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第四章 帝都の日々
4.40 製本師の目標②
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「えっ……?」
『本』であるトールを開き、余白を示したカレヴァに、一人と一冊は同時に言葉を失う。
「ヴィリバルトに、いや、きちんと『神帝猊下』と呼ぶべきか、あいつに、お前さんのことを聞いた」
何も言えなくなってしまったサシャを見下ろして微笑んだカレヴァは、本を作るために紙の束を綴じる『かがり台』の横にトールを置き直し、そして立ち上がると奥にある戸棚の引き出しの一つから金属板と羊皮紙を取り出してサシャに見せた。
「前に塩を売りに来た、同郷の一族が描いた絵を、銅版画にしたものだ」
目を瞬かせ、小さなサシャの掌四つ分くらいの大きさを持つ羊皮紙と金属板を見比べるサシャを見たカレヴァのほぼ白い髪が揺れる。エッチングの手法については、中学校の美術の時間に見学に行った美術館で概要だけは学んでいる。金属板を硝酸で腐食させ、できた凹みにインクを詰めて押すようにして刷る技法。銅板の方は色が暗すぎて分からないが、絵を刷った羊皮紙の方は、線の陰影が濃い、踊っているような数人の人物が描かれているのが見てとれる。
「『冬の国』の祭司達、『冬の国』では『冬の黒をまとう者』と呼ばれている者達が描かれている」
耳に響く、カレヴァの言葉に、息が止まる。カレヴァは、やはり、あのタトゥと同じ『冬の国』出身者。様々な国の人が集まっている帝都だから、『冬の国』出身者が混じっていてもおかしくはないと思う。だが、八都の人々とは異なる神を信奉している『冬の国』出身者が、帝都で何事もなく暮らしているとは。意外に皺の多い、カレヴァの薄い額を見、トールは少しだけ口元を開いた。
「狂信者と間違われるからな、八都の、普通の人の前では、こんなことは話さないが」
そのトールの横で、サシャから銅板と羊皮紙を受け取ったカレヴァが、再び口の端を上げる。
「お前さんは、『冬の国』に近しい者だろ?」
「え。……はい」
サシャの母の母は、『冬の国』から来た者。北都の修道院でサシャの叔父ユーグがタトゥに語った言葉を思い出す。サシャの返答に満足したのか、カレヴァは口の端を上げたまま、銅板と羊皮紙を元の引き出しに戻した。
「あの」
そのカレヴァの背に、サシャが遠慮がちな声を上げる。
「その、絵。……一人だけ、白い人がいたのですが」
確かに。サシャの観察眼に感服する。
「それは、『冬の白をまとう者』」
金属板と羊皮紙を引き出しにしまってから、カレヴァはサシャの疑問に答えてくれた。
「『黒』は、代々の『黒』から祭祀の秘密を学んだ者だが、『白』は、その秘密を自分で掴み取った者、らしい」
幼い頃に父と一緒に『冬の国』を出たから、『冬の白をまとう者』についてはこれ以上は知らない。そう言いながら別の引き出しを開けたカレヴァの背に頷いたサシャに、トールも小さく頷く。
「これは、俺が作った木版画」
次にカレヴァが引っ張り出してきたのは、丸まってしまった大きめの羊皮紙と、戸棚の上に置かれて埃が浮いている、様々な色が乗せられた木の板。
「俺には絵心は無いらしい」
一つの版を使い、版の上で色分けをして刷る多色木板画。これは中学校で一度作成したから良く知っている。線の太い細いを気にしなければ一本の彫刻刀だけで版を作ることができる上に、黒い色画用紙上に多色刷りをしたので結構楽で楽しかったことを思い出し、トールは腹の底で小さく笑った。美術室の同じ机で作業をしていた伊藤は、幾つもの彫刻刀を使い、一度刷った色の上に別の色を重ねて凝ったものを作っていた。トールと一緒にサッカー部を止め、美術部に入った伊藤は、本当に楽しげに絵を描いたり立体物を作成したりしていた。対して、自分はどうだっただろうか? 図書部に入って自分なりに頑張ってはいたけれど、やはりどこかで、サッカー部に戻りたいと思っていた。せり出してきた苦い感情を振り落とすように、トールは大きく首を横に振っていた。
「木より金属の方が、何度も刷れる。だが、銅版画は、インクの拭き取りにコツがいる」
そのトールの耳に、中学生の頃の伊藤が熱を込めて話していたことに似た台詞が響く。
「木版画のように、凸部分にインクを乗せるようにすると良いのではないでしょうか?」
「それを今、考えている」
首を傾げながら口を開いたサシャの言葉に、カレヴァは満面の笑みを浮かべた。
「大きな版をいきなり作ると、失敗した時の失望感が半端無い。まずは、手紙の封印に使う印章のような、左右が逆の、一文字ずつの小さな『版』を作ろうと思う」
印章は金か銀で作るが、インクを付けるのなら手に入りやすくて加工しやすい鉛か、鉛と錫の合金で丈夫に作るのが良いだろう。独り言のようなカレヴァの言葉に頷くサシャに、トールも大きく頷いた。これは、おそらく。
「それをきちんと並べて、大きな文章の『版』を作れば、綴りを間違えてしまった時もすぐに修正できる」
トールの予想通り、活版印刷に繋がるアイデアを、カレヴァが蕩々と話す。
「インクも、羊皮紙に手書きするものは粘りが強すぎるのでな、工夫をしているところだ」
確かに、本を写しているサシャが使っているインクは、かなりの粘り気を持っているようにみえる。ほぼ縦型になっている筆写台から垂れないように、そして滑りやすい羊皮紙にしっかりと定着するようにという工夫なのだろう。すぐダメになる羽根ペンを削る小刀を左手に持ち、腕全体を動かして本の中の文字を写すサシャが生み出す流麗な文字を思い出し、トールはカレヴァに頷いてみせた。
「そしてこの『紙』だ」
ようやく、カレヴァの説明が結論に達する。
あの夏の日々に、トールの余白にサシャが書いた、他の部分よりもかなり色褪せてみえる文字列を指差したカレヴァの声は、先程まで以上に熱を帯びていた。
「羊皮紙は大量に生産できない。大量に生産できる『紙』があれば、たくさんの書物を苦労無く作ることができる」
カレヴァが製本師になったのは、製本の過程でたくさんの本を読むことができると踏んだから。実際、カレヴァはこれまで、たくさんの珍しい本を、仕事の傍ら読んできた。しかし、……まだ、読み足りない。自分だけの本も、持ちたい。
カレヴァの熱に、共感する。本の虫だったトールは、カレヴァの上気した頬に無意識に微笑んでいた。
「だから」
熱弁を振るったカレヴァの、少し潤んだ瞳が、サシャを見下ろす。
「お前さんの『本』を直す代わりに、『紙』のことを教えて欲しい。それが、代金だ」
「分かりました」
微笑んで大きく頷いたサシャに、トールも大きく頷いた。
『本』であるトールを開き、余白を示したカレヴァに、一人と一冊は同時に言葉を失う。
「ヴィリバルトに、いや、きちんと『神帝猊下』と呼ぶべきか、あいつに、お前さんのことを聞いた」
何も言えなくなってしまったサシャを見下ろして微笑んだカレヴァは、本を作るために紙の束を綴じる『かがり台』の横にトールを置き直し、そして立ち上がると奥にある戸棚の引き出しの一つから金属板と羊皮紙を取り出してサシャに見せた。
「前に塩を売りに来た、同郷の一族が描いた絵を、銅版画にしたものだ」
目を瞬かせ、小さなサシャの掌四つ分くらいの大きさを持つ羊皮紙と金属板を見比べるサシャを見たカレヴァのほぼ白い髪が揺れる。エッチングの手法については、中学校の美術の時間に見学に行った美術館で概要だけは学んでいる。金属板を硝酸で腐食させ、できた凹みにインクを詰めて押すようにして刷る技法。銅板の方は色が暗すぎて分からないが、絵を刷った羊皮紙の方は、線の陰影が濃い、踊っているような数人の人物が描かれているのが見てとれる。
「『冬の国』の祭司達、『冬の国』では『冬の黒をまとう者』と呼ばれている者達が描かれている」
耳に響く、カレヴァの言葉に、息が止まる。カレヴァは、やはり、あのタトゥと同じ『冬の国』出身者。様々な国の人が集まっている帝都だから、『冬の国』出身者が混じっていてもおかしくはないと思う。だが、八都の人々とは異なる神を信奉している『冬の国』出身者が、帝都で何事もなく暮らしているとは。意外に皺の多い、カレヴァの薄い額を見、トールは少しだけ口元を開いた。
「狂信者と間違われるからな、八都の、普通の人の前では、こんなことは話さないが」
そのトールの横で、サシャから銅板と羊皮紙を受け取ったカレヴァが、再び口の端を上げる。
「お前さんは、『冬の国』に近しい者だろ?」
「え。……はい」
サシャの母の母は、『冬の国』から来た者。北都の修道院でサシャの叔父ユーグがタトゥに語った言葉を思い出す。サシャの返答に満足したのか、カレヴァは口の端を上げたまま、銅板と羊皮紙を元の引き出しに戻した。
「あの」
そのカレヴァの背に、サシャが遠慮がちな声を上げる。
「その、絵。……一人だけ、白い人がいたのですが」
確かに。サシャの観察眼に感服する。
「それは、『冬の白をまとう者』」
金属板と羊皮紙を引き出しにしまってから、カレヴァはサシャの疑問に答えてくれた。
「『黒』は、代々の『黒』から祭祀の秘密を学んだ者だが、『白』は、その秘密を自分で掴み取った者、らしい」
幼い頃に父と一緒に『冬の国』を出たから、『冬の白をまとう者』についてはこれ以上は知らない。そう言いながら別の引き出しを開けたカレヴァの背に頷いたサシャに、トールも小さく頷く。
「これは、俺が作った木版画」
次にカレヴァが引っ張り出してきたのは、丸まってしまった大きめの羊皮紙と、戸棚の上に置かれて埃が浮いている、様々な色が乗せられた木の板。
「俺には絵心は無いらしい」
一つの版を使い、版の上で色分けをして刷る多色木板画。これは中学校で一度作成したから良く知っている。線の太い細いを気にしなければ一本の彫刻刀だけで版を作ることができる上に、黒い色画用紙上に多色刷りをしたので結構楽で楽しかったことを思い出し、トールは腹の底で小さく笑った。美術室の同じ机で作業をしていた伊藤は、幾つもの彫刻刀を使い、一度刷った色の上に別の色を重ねて凝ったものを作っていた。トールと一緒にサッカー部を止め、美術部に入った伊藤は、本当に楽しげに絵を描いたり立体物を作成したりしていた。対して、自分はどうだっただろうか? 図書部に入って自分なりに頑張ってはいたけれど、やはりどこかで、サッカー部に戻りたいと思っていた。せり出してきた苦い感情を振り落とすように、トールは大きく首を横に振っていた。
「木より金属の方が、何度も刷れる。だが、銅版画は、インクの拭き取りにコツがいる」
そのトールの耳に、中学生の頃の伊藤が熱を込めて話していたことに似た台詞が響く。
「木版画のように、凸部分にインクを乗せるようにすると良いのではないでしょうか?」
「それを今、考えている」
首を傾げながら口を開いたサシャの言葉に、カレヴァは満面の笑みを浮かべた。
「大きな版をいきなり作ると、失敗した時の失望感が半端無い。まずは、手紙の封印に使う印章のような、左右が逆の、一文字ずつの小さな『版』を作ろうと思う」
印章は金か銀で作るが、インクを付けるのなら手に入りやすくて加工しやすい鉛か、鉛と錫の合金で丈夫に作るのが良いだろう。独り言のようなカレヴァの言葉に頷くサシャに、トールも大きく頷いた。これは、おそらく。
「それをきちんと並べて、大きな文章の『版』を作れば、綴りを間違えてしまった時もすぐに修正できる」
トールの予想通り、活版印刷に繋がるアイデアを、カレヴァが蕩々と話す。
「インクも、羊皮紙に手書きするものは粘りが強すぎるのでな、工夫をしているところだ」
確かに、本を写しているサシャが使っているインクは、かなりの粘り気を持っているようにみえる。ほぼ縦型になっている筆写台から垂れないように、そして滑りやすい羊皮紙にしっかりと定着するようにという工夫なのだろう。すぐダメになる羽根ペンを削る小刀を左手に持ち、腕全体を動かして本の中の文字を写すサシャが生み出す流麗な文字を思い出し、トールはカレヴァに頷いてみせた。
「そしてこの『紙』だ」
ようやく、カレヴァの説明が結論に達する。
あの夏の日々に、トールの余白にサシャが書いた、他の部分よりもかなり色褪せてみえる文字列を指差したカレヴァの声は、先程まで以上に熱を帯びていた。
「羊皮紙は大量に生産できない。大量に生産できる『紙』があれば、たくさんの書物を苦労無く作ることができる」
カレヴァが製本師になったのは、製本の過程でたくさんの本を読むことができると踏んだから。実際、カレヴァはこれまで、たくさんの珍しい本を、仕事の傍ら読んできた。しかし、……まだ、読み足りない。自分だけの本も、持ちたい。
カレヴァの熱に、共感する。本の虫だったトールは、カレヴァの上気した頬に無意識に微笑んでいた。
「だから」
熱弁を振るったカレヴァの、少し潤んだ瞳が、サシャを見下ろす。
「お前さんの『本』を直す代わりに、『紙』のことを教えて欲しい。それが、代金だ」
「分かりました」
微笑んで大きく頷いたサシャに、トールも大きく頷いた。
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