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第二章 湖を臨む都

2.13 疫病の町で

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 ようやく動けるようになったサシャが、殊更ゆっくりとした動作で酒場の外に出る。

 傾きかけた夏の陽は、それでも強い。その強さに目が慣れると、北都ほくとの北側にある貴族街や北都の外に出ようとする人々でごった返す道が見えた。

[サシャ]

 この北都に、こんなに人が居たとは。我先にと人を押し退けて走る人々の鬼のような形相に再び身体が固まってしまったサシャを確かめ、言葉を並べる。

[とにかく、都の外へ行こう]

「しゅ、修道院、戻れる、かな?」

 立ち竦んだままのサシャの目の前で、逃げる人々に押された人の影が勢いを付けて倒れ込む。

「おい! ここで倒れるなよ!」

 サシャの横から響いた酒場の主人の罵声と、下衣を濡らして身動き一つしない倒れた人物に、震えが走る。とにかく、サシャを北都から脱出させないと。人々でごった返す道を、トールは冷静になるよう自分を叱咤しながら観察した。少しだけ待っていれば、下町から貴族街へと向かう人々の群れは途切れそうだ。都の外に出る道は混んでいそうだから、サシャが寄宿する修道院まで戻ることは無理かもしれない。だが、学生街の端に位置する図書館まで戻ることさえできれば、事務長ヘラルドが、騒ぎが収まるまでサシャを保護してくれる可能性は大。

[とにかく、図書館まで……]

「サシャ!」

 トールの思考は、しかし、不意にサシャに飛びついてきた小さな影に遮られる。

「助けてくれ! サシャ!」

「どうしたの?」

 普段とは全く異なった、顔全体を涙と汗でぐちゃぐちゃにしたクリスの濃い色の髪を、サシャは落ち着かせるように優しく撫でた。

「か、母ちゃんと、弟のバジルが、急に、倒れて」

 やっぱり。切羽詰まったクリスの言葉に、息を吐く。

「お、お医者さん、下町にいないし、ど、どうすれば」

「アラン師匠に……」

[サシャ]

 サシャならば言うであろうと思った台詞を、トールは小さな声で止めた。

[クリスに、二人が下痢してないか、聞いてみて]

 サシャの目の前で倒れている人も、少し向こうで唸り声を上げている人々も、皆、汚物で下衣を濡らしている。かつて読んだ本に書いてあったことを、思い出す。この『疫病』は、おそらく。

[あと、二人が、クリスとは違うものを口に入れているかどうかも]

「あ、うん」

 小さな声で頷いたサシャが、クリスの方を向く。

「クリスは、お腹、下してない?」

「えっ?」

 サシャの言葉に、クリスは戸惑いながら頷いた。

「クリスの母上は、クリスと違うものを食べたり飲んだりしてる?」

「ううん、同じもの、……あ」

 次の質問で、クリスの表情が変わる。

「母ちゃん、下町の広場の中にある井戸の水が冷たくて良い、って、いつも汲みに行ってる。俺は、北都の外の船着き場の側にある井戸の水の方が好きなんだけど」

[それだ!]

 読んだ本に書いてあったことと、ぴったりと重なる。おそらく、下町の広場の中にある井戸の水が、今回の、下痢を伴う疫病の、原因。

 原因は、分かった。サシャのエプロンのポケットの中でほっと息を吐く。次は、原因となる井戸の利用を止めることと、疫病を発症した人の治療。どちらも、権限のある大人の協力が、不可欠。

「あ!」

 丁度良く、アラン師匠の恰幅の良い影が、視界に入る。

 北都に棲み着いて日が浅いにも拘わらず、アランは医師として北都の人々の信頼を勝ち得ている。アランなら、疾病の原因になっていない水と、病人に食べさせる粥を作るための穀物と塩を多量に調達できる。クリスが言っていた井戸が本当に疾病の原因であるかどうか、調査した結果をきちんと示せば、井戸の利用を止めるように下町の人を説得する力も、アラン師匠にはある。大丈夫だ。サシャの方へと走ってくるアラン師匠の影に胸を撫で下ろしたサシャを確かめ、トールもほっと息を吐いた。
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