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第九章 知識と勇気で

9.57 星の光と黒の祭祀

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 星の光を反射する清潔な敷布の上を苦しげに動く小さな影に、息苦しさを覚える。

 全身の弛緩を止めるためにユドークスがサシャの舌下に置いたのは、別種の毒を持つ薬草の欠片。サシャが飲んだ蜂蜜酒の中に入っていた毒を打ち消すその毒が上手く消えてくれるのを、待つしかない。医学教授ユドークスと、騒動を鎮めるために帝都ていとに戻ってきた黒竜こくりゅう騎士団と共に現れたアラン教授の沈痛な会話がトールの脳裡を過る。自分は何故、『本』なんかに転生してしまったのだろうか? 何度呟いたか分からない今更の問いに、トールはサシャのベッド横の腰棚の上で首を横に振った。今は、サシャを見守るしかない。

 そう言えば。小さく呻いたサシャから目を逸らし、天井近くに穿たれた細長い窓から降り注ぐ星明かりに照らされた薄暗い空間をゆっくりと見回す。ぐったりとしたサシャの身体を、北向きたむくの若王セルジュと黒竜騎士団は神帝じんてい公邸の奥にあるこの客間へと運び込んだ。日が暮れるまではピオがこの場所にいた。あの毒入り蜂蜜酒の原液を舐めたピオが無事であると知れば、サシャはきっと喜ぶ。再び苦しげに寝返りを打ったサシャの、星明かりに光った大粒の汗に、トールは小さく俯いた。日が暮れてからは、アラン教授がサシャの側に付いていたが、何かを取りに行ったのだろう、先程、部屋を出て行った。

〈アラン教授、遅いな〉

 閉まったままの扉に、息を吐く。

 今回の騒動では、死者こそ出ていないが怪我人は結構多いらしい。サシャを見守るピオと、様子を見に来たユドークス教授との夕方の会話を思い出す。アラン教授も、きっと、途中でのっぴきならない別件を片付けているのだろう。だが。……もうそろそろ、戻ってきてほしい。心細さを覚えたトールの耳に響いたのは、少し遠慮がちに、部屋の扉が開く音。

[……!]

 トールの驚きは、小さな部屋に響かない。

 幻の瞳を見開いたトールの前を横切った大柄な影、冬の国ふゆのくにの『黒の祭祀』タトゥは、表情が見えない顔のまま苦しげに眠るサシャを見下ろし、そしてその確かな腕でサシャの上半身を起こした。

 何故、この人が、この場所に? 分かりきった問いに首を横に振る。帝都で、サシャは、冬の国の祭祀のみが知る、古代帝国の神々の像を用いた移動の術を友人達の前で使った。サシャが古代の像に触れている間、ウォルターとノエルとカジミールはサシャの言葉通り目を瞑っていたと思うが、大怪我をしていたバジャルドがサシャの行動を見ていた可能性がある。奸計で地下神殿に閉じ籠められていたイザイア閣下も。友人達を助けるためとはいえ、冬の国の祭祀のみが持っていた秘密を他の人にばらしてしまった、その罪は、……償う必要があるのだろうか? 左腕でサシャの背を支え、腰に下げていた革の水筒を右手でベルトから外してサシャに示したタトゥの表情の無い瞳と、タトゥを見上げて頷いたサシャに、涙を堪える。サシャなら、理不尽な罰でも素直に従うだろう。ウォルターを助けるために古代神の像に手を触れた時から、その覚悟はあったと、トールは思う。

 タトゥが飲みやすいように傾けた水筒の中身を躊躇いなく飲み干すサシャから目を逸らさないように、全身を硬くする。

 水筒が空になったことをその重さで確かめてから、タトゥは水筒を腰へと戻し、どこからか取り出した布の欠片でサシャの口を丁寧に拭いてから、左腕だけで優しくサシャをベッドへと戻した。

 柔らかいベッドに頭を沈めたサシャの、先程までとは打って変わった穏やかな表情に、胸が詰まる。そのトールの視界は、不意に、少しだけ宙に浮いた。

〈……え?〉

 裏表紙を失ったトールを気遣いながら、タトゥがサシャの腕の中にトールを置く。トールの視界に大写しになったサシャの、普段通りにしか見えない寝顔に、トールは再び涙を堪えた。

 そのトールの耳に、何か固いものが腰棚に置かれた音が小さく響く。振り向いた先にあったのは、腰棚に置かれた短刀と、音も無く扉を開いたタトゥの大きな背中。タトゥが置いた短刀は、ディーデに奪われたものよりも少し細身で少し長い。トールがそのことを確かめている間に、大きな背中は音も無く消えた。

 再び訪れた静寂の中に響くのは、規則正しいサシャの寝息のみ。

 意外な穏やかさに、サシャの腕の中で思わず微笑む。異世界の『本』に生まれ変わったからこそ、サシャと、この頑張り屋の少年と一緒にいることができたのかもしれない。穏やかなサシャの寝息を聞きながら、トールの意識はいつの間にか、穏やかな暗闇の中へと消えていた。
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