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鍵歌
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微かな胸の痛みを感じ、魔王数はゆっくりと微睡みから目覚めた。
ぼうっとした頭で、胸の鼓動を確かめる。そこには確かに、『悪い』感情と『嫌な』予感が、あった。しかも、魔王である数が支配している魔界ではなく、愚かな人間どもが暮らす地上界で何かが起こっているという予感、である。
〈何、だ……?〉
地上界でのことならば、いつもは全く気にならない筈なのに。自分の感情を不審に思った数は、部下に命じ、『この世界』のあらゆる場所を映し出すことのできる水晶球を持って来させた。
口の中で呪文を唱え、一抱えもある水晶球の上にその手をかざす。たちまちのうちに、済みきった水晶球に見覚えのある風景が映し出された。潮風に弄られ、疎らに草の生えた起伏のある地面を映し出すのは、今にも海中に沈もうとする衰えた夕刻の日差し。その荒野の、とある崖の前に、がっしりとした鎧兜に身を固めた騎士たちが何人も張り付いているのが、数の目にもはっきりと見えた。
「……おやおや」
心の底からの溜息が、口から漏れる。その崖に『隠し扉』が存在することは、数のみが知っていた、筈なのだが。
〈……どうやら、人間の『隠したものを見つける能力』を甘く見すぎていたようだな〉
しかしながら、あんな誰も近寄らなさそうな荒野の、しかも普通の崖と見分けがつかないように巧妙に細工した隠し扉をよく見つけたものだ。数は変なところで感心した。まあ、いくら『隠し扉』を見つけようと、開けられなければ意味が無い。その点に関しては、数にはかなりの自身があった。
それに。たとえ開けられたところで、彼らの欲する『お宝』などは、あの扉の先には無い。しばらく扉と格闘して開けられないと分かれば、そのうち彼らも諦めるだろう。数は半ば面白がりながら、水晶球が映し出す騎士たちの様子をゆっくりと眺めた。
ところが。
「……おや?」
そんな数の視線が、ある一点で留まる。
「あれは」
騎士たちの間で、両手を縛られた小柄な少年が、彼らの槍に小突き回されながらも必死に隠し扉の謎を解こうとしているのが見えたのだ。
灰茶色の髪に縁取られた丸顔には、ある人の面影がある。数の目にはいつまで経っても少年にしか見えない、禎理という名のその青年とは、十年ほど前のとある事件で知り合ったのだが、珮理の――数の妻だった女性の――妹の子孫ということを差し引いても、本当に彼は彼女に瓜二つだった。
何故、東方人の禎理が大陸の西方にいるのかは数には測りかねた――多分、彼は『冒険者』として大陸各地を転々としているのであろう――が、どうやら、騎士たちは、数が扉の横に書いた『愛する者が好んだ歌にて開く』という東方文字から、同じく東方人である禎理ならこの扉を開けられると踏んでいるようだ。
しかし、十中八九、禎理は扉を開ける『鍵』を知らない。もし開けることができなければ、騎士たちはきっと禎理をなぶり殺しにするだろう。いや、万が一開けられたとしても彼らはそうするに違いない。騎士たちの様子と態度からそう危機感を持った数は、口を一文字に結ぶとぱちんと指を鳴らした。
――あいつに似た者を、見殺しにはできない。
一瞬だけ暗くなった視界は、すぐに黄昏の色に変わる。
目の前には、水晶球で見たものと同じ光景が広がっていた。
水晶球では聞こえなかった罵声が、風に乗って数の耳に届く。その声から察するに、騎士たちは『隠し扉』を開けられないことでかなり苛立ちを深めているようだ。
〈……全く〉
数はふっと溜息をつくと、再び指を鳴らした。
鳴らした指の先に、黒々とした闇が集まってくる。禎理がどこにいるかを確かめてから、数はその塊を騎士たちに向かって力一杯投げつけた。
「うわっ……!」
「なっ……!」
驚きの声は、闇が晴れる前に跡形も無く消える。
荒野が再び黄昏を取り戻した時、そこにいたのは、禎理と数だけ、だった。
「……何故人間どもは、扉状のものを見ると片っ端から開けたくなるかねぇ」
「数!」
数の呆れ声に振り返った禎理の口がぱっくりと開く。驚いた顔もあいつにそっくりだ。そう思いながら、数はことさらゆっくりと禎理に近づいた。
「……あ、ありがとう」
禎理の感謝の言葉を聞き流し、隠し扉の前に立つ。どうやら『封印』は解けていないようだ。そっと扉に触れ、それを確かめる。数は何となくほっとした。
「でも。……と、すると、これは、数が」
その背後で禎理の疑問の声が響く。
「そう、俺が作ったものだ」
禎理に背を向けたまま、数は軽く頷くことでその問いに答えた。
「じゃあ、この扉を開ける鍵、は?」
「それは教えられない」
好奇心に満ちた禎理の更なる問いを、軽く鼻であしらう。いくら禎理でも、これだけは教えられない。
「ま、そうだな。『夫婦で肩を並べて戦った者達が作った歌物語』とだけ言っておこうか」
「……それなら、多分、知ってる」
我が背 守るは 運命の君
君が背 守るは 連理の翼
歌いだした禎理の声に、数の全身が総毛立つ。この、声は……! と同時に、今までただ静かに佇んでいた崖が、少しずつ震えだすのが、はっきりと見えた。
「どうやら、当たりのようだね」
得意そうな禎理の声の前に、隠し扉は、あっという間にその姿を消す。
そして、二人の目の前には、岩に囲まれた広々とした空間が現れた
「これが、『隠し扉』の向こう?」
その中を覗き込み、意外そうに禎理が呟く。確かに、初めて見る者には、この空間の意味は分かるまい。数は独りゆっくりと頷いた。天井の高い、広々とした空間の真ん中に、人が一人立てるくらいの平たい岩がある。たったそれだけの、至ってシンプルな光景が広がっているだけ。そんな空間を、数が隠した理由は、ただ一つ。
「……あそこに立って、さっきの歌を歌ってくれないか?」
洞窟に入り込んだ禎理に、数はそう指示した。
舞台のようになった岩の上で歌うと、洞窟の岩壁にその声が微妙に反射し、美しい響きを生み出す。そのことを最初に見つけたのは、珮理だった。そしてそれからずっと、この場所は、数と珮理、二人のお気に入りの場所となっていたのだった。
しかし、その珮理は、……今はいない。
「あいつよりは、下手だろうがな」
だから、感情を隠すように、数は禎理にそう付け加えた。
「……はいはい」
数の言葉に、禎理は一瞬だけむっとした顔を数に向ける。だがしかし、すぐに数に背を向けると、禎理は岩の上によじ登り、一拍も置かずに先ほどの歌を歌いだした。
珮理が一番好きだった、歌を。
我が背 守るは 運命の君
君が背 守るは 連理の翼
明日は知らず 今はただ
この盾の温もりに 安堵する
我が前 阻むは 雲霞の敵
君が瞳 塞ぐは 混迷の闇
道は知らず なれど行かん
君が手に 我が想いを重ねて
朗々と響く禎理の歌が、数の心にゆっくりと届く。
やはり、あいつは……。
数の眼から涙が零れることはなかったが、心だけは、どうしようもなく切なかった。
ぼうっとした頭で、胸の鼓動を確かめる。そこには確かに、『悪い』感情と『嫌な』予感が、あった。しかも、魔王である数が支配している魔界ではなく、愚かな人間どもが暮らす地上界で何かが起こっているという予感、である。
〈何、だ……?〉
地上界でのことならば、いつもは全く気にならない筈なのに。自分の感情を不審に思った数は、部下に命じ、『この世界』のあらゆる場所を映し出すことのできる水晶球を持って来させた。
口の中で呪文を唱え、一抱えもある水晶球の上にその手をかざす。たちまちのうちに、済みきった水晶球に見覚えのある風景が映し出された。潮風に弄られ、疎らに草の生えた起伏のある地面を映し出すのは、今にも海中に沈もうとする衰えた夕刻の日差し。その荒野の、とある崖の前に、がっしりとした鎧兜に身を固めた騎士たちが何人も張り付いているのが、数の目にもはっきりと見えた。
「……おやおや」
心の底からの溜息が、口から漏れる。その崖に『隠し扉』が存在することは、数のみが知っていた、筈なのだが。
〈……どうやら、人間の『隠したものを見つける能力』を甘く見すぎていたようだな〉
しかしながら、あんな誰も近寄らなさそうな荒野の、しかも普通の崖と見分けがつかないように巧妙に細工した隠し扉をよく見つけたものだ。数は変なところで感心した。まあ、いくら『隠し扉』を見つけようと、開けられなければ意味が無い。その点に関しては、数にはかなりの自身があった。
それに。たとえ開けられたところで、彼らの欲する『お宝』などは、あの扉の先には無い。しばらく扉と格闘して開けられないと分かれば、そのうち彼らも諦めるだろう。数は半ば面白がりながら、水晶球が映し出す騎士たちの様子をゆっくりと眺めた。
ところが。
「……おや?」
そんな数の視線が、ある一点で留まる。
「あれは」
騎士たちの間で、両手を縛られた小柄な少年が、彼らの槍に小突き回されながらも必死に隠し扉の謎を解こうとしているのが見えたのだ。
灰茶色の髪に縁取られた丸顔には、ある人の面影がある。数の目にはいつまで経っても少年にしか見えない、禎理という名のその青年とは、十年ほど前のとある事件で知り合ったのだが、珮理の――数の妻だった女性の――妹の子孫ということを差し引いても、本当に彼は彼女に瓜二つだった。
何故、東方人の禎理が大陸の西方にいるのかは数には測りかねた――多分、彼は『冒険者』として大陸各地を転々としているのであろう――が、どうやら、騎士たちは、数が扉の横に書いた『愛する者が好んだ歌にて開く』という東方文字から、同じく東方人である禎理ならこの扉を開けられると踏んでいるようだ。
しかし、十中八九、禎理は扉を開ける『鍵』を知らない。もし開けることができなければ、騎士たちはきっと禎理をなぶり殺しにするだろう。いや、万が一開けられたとしても彼らはそうするに違いない。騎士たちの様子と態度からそう危機感を持った数は、口を一文字に結ぶとぱちんと指を鳴らした。
――あいつに似た者を、見殺しにはできない。
一瞬だけ暗くなった視界は、すぐに黄昏の色に変わる。
目の前には、水晶球で見たものと同じ光景が広がっていた。
水晶球では聞こえなかった罵声が、風に乗って数の耳に届く。その声から察するに、騎士たちは『隠し扉』を開けられないことでかなり苛立ちを深めているようだ。
〈……全く〉
数はふっと溜息をつくと、再び指を鳴らした。
鳴らした指の先に、黒々とした闇が集まってくる。禎理がどこにいるかを確かめてから、数はその塊を騎士たちに向かって力一杯投げつけた。
「うわっ……!」
「なっ……!」
驚きの声は、闇が晴れる前に跡形も無く消える。
荒野が再び黄昏を取り戻した時、そこにいたのは、禎理と数だけ、だった。
「……何故人間どもは、扉状のものを見ると片っ端から開けたくなるかねぇ」
「数!」
数の呆れ声に振り返った禎理の口がぱっくりと開く。驚いた顔もあいつにそっくりだ。そう思いながら、数はことさらゆっくりと禎理に近づいた。
「……あ、ありがとう」
禎理の感謝の言葉を聞き流し、隠し扉の前に立つ。どうやら『封印』は解けていないようだ。そっと扉に触れ、それを確かめる。数は何となくほっとした。
「でも。……と、すると、これは、数が」
その背後で禎理の疑問の声が響く。
「そう、俺が作ったものだ」
禎理に背を向けたまま、数は軽く頷くことでその問いに答えた。
「じゃあ、この扉を開ける鍵、は?」
「それは教えられない」
好奇心に満ちた禎理の更なる問いを、軽く鼻であしらう。いくら禎理でも、これだけは教えられない。
「ま、そうだな。『夫婦で肩を並べて戦った者達が作った歌物語』とだけ言っておこうか」
「……それなら、多分、知ってる」
我が背 守るは 運命の君
君が背 守るは 連理の翼
歌いだした禎理の声に、数の全身が総毛立つ。この、声は……! と同時に、今までただ静かに佇んでいた崖が、少しずつ震えだすのが、はっきりと見えた。
「どうやら、当たりのようだね」
得意そうな禎理の声の前に、隠し扉は、あっという間にその姿を消す。
そして、二人の目の前には、岩に囲まれた広々とした空間が現れた
「これが、『隠し扉』の向こう?」
その中を覗き込み、意外そうに禎理が呟く。確かに、初めて見る者には、この空間の意味は分かるまい。数は独りゆっくりと頷いた。天井の高い、広々とした空間の真ん中に、人が一人立てるくらいの平たい岩がある。たったそれだけの、至ってシンプルな光景が広がっているだけ。そんな空間を、数が隠した理由は、ただ一つ。
「……あそこに立って、さっきの歌を歌ってくれないか?」
洞窟に入り込んだ禎理に、数はそう指示した。
舞台のようになった岩の上で歌うと、洞窟の岩壁にその声が微妙に反射し、美しい響きを生み出す。そのことを最初に見つけたのは、珮理だった。そしてそれからずっと、この場所は、数と珮理、二人のお気に入りの場所となっていたのだった。
しかし、その珮理は、……今はいない。
「あいつよりは、下手だろうがな」
だから、感情を隠すように、数は禎理にそう付け加えた。
「……はいはい」
数の言葉に、禎理は一瞬だけむっとした顔を数に向ける。だがしかし、すぐに数に背を向けると、禎理は岩の上によじ登り、一拍も置かずに先ほどの歌を歌いだした。
珮理が一番好きだった、歌を。
我が背 守るは 運命の君
君が背 守るは 連理の翼
明日は知らず 今はただ
この盾の温もりに 安堵する
我が前 阻むは 雲霞の敵
君が瞳 塞ぐは 混迷の闇
道は知らず なれど行かん
君が手に 我が想いを重ねて
朗々と響く禎理の歌が、数の心にゆっくりと届く。
やはり、あいつは……。
数の眼から涙が零れることはなかったが、心だけは、どうしようもなく切なかった。
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