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第七章 東の理

7.44 再び、戻る

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 開いたトールのページに触れるサシャの、僅かな熱が籠もる指先のくすぐったさに、小さく息を吐く。

「ここ、活字がひっくり返ってる」

 力尽くで破壊された所為で足りないページはグスタフ教授所有の古い祈祷書から足す形でカレヴァが直してくれた、この世界では『祈祷書』として認識されているトール自身の身体には、まだ違和感がある。だが、カレヴァが制作している印刷機で試作している祈祷書の校正ができるまでに健康を取り戻したサシャを見ているのは、楽しいし嬉しい。赤インクが入った小さな壺に浸した羽ペンの先を、サシャの工夫でカレヴァが制作した、植物から作った『紙』に置いて間違っている部分に指摘を入れるサシャの、インクで赤くなった指に、トールは笑いそうになった自分を辛うじて堪えた。

 世間では、サシャは、「リーンハルトの我が儘の犠牲になってしまった」ことになっている。故に、サシャは、匿われている、『象牙の塔』の町外れにあるカレヴァの工房から一歩も出ることができない。八都はちとのあちこちで本や本の材料である羊皮紙や表紙用の革の取引をしている南苑なんえんの商人ファースさんがこの町に来次第、カレヴァと一緒に南苑へ向かう予定にはなっている。南苑では、本を扱っているおかげで王宮にも出入りできるファースから印刷機のことを聞いた南苑王レクスが、南苑でも印刷機を製作するよう、カレヴァに手紙で言ってきているらしい。サシャの両親の友人であったレクス王なら、ある意味窮状にあるサシャをしっかりと保護してくれると思うが、柔星祭もまだである今の時期では、ファースさんもこの東雲しののめまで来ることはできないだろう。校正に集中するサシャの向こうにある小さめの窓に映る小刻みな雪に、トールは首を横に振った。あの東辺の砦で仲良くなったユリアンは、家令ゼバスティアンの領地でウベルトと共に落ち着いて暮らしていると、サシャの庇護者であるグスタフ教授は言っていた。

「ユリアン、大丈夫だよね」

 夜毎耳にするサシャの声が、脳裏に響く。

 サシャが何を悔やんでいるのか、トールにはしっかりと分かっていた。だが。

〈俺と、サシャの力では、リーンハルト団長を助けることはできなかった〉

 トールの冷徹な部分が、救いようのない事実を紡ぐ。今回の件は、トールにもサシャにも、『力』が足りなかった。ただそれだけ。ただし、それをサシャに言ってサシャが納得しないことも、トールは理解していた。

「サシャ」

 今は、サシャが体力を回復するのを、見守るしかない。そこまで考えたトールの耳に、セルジュの、穏やかな声が響く。

「校正、大変だな」

 おそらく昼食の時間を知らせに来たのだろう、顔を上げたトールの前で、セルジュは、普段通りの穏やかさでサシャが赤を入れている紙の方へと目を向けた。

「『無理はするな』って、グスタフ教授から」

「うん」

「サシャっ!」

 セルジュの声に頷き、しかし羽ペンから手を離さないサシャの前に、いきなり、アラン教授の大声が割って入る。

「今すぐ北向きたむくへ戻れっ!」

「えっ?」

「ユーグが危篤だと、黒竜こくりゅう騎士団経由で知らせが来た」

 突然の知らせに青ざめたサシャの身体を、セルジュが支える。サシャの叔父、ユーグが、危篤? 夏に送られてきたサシャの布類に添えられていた手紙には元気だと書かれていたのに? 寝耳に水の出来事に、トールは言葉を失った。

「ハンスが、馬車の用意を」

「セルジュ」

 落ち着かない様子でサシャを支えたアランの言葉に、不意に現れたグスタフ教授の声が重なる。

「サシャと一緒に北向に戻りなさい」

「……?」

「北向の老王が亡くなったそうです」

 続いて響いたグスタフの言葉に、一瞬で、セルジュの顔が真っ白になる。それでも気丈に、気を失いかけたサシャを支えるセルジュに、トールは無意識に首を横に振っていた。
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