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第六章 西からの風

6.11 『神のために祈る日』のウォルターとオーガスト

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 柔らかに響く鐘の音に、物憂げに目を開ける。

 暖炉があった部屋の隣の、オーガストとウォルターが寝るために使っている部屋の、トールが置かれている、オーガストとウォルターの換えの服が入っている行李の横では、きちんと着替えたサシャがウォルターに清潔な上着を着せていた。今日は、……そうか。止んでしまった鐘の音を思い出す。今日は、七日に一度訪れる、『神のために祈る』日。

「オーガストとウォルターを聖堂の学校に連れて行ってくれって、グレンさんが」

 ウォルターの支度を調えたサシャが、小声でそう言いながら、トールをエプロンのポケットに収める。

「グレンさん、足、痛いから、後で礼拝だけ行くって」

 神のために祈る日には、礼拝の前に、唯一神の教えを子供達に教える『学校』が聖堂で開かれる。北都ほくとでサシャが手伝っていた、ざわついた雰囲気を思い出す。自由七科の資格取得に励んでいるサシャは教える側だったが、サシャと同じくらいのオーガストは、まだ、教わる側、なのだろう。

 聖堂に行くのが嬉しいのか、すっかり準備ができたウォルターが、サシャをぎゅっと抱き締める。あの砂浜で、サシャが音読していた『祈祷書』をうっとりと聞いていたウォルターだから、単に『読み聞かせ』が好きなだけかもしれない。絵本を開く、子供達に囲まれた小野寺おのでらの幻影を、トールは無理に追い払った。

 一方。

「オーガスト?」

「俺、行かない」

 飛び跳ねるウォルターの横で毛布を頭まで被ったオーガストが、サシャの言葉に唸り声を上げる。

「礼拝だけで良いだろ」

 確かに、聖堂主催の『学校』に行く必要は無い。これは、祈祷書に書いてあること。この世界には、子供を学校に行かせる義務も子供が教育を受ける権利も、無い。

「学校で、パンとミルクの朝食を出してくれるって、グレンさんが」

「要らない」

 サシャの言葉に首を横に振ったオーガストの腹の虫の音が、トールの耳にも確かに響く。

「行ったら、さ、『毎日読み書きを習いに来い』って、あいつら煩く言ってくるし」

 それでも、オーガストは毛布から出てこない。

「俺は、父ちゃんや母ちゃんと同じ漁師になりたいんだ。読み書きなんていらない」

 次々と出てくる、毛布から出たくない理由を、トールはサシャのエプロンのポケットの中で半ば感心、半ば呆れの面持ちで聞いていた。昨日は、弟であるウォルターの前で兄貴面をしていたが、これでは、ウォルターの方が大人びて見える。昨晩、夕食の片付けを手伝うサシャがグレンから聞き取った、オーガストとウォルターの保護者に関するグレンの話を、不意に思い出す。兄弟二人の父母は、西都さいとの近くにある島に住み、西海さいかい秋津あきつとを隔てる海峡で魚を捕って生計を立てていた。だが、ここ最近の不漁と、海峡沿いの村々に広がる奇妙な病のために、オーガストとウォルターの両親は西海の西側に広がる広大な海で漁をする道を選び、遠洋への航海に連れて行くことができない小さな兄弟を祖父であるグレンの許に預けた。うだうだと毛布を弄ぶオーガストの言葉は、おそらく、両親に会いたいが故の台詞。

 トール自身は、妹の光に『兄貴面』をしたことがあっただろうか? 不意の疑問に、心が冷える。性別が違っていたからだと思うが、妹に対しては、どこか遠慮がちになっていたように、思う。

「特に、さ」

 目を閉じたトールの耳に、オーガストの更なる言い訳が響く。

「最近来た細い『修道士』って言うの? あいつ、司祭長様にはへこへこしてるくせに俺達子供には冷たいんだぜ」

 やはりここにも、そんな修道士がいるのか。北辺ほくへんでサシャを扱き使っていたジルドの細い顔が脳裏を過る。ジルドは西海に飛ばされたと、アラン教授は言っていた。西海にはたくさんの島があると地理の本には書かれていたから、ここで出会すことは無いだろう。

「あの細い修道士には気をつけろよ、ウォルター」

 頭半分だけ毛布から顔を出したオーガストが、ウォルターに頷く。

「……」

 飛び跳ねるのを止めたウォルターが頷いたのを確かめてから、オーガストは部屋の隅で再び毛布に包まった。

 オーガストを毛布から引き剥がすのは、無理だ。俯いたサシャに肩を竦める。このままでは遅刻する。ウォルターだけ、聖堂に連れて行こう。背表紙に散らしたトールの言葉に、サシャは小さく頷き、不思議そうにサシャを見上げたウォルターの手を取った。
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