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第六章 西からの風
6.2 南苑の日々
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成り行きでサシャが助けた、内戦が続く夏炉の王リエトの婚約者を迎えに行くために、春陽の騎士ラドヴァンや無事医学教授となったアランと共に向かった、八都の南の端の国『南苑』は、緩やかな丘が続く、人も気候も温かい場所だった。
「エリゼの息子だな」
その白髪と紅い瞳は、見間違いようがない。ラドヴァンと共に謁見した南苑の王レクスも、春陽の王チェスラフと同じ言葉でサシャを歓迎してくれた。
「エリゼとオーレリアンには、帝都でかなり世話になったから、恩を、……返したい」
いつまでも好きなだけ、南苑に居るといい。帝都で放棄せざるを得なかった学業も、ここ南苑であれば、大国の教授同士の不毛な争いが続いているという帝都よりも落ち着いた環境で続けることができるだろう。大国の王らしく、チェスラフよりも控えめに感情を示したレクスの言葉に、トールはほっと胸を撫で下ろした。
そして。
「……頼み、あるんだけど」
南苑の都で医学を教えることになったアラン教授と共に面会した、春陽王チェスラフの息子で夏炉の王リエトの婚約者でもあるダーンに、一つだけ頼み事をされる。
「俺が世話をしている、歴史学の教授、代わりに面倒を見てくれないか」
俺がいなくなったら、メイネ教授、絶対に路頭に迷う。冗談に聞こえなかったダーンの言葉と、心配そうに寄せられた眉に、一人と一冊は間髪入れず、ダーンに承諾の返事を返していた。
「良いのか?」
メイネ教授が調べているのは、南苑に散らばる古代の遺跡。帝都でサシャの友人ブラスを古代の神々に捧げようとした教授マルシアルの研究内容がメイネ教授と同じであることを懸念するアラン教授の言葉で、トールの胸に一抹の不安が過る。
「メイネ教授は、狂信者とは違う」
だが、アラン教授の危惧をきっぱりと否定したダーンの言葉に、トールは胸の靄を振り払った。ここは、ダーンの言葉を信じよう。
南苑中にある未踏破の遺跡を探すメイネ教授に付き従う日々は、北辺で副院長ジルドに闇雲に扱き使われる日々とも、北都で事務長ヘラルドを手伝いながら図書館で勉学に励む日々とも、帝都で文武両道を目指していた日々とも、全く異なっていた。まず、メイネ教授の移動距離が長すぎる。南苑の都で教鞭を執った次の日には、春陽との国境沿いまで小柄な足を伸ばす。かつては南苑と同じ国で今でも国境線が曖昧である所為か、気付いた時には春陽の領土へと入り込んでいる日もある。帝都で少し体力を付けたように思えるサシャだが、生活能力の無いメイネの食事や洗濯の世話をした上に、メイネの遺跡探索を手伝う日々は少し辛そうだ。南苑の都『南都』で医学を教えることになったアラン教授が時々診てくれるとはいえ、夏炉でサシャが受けた左肩の怪我のこともある。
「うん、確かに、足は痛いよ」
だが、トールの憂慮に、サシャは首を横に振った。
「でも、南苑は温かいし、メイネ教授の話、面白いし」
確かに。サシャのエプロンの胸ポケットの中で話を聞いていて気付いたメイネ教授の博識を思い返す。古代史のみならず、古代の法や宗教についても、メイネ教授は、サシャが遠慮がちに発する質問に淀みなく答えていた。答えを教えるだけではない。「この文献に書いてあるから」という、サシャの勉学を助ける指示も的確。春陽に向かったダーンも、今のサシャと同じようにメイネ教授の下で勉強しているのなら、学ぶことが好きなリエトとは馬が合うだろう。それが、一人と一冊の安堵の一つ。
ただ一つ、残念なことは、南苑の遺跡の殆どが破壊されていること。古代の帝国は南苑の地から興ったが、おそらく、唯一神の信仰が広がった頃に、人を生贄にする古代の風習は野蛮なものとして壊滅の憂き目に遭ったのだろう。肩を落としたメイネ教授の言葉に、一人と一冊は頷くほか無かった。
そのような日々を送っていた、秋分祭が近づいたある日のこと。
「……これ、は」
春陽との国境近くの丘の中腹にあった洞窟に見つけた脇道の奥に刻まれていた形に、サシャの目が丸くなる。
[サシャ]
この、薄茶色の壁の凸凹は。ランタンを掲げたサシャに、エプロンの胸ポケットの中で頷く。トールの世界の正月用の晴れ着を身に着けた人々の幻影の向こう、弱い光に揺れる凸凹は、確かに、人とは異なる相貌の、人工的な並びを持っていた。おそらく、古代の神々の一柱、麦の穂と鎌を持つ『収穫する者』。帝都で、親友であったブラスとともにサシャが読んでいた古代の神々にまつわる資料を、トールは資料部分だけ思い出していた。
[メイネ教授に知らせた方が]
「うん」
凹凸の前に浮遊する埃を撫でるように払ったサシャが、洞窟の入り口の方を振り返ってメイネ教授を呼ぶ。幸い、サシャの一言だけで、メイネ教授はすぐに一人と一冊の前に現れてくれた。
だが。
「……え?」
目の前に居るはずのメイネ教授の小柄な影が、不意に歪む。
次の瞬間、感じたのは、全てを塗り潰す漆黒の闇。
「エリゼの息子だな」
その白髪と紅い瞳は、見間違いようがない。ラドヴァンと共に謁見した南苑の王レクスも、春陽の王チェスラフと同じ言葉でサシャを歓迎してくれた。
「エリゼとオーレリアンには、帝都でかなり世話になったから、恩を、……返したい」
いつまでも好きなだけ、南苑に居るといい。帝都で放棄せざるを得なかった学業も、ここ南苑であれば、大国の教授同士の不毛な争いが続いているという帝都よりも落ち着いた環境で続けることができるだろう。大国の王らしく、チェスラフよりも控えめに感情を示したレクスの言葉に、トールはほっと胸を撫で下ろした。
そして。
「……頼み、あるんだけど」
南苑の都で医学を教えることになったアラン教授と共に面会した、春陽王チェスラフの息子で夏炉の王リエトの婚約者でもあるダーンに、一つだけ頼み事をされる。
「俺が世話をしている、歴史学の教授、代わりに面倒を見てくれないか」
俺がいなくなったら、メイネ教授、絶対に路頭に迷う。冗談に聞こえなかったダーンの言葉と、心配そうに寄せられた眉に、一人と一冊は間髪入れず、ダーンに承諾の返事を返していた。
「良いのか?」
メイネ教授が調べているのは、南苑に散らばる古代の遺跡。帝都でサシャの友人ブラスを古代の神々に捧げようとした教授マルシアルの研究内容がメイネ教授と同じであることを懸念するアラン教授の言葉で、トールの胸に一抹の不安が過る。
「メイネ教授は、狂信者とは違う」
だが、アラン教授の危惧をきっぱりと否定したダーンの言葉に、トールは胸の靄を振り払った。ここは、ダーンの言葉を信じよう。
南苑中にある未踏破の遺跡を探すメイネ教授に付き従う日々は、北辺で副院長ジルドに闇雲に扱き使われる日々とも、北都で事務長ヘラルドを手伝いながら図書館で勉学に励む日々とも、帝都で文武両道を目指していた日々とも、全く異なっていた。まず、メイネ教授の移動距離が長すぎる。南苑の都で教鞭を執った次の日には、春陽との国境沿いまで小柄な足を伸ばす。かつては南苑と同じ国で今でも国境線が曖昧である所為か、気付いた時には春陽の領土へと入り込んでいる日もある。帝都で少し体力を付けたように思えるサシャだが、生活能力の無いメイネの食事や洗濯の世話をした上に、メイネの遺跡探索を手伝う日々は少し辛そうだ。南苑の都『南都』で医学を教えることになったアラン教授が時々診てくれるとはいえ、夏炉でサシャが受けた左肩の怪我のこともある。
「うん、確かに、足は痛いよ」
だが、トールの憂慮に、サシャは首を横に振った。
「でも、南苑は温かいし、メイネ教授の話、面白いし」
確かに。サシャのエプロンの胸ポケットの中で話を聞いていて気付いたメイネ教授の博識を思い返す。古代史のみならず、古代の法や宗教についても、メイネ教授は、サシャが遠慮がちに発する質問に淀みなく答えていた。答えを教えるだけではない。「この文献に書いてあるから」という、サシャの勉学を助ける指示も的確。春陽に向かったダーンも、今のサシャと同じようにメイネ教授の下で勉強しているのなら、学ぶことが好きなリエトとは馬が合うだろう。それが、一人と一冊の安堵の一つ。
ただ一つ、残念なことは、南苑の遺跡の殆どが破壊されていること。古代の帝国は南苑の地から興ったが、おそらく、唯一神の信仰が広がった頃に、人を生贄にする古代の風習は野蛮なものとして壊滅の憂き目に遭ったのだろう。肩を落としたメイネ教授の言葉に、一人と一冊は頷くほか無かった。
そのような日々を送っていた、秋分祭が近づいたある日のこと。
「……これ、は」
春陽との国境近くの丘の中腹にあった洞窟に見つけた脇道の奥に刻まれていた形に、サシャの目が丸くなる。
[サシャ]
この、薄茶色の壁の凸凹は。ランタンを掲げたサシャに、エプロンの胸ポケットの中で頷く。トールの世界の正月用の晴れ着を身に着けた人々の幻影の向こう、弱い光に揺れる凸凹は、確かに、人とは異なる相貌の、人工的な並びを持っていた。おそらく、古代の神々の一柱、麦の穂と鎌を持つ『収穫する者』。帝都で、親友であったブラスとともにサシャが読んでいた古代の神々にまつわる資料を、トールは資料部分だけ思い出していた。
[メイネ教授に知らせた方が]
「うん」
凹凸の前に浮遊する埃を撫でるように払ったサシャが、洞窟の入り口の方を振り返ってメイネ教授を呼ぶ。幸い、サシャの一言だけで、メイネ教授はすぐに一人と一冊の前に現れてくれた。
だが。
「……え?」
目の前に居るはずのメイネ教授の小柄な影が、不意に歪む。
次の瞬間、感じたのは、全てを塗り潰す漆黒の闇。
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