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第九章 知識と勇気で

9.9 洗濯する少年②

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「……!」

 立ち上がったサシャが、音がした洗濯用の土間の方へと走る。すぐに見えてきたのは、ひっくり返った盥と、土間に広がる洗濯物、そして涙と洗濯水に濡れた小さな影。

「大丈夫?」

 影に怪我が無いことを確かめたサシャが、自分の部屋まで取って返す。

 部屋に置かれた行李の中から身体を拭く用の大きめの布を二枚取り出すと、行李の横に置いてあった洗濯板と共に、サシャは土間の方へと戻った。

 泣きじゃくる小さな影の濡れた服を脱がせ、身体用の布で拭いてから、もう一枚の布で小さな身体を包み込む。夏至祭げしのまつりの前だから、日の当たる場所は暑いと言って良いくらいの暖かさ。布一枚でも風邪をひくことはないだろう。

 『本』であるトールを濡らさないよう、エプロンの前後を逆にしたサシャが、土間に散らばった洗濯途中の服を子供から脱がせた服と共に盥の中に入れる。土間の隅にある井戸から水を汲んだサシャは、そのまま慣れた調子で洗濯板を使って洗濯を始めた。

「この石鹸、使って良い?」

 土間に置かれた簡素なベンチに小さく座った子供の影に、サシャが尋ねる。

「うん」

 小さな声で答えたその影は、どこか見覚えがある。

〈どこだっけ?〉

 頭の中を検索して、答えに辿り着く。この子供は、この白竜はくりゅう騎士団の団長であるイジドールの一人息子、確か名前はノエルだった、はず。何故、こんなに幼い子が、一人で洗濯を? 泣きそうな顔でサシャを見つめるノエルの、今は北向きたむくの都に留め置かれている本当の神帝じんてい候補リュカの幼い頃にそっくりな瞳に小さく唸ってから、サシャが手を突っ込んでいる盥の中身を首を伸ばして確かめる。サシャが洗っているのは、子供用の上着と下着、そして大人用の服と下着。子供用の服はノエルのものだとして、大人用は誰のものだろう?

「この石鹸、良い匂いがするね」

 大人用の服の形を確かめるトールの耳に、どこかうっとりとしたサシャの声が響く。

 サシャが生まれ育った北辺ほくへんでは、牛脂で作った石鹸を使っていた。帝都ていとで最初に寄宿した黒竜こくりゅう騎士団の館でオリーブオイルを使った石鹸に接してから、サシャは、手に入る時はずっと、オリーブオイルの石鹸で洗濯をしたり身体を洗ったりしている。殆ど我が儘を言わないサシャの、唯一の贅沢だから、トールも笑ってサシャの拘りを黙認している。

「お母様が、作ってくれたの」

 次に響いた、どこか悲しげなノエルの声に、サシャが俯く。ノエルの母、白竜騎士団長の西海さいかい出身の配偶者は、今年の春に亡くなっている。悲しい声の理由に思い当たり、トールも思わず下を向いた。西海は、オリーブの栽培が盛ん。故郷のオリーブオイルで作られた石鹸に、ノエルの母は香草を混ぜて加工していたのだろう。混ぜるだけなら、アラン教授も東雲しののめで、柳の葉や樹皮を混ぜた石鹸を作っていた。確か、柳に含まれる、解熱鎮痛剤にもなるサリチル酸が、殺菌成分になったはず。

「前は、お母様とお父様が一緒に、洗濯も掃除もしていたんだけど」

 微かなノエルの声が、トールの耳に響く。

「今、お父様、忙しくて」

 ノエルの世話をしてくれた母の乳母も、病気を理由に西海に帰ってしまった。父が怒るから、白竜騎士団員にも頼めない。しかし洗濯をしない限り、汚れた服は溜まり、清潔な服は無くなる一方。だからノエルは、頑張って自分で、自分と父の服を洗濯しようとした。

「あの、お兄さんも、白竜騎士団の人?」

 父親の怒りを思い出したのか、ノエルの声が別の方向に震える。

「サシャで良いよ、ノエル」

 洗濯の手を止めたサシャが、ノエルの方を向いてにっこりと微笑んだ。

「僕は、ここに寄宿しているだけだし、イジドール団長は僕の従祖父にあたるから、大丈夫」

 怒られたら、一緒に謝ろう。微笑んだままのサシャに、ノエルの瞳が大きくなる。

「じゃ、サシャは、僕の」

「又従兄弟、だね」

 サシャの言葉に、ノエルがサシャに飛びつく。

 そのノエルを宥めてベンチに座らせると、サシャはすすいでいた洗濯物を別の盥に積み上げた。

 やはり、東雲で製本師カレヴァと共に作成した洗濯物の水気を取る『絞り器』が、ここにも必要だ。小さな腕を精一杯捻って洗濯物を絞るサシャの背中の震えに、息を吐く。今は南苑なんえんで、南苑王レクスの庇護を受けて印刷工房を立ち上げているカレヴァに手紙を書いて、洗濯物絞り器の設計図を送ってもらおう。まだ水滴がポタポタと垂れている洗濯物を土間の上に張った洗濯紐にかけるサシャの精一杯の背伸びに、トールは大きく頷いた。日差しは夏だから、洗濯物はすぐに乾くだろう。
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