78 / 351
第二章 湖を臨む都
2.36 冬空に、置いて行かれて
しおりを挟む
柔星祭の、次の日。
その日、サシャは、普段以上にしっかりとマントとフードを装備して、手伝いのために寄宿していた『星読み』の館を出た。
〈どこへ、行くんだ?〉
行き先を聞いていないトールは、戸惑いながらも、黙ってサシャを見守る。
マントの隙間から見える景色は、白一色。その白の中を、サシャは、時折足を滑らせながら歩いて行く。しばらくサシャの様子を見守っていてようやく、トールはサシャの目的地に気付いた。
〈まさか。でも、……何故?〉
寒さで凍った河を渡り、細かい雪が木々を染める森を歩いて辿り着いたのは、『扉』が刻まれた、件の崖。その、やはり白く染まった半開きの扉の絵の奥、洞窟になっている暗い場所にその細い身を滑り込ませたサシャは、マントの下からトールを取り出し、ちょっとした椅子のようになっている岩の上におもむろにトールを置いた。
「……」
唇を震わせたサシャが、トールを見下ろして首を横に振る。
〈……?〉
泣きそうなサシャの表情に脳裏が疑問符でいっぱいになったトールの眼前で、サシャは決意したように踵を返し、そして足早にトールの前から去って行った。
後に残ったのは、洞窟の暗がりと、僅かな隙間から見える白のみ。
〈え……?〉
戸惑いしか、出てこない。
サシャの行動の理由が分からない。
吹雪が来始めているのだろう、トールの眼前で舞い始めた粉雪に、トールは正直途方に暮れていた。
そのまま、段々と白から黒へと変わっていく光景を、動けないままに眺める。
音は、全く無い。地面を叩く氷の音も、空を劈く雷の音も、聞こえない。トールの世界の、あの煩い雪とは、全く違う。雪を溶かした泥混じりの融水を傍若無人に歩道にまき散らして走る車の列が、トールの視界を通り過ぎる。ここに置き去りにされたまま、一人淋しく消えてしまうのだろうか。目の端を過ぎる黒い服の人々が、トールの所為で泣いている人々の影が、トールの前身を強く揺さぶる。寒さの所為か段々と薄れていく意識の中、トールの全身は震えに震えていた。
その時。
「トール!」
吹雪の白の中から、サシャの白い髪が現れる。
「ごめんなさい! でも、やっぱり」
叫ぶようにトールを抱き締めたサシャの、細かい雪に濡れた袖に、トールはほっと息を吐いた。サシャがトールを抱き締めている。そのことが、嬉しい。
だが。
[サシャ]
洞窟のような遺跡から外に出ようとしたサシャを、制する。
薄暗くなった空からは、風のような雪が間断無く降り注いでいる。視界も、良くない。このような状況では、迷子になるのは必至。一晩だけなら、この遺跡に留まるのも悪くない。トールがそう提案する前に、洞窟の遺跡から一歩出たサシャは、吹きだまりらしい雪山に足を取られ、白い地面に突っ伏した。
[サシャ!]
トールを抱き締め続けるサシャの、身体の冷たさと弱っていく胸の鼓動を確かめる。おそらく、寒いのに外にいた所為で凍えてしまったのだろう。トールとサシャの上に積もっていく柔らかい雪を、トールは恨めしげに睨んだ。しかし、ただの『本』であるトールに、サシャを助ける術は無い。悔しい。冷たいサシャの腕の中で、トールは唇を噛みしめた。
その時。
[……あれ、は?]
先程までトールが居た、崖に穿たれた洞窟型の遺跡から出てきた大柄な影に、はっと身構える。あの影には、……見覚えがある。トールがその人の名前を思い出す前に、色素の薄い瞳が、トールの目の前に現れた。この人、は。……かつてサシャに岩塩をくれた、そして雨の日に森で足を滑らせたサシャを助けてくれた、『冬の国』のタトゥ!
「……」
何故、遺跡から『冬の国』の人間が? 驚きで頭がいっぱいになったトールの横で、落ち着いた様子のタトゥが身動き一つしないサシャの様子を確かめる。そしておもむろに、タトゥはサシャとトールをその太い腕で雪の中から抱き上げた。
そしてそのまま、目印の無い雪道を歩き始める。どこを見ても白い景色。その中を迷うことなく平然と進むタトゥの腕は、ほっとするほど温かい。サシャは、大丈夫。根拠も無くそう思い、トールは胸を撫で下ろした。
そのトールの視界に、灰色に塗り潰された壁が映る。北都の、城壁? トールが首を傾げる前に、城壁の一部が開き、見知った顔がトールの目の前に現れた。
「サシャ!」
カジミールの、声だ。薄れゆく意識の中で、それだけを確かめる。確か、北都の城壁には、『星読み』達が都の外にある観測所に向かうために設えられた『星読み』専用の出入り口がある。ここは、その出入り口。
カジミールの腕の中に移されたサシャの細い腕の中で、息を吐く。
顔を上げた時には、まだ開いていた扉の向こうに、タトゥの姿は、無かった。
その日、サシャは、普段以上にしっかりとマントとフードを装備して、手伝いのために寄宿していた『星読み』の館を出た。
〈どこへ、行くんだ?〉
行き先を聞いていないトールは、戸惑いながらも、黙ってサシャを見守る。
マントの隙間から見える景色は、白一色。その白の中を、サシャは、時折足を滑らせながら歩いて行く。しばらくサシャの様子を見守っていてようやく、トールはサシャの目的地に気付いた。
〈まさか。でも、……何故?〉
寒さで凍った河を渡り、細かい雪が木々を染める森を歩いて辿り着いたのは、『扉』が刻まれた、件の崖。その、やはり白く染まった半開きの扉の絵の奥、洞窟になっている暗い場所にその細い身を滑り込ませたサシャは、マントの下からトールを取り出し、ちょっとした椅子のようになっている岩の上におもむろにトールを置いた。
「……」
唇を震わせたサシャが、トールを見下ろして首を横に振る。
〈……?〉
泣きそうなサシャの表情に脳裏が疑問符でいっぱいになったトールの眼前で、サシャは決意したように踵を返し、そして足早にトールの前から去って行った。
後に残ったのは、洞窟の暗がりと、僅かな隙間から見える白のみ。
〈え……?〉
戸惑いしか、出てこない。
サシャの行動の理由が分からない。
吹雪が来始めているのだろう、トールの眼前で舞い始めた粉雪に、トールは正直途方に暮れていた。
そのまま、段々と白から黒へと変わっていく光景を、動けないままに眺める。
音は、全く無い。地面を叩く氷の音も、空を劈く雷の音も、聞こえない。トールの世界の、あの煩い雪とは、全く違う。雪を溶かした泥混じりの融水を傍若無人に歩道にまき散らして走る車の列が、トールの視界を通り過ぎる。ここに置き去りにされたまま、一人淋しく消えてしまうのだろうか。目の端を過ぎる黒い服の人々が、トールの所為で泣いている人々の影が、トールの前身を強く揺さぶる。寒さの所為か段々と薄れていく意識の中、トールの全身は震えに震えていた。
その時。
「トール!」
吹雪の白の中から、サシャの白い髪が現れる。
「ごめんなさい! でも、やっぱり」
叫ぶようにトールを抱き締めたサシャの、細かい雪に濡れた袖に、トールはほっと息を吐いた。サシャがトールを抱き締めている。そのことが、嬉しい。
だが。
[サシャ]
洞窟のような遺跡から外に出ようとしたサシャを、制する。
薄暗くなった空からは、風のような雪が間断無く降り注いでいる。視界も、良くない。このような状況では、迷子になるのは必至。一晩だけなら、この遺跡に留まるのも悪くない。トールがそう提案する前に、洞窟の遺跡から一歩出たサシャは、吹きだまりらしい雪山に足を取られ、白い地面に突っ伏した。
[サシャ!]
トールを抱き締め続けるサシャの、身体の冷たさと弱っていく胸の鼓動を確かめる。おそらく、寒いのに外にいた所為で凍えてしまったのだろう。トールとサシャの上に積もっていく柔らかい雪を、トールは恨めしげに睨んだ。しかし、ただの『本』であるトールに、サシャを助ける術は無い。悔しい。冷たいサシャの腕の中で、トールは唇を噛みしめた。
その時。
[……あれ、は?]
先程までトールが居た、崖に穿たれた洞窟型の遺跡から出てきた大柄な影に、はっと身構える。あの影には、……見覚えがある。トールがその人の名前を思い出す前に、色素の薄い瞳が、トールの目の前に現れた。この人、は。……かつてサシャに岩塩をくれた、そして雨の日に森で足を滑らせたサシャを助けてくれた、『冬の国』のタトゥ!
「……」
何故、遺跡から『冬の国』の人間が? 驚きで頭がいっぱいになったトールの横で、落ち着いた様子のタトゥが身動き一つしないサシャの様子を確かめる。そしておもむろに、タトゥはサシャとトールをその太い腕で雪の中から抱き上げた。
そしてそのまま、目印の無い雪道を歩き始める。どこを見ても白い景色。その中を迷うことなく平然と進むタトゥの腕は、ほっとするほど温かい。サシャは、大丈夫。根拠も無くそう思い、トールは胸を撫で下ろした。
そのトールの視界に、灰色に塗り潰された壁が映る。北都の、城壁? トールが首を傾げる前に、城壁の一部が開き、見知った顔がトールの目の前に現れた。
「サシャ!」
カジミールの、声だ。薄れゆく意識の中で、それだけを確かめる。確か、北都の城壁には、『星読み』達が都の外にある観測所に向かうために設えられた『星読み』専用の出入り口がある。ここは、その出入り口。
カジミールの腕の中に移されたサシャの細い腕の中で、息を吐く。
顔を上げた時には、まだ開いていた扉の向こうに、タトゥの姿は、無かった。
0
お気に入りに追加
14
あなたにおすすめの小説
初夜に「君を愛するつもりはない」と夫から言われた妻のその後
澤谷弥(さわたに わたる)
ファンタジー
結婚式の日の夜。夫のイアンは妻のケイトに向かって「お前を愛するつもりはない」と言い放つ。
ケイトは知っていた。イアンには他に好きな女性がいるのだ。この結婚は家のため。そうわかっていたはずなのに――。
※短いお話です。
※恋愛要素が薄いのでファンタジーです。おまけ程度です。
【完結】悪役令嬢に転生したけど、王太子妃にならない方が幸せじゃない?
みちこ
ファンタジー
12歳の時に前世の記憶を思い出し、自分が悪役令嬢なのに気が付いた主人公。
ずっと王太子に片思いしていて、将来は王太子妃になることしか頭になかった主人公だけど、前世の記憶を思い出したことで、王太子の何が良かったのか疑問に思うようになる
色々としがらみがある王太子妃になるより、このまま公爵家の娘として暮らす方が幸せだと気が付く
愛していました。待っていました。でもさようなら。
彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。
やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。
【完結】あなたに知られたくなかった
ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。
5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。
そんなセレナに起きた奇跡とは?
悪役令嬢は大好きな絵を描いていたら大変な事になった件について!
naturalsoft
ファンタジー
『※タイトル変更するかも知れません』
シオン・バーニングハート公爵令嬢は、婚約破棄され辺境へと追放される。
そして失意の中、悲壮感漂う雰囲気で馬車で向かって─
「うふふ、計画通りですわ♪」
いなかった。
これは悪役令嬢として目覚めた転生少女が無駄に能天気で、好きな絵を描いていたら周囲がとんでもない事になっていったファンタジー(コメディ)小説である!
最初は幼少期から始まります。婚約破棄は後からの話になります。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
【完結】王子は聖女と結婚するらしい。私が聖女であることは一生知らないままで
雪野原よる
恋愛
「聖女と結婚するんだ」──私の婚約者だった王子は、そう言って私を追い払った。でも、その「聖女」、私のことなのだけど。
※王国は滅びます。
結婚しても別居して私は楽しくくらしたいので、どうぞ好きな女性を作ってください
シンさん
ファンタジー
サナス伯爵の娘、ニーナは隣国のアルデーテ王国の王太子との婚約が決まる。
国に行ったはいいけど、王都から程遠い別邸に放置され、1度も会いに来る事はない。
溺愛する女性がいるとの噂も!
それって最高!好きでもない男の子供をつくらなくていいかもしれないし。
それに私は、最初から別居して楽しく暮らしたかったんだから!
そんな別居願望たっぷりの伯爵令嬢と王子の恋愛ストーリー
最後まで書きあがっていますので、随時更新します。
表紙はエブリスタでBeeさんに描いて頂きました!綺麗なイラストが沢山ございます。リンク貼らせていただきました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる