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第五章 南への追放
5.5 もうすぐ、春陽
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サシャが乗っていた馬をファースの二頭立て馬車に繋いだことで、西街道を進む間、サシャはファースの馬車の中で過ごすことになった。
「慣れない馬を操っている時よりは疲れていないようだな」
人通りの少ない西街道には、少し寂れた感じが漂っている。その街道を、ファースの馬車の前に立ったり横を併走したりしながら進むラドヴァンのにやりとした瞳に俯いたサシャに、トールは小さく口の端を上げた。確かに、サシャの顔色は、中央街道で馬を操っていた時よりも良い。サシャが馬上で蒼白い顔をしていたのは、帝都を追放されて落ち込んでいるだけではなかったのか。自分の迂闊さに、トールは、揺れる馬車の中で商品のはずの本を読み漁るサシャの胸ポケットの中で小さく息を吐いた。
とにかく、トールの今の目標は、サシャが無事に春陽に辿り着くこと。サシャのエプロンの胸ポケットから幻の首を伸ばし、揺れ進む景色を何度も確かめる。南に進むにつれ、荒野は草原に変わり、木々も段々と増えてきている。雨の降る日もあり、坂道が増えた街道は時折、馬車の車輪が泥に埋もれてしまうほどの悪路になることもあった。盗賊も出没する、道が悪い街道は、誰も利用しない。宿でファースとラドヴァンが話していたことを思い出す。夏炉の王政が機能していないから、道を直す人もいない。街道はますます衰退し、利用する人も、夏炉の国自体も衰退する。
「今日は、この先の村で宿を取るか」
明るいラドヴァンの声に、思考が止まる。
馬車は既に止まっており、揺れない視界の向こうには、霧雨に濡れた幹が並ぶ林が見えていた。
「この辺りの崖は崩れやすいと聞いています」
道の先を見やったファースの声が、少ししっとりとした空間に響く。
「昨日の雨で道が埋もれてないと良いのですが」
「見てこよう」
ファースの懸念に、ラドヴァンは軽い声で答えた。
「しばらくここで馬を休ませるから、サシャ、林の中にある泉で水を汲んできてくれ」
「はい」
ラドヴァンの指示に、サシャがはっきりとした声を出す。
道を確かめに行くラドヴァンの背を確かめると同時に、サシャは、馬車の中にあった桶を掴むと身軽に林の中に入っていった。
「泉、どこかな」
木々の間をキョロキョロと見回すサシャにつられるように、トールもキョロキョロと辺りを見回す。サシャの背後に見えた、ファースの馬車と二頭の馬に、トールは小さく微笑んだ。乗馬用だったサシャの馬だが、二頭立ての馬車も、初対面だったはずのファースの馬と協力して上手く引いてくれている。扱いやすい、穏やかな性格の馬だからということもあるのだろう。仲良くならなくとも、共に協働できれば良い。数学の教員免許を得るために受講していた教職の授業で教授が話していた言葉を、トールは鮮やかに思い出していた。教授のこの言葉に、トールの周りにいた教育学部の学生は変な顔をしていたが、似たような言葉を母から聞いていたトールは、誰にも分からないように小さく頷いていた。
「泉、あれかな?」
サシャの言葉に、思考を止める。確かに、サシャの視線の向こうに、煌めきが見える。地盤、緩んでないだろうか? 木々の間を進むサシャの足下をトールが心配した、正にその時。
「……!」
叫び声にならないサシャの声と同時に、トールの視界が斜めに折れる。
[サシャ!]
桶を取り落としたサシャが右手で押さえた左肩から零れ落ちた血の赤に、トールは言葉を失った。
大急ぎで、辺りを見回す。人影は、……見えない。だが。
「……!」
草を踏みしだく音が聞こえると同時に、弾かれたようにサシャの足が地面を蹴る。そっちは、馬車のある方向と違う! 表紙に並べたトールの言葉に目を落とすことなく、サシャの足は、闇雲に、木々の間を走った。
[落ち着け、サシャ!]
大文字を表紙に並べると同時に、視界が不意に明るくなる。森の外に出た。トールがそう認識する前に、視界は不意に下に落ちた。
[サシャ!]
崖から落ちた。そう理解するのに数瞬掛かる。垂直よりも多少緩やかな斜面にサシャの足が着地すると同時に、サシャの身体は急激にその斜面を滑り落ちた。
[サシャ!]
どこか、落下を止めるために掴むことができる場所は。急かされるように辺りを見回す。あった。翼のような出っ張りが、サシャの少し下に見える。……翼?
[……あっ!]
目にしたものに、絶句する。
斜面に彫られていたのは、古代の神、翼を持つが顔が無い神の像!
[あ……!]
古代の像に気を取られ、サシャへの指示を忘れる。
あっという間に、サシャの身体は、斜面の下を流れていた川に飲まれた。
[サシャ!]
雨の所為か濁っている川の流れは、速い。
手足を水に沈め、鼻と口を水面に出して呼吸を確保する体勢を取ろうとしているサシャを確かめる前に、トールの視界は闇に飲まれた。
「慣れない馬を操っている時よりは疲れていないようだな」
人通りの少ない西街道には、少し寂れた感じが漂っている。その街道を、ファースの馬車の前に立ったり横を併走したりしながら進むラドヴァンのにやりとした瞳に俯いたサシャに、トールは小さく口の端を上げた。確かに、サシャの顔色は、中央街道で馬を操っていた時よりも良い。サシャが馬上で蒼白い顔をしていたのは、帝都を追放されて落ち込んでいるだけではなかったのか。自分の迂闊さに、トールは、揺れる馬車の中で商品のはずの本を読み漁るサシャの胸ポケットの中で小さく息を吐いた。
とにかく、トールの今の目標は、サシャが無事に春陽に辿り着くこと。サシャのエプロンの胸ポケットから幻の首を伸ばし、揺れ進む景色を何度も確かめる。南に進むにつれ、荒野は草原に変わり、木々も段々と増えてきている。雨の降る日もあり、坂道が増えた街道は時折、馬車の車輪が泥に埋もれてしまうほどの悪路になることもあった。盗賊も出没する、道が悪い街道は、誰も利用しない。宿でファースとラドヴァンが話していたことを思い出す。夏炉の王政が機能していないから、道を直す人もいない。街道はますます衰退し、利用する人も、夏炉の国自体も衰退する。
「今日は、この先の村で宿を取るか」
明るいラドヴァンの声に、思考が止まる。
馬車は既に止まっており、揺れない視界の向こうには、霧雨に濡れた幹が並ぶ林が見えていた。
「この辺りの崖は崩れやすいと聞いています」
道の先を見やったファースの声が、少ししっとりとした空間に響く。
「昨日の雨で道が埋もれてないと良いのですが」
「見てこよう」
ファースの懸念に、ラドヴァンは軽い声で答えた。
「しばらくここで馬を休ませるから、サシャ、林の中にある泉で水を汲んできてくれ」
「はい」
ラドヴァンの指示に、サシャがはっきりとした声を出す。
道を確かめに行くラドヴァンの背を確かめると同時に、サシャは、馬車の中にあった桶を掴むと身軽に林の中に入っていった。
「泉、どこかな」
木々の間をキョロキョロと見回すサシャにつられるように、トールもキョロキョロと辺りを見回す。サシャの背後に見えた、ファースの馬車と二頭の馬に、トールは小さく微笑んだ。乗馬用だったサシャの馬だが、二頭立ての馬車も、初対面だったはずのファースの馬と協力して上手く引いてくれている。扱いやすい、穏やかな性格の馬だからということもあるのだろう。仲良くならなくとも、共に協働できれば良い。数学の教員免許を得るために受講していた教職の授業で教授が話していた言葉を、トールは鮮やかに思い出していた。教授のこの言葉に、トールの周りにいた教育学部の学生は変な顔をしていたが、似たような言葉を母から聞いていたトールは、誰にも分からないように小さく頷いていた。
「泉、あれかな?」
サシャの言葉に、思考を止める。確かに、サシャの視線の向こうに、煌めきが見える。地盤、緩んでないだろうか? 木々の間を進むサシャの足下をトールが心配した、正にその時。
「……!」
叫び声にならないサシャの声と同時に、トールの視界が斜めに折れる。
[サシャ!]
桶を取り落としたサシャが右手で押さえた左肩から零れ落ちた血の赤に、トールは言葉を失った。
大急ぎで、辺りを見回す。人影は、……見えない。だが。
「……!」
草を踏みしだく音が聞こえると同時に、弾かれたようにサシャの足が地面を蹴る。そっちは、馬車のある方向と違う! 表紙に並べたトールの言葉に目を落とすことなく、サシャの足は、闇雲に、木々の間を走った。
[落ち着け、サシャ!]
大文字を表紙に並べると同時に、視界が不意に明るくなる。森の外に出た。トールがそう認識する前に、視界は不意に下に落ちた。
[サシャ!]
崖から落ちた。そう理解するのに数瞬掛かる。垂直よりも多少緩やかな斜面にサシャの足が着地すると同時に、サシャの身体は急激にその斜面を滑り落ちた。
[サシャ!]
どこか、落下を止めるために掴むことができる場所は。急かされるように辺りを見回す。あった。翼のような出っ張りが、サシャの少し下に見える。……翼?
[……あっ!]
目にしたものに、絶句する。
斜面に彫られていたのは、古代の神、翼を持つが顔が無い神の像!
[あ……!]
古代の像に気を取られ、サシャへの指示を忘れる。
あっという間に、サシャの身体は、斜面の下を流れていた川に飲まれた。
[サシャ!]
雨の所為か濁っている川の流れは、速い。
手足を水に沈め、鼻と口を水面に出して呼吸を確保する体勢を取ろうとしているサシャを確かめる前に、トールの視界は闇に飲まれた。
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