上 下
151 / 351
第四章 帝都の日々

4.37 大人達の思惑

しおりを挟む
「サシャの、具合は?」

 小さいが良く通る声に、うたた寝から目覚める。

 顔を上げると、小さな部屋に入ってくる、この家の主人グスタフの大柄な影が見えた。

「落ち着いてはいる」

 トールが置かれている腰棚側のベッドで眠るサシャの、整い始めた息遣いを確かめる前に、サシャの怪我の治療をしていたアランの頷く声が耳に響く。

「大丈夫そうだな」

 グスタフを見上げ微笑んだアランに、感謝の気持ちを込めて頭を下げる。同時に、今はこの場所にいないセルジュにも、トールはしっかりと頭を下げた。怪我をしたサシャをグスタフの屋敷に運んでくれたのは、セルジュと、親類であるグスタフ教授の館に行く途中で偶然通りかかったアラン。セルジュが寄宿している北向きたむくの国民団の館に戻すのは危険だと判断したグスタフの配慮で、セルジュは今晩はこの屋敷に泊まっている。

「『祈祷書』の方は?」

「こっちも、ずいぶんざっくりとやられてるな」

 『本』であるトールの表紙を軽く撫でるアランの、荒れた指の感触に、思わず首を横に振る。太い蝋燭の灯りをトールに近付けたグスタフの、ヴィリバルトと同じ色の瞳に、トールの背は大きく震えた。トール自身は痛みを感じないから分からないが、トールの表紙は、芯となっている薄い木板まで切り裂かれた状態になっているらしい。また、直してもらわないといけないな。狂信者の所為でサシャと一緒に燃やされそうになった後、ヴィリバルトに連れて行かれた製本工房に漂っていた、糊と革の匂いを思い出し、トールは小さく首を横に振った。今、サシャと離れるのは、……嫌だ。

「しかし凶刃に毒を塗るとは」

 不意に変わった、グスタフの声の響きに、私情を振り払う。セルジュを狙い、サシャを傷付けたあの刃には、毒が塗ってあった。僅かに乱れたサシャの呼吸に、トールの背に緊張が走る。大丈夫。アランは、適切な治療を施してくれた。

「毒の種類は?」

西海さいかいでしか育たない植物から取ったもの、だった」

 トールの耳に、グスタフの質問に答えるアランの冷静な声が響く。

〈西、海?〉

 どうして、北向の王子セルジュを弑する為に、八都はちとの西の端の小国の毒を使う必要がある?

「単純に考えれば、北向を羨んだ西海が北向の王子を狙ったとみるべきだが」

 トールの疑問に答えるように、グスタフが顎髭を捻る。

「北向が八都に所属する理由を一番よく知っているのは、西海だと思いますが」

「では、……やはり秋津あきつか」

 冷静なままのアランの声に、グスタフは西の大国の名を出して肩を竦めた。

春陽はるひ南苑なんえん夏炉かろの件で手一杯だからな」

「意外に、東雲しののめの線もある、かもしれません」

 国々の事情を知る大人達の会話に息が止まったままのトールの耳に、アラン師匠の更なる推測が響く。

「東雲の王陛下が、王太子を止められなくなっている、ということか」

 そのアランの言葉に、東雲の王族に近しいグスタフは首を横に振った。

「早合点は禁物だぞ、アラン」

「分かっています、グスタフ教授」

 年上の人間に対する言葉に戻ったアランが、サシャの額の熱を確かめてから部屋を去るグスタフに頭を下げる。アラン自身も、サシャの額の熱を確かめると、何か薬を取りに行くのだろう、座っていた椅子から立ち上がって部屋から出て行った。

 再び静まりかえった暗い部屋に、サシャの寝息だけが響く。

 しがない『本』であるトールには、大国の思惑を止める術は無い。それでも、サシャを、……守りたい。どう、すれば。暗闇の中、トールの頭脳は最高速で回っていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

初夜に「君を愛するつもりはない」と夫から言われた妻のその後

澤谷弥(さわたに わたる)
ファンタジー
結婚式の日の夜。夫のイアンは妻のケイトに向かって「お前を愛するつもりはない」と言い放つ。 ケイトは知っていた。イアンには他に好きな女性がいるのだ。この結婚は家のため。そうわかっていたはずなのに――。 ※短いお話です。 ※恋愛要素が薄いのでファンタジーです。おまけ程度です。

【完結】悪役令嬢に転生したけど、王太子妃にならない方が幸せじゃない?

みちこ
ファンタジー
12歳の時に前世の記憶を思い出し、自分が悪役令嬢なのに気が付いた主人公。 ずっと王太子に片思いしていて、将来は王太子妃になることしか頭になかった主人公だけど、前世の記憶を思い出したことで、王太子の何が良かったのか疑問に思うようになる 色々としがらみがある王太子妃になるより、このまま公爵家の娘として暮らす方が幸せだと気が付く

愛していました。待っていました。でもさようなら。

彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。 やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。

【完結】あなたに知られたくなかった

ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。 5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。 そんなセレナに起きた奇跡とは?

白い結婚を言い渡されたお飾り妻ですが、ダンジョン攻略に励んでいます

時岡継美
ファンタジー
 初夜に旦那様から「白い結婚」を言い渡され、お飾り妻としての生活が始まったヴィクトリアのライフワークはなんとダンジョンの攻略だった。  侯爵夫人として最低限の仕事をする傍ら、旦那様にも使用人たちにも内緒でダンジョンのラスボス戦に向けて準備を進めている。  しかし実は旦那様にも何やら秘密があるようで……?  他サイトでは「お飾り妻の趣味はダンジョン攻略です」のタイトルで公開している作品を加筆修正しております。  誤字脱字報告ありがとうございます!

【完結】王子は聖女と結婚するらしい。私が聖女であることは一生知らないままで

雪野原よる
恋愛
「聖女と結婚するんだ」──私の婚約者だった王子は、そう言って私を追い払った。でも、その「聖女」、私のことなのだけど。  ※王国は滅びます。

結婚しても別居して私は楽しくくらしたいので、どうぞ好きな女性を作ってください

シンさん
ファンタジー
サナス伯爵の娘、ニーナは隣国のアルデーテ王国の王太子との婚約が決まる。 国に行ったはいいけど、王都から程遠い別邸に放置され、1度も会いに来る事はない。 溺愛する女性がいるとの噂も! それって最高!好きでもない男の子供をつくらなくていいかもしれないし。 それに私は、最初から別居して楽しく暮らしたかったんだから! そんな別居願望たっぷりの伯爵令嬢と王子の恋愛ストーリー 最後まで書きあがっていますので、随時更新します。 表紙はエブリスタでBeeさんに描いて頂きました!綺麗なイラストが沢山ございます。リンク貼らせていただきました。

【完結】側妃は愛されるのをやめました

なか
恋愛
「君ではなく、彼女を正妃とする」  私は、貴方のためにこの国へと貢献してきた自負がある。  なのに……彼は。 「だが僕は、ラテシアを見捨てはしない。これから君には側妃になってもらうよ」  私のため。  そんな建前で……側妃へと下げる宣言をするのだ。    このような侮辱、恥を受けてなお……正妃を求めて抗議するか?  否。  そのような恥を晒す気は無い。 「承知いたしました。セリム陛下……私は側妃を受け入れます」  側妃を受けいれた私は、呼吸を挟まずに言葉を続ける。  今しがた決めた、たった一つの決意を込めて。 「ですが陛下。私はもう貴方を支える気はありません」  これから私は、『捨てられた妃』という汚名でなく、彼を『捨てた妃』となるために。  華々しく、私の人生を謳歌しよう。  全ては、廃妃となるために。    ◇◇◇  設定はゆるめです。  読んでくださると嬉しいです!

処理中です...