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第三章 森と砦と

3.22 冬至祭前日の変節③

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 夜の闇が、細い木々の影を不気味に揺らす。

 こんなところへサシャを連れてくるとは、この人は何を考えているのだろう? 後ろ手に縛られ、腰にも縄を付けられたサシャの、しばしば蹌踉めく足取りにはらはらしながら、トールは目の前の、サシャの腰に巻かれた縄の端を強く引いて歩く豪奢な衣装を睨んで首を傾げた。

 荒野は、今は見えない。見えるのは、クラウディオが持つ明るい松明の光に照らされた、森を貫く細い道のみ。サシャは、……大丈夫か? 木の根に躓いたのか、身体を大きく傾けたサシャに、息が止まる。クラウディオに連れ出される前に、サシャには小さな茶碗が渡されたが、その中のどろっとした飲み物を、サシャは半分飲んで大部分吐き出してしまっている。本当に、この、クラウディオという奴は、サシャを何処に連れて行くつもりなのだろうか? サシャの鼓動の速さを感じながら、トールは再び、前を歩くクラウディオの、意外に華奢な背を睨んだ。

「ここです」

 クラウディオが掲げた松明の光が、木々の色とは異なる岩の色を映し出す。

「ここも、古代の神殿跡なのですよ」

 机を並べて一緒に勉強する小野寺おのでら伊藤いとうの横にあったペットボトルの形を確かめる前に、クラウディオのどこか優しげな声がトールの耳に響く。クラウディオに引き摺られる形のサシャが木々の間にできた広場のような空間に足を踏み入れると、目の前に見えた崖のような壁に穿たれた隙間と、父が勤務していた工場よりも広い、機械だらけの空間が同時にトールの視界を覆った。

〈これ、は……?〉

 古代の神々を祭る壁に二重写しになった、小学校の工場見学で見た覚えのある光景に、思わず目を瞬かせる。

「先の夏、こことは別の古代神殿跡で、あなたが私の部下を『元の世界』に送ったのを見たのですよ、私は」

 戸惑いに周りを見回したトールの横で、クラウディオはサシャの手首を縛っていた縄を切り、意外に優しくサシャの腕を掴んだ。

「古代人達の遺跡で、訳の分からない幻影を見たことがあるでしょう」

 トールの耳に、サシャに向かって話すクラウディオの声が響く。

「見知らぬ世界が見えて怖かったのでは?」

 クラウディオの言葉に顔を上げたサシャに、クラウディオは意外に優しげに口角を上げた。

「あなたは、おそらく『転生者』」

 クラウディオの言葉が、トールの心を刺す。

「『転生者』を元の世界に戻す方法は、あなたも知っての通り」

 まさか。電撃が、トールを貫く。あの漆黒の空間を持つ洞窟で、サシャに掴みかかろうとした少年が消えたのは、……クラウディオが言う『元の世界』に戻ったから? やはり、サシャの推測通り、トールをトールの世界に戻す何らかの『力』が、古代人の遺跡にはあるのか? 脳裏を過った思考に、トールは首を横に振った。

〈いや〉

 サシャがトールを置き去りにした、北都の東に広がる森の崖に穿たれた古代人の遺跡の白さが、トールの心を一瞬だけ重くする。あの時、トールは、トールの世界に戻ることができなかった。

「私以外に『転生者』が居れば、私が持っている知識の優位性が揺らいでしまう」

 ごちゃごちゃになってしまった思考に息を吐いたトールの横で、クラウディオがサシャに手を掛ける。

「この苦しい、何もかもが不便な世界から解放して差し上げましょう」

 そう言って、クラウディオはサシャの身体を、古代の神々を祭る壁の方へと向けさせた。

「火炙りになるよりは、あなたの世界に戻った方が、あなたのためになるでしょう」

 ふらつくサシャの背を、クラウディオが突き飛ばす。

「戻った世界の方が苦しくないとは限りませんが」

 危ないっ! 叫びを文字にする前に、下草に足を絡ませたサシャの身体はクラウディオの方へと傾いた。

「なっ!」

 もう一度、サシャを壁の方へと突き飛ばそうとしたクラウディオの腕が、サシャの身体に絡まる。トールの視界が再び機械だらけの工場の画に覆われた次の瞬間、クラウディオの影は工場の画と一体になった。

「……え?」

 地面に落ちた松明に、呆然とする。

 この場所にいるのは、確かに、サシャとトール、一人と一冊だけ。

「何が、あったの?」

 松明の側に座り込んでしまったサシャに、首を横に振ることしかできない。

[大丈夫だよ、サシャ]

 ようやくのことで、トールはそれだけの文字を背表紙に踊らせた。
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