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第四章 帝都の日々
4.37 大人達の思惑
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「サシャの、具合は?」
小さいが良く通る声に、うたた寝から目覚める。
顔を上げると、小さな部屋に入ってくる、この家の主人グスタフの大柄な影が見えた。
「落ち着いてはいる」
トールが置かれている腰棚側のベッドで眠るサシャの、整い始めた息遣いを確かめる前に、サシャの怪我の治療をしていたアランの頷く声が耳に響く。
「大丈夫そうだな」
グスタフを見上げ微笑んだアランに、感謝の気持ちを込めて頭を下げる。同時に、今はこの場所にいないセルジュにも、トールはしっかりと頭を下げた。怪我をしたサシャをグスタフの屋敷に運んでくれたのは、セルジュと、親類であるグスタフ教授の館に行く途中で偶然通りかかったアラン。セルジュが寄宿している北向の国民団の館に戻すのは危険だと判断したグスタフの配慮で、セルジュは今晩はこの屋敷に泊まっている。
「『祈祷書』の方は?」
「こっちも、ずいぶんざっくりとやられてるな」
『本』であるトールの表紙を軽く撫でるアランの、荒れた指の感触に、思わず首を横に振る。太い蝋燭の灯りをトールに近付けたグスタフの、ヴィリバルトと同じ色の瞳に、トールの背は大きく震えた。トール自身は痛みを感じないから分からないが、トールの表紙は、芯となっている薄い木板まで切り裂かれた状態になっているらしい。また、直してもらわないといけないな。狂信者の所為でサシャと一緒に燃やされそうになった後、ヴィリバルトに連れて行かれた製本工房に漂っていた、糊と革の匂いを思い出し、トールは小さく首を横に振った。今、サシャと離れるのは、……嫌だ。
「しかし凶刃に毒を塗るとは」
不意に変わった、グスタフの声の響きに、私情を振り払う。セルジュを狙い、サシャを傷付けたあの刃には、毒が塗ってあった。僅かに乱れたサシャの呼吸に、トールの背に緊張が走る。大丈夫。アランは、適切な治療を施してくれた。
「毒の種類は?」
「西海でしか育たない植物から取ったもの、だった」
トールの耳に、グスタフの質問に答えるアランの冷静な声が響く。
〈西、海?〉
どうして、北向の王子セルジュを弑する為に、八都の西の端の小国の毒を使う必要がある?
「単純に考えれば、北向を羨んだ西海が北向の王子を狙ったとみるべきだが」
トールの疑問に答えるように、グスタフが顎髭を捻る。
「北向が八都に所属する理由を一番よく知っているのは、西海だと思いますが」
「では、……やはり秋津か」
冷静なままのアランの声に、グスタフは西の大国の名を出して肩を竦めた。
「春陽と南苑は夏炉の件で手一杯だからな」
「意外に、東雲の線もある、かもしれません」
国々の事情を知る大人達の会話に息が止まったままのトールの耳に、アラン師匠の更なる推測が響く。
「東雲の王陛下が、王太子を止められなくなっている、ということか」
そのアランの言葉に、東雲の王族に近しいグスタフは首を横に振った。
「早合点は禁物だぞ、アラン」
「分かっています、グスタフ教授」
年上の人間に対する言葉に戻ったアランが、サシャの額の熱を確かめてから部屋を去るグスタフに頭を下げる。アラン自身も、サシャの額の熱を確かめると、何か薬を取りに行くのだろう、座っていた椅子から立ち上がって部屋から出て行った。
再び静まりかえった暗い部屋に、サシャの寝息だけが響く。
しがない『本』であるトールには、大国の思惑を止める術は無い。それでも、サシャを、……守りたい。どう、すれば。暗闇の中、トールの頭脳は最高速で回っていた。
小さいが良く通る声に、うたた寝から目覚める。
顔を上げると、小さな部屋に入ってくる、この家の主人グスタフの大柄な影が見えた。
「落ち着いてはいる」
トールが置かれている腰棚側のベッドで眠るサシャの、整い始めた息遣いを確かめる前に、サシャの怪我の治療をしていたアランの頷く声が耳に響く。
「大丈夫そうだな」
グスタフを見上げ微笑んだアランに、感謝の気持ちを込めて頭を下げる。同時に、今はこの場所にいないセルジュにも、トールはしっかりと頭を下げた。怪我をしたサシャをグスタフの屋敷に運んでくれたのは、セルジュと、親類であるグスタフ教授の館に行く途中で偶然通りかかったアラン。セルジュが寄宿している北向の国民団の館に戻すのは危険だと判断したグスタフの配慮で、セルジュは今晩はこの屋敷に泊まっている。
「『祈祷書』の方は?」
「こっちも、ずいぶんざっくりとやられてるな」
『本』であるトールの表紙を軽く撫でるアランの、荒れた指の感触に、思わず首を横に振る。太い蝋燭の灯りをトールに近付けたグスタフの、ヴィリバルトと同じ色の瞳に、トールの背は大きく震えた。トール自身は痛みを感じないから分からないが、トールの表紙は、芯となっている薄い木板まで切り裂かれた状態になっているらしい。また、直してもらわないといけないな。狂信者の所為でサシャと一緒に燃やされそうになった後、ヴィリバルトに連れて行かれた製本工房に漂っていた、糊と革の匂いを思い出し、トールは小さく首を横に振った。今、サシャと離れるのは、……嫌だ。
「しかし凶刃に毒を塗るとは」
不意に変わった、グスタフの声の響きに、私情を振り払う。セルジュを狙い、サシャを傷付けたあの刃には、毒が塗ってあった。僅かに乱れたサシャの呼吸に、トールの背に緊張が走る。大丈夫。アランは、適切な治療を施してくれた。
「毒の種類は?」
「西海でしか育たない植物から取ったもの、だった」
トールの耳に、グスタフの質問に答えるアランの冷静な声が響く。
〈西、海?〉
どうして、北向の王子セルジュを弑する為に、八都の西の端の小国の毒を使う必要がある?
「単純に考えれば、北向を羨んだ西海が北向の王子を狙ったとみるべきだが」
トールの疑問に答えるように、グスタフが顎髭を捻る。
「北向が八都に所属する理由を一番よく知っているのは、西海だと思いますが」
「では、……やはり秋津か」
冷静なままのアランの声に、グスタフは西の大国の名を出して肩を竦めた。
「春陽と南苑は夏炉の件で手一杯だからな」
「意外に、東雲の線もある、かもしれません」
国々の事情を知る大人達の会話に息が止まったままのトールの耳に、アラン師匠の更なる推測が響く。
「東雲の王陛下が、王太子を止められなくなっている、ということか」
そのアランの言葉に、東雲の王族に近しいグスタフは首を横に振った。
「早合点は禁物だぞ、アラン」
「分かっています、グスタフ教授」
年上の人間に対する言葉に戻ったアランが、サシャの額の熱を確かめてから部屋を去るグスタフに頭を下げる。アラン自身も、サシャの額の熱を確かめると、何か薬を取りに行くのだろう、座っていた椅子から立ち上がって部屋から出て行った。
再び静まりかえった暗い部屋に、サシャの寝息だけが響く。
しがない『本』であるトールには、大国の思惑を止める術は無い。それでも、サシャを、……守りたい。どう、すれば。暗闇の中、トールの頭脳は最高速で回っていた。
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