌な顔が、禎理の眼前に広がる。
「既に、分裂のことは聞き及んでいると思いますが」
旧派の長、一名は、相変わらずの見下した声で禎理に向かって笑いかけた。
「どうでしょう、我々の方につきませんか?」
その声に、背筋が痒くなる。禎理の口は思わず、何時に無い皮肉を紡ぎだしていた。
「そんなに、逼迫しているのですか? 低身分の者を引き入れなければならないほど」
禎理の言葉に、一瞬にして一名の顔が真っ赤になる。だが、次の瞬間には、一名の顔は元の蒼白に戻っていた。
「やはり」
表情を消して、静かに呟く声が、禎理の耳に響く。
「生かしておくわけにはいきませんね」
次の瞬間、禎理の周りは大男達と、彼らの持つ鋭い得物に囲まれてしまって、いた。
「……え、来てないんですか、禎理?」
三叉亭のカウンターで、思わず素っ頓狂な声を上げる。
「ああ。昨日の夕方に見たっきりだ」
その須臾に対して、カウンター内でシチュー皿を積み上げている六徳の声はいつも通り冷静だった。
「まあ、来ない理由は分かっているがな」
「えっ!」
その冷静な声が紡いだ言葉に、言葉を失う。一体、禎理はどうしたというのだろうか。まさか、昨日の今日で大怪我でもしたのではないだろうか? 分裂や反目の件もある。天楚で起こるどんな事件にも首を突っ込んでいる禎理のことだ、何か大変なことに巻き込まれていてもおかしくはない。
「昼過ぎに、古い方の無限流道場に『道場破り』が入ったそうだ」
そんな須臾の思考を裏付ける言葉を、六徳はいとも簡単に口にした。
「話を聞いて俺も見に行ったんだが、一名の野郎、かなり青い顔をしていたな」
「だ、誰が、そんなことを」
かなり具体的な六徳の話に、背筋がすうっと冷たくなる。嫌な予感を抱えながら、須臾は心当たりの名を口にした。
「……って、まさか、禎理」
「さあな。向こうさんは、新派の奴らの仕業だって言っているが」
かなりぼかしてはいるが、六徳も、『道場破り』に禎理が関与していることは認めているようだ。嫌な予想が、当たってしまった。須臾は深い溜息をつくと、目の前に置かれたぬるいエールを勢い良く飲んだ。
「まあ、むりやり連れ込まれたんで暴れた、ってところが真相だろうな」
そんな須臾の前に、エールのお代わりを差し出しながら、自分の推測を述べる六徳。彼らが『道場破り』の名を出さないのは、禎理のような低身分の者にこてんぱんにやられたことを隠したいからだろう、とも。
「で、禎理自身は迷惑が掛からないようにとっとと雲隠れした、と」
「そう、でしょうね」
そうであって欲しい。その思いを込めて、須臾はそう、静かに呟いた。そのほうが良いのだ。道場の為にも、禎理の為にも。
しかしながら。
「それで公開試合まで組んでしまうとは、よっぽど新派を潰したいらしいな、一名側は」
「はい」
禎理を訪ねた目的を六徳に指摘され、須臾の溜息はその深さを増した。
今日の午後、一名から一方的に叩きつけられた『公開試合』の内容は、無限流のみを用いた五対五の試合。三日後に、市の広場で行われるこの試合に出す人間が、実は足りないのだ。
無限流の免許状を持っている者だけではなく、無限流を習った者なら現在修行中の者でも出ることは可能だ。そう、試合の挑戦状と共に差し出された書面に書いてあったところから見ると、一名側も人材が足りていないのだろう。だが、あちら側には一名と、師範代を務め、平騎士隊の副隊長もやっている矩角という、侮れない強さを持つ者もいる。たとえ禎理がいたとしても、こちらの人材も絶対的に足りない。
「で、どうする? 探すことはできるが」
「……いえ」
だが、六徳の提案に、須臾は静かに首を横に振った。
確かに、禎理がいれば試合に勝つ確率は格段に上がる。だが、現在『道場破り』という濡れ衣を着せられている禎理が試合に出れば、あの一名のことだ、何かとてつもない難癖をつけて来るに違いない。それでこちら側が負けてしまえば、野名師匠の『想い』を継ぐことができなくなってしまう。しかし逆に考えると、この試合は、こちら側が正しいことを世間に認めさせる絶好のチャンスかもしれない。不意に、全く別の考えが頭に浮かび、須臾は思わず口の端を上げた。
難しいかもしれないが、禎理がいなくても勝てる策を立てることが、できるかもしれない。そう考えた、須臾の心の中では、熱い気持ちがふつふつと湧き上がって、いた。
無限流の公開試合の日は、あいにく、今にも降りだしそうなどんよりとした曇り空の日。しかし、そんな天気でも、会場である天楚市の広場は既に人でいっぱいになっていた。
大丈夫だろうか? 群集を捌いている平騎士隊を横目で見ながら、ふと不安になる。だが、ここまで来てしまったのだ。あとは何とかする他はない。……自分独りで。
ふと、振り向く。試合に出場する選手用に須臾が立てさせた、雨避けのシートを張った簡易テントの下で、小さな影が震えているのがはっきりと見えた。
「……景」
テントの下まで歩いて行き、震えている少年に声をかける。
「大丈夫だよ」
その細い肩をぽんぽんと軽く叩くと、六角公の小姓である少年の震えはやっと止まった。だが、顔色は蒼白だ。
本当に、大丈夫だろうか? 先ほどの不安が、もう一度心を過ぎる。五対五の試合なら、三人勝てばこちらの勝ちは決まる。須臾自身が本気を出しても勝ちを収めることが難しい一名はおそらく五番目に出て来るだろうから、それを外した二番目、三番目、四番目で勝てば良い。そう計算して、須臾は一番目にこの少年を置いた。しかし、幾ら人が足りなかったからとはいえ、こんな年端も行かない少年を試合に出してよかったのだろうか? 須臾の心は、いまだ迷い続けて、いた。
「さあ、時間だ」
その迷いを振り切るように、少年の背中を強く押す。
「行っておいで。大丈夫だから」
須臾を見上げた少年はこくんと頷くと、口を真一文字に引き結んで練習用の、それでも実際の剣と同じものを手に取った。
試合用に広く取られた空間の真ん中では、今日の審判に選ばれた者が、こちらに向かって頷いている。その審判が、須臾も良く知っている者だと気付き、須臾は戸惑いを隠せなかった。一名のことだから、試合の審判も自分の手の者を使うと思っていたのに、一名側でも須臾側でもない人物を審判に使ってくるとは。だが、須臾の疑問は、次の瞬間、一名側の選手群の中から試合場に現れた人物によって掻き消された。
「……矩角!」
あんぐりと口を上げ、試合場の三人を見つめる。
まさか一番手に、無限流で一、二を争う剣術の達人を持ってくるとは。これでは、景が負けるのは目に見えている。自分の策の甘さに、須臾は臍を噛んだ。
その須臾の予測通り、第一試合は矩角の一方的な攻撃に終始した。逃げ惑う景に容赦なく、鋭い突きを入れる矩角。弱い者にすら容赦ない攻撃に、須臾の怒りはとうに沸点を越えていた。
試合は間違いなく矩角の勝ちであるはずなのに、審判も試合の終了を宣言しない。もう、我慢できない。須臾は試合場の矩角と景の間に割って入ると、景を庇いながら矩角の剣を右腕で受け止めた。試合妨害で文句が付くかもしれないが、少年が殺されるよりはましだ。
「もうそれくらいで良いだろう」
なおも剣を構える矩角をしっかりと睨みつけながら、静かにそう言う。須臾のその言葉に、矩角は不敵な笑みを浮かべて剣を納めた。
「須臾様、腕が!」
不意に、景が須臾のマントを強く引く。その時になって初めて、須臾は自分の右腕から血が出ているのに気付いた。
景に引っ張られるようにして戻ったテントの下で、付けていた革の手甲を外す。その手甲を貫いた矩角の刃は、須臾の腕を深く切り裂いて、いた。
「……これでは、試合は無理じゃな」
選手が怪我をした時の為に頼んでおいた、三叉亭の二階で診療所を開いている医者の弦《ゆづる》が、素早く傷を縫って包帯を巻く。だが、痛みだけは、止まるところを知らなかった。弦の言う通り、これでは、試合に出るのは無理だ。
「次!」
絶望感に打ちひしがれた須臾の耳に、無情な審判の声が響く。よろよろと振り向いた須臾は、だが、次の瞬間、あってはならない光景に思わず瞠目した。
「な、何で?」
試合場には、件の矩角が剣を抜いて不敵に笑っている。
「勝ち抜き戦ですよ、これは」
須臾の驚きが聞こえたらしい、向こう側から、聞くのも嫌な一名の声が聞こえてきた。
〈なんと……!〉
頭を抱える。矩角より強い選手は、自分の側には居ない。須臾自身でも、互角なのだ。その須臾が試合に出られないこの状態では、この試合に負けてしまうことは火を見るより明らかだ。須臾は思わず顔を歪めた。
須臾の目の前で、二番手も、三番手の選手も負けてしまう。次は、須臾の番だ。自分の決意を固めるようにしばらく瞑想した後、須臾は静かに自分の剣を手に取った。途端に、痛みが体中を走りぬける。剣を取り落としそうになり、須臾は慌てて右手に左手を添えた。
「駄目です!」
景が須臾のマントを引っ張っているのが、気配で分かる。
彼の気持ちも分かるが、それでも、自分は行かなければ。
だから。景の手を、左手で静かに掃ってから、テントから一歩、外に出る。
その時。
「らしくないよ」
聞き知ったような声が、須臾の歩を止めた。
その声に呆然としてしまった須臾の横を、小柄な影が通り過ぎる。その影の背を、須臾は目を瞬かせながら、見つめた。試合場に立ったのは、浅黒い肌をした女の子。肩までの真っ黒な髪を留めた白い鉢巻が、弱い光を反射して眩しく光っている。
「何ですか、あなたは?」
少女を見た一名の不審げな声が、辺りに響く。
「これは無限流の試合ですよ!」
その言葉に、少女は黙ったまま、懐から羊皮紙を取り出し、半分ほど広げて高く掲げた。遠くからでもはっきりと見える、羊皮紙に書かれた紋様は、間違いなく、無限流の免許皆伝の印。彼女は確かに、この試合に出る権利がある。
群衆にその印を示してから、おもむろに羊皮紙を巻き直し、懐に入れる少女。矩角が動いたのは、その時だった。
「あ、あぶないっ!」
少女に向かう鋭い突きを目にして、思わず、叫ぶ。だが、少女の動きは須臾の予想を遥かに超えていた。小柄な影が一息でしゃがみ、突きを軽く避ける。次の瞬間、少しだけバランスを崩した矩角の足を、鮮やかな蹴りが襲った。
不様に顔から地面に落ちる矩角の首筋に、少女の細剣の切っ先が当たる。
「勝負、あり!」
矩角が動かないのを確かめてから、審判の男は大声でそう、叫んだ。
あまりにも鮮やかな勝利に、唖然を通り越して呆然としてしまう。このような試合は、見たことがない。
「次!」
審判の声に、一名の側から、二番手の選手が出てくる。
少女の倍はありそうな、その大男をも、少女は体術と手裏剣術を駆使してあっという間に倒してしまった。三番手も、四番手も、少女のしなやかな攻撃に翻弄され、手出しもできずにやられてゆく。その少女の動きに、須臾は目を奪われ続けた。
しかしながら。彼女は一体、誰なのだろうか? ふと、疑問が頭を過ぎる。実力主義の野名師匠は、たとえ女子でも素質があれば修行を許していたから、女性の免状持ちがいてもおかしくはない。だが、あの少女は、見かけたことがない。須臾が小首を傾げている間に、四番手の選手が倒れる。次に現れたのは、須臾の予想通り、見るのも嫌な一名の醜悪な顔。
大丈夫、だろうか? 不安が、心の中に浮かぶ。性格的には問題が多々有り過ぎる一名だが、剣の腕だけは天楚でも一、二を争っている。そんな人間を相手に、この少女が勝てるのだろうか? 自分の危機を救ってくれた少女に、怪我をさせるわけにはいかない。……止めなければ。須臾はマントを翻すと、試合場に向かってその一歩を踏み出した。
と。その時。
いきなりの雷鳴が、暗い空に鳴り響く。次の瞬間、車軸を流すような雨が、広場を襲った。
「うわっ!」
「逃げろっ!」
試合を見ていた群集が、雨を避ける為に広場の周りにある建物の影に入り込む。少女が動いたのは、まさにその時だった。
細剣の斬撃が、一名の咽喉に飛び込む。……だが、スピードが足りない。少女の剣を軽くかわし、一名が少女の後ろに回ったのが、雨の向こうにはっきりと見えた。
「危ない!」
思わず、叫ぶ。しかし、少女の動きは又々須臾の先を行っていた。
一名の剣を紙一重でかわしてから、少女は再び剣を構える。その時になって初めて、須臾は少女の変化に気付いた。
雨の為か、汗の為か、少女の顔は無残なほどにぐちゃぐちゃになっている。その水の下の、少女の顔色が、白黄と茶色のだんだら縞になっているのが、須臾の目にもはっきりと分かった。よく見ると、髪の毛の色も、黒が落ちて灰茶色になっている。あの髪と、肌の色をした、小柄で剣捌きが上手い人物は、須臾の知っている限り一人しかいない。
「禎理!」
驚きと安堵感が、どっと押し寄せる。やはり、禎理は禎理だ。雲隠れしたと見せかけて、仲間のピンチの時にはちゃんと助けに来てくれる。
「あ、貴様、は!」
一名も、闘っている相手が禎理だと気付いたようだ。日頃の物言いとはかけ離れた、焦りの声が、須臾の所にまで聞こえてくる。次の瞬間、突っかかってきた一名の足を、禎理はしゃがんで軽やかに掃うと、バランスを崩したその尻を力強く蹴飛ばした。
濡れた地面に、一名が不様に転がる。不躾だと思いながら、須臾は心からの笑いを止めることができなかった。
「……もう勝負はつきましたよ、一名さん」
静かに禎理の横へ並び、地面に転がったままの一名にそう、告げる。一名は須臾と禎理をじろりと睨みつけてから、へっぴり腰のまま雨の向こうへと去って行った。
「来てくれてありがとう、禎理」
一名が見えなくなったのを確かめてから、須臾は禎理を自分のマントで包む。
「ん、まあ、試合をすることになったの、俺の所為だし。……約束も破ったし」
濡れ鼠で、しかも染料で汚れた禎理の顔は、それでも、いつもより格段に頼もしく見えた。
「でも何で、変装を?」
「いや、禎理だってばれたら、又何か言われるかな、と思って……」
そう言って俯く禎理の、染料で汚れた顔を、須臾は自分のマントで優しく拭いた。
その、今にも消え入りそうな声を耳にするや否や、禎理の足は声の方に向かって猛ダッシュで走り出して、いた。
全く、旅から帰ってきたばかりなのに、もうこれだ。自分の行動に内心苦笑しつつ通りを曲がると、視界には、幾人もの大男に囲まれた小さい影が確かに見えた。大男達は皆、十分成長しきった大人達ばかりなのに対し、小さな影は年端も行かない少年だ。勿論、禎理が味方するのは少年の方。理由はどうであれ、多対一は卑怯すぎる。
音も立てずに、少年を小突いている大男の背後に忍び寄り、傍に落ちていた棒切れでその後頭部を思い切り殴る。突然の攻撃に大男達が動揺した隙に、禎理は急所を狙って次々と大男達に蹴りを入れた。そして彼らが呻いている間に、真ん中の少年の腕を引っ張って大急ぎで逃げる。大男達は勿論二人を追って来たが、彼らには通れない細い路地を選んで逃げたおかげで、うまく振り切ることができた。
「大丈夫?」
人通りのある、広場に近い通りの端で一息ついてから、まだ腕を掴んでいた少年にそう尋ねる。
「は、はい」
少年の返事を聞いてから、禎理はどこか怪我をしていないかと少年を頭から爪先までしっかりと眺めた。服が少々と、練習用の剣を吊るす為に肩から掛ける剣帯が破れているだけだ。それを確認した禎理はほっとして、破れた剣帯を直そうと手を伸ばした。
〈……おや?〉
この剣帯には、見覚えがある。確かめるように手にとって裏返し、縫い目を見る。予想通り、縫いしろの間に自分の名前が刺繍してあった。……これは、自分が『無限流』道場で修業中に作成したものだ。それを確認した禎理はもう一度、少年の姿をまじまじと見つめた。
「……?」
禎理の視線に小首を傾げる少年の服装は、武人階級の簡素なもの。武術を習う者が着ていてもおかしくはない。無限流道場では、年長の者が使っていたものを後輩も使う風習がある。と、すると、やはり。彼は、自分の後輩にあたるのだ。なんて偶然。禎理は思わず顔を綻ばせた。
と、その時。
「……あっ!」
馬蹄の音と共に、聞き知った涼やかな声が禎理の耳に入ってくる。
「こんなところで何をしている、景」
禎理はゆっくりと振り向き、声の主の名を呼んだ。
「須臾」
西日の所為で、馬上の人物の顔は見えない。だが、声の感じと身に纏った雰囲気で、須臾が焦っていることだけは何となく分かった。
天楚の貴族騎士である須臾と、賎民の冒険者である禎理には身分にかなりの隔たりがあるが、無限流道場の宿舎で四年間相部屋だった仲である。禎理の方が二年先輩で、修行中は色々世話を焼いた――焼かれることの方が多かったかもしれない――のだから、須臾の気持ちの動きぐらいは簡単に読める。
「禎理か。久しぶりだな」
その禎理の観察には構わず、馬を下りた須臾が少年の傍に立つ。その行動が、少年を庇うように見えたので、禎理の不審はますます募った。
「私のところの小姓が、何かしたのか?」
「え。……ううん」
須臾を見上げた少年の瞳が、バツの悪そうな色に変わったのが分かる。だから禎理は、須臾に向かって首を横に振った。
「なら、良いが」
その禎理の答えを聞いた須臾の顔が、一瞬、溜息をつきそうになる。だがすぐに、須臾は少年の方に向き直り、厳しい声で言った。
「早く帰らないと、もうすぐ門限だぞ」
「は、はい」
須臾の言葉に、少年は慌てた声でそう返すと、禎理に向かってぺこりとお辞儀をしてから足早に貴族街の方へと去って行った。
「気をつけて帰るんだぞ」
その背中に、須臾がそう、声を掛ける。
そして禎理の方を向き直ると、静かに頭を下げた。
「助けてくれて感謝するよ、禎理」
「あ、うん」
貴族の須臾に頭を下げられて、正直戸惑う。だが、その須臾の言葉に、禎理は微かな違和感を確かに感じて、いた。……まさか須臾は、少年が大男達に苛められた原因を知っているのでは?
「やはり、そうか」
その禎理の疑問が顔に表れていたらしい。須臾は苦笑すると、次の瞬間、やけにあっさりと原因を口にした。
「分裂したんだ。『無限流』は」
そもそも『無限流』は、変わり者ぞろいで知られる六角公家の一員である野名師匠が、大陸中を旅して身につけた剣術や体術を天楚の若者に教えるために興した武術流派である。野名師匠自身は貴族出身だが、道場では実力主義を取り、禎理のような身分の低い者でも素質さえあれば快く入門を許していた。
だが、老衰で亡くなった野名師匠の跡を、その息子である一名が継いだ時期から、この原則が崩れてしまう。六角公家の一員だが、現在の六角公との血の繋がりが薄い一名はそのことをコンプレックスとしているらしく、そしてそれゆえに、貴族・武人階級以外の出身者を道場から排除してしまった。勿論、排除された側も黙ってはいない。ここ数年の駆け引きや闘争の末、無限流は、一名を頂点とする『旧派』と、一名に反発を覚えた者達で組織した『新派』に分裂してしまった。
「……そう、なの」
須臾の話を聞いた禎理の心の中が、苦くなる。野名師匠が心血を注いで創り上げた『無限流』が、壊れてしまうとは。分裂しないで共存できる道は無かったのか? ふと、そう思う。野名師匠は、低身分の者と高身分の者とが対立することを特に嫌っていた。確かに一名はもの凄く嫌な奴だが、それでも分裂は、師匠の為にも、……避けて欲しかった。禎理は思わず、須臾から目を逸らし、暗くなった地面を見つめた。
「禎理の考えも分かるよ」
そんな禎理の心を読んだように、須臾がぽつりと言う。
「我々も、できることなら分裂はしたくなかった。……だが、無限流の理念を失ってはいけない」
それは、分かる。そっと腰の短剣に手を伸ばす。禎理の背で手斧と共に光っているその短剣は、野名師匠が残してくれた『証の剣』。師匠の想いがあったからこそ、禎理は冒険者として、傍に居る人々を守れるくらいの武術を身につけることができたのだ。
「だから。……くれぐれも気をつけて欲しい」
もう帰らなくては。そう言って再び馬上の人となった須臾が、静かに言う。
「分かった」
その須臾の目を見てから、禎理はしっかりと頷いた。
たとえ理由はどうであれ、旧派と揉め事を起こせば、一名達はそれを利用して新派潰しにかかるだろう。須臾の為にも、野名師匠の為にも、あの少年の為にも、それだけは避けなければならない。
「なるべく、喧嘩は買わないようにする」
「できるのか?」
決意のような禎理の言葉に、須臾が初めて笑顔を見せる。確かに、弱い者虐めを見ると割って入るような禎理に、そんなことができるはずがない。それは、禎理自身が一番よく分かっていた。
「努力は……する」
だから禎理は、須臾を見てから、苦笑して頭を掻いた。
その、次の日。
冒険者宿三叉亭で昼食を取ろうと下宿先から大通りに出た禎理の目の前に、大柄な男がいきなり立ち塞がる。
〈こいつ、一体、何の用だ?〉
大男の顔色に不穏な動きを読み取る。完全に退路を絶たれる前に逃げようと、禎理はその小柄な身体を横に動かした。だが。辺りを見回して、自分の考えが甘いことに気付く。左右にも、後ろにも、大柄な男が退路を塞ぐように立っていた。その男の一人の手に、奇妙な膨らみがあることを、禎理はその素早い目で確かめた。あのような手のタコは、無限流で教わる手裏剣術でできるもの。間違いない。彼らは『旧派』の者、だ。
「我々と一緒に来て欲しい」
最初に禎理の目の前に立ち塞がった男が、静かな命令口調でそう言う。その物言いに一瞬ムカッと来た禎理だが、須臾の顔を思い出して自分を何とか堪えた。
大男を見上げ、睨みつけてから、静かにこくんと頷く。四人の大男に取り囲まれながら、禎理は久しぶりに道場の門をくぐった。
道場で最初に感じたのは、荒れた、物悲しい雰囲気。おそらく、分裂してから修行者がかなり減ったのだろう。そんなことを考えながら、禎理は導かれるままに、道場の奥、『総長部屋』と大書された看板の掛かる大きくて豪勢な部屋に入っていった。その部屋にいたのは、予想された人物。
「久しぶり、ですね」
見るのも嫌な顔が、禎理の眼前に広がる。
「既に、分裂のことは聞き及んでいると思いますが」
旧派の長、一名は、相変わらずの見下した声で禎理に向かって笑いかけた。
「どうでしょう、我々の方につきませんか?」
その声に、背筋が痒くなる。禎理の口は思わず、何時に無い皮肉を紡ぎだしていた。
「そんなに、逼迫しているのですか? 低身分の者を引き入れなければならないほど」
禎理の言葉に、一瞬にして一名の顔が真っ赤になる。だが、次の瞬間には、一名の顔は元の蒼白に戻っていた。
「やはり」
表情を消して、静かに呟く声が、禎理の耳に響く。
「生かしておくわけにはいきませんね」
次の瞬間、禎理の周りは大男達と、彼らの持つ鋭い得物に囲まれてしまって、いた。
「……え、来てないんですか、禎理?」
三叉亭のカウンターで、思わず素っ頓狂な声を上げる。
「ああ。昨日の夕方に見たっきりだ」
その須臾に対して、カウンター内でシチュー皿を積み上げている六徳の声はいつも通り冷静だった。
「まあ、来ない理由は分かっているがな」
「えっ!」
その冷静な声が紡いだ言葉に、言葉を失う。一体、禎理はどうしたというのだろうか。まさか、昨日の今日で大怪我でもしたのではないだろうか? 分裂や反目の件もある。天楚で起こるどんな事件にも首を突っ込んでいる禎理のことだ、何か大変なことに巻き込まれていてもおかしくはない。
「昼過ぎに、古い方の無限流道場に『道場破り』が入ったそうだ」
そんな須臾の思考を裏付ける言葉を、六徳はいとも簡単に口にした。
「話を聞いて俺も見に行ったんだが、一名の野郎、かなり青い顔をしていたな」
「だ、誰が、そんなことを」
かなり具体的な六徳の話に、背筋がすうっと冷たくなる。嫌な予感を抱えながら、須臾は心当たりの名を口にした。
「……って、まさか、禎理」
「さあな。向こうさんは、新派の奴らの仕業だって言っているが」
かなりぼかしてはいるが、六徳も、『道場破り』に禎理が関与していることは認めているようだ。嫌な予想が、当たってしまった。須臾は深い溜息をつくと、目の前に置かれたぬるいエールを勢い良く飲んだ。
「まあ、むりやり連れ込まれたんで暴れた、ってところが真相だろうな」
そんな須臾の前に、エールのお代わりを差し出しながら、自分の推測を述べる六徳。彼らが『道場破り』の名を出さないのは、禎理のような低身分の者にこてんぱんにやられたことを隠したいからだろう、とも。
「で、禎理自身は迷惑が掛からないようにとっとと雲隠れした、と」
「そう、でしょうね」
そうであって欲しい。その思いを込めて、須臾はそう、静かに呟いた。そのほうが良いのだ。道場の為にも、禎理の為にも。
しかしながら。
「それで公開試合まで組んでしまうとは、よっぽど新派を潰したいらしいな、一名側は」
「はい」
禎理を訪ねた目的を六徳に指摘され、須臾の溜息はその深さを増した。
今日の午後、一名から一方的に叩きつけられた『公開試合』の内容は、無限流のみを用いた五対五の試合。三日後に、市の広場で行われるこの試合に出す人間が、実は足りないのだ。
無限流の免許状を持っている者だけではなく、無限流を習った者なら現在修行中の者でも出ることは可能だ。そう、試合の挑戦状と共に差し出された書面に書いてあったところから見ると、一名側も人材が足りていないのだろう。だが、あちら側には一名と、師範代を務め、平騎士隊の副隊長もやっている矩角という、侮れない強さを持つ者もいる。たとえ禎理がいたとしても、こちらの人材も絶対的に足りない。
「で、どうする? 探すことはできるが」
「……いえ」
だが、六徳の提案に、須臾は静かに首を横に振った。
確かに、禎理がいれば試合に勝つ確率は格段に上がる。だが、現在『道場破り』という濡れ衣を着せられている禎理が試合に出れば、あの一名のことだ、何かとてつもない難癖をつけて来るに違いない。それでこちら側が負けてしまえば、野名師匠の『想い』を継ぐことができなくなってしまう。しかし逆に考えると、この試合は、こちら側が正しいことを世間に認めさせる絶好のチャンスかもしれない。不意に、全く別の考えが頭に浮かび、須臾は思わず口の端を上げた。
難しいかもしれないが、禎理がいなくても勝てる策を立てることが、できるかもしれない。そう考えた、須臾の心の中では、熱い気持ちがふつふつと湧き上がって、いた。
無限流の公開試合の日は、あいにく、今にも降りだしそうなどんよりとした曇り空の日。しかし、そんな天気でも、会場である天楚市の広場は既に人でいっぱいになっていた。
大丈夫だろうか? 群集を捌いている平騎士隊を横目で見ながら、ふと不安になる。だが、ここまで来てしまったのだ。あとは何とかする他はない。……自分独りで。
ふと、振り向く。試合に出場する選手用に須臾が立てさせた、雨避けのシートを張った簡易テントの下で、小さな影が震えているのがはっきりと見えた。
「……景」
テントの下まで歩いて行き、震えている少年に声をかける。
「大丈夫だよ」
その細い肩をぽんぽんと軽く叩くと、六角公の小姓である少年の震えはやっと止まった。だが、顔色は蒼白だ。
本当に、大丈夫だろうか? 先ほどの不安が、もう一度心を過ぎる。五対五の試合なら、三人勝てばこちらの勝ちは決まる。須臾自身が本気を出しても勝ちを収めることが難しい一名はおそらく五番目に出て来るだろうから、それを外した二番目、三番目、四番目で勝てば良い。そう計算して、須臾は一番目にこの少年を置いた。しかし、幾ら人が足りなかったからとはいえ、こんな年端も行かない少年を試合に出してよかったのだろうか? 須臾の心は、いまだ迷い続けて、いた。
「さあ、時間だ」
その迷いを振り切るように、少年の背中を強く押す。
「行っておいで。大丈夫だから」
須臾を見上げた少年はこくんと頷くと、口を真一文字に引き結んで練習用の、それでも実際の剣と同じものを手に取った。
試合用に広く取られた空間の真ん中では、今日の審判に選ばれた者が、こちらに向かって頷いている。その審判が、須臾も良く知っている者だと気付き、須臾は戸惑いを隠せなかった。一名のことだから、試合の審判も自分の手の者を使うと思っていたのに、一名側でも須臾側でもない人物を審判に使ってくるとは。だが、須臾の疑問は、次の瞬間、一名側の選手群の中から試合場に現れた人物によって掻き消された。
「……矩角!」
あんぐりと口を上げ、試合場の三人を見つめる。
まさか一番手に、無限流で一、二を争う剣術の達人を持ってくるとは。これでは、景が負けるのは目に見えている。自分の策の甘さに、須臾は臍を噛んだ。
その須臾の予測通り、第一試合は矩角の一方的な攻撃に終始した。逃げ惑う景に容赦なく、鋭い突きを入れる矩角。弱い者にすら容赦ない攻撃に、須臾の怒りはとうに沸点を越えていた。
試合は間違いなく矩角の勝ちであるはずなのに、審判も試合の終了を宣言しない。もう、我慢できない。須臾は試合場の矩角と景の間に割って入ると、景を庇いながら矩角の剣を右腕で受け止めた。試合妨害で文句が付くかもしれないが、少年が殺されるよりはましだ。
「もうそれくらいで良いだろう」
なおも剣を構える矩角をしっかりと睨みつけながら、静かにそう言う。須臾のその言葉に、矩角は不敵な笑みを浮かべて剣を納めた。
「須臾様、腕が!」
不意に、景が須臾のマントを強く引く。その時になって初めて、須臾は自分の右腕から血が出ているのに気付いた。
景に引っ張られるようにして戻ったテントの下で、付けていた革の手甲を外す。その手甲を貫いた矩角の刃は、須臾の腕を深く切り裂いて、いた。
「……これでは、試合は無理じゃな」
選手が怪我をした時の為に頼んでおいた、三叉亭の二階で診療所を開いている医者の弦《ゆづる》が、素早く傷を縫って包帯を巻く。だが、痛みだけは、止まるところを知らなかった。弦の言う通り、これでは、試合に出るのは無理だ。
「次!」
絶望感に打ちひしがれた須臾の耳に、無情な審判の声が響く。よろよろと振り向いた須臾は、だが、次の瞬間、あってはならない光景に思わず瞠目した。
「な、何で?」
試合場には、件の矩角が剣を抜いて不敵に笑っている。
「勝ち抜き戦ですよ、これは」
須臾の驚きが聞こえたらしい、向こう側から、聞くのも嫌な一名の声が聞こえてきた。
〈なんと……!〉
頭を抱える。矩角より強い選手は、自分の側には居ない。須臾自身でも、互角なのだ。その須臾が試合に出られないこの状態では、この試合に負けてしまうことは火を見るより明らかだ。須臾は思わず顔を歪めた。
須臾の目の前で、二番手も、三番手の選手も負けてしまう。次は、須臾の番だ。自分の決意を固めるようにしばらく瞑想した後、須臾は静かに自分の剣を手に取った。途端に、痛みが体中を走りぬける。剣を取り落としそうになり、須臾は慌てて右手に左手を添えた。
「駄目です!」
景が須臾のマントを引っ張っているのが、気配で分かる。
彼の気持ちも分かるが、それでも、自分は行かなければ。
だから。景の手を、左手で静かに掃ってから、テントから一歩、外に出る。
その時。
「らしくないよ」
聞き知ったような声が、須臾の歩を止めた。
その声に呆然としてしまった須臾の横を、小柄な影が通り過ぎる。その影の背を、須臾は目を瞬かせながら、見つめた。試合場に立ったのは、浅黒い肌をした女の子。肩までの真っ黒な髪を留めた白い鉢巻が、弱い光を反射して眩しく光っている。
「何ですか、あなたは?」
少女を見た一名の不審げな声が、辺りに響く。
「これは無限流の試合ですよ!」
その言葉に、少女は黙ったまま、懐から羊皮紙を取り出し、半分ほど広げて高く掲げた。遠くからでもはっきりと見える、羊皮紙に書かれた紋様は、間違いなく、無限流の免許皆伝の印。彼女は確かに、この試合に出る権利がある。
群衆にその印を示してから、おもむろに羊皮紙を巻き直し、懐に入れる少女。矩角が動いたのは、その時だった。
「あ、あぶないっ!」
少女に向かう鋭い突きを目にして、思わず、叫ぶ。だが、少女の動きは須臾の予想を遥かに超えていた。小柄な影が一息でしゃがみ、突きを軽く避ける。次の瞬間、少しだけバランスを崩した矩角の足を、鮮やかな蹴りが襲った。
不様に顔から地面に落ちる矩角の首筋に、少女の細剣の切っ先が当たる。
「勝負、あり!」
矩角が動かないのを確かめてから、審判の男は大声でそう、叫んだ。
あまりにも鮮やかな勝利に、唖然を通り越して呆然としてしまう。このような試合は、見たことがない。
「次!」
審判の声に、一名の側から、二番手の選手が出てくる。
少女の倍はありそうな、その大男をも、少女は体術と手裏剣術を駆使してあっという間に倒してしまった。三番手も、四番手も、少女のしなやかな攻撃に翻弄され、手出しもできずにやられてゆく。その少女の動きに、須臾は目を奪われ続けた。
しかしながら。彼女は一体、誰なのだろうか? ふと、疑問が頭を過ぎる。実力主義の野名師匠は、たとえ女子でも素質があれば修行を許していたから、女性の免状持ちがいてもおかしくはない。だが、あの少女は、見かけたことがない。須臾が小首を傾げている間に、四番手の選手が倒れる。次に現れたのは、須臾の予想通り、見るのも嫌な一名の醜悪な顔。
大丈夫、だろうか? 不安が、心の中に浮かぶ。性格的には問題が多々有り過ぎる一名だが、剣の腕だけは天楚でも一、二を争っている。そんな人間を相手に、この少女が勝てるのだろうか? 自分の危機を救ってくれた少女に、怪我をさせるわけにはいかない。……止めなければ。須臾はマントを翻すと、試合場に向かってその一歩を踏み出した。
と。その時。
いきなりの雷鳴が、暗い空に鳴り響く。次の瞬間、車軸を流すような雨が、広場を襲った。
「うわっ!」
「逃げろっ!」
試合を見ていた群集が、雨を避ける為に広場の周りにある建物の影に入り込む。少女が動いたのは、まさにその時だった。
細剣の斬撃が、一名の咽喉に飛び込む。……だが、スピードが足りない。少女の剣を軽くかわし、一名が少女の後ろに回ったのが、雨の向こうにはっきりと見えた。
「危ない!」
思わず、叫ぶ。しかし、少女の動きは又々須臾の先を行っていた。
一名の剣を紙一重でかわしてから、少女は再び剣を構える。その時になって初めて、須臾は少女の変化に気付いた。
雨の為か、汗の為か、少女の顔は無残なほどにぐちゃぐちゃになっている。その水の下の、少女の顔色が、白黄と茶色のだんだら縞になっているのが、須臾の目にもはっきりと分かった。よく見ると、髪の毛の色も、黒が落ちて灰茶色になっている。あの髪と、肌の色をした、小柄で剣捌きが上手い人物は、須臾の知っている限り一人しかいない。
「禎理!」
驚きと安堵感が、どっと押し寄せる。やはり、禎理は禎理だ。雲隠れしたと見せかけて、仲間のピンチの時にはちゃんと助けに来てくれる。
「あ、貴様、は!」
一名も、闘っている相手が禎理だと気付いたようだ。日頃の物言いとはかけ離れた、焦りの声が、須臾の所にまで聞こえてくる。次の瞬間、突っかかってきた一名の足を、禎理はしゃがんで軽やかに掃うと、バランスを崩したその尻を力強く蹴飛ばした。
濡れた地面に、一名が不様に転がる。不躾だと思いながら、須臾は心からの笑いを止めることができなかった。
「……もう勝負はつきましたよ、一名さん」
静かに禎理の横へ並び、地面に転がったままの一名にそう、告げる。一名は須臾と禎理をじろりと睨みつけてから、へっぴり腰のまま雨の向こうへと去って行った。
「来てくれてありがとう、禎理」
一名が見えなくなったのを確かめてから、須臾は禎理を自分のマントで包む。
「ん、まあ、試合をすることになったの、俺の所為だし。……約束も破ったし」
濡れ鼠で、しかも染料で汚れた禎理の顔は、それでも、いつもより格段に頼もしく見えた。
「でも何で、変装を?」
「いや、禎理だってばれたら、又何か言われるかな、と思って……」
そう言って俯く禎理の、染料で汚れた顔を、須臾は自分のマントで優しく拭いた。
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