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7話 若き葬儀屋の悩み
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風花が現れたからといって、私の意識や生活が瞬時に変化したわけではない。
ただ彼女の存在は無色の毎日をほんの少し彩ってくれた。それだけのことが、私にとってはありがたかった。
生まれつき体が弱くほとんど学校にも通えていないことは、あとで本人に聞いた。
サンズフラワーとは付き合いが深いのに同年代の娘がいるのを知らずにいたのは、そういう事情があるからのようだった。
「主の御許に召されれば、すべての苦痛から解き放たれる。何も心配することはないわ」
彼女のために作られた小さな温室で、風花はまじないのようにそう唱えては微笑んでみせた。信仰の篤さゆえだろうか、線の細い外見に反し、その声はどんなときも力強く感じられた。
死を恐れない彼女と、生に執着しない私。
葬儀屋に生まれた私は特定の宗教に帰依しておらず、常に自身の死と隣りあわせである彼女に共感できるわけもなかったのだが、彼女の考え方は好ましかった。
はじめは、最期の訪れを静かに待っているだけの、破滅的な関係だったかもしれない。
しんしんと降る雪のように、ふたりきりで過ごす時間が積もっていき、やがて大人になった私たちは気がついた。
ふたりの目に映る景色が、わずかに変わっていることに。
その話を切り出したのは風花だった。
彼女はいつもどおりにアネモネの手入れをしながら、厳かに唇を動かした。
「広澄さん、わたしね。いつ天に召されても構わないつもりでいたけど、その前に叶えたいことができてしまって。
協力してくれる?」
私は黙って頷いた。
彼女の要求はいくつか予想できていたが、それ以外の何が来たとしても、全身全霊で応えようと思っていた。
「子どもがほしいの」
──とはいえさすがにこれは想定外で、しばらく言葉を失ってしまった。
「そう、なんですか」
間の抜けた相槌だけを返し、私はその場に立ち尽くす。
私の反応を待っている様子の風花だったが、ややあって痺れを切らしたように、しかめっ面で前髪をいじってみせた。
「ほかのひとにこんなことはお願いしないわ。あなただから言ってるのよ」
「……僕の子どもがほしい?」
「あなたとわたしの、子どもがほしい。あなたはほしくない?」
私は人生で初めて、胸の高鳴りというものを知った。
結婚に反対する者はいなかった。錠野の家は言わずもがな賛成で、天道の父母は近いうちに訪れるであろう別れを危惧していたようだが、最終的には娘の数少ない望みを優先した。
結果、祝福を受けた私たちは、奇跡的に健康な男の子をもうけることができた。彼女が私の名前から一文字取りたいと主張したので、晴澄と名付けた。
けれど私たちは充分に息子を愛することができなかった。
出産が原因だったのか、お腹の子を守ろうとする想いだけがこれまでの彼女を支えていたのかはわからない。
ほどなくして、風花はベッドから起き上がれなくなったのだ。
覚悟していたことだ。信徒である彼女が長く待ち望んでいたことでもある。お迎えが来れば、刺すような胸の痛みや心を蝕む苦しみから解放され、永遠の安らぎを得られるのだから。
「大丈夫、何も心配することはないわ。何も怖くない、何も……」
風花もいつもどおりに繰り返していた──最期の一度を除いては。
花に囲まれた病室。乾いた唇を震わせ、弱々しい声で、彼女は祈るように呟いた。
「──何もかも嘘。死にたくない」
私は涙に濡れた手で、彼女の冷たい頬を拭った。
葬儀は教会で執り行われた。
彼女が愛したアネモネの花で棺を埋めて、私が天へと送り出した。
◆ ◆ ◆
久しぶりの帰郷だ。父は挨拶回りに忙しく、あまり会社には顔を出さなかった。翌日も、翌々日も。
ヴェスナも退屈そうではあったが、律儀に言いつけを守っており、職場付近で目撃されることはなかった。
このまま何も起こらず時が過ぎ、用事を終えた父は何も知らずに東京へ戻るのだろう。晴澄も普段の生活に戻れるのだと、そんな油断をしはじめていた。
当然、油断などするべきではなかった。
1週間の終わりのことである。
宿直の飛鳥が、出社するなり神妙な様子で受話器を持ち上げた。
「親父、今日のお通夜が終わったら家に戻れるか? 話があってさ──うん、晴澄から」
誰からと言ったか。
事務処理をしていた晴澄が顔を上げると、電話を切った飛鳥もこちらを見つめていた。熱のこもった、隠しきれない喜びに煌めく眼差しで。
「ヴェスナくん、家で待ちたいって言うから、とりあえずお前さんの部屋に通しておいたよ。あ、実家の部屋な。お袋がたまに掃除してくれてるから綺麗だぜ」
「は……?」
「秘密にしつづけるもんだと思ってたからびっくりしたけど……話せるんならそりゃそのほうがいいもんなあ」
うんうんとひとり頷き、晴澄の頭に手を置く。
「大丈夫大丈夫、案外うまくいくって」
「やめてください」
思わず邪険にしてしまった晴澄だったが、緊張していると思ったのだろう、飛鳥には苦笑されるだけだった。
そう、八つ当たりだ。飛鳥は悪くない。
悪いのは例によってあの男なのだ。
いや──“開く者”の悪魔っぷりを嫌というほど知っているはずなのに、詰めの甘い自分が悪いのか。
「……会社には来るなと言ったが……」
実家に行くな、とは言わなかったのだ。
宇宙の瞳を爛々と輝かせるヴェスナの顔が脳裏に浮かび、晴澄は拳をデスクに打ちつけた。
ただ彼女の存在は無色の毎日をほんの少し彩ってくれた。それだけのことが、私にとってはありがたかった。
生まれつき体が弱くほとんど学校にも通えていないことは、あとで本人に聞いた。
サンズフラワーとは付き合いが深いのに同年代の娘がいるのを知らずにいたのは、そういう事情があるからのようだった。
「主の御許に召されれば、すべての苦痛から解き放たれる。何も心配することはないわ」
彼女のために作られた小さな温室で、風花はまじないのようにそう唱えては微笑んでみせた。信仰の篤さゆえだろうか、線の細い外見に反し、その声はどんなときも力強く感じられた。
死を恐れない彼女と、生に執着しない私。
葬儀屋に生まれた私は特定の宗教に帰依しておらず、常に自身の死と隣りあわせである彼女に共感できるわけもなかったのだが、彼女の考え方は好ましかった。
はじめは、最期の訪れを静かに待っているだけの、破滅的な関係だったかもしれない。
しんしんと降る雪のように、ふたりきりで過ごす時間が積もっていき、やがて大人になった私たちは気がついた。
ふたりの目に映る景色が、わずかに変わっていることに。
その話を切り出したのは風花だった。
彼女はいつもどおりにアネモネの手入れをしながら、厳かに唇を動かした。
「広澄さん、わたしね。いつ天に召されても構わないつもりでいたけど、その前に叶えたいことができてしまって。
協力してくれる?」
私は黙って頷いた。
彼女の要求はいくつか予想できていたが、それ以外の何が来たとしても、全身全霊で応えようと思っていた。
「子どもがほしいの」
──とはいえさすがにこれは想定外で、しばらく言葉を失ってしまった。
「そう、なんですか」
間の抜けた相槌だけを返し、私はその場に立ち尽くす。
私の反応を待っている様子の風花だったが、ややあって痺れを切らしたように、しかめっ面で前髪をいじってみせた。
「ほかのひとにこんなことはお願いしないわ。あなただから言ってるのよ」
「……僕の子どもがほしい?」
「あなたとわたしの、子どもがほしい。あなたはほしくない?」
私は人生で初めて、胸の高鳴りというものを知った。
結婚に反対する者はいなかった。錠野の家は言わずもがな賛成で、天道の父母は近いうちに訪れるであろう別れを危惧していたようだが、最終的には娘の数少ない望みを優先した。
結果、祝福を受けた私たちは、奇跡的に健康な男の子をもうけることができた。彼女が私の名前から一文字取りたいと主張したので、晴澄と名付けた。
けれど私たちは充分に息子を愛することができなかった。
出産が原因だったのか、お腹の子を守ろうとする想いだけがこれまでの彼女を支えていたのかはわからない。
ほどなくして、風花はベッドから起き上がれなくなったのだ。
覚悟していたことだ。信徒である彼女が長く待ち望んでいたことでもある。お迎えが来れば、刺すような胸の痛みや心を蝕む苦しみから解放され、永遠の安らぎを得られるのだから。
「大丈夫、何も心配することはないわ。何も怖くない、何も……」
風花もいつもどおりに繰り返していた──最期の一度を除いては。
花に囲まれた病室。乾いた唇を震わせ、弱々しい声で、彼女は祈るように呟いた。
「──何もかも嘘。死にたくない」
私は涙に濡れた手で、彼女の冷たい頬を拭った。
葬儀は教会で執り行われた。
彼女が愛したアネモネの花で棺を埋めて、私が天へと送り出した。
◆ ◆ ◆
久しぶりの帰郷だ。父は挨拶回りに忙しく、あまり会社には顔を出さなかった。翌日も、翌々日も。
ヴェスナも退屈そうではあったが、律儀に言いつけを守っており、職場付近で目撃されることはなかった。
このまま何も起こらず時が過ぎ、用事を終えた父は何も知らずに東京へ戻るのだろう。晴澄も普段の生活に戻れるのだと、そんな油断をしはじめていた。
当然、油断などするべきではなかった。
1週間の終わりのことである。
宿直の飛鳥が、出社するなり神妙な様子で受話器を持ち上げた。
「親父、今日のお通夜が終わったら家に戻れるか? 話があってさ──うん、晴澄から」
誰からと言ったか。
事務処理をしていた晴澄が顔を上げると、電話を切った飛鳥もこちらを見つめていた。熱のこもった、隠しきれない喜びに煌めく眼差しで。
「ヴェスナくん、家で待ちたいって言うから、とりあえずお前さんの部屋に通しておいたよ。あ、実家の部屋な。お袋がたまに掃除してくれてるから綺麗だぜ」
「は……?」
「秘密にしつづけるもんだと思ってたからびっくりしたけど……話せるんならそりゃそのほうがいいもんなあ」
うんうんとひとり頷き、晴澄の頭に手を置く。
「大丈夫大丈夫、案外うまくいくって」
「やめてください」
思わず邪険にしてしまった晴澄だったが、緊張していると思ったのだろう、飛鳥には苦笑されるだけだった。
そう、八つ当たりだ。飛鳥は悪くない。
悪いのは例によってあの男なのだ。
いや──“開く者”の悪魔っぷりを嫌というほど知っているはずなのに、詰めの甘い自分が悪いのか。
「……会社には来るなと言ったが……」
実家に行くな、とは言わなかったのだ。
宇宙の瞳を爛々と輝かせるヴェスナの顔が脳裏に浮かび、晴澄は拳をデスクに打ちつけた。
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