上 下
36 / 36
小話

死の家の記憶

しおりを挟む
 物分かりがよすぎたのかもしれない、と思うことがある。
 なにぶん育った環境が悪い。泣き喚いても怒り狂ってもどうにもならないことを嫌というほどよく知っている。

 5歳の晴澄はるすみも本能的に理解していたのだろう。亡くなった母を前にして、まるで表情を変えなかった。悲しみの声をあげることもなければ、虚ろな瞳に疑問が浮かぶこともない。すべてを理解した上で、花に囲まれた死に顔をじっと見つめていた。
 充分な食事を摂っていないことがわかる痩せた手を握り、飛鳥あすかが小さな決意を固めたのは、もう20年以上前のことだ。

「晴澄、手貸して」
「はい」

 簡潔な返事とともに振り返った晴澄は、仕事の手伝いではなく自身の手そのものを求められていることを察し、思いきり眉間にしわを寄せてみせた。
 それでも飛鳥が腕を伸ばしたままでいると、渋々その手を差し出してくる。できた義弟おとうとだ。

 中学生で成長期が終わってしまった飛鳥と比べると、晴澄の手は遥かに大きい。関節は太く、分厚い皮膚が筋肉質な手首に繋がっている。ちょっとやそっとでは傷つきそうにない、生命力に溢れた手だった。

「立派になったなあ……」
「はあ……」

 晴澄は依然として怪訝そうだが、飛鳥には込み上げるものがある。
 記憶の中の折れそうな指とは似ても似つかない。これならもう心配はいらないだろう。チャンスも夢も、欲するものは自分で掴み取れる。

 義弟が兄貴気取りを煙たがっていることに気付かないほど、飛鳥も愚鈍ではない。だがあのとき、彼に身内としての愛情を注ぐ人間がいないとわかって、自分がそうなろうと思ったのだ。飛鳥もまた、唯一の肉親である母が多忙で孤独だったから、寂しさを持て余していたのかもしれない。
 呆れでも苛立ちでも、自分が近くにいることで晴澄の感情が動くならそれでよかった。海を漂うクラゲのようなあの父親とは別のものになってほしかったのだ。

 しかし──そろそろ、飛鳥もお役御免なのかもしれない。

「浮気かハル」
「……違う」

 最近の義弟は、見違えるほどに表情豊かだった。
 突然聞こえたからかいの声にこめかみを引き攣らせ、晴澄は飛鳥の手を振り払う。

「では、生涯おれ一筋ということだな。それならそれでよし」
「ちが……大体、当たり前のように会社に来るな」

 どうやって侵入してきているかはいまいちわからないが、よく顔を出す晴澄の恋人は自由奔放で、怒っていたと思えば次の瞬間には笑っている、嵐のような青年だ。勘が鋭く、彼のおかげで厄介な問題が解決したことも一度や二度ではない。
 首を突っ込みすぎなのだと晴澄は不本意そうにしているが、飛鳥は裏表のない彼をとても気に入っていた。

 趣味のいい香水は春の木漏れ日を思わせる。晴澄に足りないものを補い、その影を優しく照らしてくれるのが、ヴェスナという存在に違いなかった。
 飛鳥が、なれなかったものである。

「いつもありがとうね、ヴェスナくん」
「ん? ああ、構わん」

 唇の動きが無音で続く。過保護な兄だな、と。
 飛鳥の真意を見透かしているのはたぶん、この青年だけだ。

 しかめっ面をしている晴澄の眉間をつつきながら、ヴェスナはおおらかに笑ってみせるのだった。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

「…俺の大好きな恋人が、最近クラスメイトの一人とすげぇ仲が良いんだけど…」『クラスメイトシリーズ番外編1』

そらも
BL
こちらの作品は『「??…クラスメイトのイケメンが、何故かオレの部活のジャージでオナニーしてるんだが…???」』のサッカー部万年補欠の地味メン藤枝いつぐ(ふじえだいつぐ)くんと、彼に何故かゾッコンな学年一の不良系イケメン矢代疾風(やしろはやて)くんが無事にくっつきめでたく恋人同士になったその後のなぜなにスクールラブ話になります♪ タイトル通り、ラブラブなはずの大好きないつぐくんと最近仲が良い人がいて、疾風くんが一人(遼太郎くんともっちーを巻き込んで)やきもきするお話です。 ※ R-18エロもので、♡(ハート)喘ぎ満載です。ですがエッチシーンは最後らへんまでないので、どうかご了承くださいませ。 ※ 素敵な表紙は、pixiv小説用フリー素材にて、『やまなし』様からお借りしました。ありがとうございます!(ちなみに表紙には『地味メンくんとイケメンくんのあれこれ、1』と書いてあります♪) ※ 2020/03/29 無事、番外編完結いたしました! ここまで長々とお付き合いくださり本当に感謝感謝であります♪

【完結】遍く、歪んだ花たちに。

古都まとい
BL
職場の部下 和泉周(いずみしゅう)は、はっきり言って根暗でオタクっぽい。目にかかる長い前髪に、覇気のない視線を隠す黒縁眼鏡。仕事ぶりは可もなく不可もなく。そう、凡人の中の凡人である。 和泉の直属の上司である村谷(むらや)はある日、ひょんなことから繁華街のホストクラブへと連れて行かれてしまう。そこで出会ったNo.1ホスト天音(あまね)には、どこか和泉の面影があって――。 「先輩、僕のこと何も知っちゃいないくせに」 No.1ホスト部下×堅物上司の現代BL。

好色サラリーマンは外国人社長のビックサンを咥えてしゃぶって吸って搾りつくす

ルルオカ
BL
大手との契約が切られそうでピンチな工場。 新しく就任した外国人社長と交渉すべく、なぜか事務員の俺がついれていかれて「ビッチなサラリーマン」として駆け引きを・・・? BL短編集「好色サラリーマン」のおまけの小説です。R18。 元の小説は電子書籍で販売中。 詳細を知れるブログのリンクは↓にあります。

えっちな美形男子〇校生が出会い系ではじめてあった男の人に疑似孕ませっくすされて雌墜ちしてしまう回

朝井染両
BL
タイトルのままです。 男子高校生(16)が欲望のまま大学生と偽り、出会い系に登録してそのまま疑似孕ませっくるする話です。 続き御座います。 『ぞくぞく!えっち祭り』という短編集の二番目に載せてありますので、よろしければそちらもどうぞ。 本作はガバガバスター制度をとっております。別作品と同じ名前の登場人物がおりますが、別人としてお楽しみ下さい。 前回は様々な人に読んで頂けて驚きました。稚拙な文ではありますが、感想、次のシチュのリクエストなど頂けると嬉しいです。

潜入した僕、専属メイドとしてラブラブセックスしまくる話

ずー子
BL
敵陣にスパイ潜入した美少年がそのままボスに気に入られて女装でラブラブセックスしまくる話です。冒頭とエピローグだけ載せました。 悪のイケオジ×スパイ美少年。魔王×勇者がお好きな方は多分好きだと思います。女装シーン書くのとっても楽しかったです。可愛い男の娘、最強。 本編気になる方はPixivのページをチェックしてみてくださいませ! https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=21381209

潜入捜査でマフィアのドンの愛人になったのに、正体バレて溺愛監禁された話

あかさたな!
BL
潜入捜査官のユウジは マフィアのボスの愛人まで潜入していた。 だがある日、それがボスにバレて、 執着監禁されちゃって、 幸せになっちゃう話 少し歪んだ愛だが、ルカという歳下に メロメロに溺愛されちゃう。 そんなハッピー寄りなティーストです! ▶︎潜入捜査とかスパイとか設定がかなりゆるふわですが、 雰囲気だけ楽しんでいただけると幸いです! _____ ▶︎タイトルそのうち変えます 2022/05/16変更! 拘束(仮題名)→ 潜入捜査でマフィアのドンの愛人になったのに、正体バレて溺愛監禁された話 ▶︎毎日18時更新頑張ります!一万字前後のお話に収める予定です 2022/05/24の更新は1日お休みします。すみません。   ▶︎▶︎r18表現が含まれます※ ◀︎◀︎ _____

眠れぬ夜の召喚先は王子のベッドの中でした……抱き枕の俺は、今日も彼に愛されてます。

櫻坂 真紀
BL
眠れぬ夜、突然眩しい光に吸い込まれた俺。 次に目を開けたら、そこは誰かのベッドの上で……っていうか、男の腕の中!? 俺を抱き締めていた彼は、この国の王子だと名乗る。 そんな彼の願いは……俺に、夜の相手をして欲しい、というもので──? 【全10話で完結です。R18のお話には※を付けてます。】

こっそりバウムクーヘンエンド小説を投稿したら相手に見つかって押し倒されてた件

神崎 ルナ
BL
バウムクーヘンエンド――片想いの相手の結婚式に招待されて引き出物のバウムクーヘンを手に失恋に浸るという、所謂アンハッピーエンド。 僕の幼なじみは天然が入ったぽんやりしたタイプでずっと目が離せなかった。 だけどその笑顔を見ていると自然と僕も口角が上がり。 子供の頃に勢いに任せて『光くん、好きっ!!』と言ってしまったのは黒歴史だが、そのすぐ後に白詰草の指輪を持って来て『うん、およめさんになってね』と来たのは反則だろう。   ぽやぽやした光のことだから、きっとよく意味が分かってなかったに違いない。 指輪も、僕の左手の中指に収めていたし。 あれから10年近く。 ずっと仲が良い幼なじみの範疇に留まる僕たちの関係は決して崩してはならない。 だけど想いを隠すのは苦しくて――。 こっそりとある小説サイトに想いを吐露してそれで何とか未練を断ち切ろうと思った。 なのにどうして――。 『ねぇ、この小説って海斗が書いたんだよね?』 えっ!?どうしてバレたっ!?というより何故この僕が押し倒されてるんだっ!?(※注 サブ垢にて公開済みの『バウムクーヘンエンド』をご覧になるとより一層楽しめるかもしれません)

処理中です...