299 / 351
第九章 知識と勇気で
9.9 洗濯する少年②
しおりを挟む
「……!」
立ち上がったサシャが、音がした洗濯用の土間の方へと走る。すぐに見えてきたのは、ひっくり返った盥と、土間に広がる洗濯物、そして涙と洗濯水に濡れた小さな影。
「大丈夫?」
影に怪我が無いことを確かめたサシャが、自分の部屋まで取って返す。
部屋に置かれた行李の中から身体を拭く用の大きめの布を二枚取り出すと、行李の横に置いてあった洗濯板と共に、サシャは土間の方へと戻った。
泣きじゃくる小さな影の濡れた服を脱がせ、身体用の布で拭いてから、もう一枚の布で小さな身体を包み込む。夏至祭の前だから、日の当たる場所は暑いと言って良いくらいの暖かさ。布一枚でも風邪をひくことはないだろう。
『本』であるトールを濡らさないよう、エプロンの前後を逆にしたサシャが、土間に散らばった洗濯途中の服を子供から脱がせた服と共に盥の中に入れる。土間の隅にある井戸から水を汲んだサシャは、そのまま慣れた調子で洗濯板を使って洗濯を始めた。
「この石鹸、使って良い?」
土間に置かれた簡素なベンチに小さく座った子供の影に、サシャが尋ねる。
「うん」
小さな声で答えたその影は、どこか見覚えがある。
〈どこだっけ?〉
頭の中を検索して、答えに辿り着く。この子供は、この白竜騎士団の団長であるイジドールの一人息子、確か名前はノエルだった、はず。何故、こんなに幼い子が、一人で洗濯を? 泣きそうな顔でサシャを見つめるノエルの、今は北向の都に留め置かれている本当の神帝候補リュカの幼い頃にそっくりな瞳に小さく唸ってから、サシャが手を突っ込んでいる盥の中身を首を伸ばして確かめる。サシャが洗っているのは、子供用の上着と下着、そして大人用の服と下着。子供用の服はノエルのものだとして、大人用は誰のものだろう?
「この石鹸、良い匂いがするね」
大人用の服の形を確かめるトールの耳に、どこかうっとりとしたサシャの声が響く。
サシャが生まれ育った北辺では、牛脂で作った石鹸を使っていた。帝都で最初に寄宿した黒竜騎士団の館でオリーブオイルを使った石鹸に接してから、サシャは、手に入る時はずっと、オリーブオイルの石鹸で洗濯をしたり身体を洗ったりしている。殆ど我が儘を言わないサシャの、唯一の贅沢だから、トールも笑ってサシャの拘りを黙認している。
「お母様が、作ってくれたの」
次に響いた、どこか悲しげなノエルの声に、サシャが俯く。ノエルの母、白竜騎士団長の西海出身の配偶者は、今年の春に亡くなっている。悲しい声の理由に思い当たり、トールも思わず下を向いた。西海は、オリーブの栽培が盛ん。故郷のオリーブオイルで作られた石鹸に、ノエルの母は香草を混ぜて加工していたのだろう。混ぜるだけなら、アラン教授も東雲で、柳の葉や樹皮を混ぜた石鹸を作っていた。確か、柳に含まれる、解熱鎮痛剤にもなるサリチル酸が、殺菌成分になったはず。
「前は、お母様とお父様が一緒に、洗濯も掃除もしていたんだけど」
微かなノエルの声が、トールの耳に響く。
「今、お父様、忙しくて」
ノエルの世話をしてくれた母の乳母も、病気を理由に西海に帰ってしまった。父が怒るから、白竜騎士団員にも頼めない。しかし洗濯をしない限り、汚れた服は溜まり、清潔な服は無くなる一方。だからノエルは、頑張って自分で、自分と父の服を洗濯しようとした。
「あの、お兄さんも、白竜騎士団の人?」
父親の怒りを思い出したのか、ノエルの声が別の方向に震える。
「サシャで良いよ、ノエル」
洗濯の手を止めたサシャが、ノエルの方を向いてにっこりと微笑んだ。
「僕は、ここに寄宿しているだけだし、イジドール団長は僕の従祖父にあたるから、大丈夫」
怒られたら、一緒に謝ろう。微笑んだままのサシャに、ノエルの瞳が大きくなる。
「じゃ、サシャは、僕の」
「又従兄弟、だね」
サシャの言葉に、ノエルがサシャに飛びつく。
そのノエルを宥めてベンチに座らせると、サシャはすすいでいた洗濯物を別の盥に積み上げた。
やはり、東雲で製本師カレヴァと共に作成した洗濯物の水気を取る『絞り器』が、ここにも必要だ。小さな腕を精一杯捻って洗濯物を絞るサシャの背中の震えに、息を吐く。今は南苑で、南苑王レクスの庇護を受けて印刷工房を立ち上げているカレヴァに手紙を書いて、洗濯物絞り器の設計図を送ってもらおう。まだ水滴がポタポタと垂れている洗濯物を土間の上に張った洗濯紐にかけるサシャの精一杯の背伸びに、トールは大きく頷いた。日差しは夏だから、洗濯物はすぐに乾くだろう。
立ち上がったサシャが、音がした洗濯用の土間の方へと走る。すぐに見えてきたのは、ひっくり返った盥と、土間に広がる洗濯物、そして涙と洗濯水に濡れた小さな影。
「大丈夫?」
影に怪我が無いことを確かめたサシャが、自分の部屋まで取って返す。
部屋に置かれた行李の中から身体を拭く用の大きめの布を二枚取り出すと、行李の横に置いてあった洗濯板と共に、サシャは土間の方へと戻った。
泣きじゃくる小さな影の濡れた服を脱がせ、身体用の布で拭いてから、もう一枚の布で小さな身体を包み込む。夏至祭の前だから、日の当たる場所は暑いと言って良いくらいの暖かさ。布一枚でも風邪をひくことはないだろう。
『本』であるトールを濡らさないよう、エプロンの前後を逆にしたサシャが、土間に散らばった洗濯途中の服を子供から脱がせた服と共に盥の中に入れる。土間の隅にある井戸から水を汲んだサシャは、そのまま慣れた調子で洗濯板を使って洗濯を始めた。
「この石鹸、使って良い?」
土間に置かれた簡素なベンチに小さく座った子供の影に、サシャが尋ねる。
「うん」
小さな声で答えたその影は、どこか見覚えがある。
〈どこだっけ?〉
頭の中を検索して、答えに辿り着く。この子供は、この白竜騎士団の団長であるイジドールの一人息子、確か名前はノエルだった、はず。何故、こんなに幼い子が、一人で洗濯を? 泣きそうな顔でサシャを見つめるノエルの、今は北向の都に留め置かれている本当の神帝候補リュカの幼い頃にそっくりな瞳に小さく唸ってから、サシャが手を突っ込んでいる盥の中身を首を伸ばして確かめる。サシャが洗っているのは、子供用の上着と下着、そして大人用の服と下着。子供用の服はノエルのものだとして、大人用は誰のものだろう?
「この石鹸、良い匂いがするね」
大人用の服の形を確かめるトールの耳に、どこかうっとりとしたサシャの声が響く。
サシャが生まれ育った北辺では、牛脂で作った石鹸を使っていた。帝都で最初に寄宿した黒竜騎士団の館でオリーブオイルを使った石鹸に接してから、サシャは、手に入る時はずっと、オリーブオイルの石鹸で洗濯をしたり身体を洗ったりしている。殆ど我が儘を言わないサシャの、唯一の贅沢だから、トールも笑ってサシャの拘りを黙認している。
「お母様が、作ってくれたの」
次に響いた、どこか悲しげなノエルの声に、サシャが俯く。ノエルの母、白竜騎士団長の西海出身の配偶者は、今年の春に亡くなっている。悲しい声の理由に思い当たり、トールも思わず下を向いた。西海は、オリーブの栽培が盛ん。故郷のオリーブオイルで作られた石鹸に、ノエルの母は香草を混ぜて加工していたのだろう。混ぜるだけなら、アラン教授も東雲で、柳の葉や樹皮を混ぜた石鹸を作っていた。確か、柳に含まれる、解熱鎮痛剤にもなるサリチル酸が、殺菌成分になったはず。
「前は、お母様とお父様が一緒に、洗濯も掃除もしていたんだけど」
微かなノエルの声が、トールの耳に響く。
「今、お父様、忙しくて」
ノエルの世話をしてくれた母の乳母も、病気を理由に西海に帰ってしまった。父が怒るから、白竜騎士団員にも頼めない。しかし洗濯をしない限り、汚れた服は溜まり、清潔な服は無くなる一方。だからノエルは、頑張って自分で、自分と父の服を洗濯しようとした。
「あの、お兄さんも、白竜騎士団の人?」
父親の怒りを思い出したのか、ノエルの声が別の方向に震える。
「サシャで良いよ、ノエル」
洗濯の手を止めたサシャが、ノエルの方を向いてにっこりと微笑んだ。
「僕は、ここに寄宿しているだけだし、イジドール団長は僕の従祖父にあたるから、大丈夫」
怒られたら、一緒に謝ろう。微笑んだままのサシャに、ノエルの瞳が大きくなる。
「じゃ、サシャは、僕の」
「又従兄弟、だね」
サシャの言葉に、ノエルがサシャに飛びつく。
そのノエルを宥めてベンチに座らせると、サシャはすすいでいた洗濯物を別の盥に積み上げた。
やはり、東雲で製本師カレヴァと共に作成した洗濯物の水気を取る『絞り器』が、ここにも必要だ。小さな腕を精一杯捻って洗濯物を絞るサシャの背中の震えに、息を吐く。今は南苑で、南苑王レクスの庇護を受けて印刷工房を立ち上げているカレヴァに手紙を書いて、洗濯物絞り器の設計図を送ってもらおう。まだ水滴がポタポタと垂れている洗濯物を土間の上に張った洗濯紐にかけるサシャの精一杯の背伸びに、トールは大きく頷いた。日差しは夏だから、洗濯物はすぐに乾くだろう。
0
お気に入りに追加
14
あなたにおすすめの小説
初夜に「君を愛するつもりはない」と夫から言われた妻のその後
澤谷弥(さわたに わたる)
ファンタジー
結婚式の日の夜。夫のイアンは妻のケイトに向かって「お前を愛するつもりはない」と言い放つ。
ケイトは知っていた。イアンには他に好きな女性がいるのだ。この結婚は家のため。そうわかっていたはずなのに――。
※短いお話です。
※恋愛要素が薄いのでファンタジーです。おまけ程度です。
【完結】悪役令嬢に転生したけど、王太子妃にならない方が幸せじゃない?
みちこ
ファンタジー
12歳の時に前世の記憶を思い出し、自分が悪役令嬢なのに気が付いた主人公。
ずっと王太子に片思いしていて、将来は王太子妃になることしか頭になかった主人公だけど、前世の記憶を思い出したことで、王太子の何が良かったのか疑問に思うようになる
色々としがらみがある王太子妃になるより、このまま公爵家の娘として暮らす方が幸せだと気が付く
愛していました。待っていました。でもさようなら。
彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。
やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
【完結】王子は聖女と結婚するらしい。私が聖女であることは一生知らないままで
雪野原よる
恋愛
「聖女と結婚するんだ」──私の婚約者だった王子は、そう言って私を追い払った。でも、その「聖女」、私のことなのだけど。
※王国は滅びます。
結婚しても別居して私は楽しくくらしたいので、どうぞ好きな女性を作ってください
シンさん
ファンタジー
サナス伯爵の娘、ニーナは隣国のアルデーテ王国の王太子との婚約が決まる。
国に行ったはいいけど、王都から程遠い別邸に放置され、1度も会いに来る事はない。
溺愛する女性がいるとの噂も!
それって最高!好きでもない男の子供をつくらなくていいかもしれないし。
それに私は、最初から別居して楽しく暮らしたかったんだから!
そんな別居願望たっぷりの伯爵令嬢と王子の恋愛ストーリー
最後まで書きあがっていますので、随時更新します。
表紙はエブリスタでBeeさんに描いて頂きました!綺麗なイラストが沢山ございます。リンク貼らせていただきました。
【完結】側妃は愛されるのをやめました
なか
恋愛
「君ではなく、彼女を正妃とする」
私は、貴方のためにこの国へと貢献してきた自負がある。
なのに……彼は。
「だが僕は、ラテシアを見捨てはしない。これから君には側妃になってもらうよ」
私のため。
そんな建前で……側妃へと下げる宣言をするのだ。
このような侮辱、恥を受けてなお……正妃を求めて抗議するか?
否。
そのような恥を晒す気は無い。
「承知いたしました。セリム陛下……私は側妃を受け入れます」
側妃を受けいれた私は、呼吸を挟まずに言葉を続ける。
今しがた決めた、たった一つの決意を込めて。
「ですが陛下。私はもう貴方を支える気はありません」
これから私は、『捨てられた妃』という汚名でなく、彼を『捨てた妃』となるために。
華々しく、私の人生を謳歌しよう。
全ては、廃妃となるために。
◇◇◇
設定はゆるめです。
読んでくださると嬉しいです!
【完結】乙女ゲーム開始前に消える病弱モブ令嬢に転生しました
佐倉穂波
恋愛
転生したルイシャは、自分が若くして死んでしまう乙女ゲームのモブ令嬢で事を知る。
確かに、まともに起き上がることすら困難なこの体は、いつ死んでもおかしくない状態だった。
(そんな……死にたくないっ!)
乙女ゲームの記憶が正しければ、あと数年で死んでしまうルイシャは、「生きる」ために努力することにした。
2023.9.3 投稿分の改稿終了。
2023.9.4 表紙を作ってみました。
2023.9.15 完結。
2023.9.23 後日談を投稿しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる