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第八章 再び北へ

8.11 『冬の白をまとうもの』としての試練

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[大丈夫か、サシャ?]

「うん……」

 塵一つ無い石畳の床に仰向けに倒れ込んだサシャの、左腕に滲む赤色の線に、幻の唸り声を発する。

「今回は、タトゥさんから注意受けてたし」

 しかしサシャの方は、トールの心配を余所に、唐突に現れた盥の方へと目を移し、起き上がってエプロンと上着を脱いだ。

 再びこの、古代の神々の像が並ぶ地下神殿に閉じ籠められて、いったい何日経ったのだろうか? 盥と共に現れた清潔そうな手拭いを使い、左二の腕の真ん中を鋭く横切る刀傷を洗うサシャの、時折歪む色の無い唇に息を吐く。神殿の壁に穿たれた隙間に安置されている大小の神像を用いた移動の術を用いて、『冬の国ふゆのくに』に暮らす部族全てに、『冬の白をまとう者』として挨拶に向かう。それが、この場所に一人と一冊を閉じ籠めたタトゥの、依頼のような命令。タトゥが指示する方向と距離から適切な神像を動かし、現れた扉から外へ出、そこで待っている『冬の国』の人達に挨拶する。『冬の国』の人達が発する質問には全て答えなくてはいけないし、今日のように、サシャを見るなり攻撃してくる人達もいる。攻撃の避け方は帝都ていと白竜はくりゅう騎士団で散々身についているとはいえ、やはり、体力の無いサシャには酷。傷を洗い終え、血が染みた上着の左袖を盥で洗い始めたサシャの、普段以上に細く見える両腕に、トールは何度目かの溜め息を吐いた。

「お手洗い、行ってくるね」

 上着の左袖を洗い終え、消えた盥と入れ替わるように現れた小さな物干しに上着を掛けたサシャが、大小の神像が並ぶ隙間の端に置かれた、ふわふわのマフラーを首に巻いた小さな神像を手に取る。サシャの姿が掻き消えたことを確かめ、トールはほっと息を吐いた。古代の神殿に安置された神像に触れることで、神像の種類と大きさによって定まっている方向と距離を移動するという『魔法』は、古代の神々に嘉された『冬の白をまとうもの』あるいは『冬の国』の祭祀として修行を積んだ『冬の黒をまとうもの』に対してのみ発動するらしい。古代の神殿に迷い込んだサシャが突拍子も無い場所に移動してしまうのは、トールの所為ではない。そのことに、トールは正直ほっとしていた。

「今日は、もう、移動は無いかな?」

 お手洗いから戻り、手拭いでしっかりと濡れた手を拭いたサシャが、ポケットにトールが入ったエプロンを右手で引き寄せながら、神殿の壁近くに転がっていた小さな箱を左手で手元に引き寄せる。タトゥがくれた、木の皮を編んで作られた箱の中に入っているのは、サシャの親指よりも一回り大きな黄金色の琥珀と、小さな羽を広げた蝶のような石。どちらも、タトゥの指示に従って向かった先で待っていた、『冬の国』の住人からもらったもの。

 『冬の国』の大きさは、誰にも分からない。北都ほくと郊外の修道院に寄宿していた頃にサシャと一緒に読んだ、『冬の国』に関する本の内容を思い出す。広大な大地の殆どが山と雪に覆われた『冬の国』は、作物や鉱物を得ることができる僅かな場所に構成された小さな集団の集合から構成されている。住む場所が異なれば暮らし方も考え方も異なる。毎日、その日に訪ねた場所と人々のことをサシャに尋ねるタトゥがある日発した言葉を、トールはまざまざと思い出していた。
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