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水馬の夢

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 六角ろっかく郷の春は『鈴の祭』から始まる。
 長い冬の寒さが和らぎ、積もった雪が溶け始める頃、冬を追い払い、大地母神ジオ・メトリと六角郷の守護神蛇神毘央びおうに今年の豊作を願う為に、村人達はたくさんの鈴を付けた馬達を引き連れて郷中の田畑を練り歩く。そしてその後、春の訪れを祝って日が暮れるまで村の広場で踊りあかすのだ。
 古来より続けられてきたこの祭が今年も盛大に行われていた。
「……ほら珮理はいり、お母さんがあそこで踊っているよ」
 凝った刺繍の入った晴れ着を身につけ、陽気な音楽にあわせて踊る村人達を眺めていた従兄弟の自明さだあきが、一人の女の人を指さして傍らにいる珮理に教える。
「うん、分かってる」
 しかし珮理は自明の指さした先をちらりとしか見ず、自明の持っている煎餅の入った紙袋にその右手を伸ばした。
 自明に教えてもらわなくても、村人達の輪の中で母親の朧嵐ろうらんが銀色の髪とすらりとした手足をなびかせて、他の人よりも優雅に踊っていることは珮理にはちゃんと分かっていた。勿論、今は人混みで見えないが、踊りの輪の後ろで楽を奏でている人々の中で銀色の横笛を吹いている父親の風理ふうりのこともこれまたちゃんと知っている。まだ四つになったばかりだが、両親のことは自分のことと同じくらいよく知っている。珮理はそう自負していた。
 自明の持つ紙袋から煎餅を一枚取り、更にもう一枚取ろうと左手を伸ばす。が、伸ばした手に紙袋が触れるか触れないかのうちに、自明がさっと紙袋を珮理に届かないところに持っていってしまった。
「だめ、これは僕がもらったの」
 煎餅を取ろうと更に腕を伸ばす珮理に自明が言う。
「大体、珮理は食いしん坊すぎるんだよ。少しは我慢……」
「自明!」
 自明の文句は後ろからの女の人の声によって途中で掻き消された。
「小さい子に意地悪しちゃだめでしょ!」
 振り向くと、湯気のたっている鍋を抱えた女の人が自明を睨みつけているのが見えた。自明の母で珮理の叔母の優理ゆうりだ。
「それに、珮理にはたまにしか会えないんだから、もう少し優しくしてあげなさい」
「……はあい」
 優理の言葉に、自明は頬をぶっと膨らませながらもこくんと頷いて珮理に紙袋を差し出す。
 紙袋から煎餅を一枚取り、珮理はにぱっと笑いながらそれを食べた。

 珮理と、珮理の両親である風理と朧嵐は六角郷の者ではない。マース大陸中を旅し、あちこちで遊芸などを披露することで生計を立てている『流浪の民』と呼ばれる者。今日は、風理の妹優理の夫でこの六角郷の領主をしている騎士クラメルの招きを受けてここに来ていた。

 踊りを見るのに飽きた自明が馬を見に行くと言いだしたので、珮理もそれにくっついて馬たちが集められている広場の一角へと向かった。この祭の主役の一翼を担う馬たちも、人間達と同じようにそこで饗応を受けていた。
「……よう、珮理ちゃん」
 丁度馬の世話をしていたクラメルが珮理を認めて近づいてくる。そしていつも会った時にするように、珮理の頭をその大きな手でくしゃっと撫でた。
「馬を見に来たのか?」
「うん」
 くしゃくしゃになった灰茶色の髪を直しながら、珮理はクラメルの側にいる馬を見上げた。
 堂々たる体躯、光を滑らかに反射する栗毛、そして額には星形の白い模様がくっきりと見える。クラメルの乗馬、うつろである。他の馬と同じように虚も色々な大きさの鈴で飾られてそこにいたが、その威容は他の馬と比べようもなく立派だった。
 しかし、虚より美しい馬を珮理は知っている。
「ねえ、クラメル叔父さん、きわみは?」
 集められた馬をくるりと見回してから、珮理はクラメルにそう尋ねた。
「あ、極ね。残念ながらここにはいないよ」
「えっ、病気なの?」
「いやいや、そうじゃなくて」
 驚いた顔をした珮理にクラメルは苦笑して手を振った。
 極は、今でこそクラメルの所有ということになってはいるが、元々はクラメルの前にこの六角郷を治めていた王族六角公たまきの乗馬だった。六角公環以外はよほどのことがない限り乗せないほど気性の荒い馬なのでこの祭に連れて来ることが出来ず、今も領主館の馬小屋に居るという。
「ふーん、そうなのか……」
 馬たちの周りでも、祭の喧噪は止まることなく続いている。
 不意に、極に会いたくなる。ここはこんなに楽しいのに、極がこの楽しさを味わえないなんて悲しすぎる。珮理は誰にも見つからないようにそっと広場を抜け出し、極の居る六角郷の領主館へと向かった。

 村の中心部から少し南に下った所にある領主館は、殆どの人が祭に参加している為かかなり閑散としていた。
 正門横にある潜り戸を抜け、中庭を突っ切って東側にある馬小屋に向かう。その中の、他より天井を高く造った馬小屋に極が居ることを珮理は知っていた。
 いた。一頭用にしては大きい馬小屋の中で、極はすっくと静かに立っていた。その頭のすぐ上に、嶺家文字の『極』という字と、そしてもう一つの文字が刻まれている。風理から教えられて、珮理はその文字が『もとい』であることを知っていた。
 ゆっくりと、極に近づく。珮理を認めて、極はゆっくりとその優しげで、そしてどことなく淋しげな瞳を珮理に向けた。
「極……」
 足先に向かうほど白い硬貨のような模様がくっきりと浮かび上がっている葦毛、そして虚より大柄で均整の取れた体躯。やはり極は他の馬より断然美しかった。もっとも、極は『普通の馬』ではない。海に住む魔物の一種である『水馬族』に普通の馬を掛け合わせて生まれた、所謂『ハーフ水馬』だ。だから普通の馬より体格も良く、足も速い。珮理は極に笑いかけると、もっと近くで見る為に馬小屋の入り口に設えられた柵の横木に足をかけてよじ登った。
 すぐ目の前に極の頭がくる。珮理はその湿った鼻先をそっと撫でた。
 その時。不意に、目の前に、真っ青な風景が広がる。
〈……えっ?〉
 その光景に驚いた珮理は、自分の足が柵の横木の上ではなく砂浜の上にあることに気付いて更に驚いた。
〈どう、して……?〉
 戸惑う珮理の鼻を潮の香りがくすぐる。
〈う、み……〉
 信じられないことだが、珮理は自分が波打ち際に立っていることに気付いた。
 突然の出来事に目を瞬かせる珮理の視界に、更に驚くべきものが飛び込んでくる。沖合に、馬の頭らしきものが見えたのだ。それも一つ二つどころではない、数え切れないほどたくさんの馬がそこにはいた。
〈あれは、水馬族……?〉
 何かを感じてふと横を見る。さっきまで目の前にいた極が珮理の横に佇んでいた。極の瞳は、沖合で泳ぐ馬たちを悲しげに見つめている。
〈まさか……!〉
「ねえ、極」
 珮理は思わず極に話しかけた。
「あそこに、行きたいの?」
 次の瞬間、極と砂浜は突然消え、珮理は真っ暗な空間に放り出された……。

「……り、珮理」
 自分を呼ぶ声に、珮理はゆっくりと目を開けた。
「だめじゃないか、こんなところで寝ちゃあ」
 父親である風理の顔が、近くに見える。抱き締められている風理の腕の暖かさが心地よかった。
「父、さん……?」
 どうやらいつの間にか眠ってしまったらしい。と、すると、さっきまでのはただの『夢』だったのだろうか。
 風理に抱き締められたまま、極を見る。その瞳の中に、郷愁の念を珮理ははっきりと見てとった。
「……あのね、父さん」
 珮理は風理の首筋に腕を回すと、風理の耳元で囁いた。
「極、海に帰りたいんだって」
「えっ?」
 珮理の言葉に、風理は一瞬怪訝な表情を見せた。
「本当よ、夢で見たもん」
 風理はしばらく珮理をじっと見、そして顔を上げて極をじっと見つめた。
「……そう、か」
 極みに向かって一つ頷いてから、風理は珮理を抱き締めたまま立ち上がり、そして口の端を上げた。
「分かった。明日、海へ行こう。……乗せてくれるのなら、だけど」
 風理の問いに、極は微かな声で鳴くことで応えた。承諾の印である。
「やったぁ! 良かったね、極」
 極が海に帰れると知って、珮理は我がことのように喜んだ。

「……『海に帰りたい』、か」
 領主館の居間で優理が出してくれた葡萄酒を呷りながら風理から極のことを聞いたクラメルは心底驚いた。確かに、六角公の荷馬であり極のパートナーだった基という雌馬が死んでからというもの、極が何か言いたそうな様子でいたことは何となく分かっていた。が、それを基がいなくなって淋しいからと勝手に解釈し、極が仲間の所へ帰りたかったなどとはこれっぽっちも考えていなかったのだ。
「やはり、基のことが淋しかったのだろうな」
 クラメルと差し向かいで葡萄酒をちびちびと舐めながら、風理はそういって嘆息した。
「だろうな」
 葡萄酒を手酌で注ぎながらクラメルは考え深げに頷いた。
「だが、それに気がついていなかった俺は飼い主失格だな」
「極の方は君が主人だとはこれっぽっちも思っちゃないだろうがね」
 葡萄酒を舐めながら風理が軽く茶々を入れる。
「うるさい」
 風理の言葉に、クラメルは渋い顔をしてもう一杯自分のグラスに葡萄酒を注いだ。
「……しかし、珮理に動物の心を読む力があるとは。先が楽しみだな」
「ん、まあ、僕の娘だし」
 葡萄酒がまわっているのだろうか、当然とも上機嫌とも取れる顔で風理が笑う。
〈……親バカ、だな〉
 そんな風理を見て、クラメルは心の奥底でふっと笑った。

 次の日の朝早く。
 風理は極を馬小屋から引き出し、丁寧にブラシをかけてからクラメルから借りた鞍と馬銜を取り付けた。
「さあ、行こう」
 風理と珮理は極に乗り、海に一番近い東を目指して走り出した。

 珮理の同行については一悶着あった。
 普通、水馬族やハーフ水馬族は内陸部で使用される。万が一海を目にしてしまうと、騎手もろとも海に身を投げてしまうからだ。
 風理一人なら、いや、たとえ珮理を連れていたとしても、その厄災から逃れる術を風理は知っている。だが、その方法が常に成功するとは限らない。だから風理としては、危険であることが分かっているこの旅に珮理を連れて行きたくはなかったのだが。
「行く。絶対に付いて行く!」
 という具合に、珮理の主張がどんなに宥めても聞き分けてくれないほど頑固だったので、結局連れて行くはめになってしまったのだ。
「風理って、珮理にはとことん甘いのよねぇ」
 出かけに言われた朧嵐の言葉が頭をよぎる。
〈こういう態度は、父親としてやはりまずいのだろうか?〉
 前ではしゃぐ珮理の頭を撫でながら、風理は思わず溜息をついた。

 極を走らせて三日ほど経った頃。不意に、極の歩調が速くなる。
 手綱をいくら引いてもその速さが落ち着かない。故郷である海が近いことを感じ取ったのだ。
「父さん! どうしたのっ!」
 突然のことに驚く珮理を風理は左手でしっかりと抱き締めた。
「珮理、しっかり掴まってろ!」
 手綱を逆に緩めながら前方に目を凝らす。いつの間にか、極の疾走は風理が今まで経験したことがないほどの速さに達していた。幸い、極が疾走する先には道しかない。だが、道が途切れた先に海がもう見えてきている。風理と珮理は早急に極の背から降りる必要があった。
「風よ……」
 しっかりと風理にしがみついている珮理を左手で支えながら、まず右手を馬銜に当てて呪文を唱える。馬銜が外れるのと同時に、今度は鞍に右手を当てて先程と同じ呪文を唱え、鞍を外す。そして、極の足が道を離れると同時に、風理は珮理をしっかりと抱き締めなおしながら自分に魔法をかけた。
「風よ……!」
 たちまち二人の身体は極から離れ、風に乗って宙に飛び上がる。
 風理が地面に着地するのと極が水に入る音が聞こえたのがほぼ同時だった。
 無意識に、息をつく。まだしっかりと風理にしがみついたままの珮理の背を、風理は優しく撫でた。
「もう大丈夫だよ、珮理」
 その言葉を聞いて、珮理が風理の服から手を放しするりと地面に滑り降りる。
「極は、大丈夫なの?」
 首を傾げてそう問う珮理に、風理は先程音がした方向を指し示した。
 沖合に向かって嬉しそうに泳ぐ極と、その向こうに浮かんでいる水馬の群れが見える。
「仲間が、迎えに来てるね」
 極が帰ってくるのが分かっていて、あそこで待っていてくれたのかもしれない。珮理の言葉に、風理は同意の頷きを返した。

 極が加わった水馬の群れが視界から消えるまで、風理と珮理は手を繋いでいつまでも、少し荒れた海面を見つめていた。
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