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第三章 森と砦と

3.12 故郷とは異なる森で②

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「……トール」

 不意に立ち止まったサシャが、マントの隙間からトールを出す。

「声、聞こえない?」

 確かに。風が木々を揺らす音に混じって、微かな呻き声が聞こえてくる。

「行ってみる」

 トールが判断するより早く、サシャの足が呻き声の方を向く。

[気をつけて]

 トールを抱き締め直したサシャの腕の熱さに、トールは小さく頷いた。

 先程よりもゆっくりした足取りで、木々の間を進む。人影らしきものを確かめるのに、時間は掛からなかった。

「……あの」

 木々の根元に身体を丸めて横たわり、震えながら呻き声を上げる人影に近づくサシャの、胸の震えに、トールの緊張も高まる。

 サシャが近づいてきたことに気付いた人影は、薄目を開け、そして弱っているとは思えない勢いでサシャに向かって飛びかかってきた。

「わっ!」

 その攻撃を躱そうとしたサシャの腕が、トールから外れる。草より岩の方が多い地面に落ちた衝撃に、トールは呻くことも忘れた。幸いなことに、サシャに飛びかかった影の方も、それ以上の攻撃を行う元気は無かったようだ。サシャの足下に頽れている影にほっと息を吐く。

「……サ、シャ?」

 その影が呟いた言葉に、はっとして影を見直す。汚れた黒髪と、血と泥の下に見える日焼けした肌には、見覚えがある。今は弱々しいが、敏捷そうに見える手足にも。

「ルジェク、さん?」

 トールの推測に違わぬ名前を、サシャが小さく口にする。

「サシャ! 半年も何処に行ってたんだっ!」

 呆然とするサシャの足を抱き締めたルジェクの言葉に、トールの思考は止まった。

〈……半、年?〉

「いや、煌星祭きらぼしのまつりがこの前だったから、半年は大袈裟か」

 それでも、ルジェクの言葉が正しければ、最後にルジェクにあってから四ヶ月半は経っていることになる。どうなっているんだ? 地面の冷たさを感じながら、トールは唇を一文字に結んだ。

「でも、無事で良かったぜ」

 ヴィリバルト団長の横で眠っていたはずのサシャが、次の朝には消えていた。遺跡中探しても、見つからない。まくし立てるようなルジェクの説明に、サシャが目を瞬かせる。

「俺もだけどさ、バルト団長も、もうめちゃくちゃ焦ってて」

 その時のバルト団長の顔、見せたかったぜ。にやりと唇を上げたルジェクは、しかしすぐに痛そうに眉を下げる。

「おっと。喋るのは後にしようぜ」

 サシャと、サシャの後ろに居る馬を見上げたルジェクは、辺りをぐるりと見回して再びにやりと口の端を上げた。

「とりあえず、その鞍の水筒、くれないか」

「え?」

 馬を指差したルジェクに、サシャが戸惑いの声を上げる。

「この馬、僕のじゃ」

「分かってる。狂信者の奴らの馬だろ」

「えっ?」

 ルジェクの回答に、サシャとトールは同時に驚きの声を発した。

「そのマントだって、狂信者が身に着けるヤツだぜ」

 紫のマントが見えたから、最後の力を振り絞って攻撃を仕掛けた。ルジェクの小さな笑い声に、はたと納得する。紫は、夏炉かろの色。北辺ほくへんの図書室で読んだ地理書の内容を思い出す。西洋で紫色を出すためには、ある種の貝が分泌する粘液をたくさん集める必要があったと、これは大学図書館に置いてあった染色の本に書かれていた。紫を出すのは大変だから、大抵は茜と藍を混ぜて紫を作っていたとも。サシャが羽織っているマントも、赤と青の糸と経糸と緯糸にして織り、紫を表しているものなのだろう。そのマントがあると言うことは、ここは、……夏炉? それならば、木々の乾いた感じも理解できる。地理書の内容を脳裏に思い浮かべ、トールは小さく頷いた。

「その馬、おそらく、俺を殴った奴らの、だな」

 帝華ていかの森の探索が終わったら、夏炉に行ってもらう。夏の森でのヴィリバルトの言葉を思い出す。夏炉で、狂信者達の動向を目立たず探る。それが、ヴィリバルトから命じられたルジェクの任務。だが、大体の動向を探り、帝華に戻る時になって、狂信者達に黒竜こくりゅう騎士団の一員であることがばれてしまった。

「で、逃げようとしたんだけど、追いつかれてボコられた、ってわけ」

 あくまで軽いルジェクの言葉に、サシャが俯く。

「あ、そうそう。弓も、外して持ってきてくれ」

 しかしすぐにルジェクに頷いたサシャは、馬の鞍から水筒と弓を外してルジェクに渡した。

「この葡萄酒、だいぶん水で薄めてるな」

 さすが、俺を見つけて殴り倒したのは良いが、手綱を木の幹に縛り付けるのを忘れて馬を逃がしてしまう奴らの持ち物。そんな文句を言いつつ水筒の中身を飲み干したルジェクが、笑ったまま、木々の向こうにある薄い色の岩を指差す。

「あそこに、その馬を連れて行って」

 再びルジェクに頷いたサシャは、トールを拾い上げてから馬の手綱を小さく引いた。

 ルジェクは、一体、何を考えているのだろう? トールが首を傾げている間に、サシャは馬をルジェクが指示した、サシャの腰ほどの高さがある岩の横へと導く。馬の横腹を優しく撫で、「待っててね」と声をかけると、サシャはトールを抱き締めたまま手綱を放し、ルジェクの許へ駆け戻った。

「次は俺を運んでくれ」

 サシャを待つ間に弓に弦を張り、何とか立ち上がったルジェクが、サシャの肩に寄りかかる。ルジェクは小柄だが、それでもサシャよりは背が高い。サシャは、大丈夫か? 不意に強くなった木々の揺れに、びくりと背中が震える。ここで、ルジェクに怪我をさせた奴らが現れたら? 荒くなった自分の息遣いに、トールはどうにか首を横に振った。今は、焦らないことが、大事。

 トールの心配をよそに、サシャは意外にしっかりと、馬が待つ岩の横までルジェクを支え歩いた。

「サシャ、もうちょっと支えてくれ」

 岩まで辿り着いたルジェクが、サシャの肩に力を込める。

 岩の上に登ったルジェクは、サシャに鞍から矢筒を外させると、鞍の端を掴んで馬にまたがった。

「武器は、これで大丈夫だな」

 サシャが渡した矢筒を腰に装備したルジェクが、サシャを手招きする。

「乗れるか、サシャ?」

 この馬の鞍には、鐙が無い。そのことに、初めて気付く。サシャは、馬に乗ったことがあるのだろうか? 心配するトールを腕に抱いたまま、サシャは身軽に岩に登り、トールを持つ腕をルジェクの腰に回すようにしてルジェクの後ろに腰を落ち着けた。

「祈祷書は俺が持っておくから、マントの裾、腰に結んで」

 ルジェクの腹に押しつけられる格好になったトールを、ルジェクの熱い手が掴む。平気そうな顔をしているが、怪我はかなり酷そうだ。血の気が失せている気がするルジェクの頬を見上げ、トールは首を横に振った。大丈夫だ。まだ、サシャを害するものはここにはいない。

「できたか?」

「はい」

 小さな声と共に、トールの表紙が、再びサシャの細い腕に覆われる。

「よし!」

 次の瞬間。トールの視界は、激烈な揺れに襲われた。
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