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3話 誰にも向かない職業
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仕事を終えて帰宅するも、取り戻した家の鍵に出番はなかった。
外側へ引く力にすんなりと従ったドアは、無人の部屋に吹いているはずのない寒風で晴澄を迎えうつ。どういうことだ。エアコンが誤作動を起こしている、のならまだいいのだが。
自分の靴が並んでいるだけの玄関で革靴を脱ぎ、おそるおそる中に入れば、何が問題なのかは一目瞭然だった。
翼のようにはためくカーテン。窓は網戸も含めて全開で、近くに見覚えのあるブーツが転がっている。
「ここから……出入りを……?」
だがあの目立つ金色の気配は感じられなかった。
──否、考えてはいけない。無視するのだ。
年長者のアドバイスに則り、とりあえず無言で窓を閉め、暖房をつける。
コートとジャケットをクローゼットに突っこみ、朝から散らかったままの服を拾いはじめると、どこからか足音と淡い芳香が近づいてきて、視界に白い素足が映りこんだ。
長く形のいい指先は珊瑚色。磨きあげられた丸い爪。
「帰ってきたか。遅かったな」
──無視だ。無視しなければ。
しかし彼はポタポタ雫を落とし、フローリングに次々と水溜まりを生み出している。天井から床まで凍りついたこの空間で、青年の纏っている空気だけがほのかにあたたかだった。なお、空気以外は何も纏っていない。
信じられないし、信じたくもないが、風呂に入っていたのだろう。家主の許可も得ず。
無視──は、容易ではなかった。すでに不可能である。今すぐ出ていけと叫びたくなる、眩暈を催す衝動。とはいえ出ていかせる前に状況説明をさせなければならないし、それなら彼は服を着るべきで、ならば先に髪と体をきちんと拭いてほしいのだが、まずは──
「……座れ」
こうなっては怒声も出てこないのであった。
その場に座らせてバスタオルで水気を払ってやり、適当な寝間着を頭から被せることに成功して、晴澄は腹の底から溜息をつく。
問題の男は他人事のようにくすくす笑い、濡れて色濃くなった金髪を揺らした。
「笑うな」
「これが笑わずにいられるか。いやはや、かわいいなあ、おまえ」
「ッ、……」
油断も隙もありはしない。一瞬のうちに床に押し倒されていた。似合わないトレーナーや安物のシャンプーでは塗り潰せない肌の香りに包まれ、心臓が痛いくらいに音を立てる。
覚悟が甘かった。抗しがたいこの熱を、獣欲にも似た昂りを、見て見ぬふりができるほど晴澄は人間が出来ていない。あるいは、その欠陥が自身を人間たらしめているのかもしれないが。
腕を伸ばし、改めて青年の髪に触れてみる。指も掌もしっかりと仔猫のような感触に沈んで、これが幻覚ではないことを伝えてくる。後頭部から背中へ、背中から腰へ辿ってみても、あるのは完璧な人間の骨格だけで、角や羽、尻尾などは見当たらない。
額にかかった吐息に、こちらを見つめる紫眼が爛々と輝いているのに気がついて、晴澄は体を起こすと同時にその身を押しのけた。今のは最低限必要な観察であって、断じて愛撫ではない。昨夜の自分と同じ轍を踏むのは御免だった。
「ふふ、随分と情緒不安定な人間だな。よく考えるがいい。今おれを遠ざければ昨日のセックスがなかったことになるのか?」
「……」
「金銭を要求されているわけでも、罪に問われるわけでもない。そしておれは美しく、体の相性も……覚えていないならもう一度味わえ、悪くなかった。拒む理由がどこにある」
「見ず知らずの男というだけならともかく……人かどうかもわからないものを抱く趣味はない」
「なぜ人かどうかもわからないと?」
「なぜ教えてもいない店や会社の場所を知っていた?」
そんなことかと言わんばかりに、彼は右の眉を上げてみせる。
「おまえの財布の中にあった店のレシートを見ただけだ。会社のことは店主から聞いた。以上だ」
思いのほか現実的な解答だった。拍子抜けはしたが、それで納得できるわけではない。
再度跨がろうと腰を浮かせた彼を今度は制して、擦り膝で後退する。
「好きに出ていけと言ったんだから、出ていけばよかっただろう。なぜわざわざ世話を焼くような真似をした」
「好きに出ていけと言ったからだ。出ていくも出ていかないもおれの自由だろう?」
手玉に取るように自分の発言を繰り返され、いよいよ頭痛が激しくなる。願いの不十分さに付け入られ、真逆の結果に行き着くなんて、子どもを脅すお伽噺のようだ。
「……知らぬ間に悪魔と契約してしまったわけか」
「あえて訂正しておくなら、悪魔とではない。おれは“開く者”だ」
「……?」
「人かどうかもわからない、という点においては、おまえは正しいのさ。まあ人間などと同次元の存在だと思われるのも業腹だが」
気付けば壁際に追いつめられていた。鍵穴を探り当てるように、やわらかな手が左胸を這う。逃げ場のない晴澄の唇に自身のそれを軽く触れさせ、口づけを交わすような格好で男は言葉を紡いでいく。
「すべての閉ざされたものを“開く”おれを前にして、おまえはその心を開かなかった。ゆえに、おれはおまえに挑まなければならない。首を傾げて放置するより、真相を究明するほうがずっと有意義で楽しかろう?」
「何を、……馬鹿なことを……」
悪魔でなかったから解決、なんて単純な話ではない。あるいはもっとたちが悪かった。正体不明の人ならざるものと関係を断ち切る方法を、一体誰が知っているというのだ。
唾を呑む。開いたままの瞳孔に吸い寄せられていく。まるで蛇に睨まれた蛙だ。舌先での味見を思わせる手つきで頬を撫でられても身動きが取れない。
「人間──と呼び続けるのも、ここに至っては不自然か。おまえ、名前は?」
「……錠野晴澄」
問いに導かれて名を唱える、これこそ真に契約の儀ではないのだろうか。
長いな、という小さなぼやきのあと、見た目よりも力強い指が顎を掴んだとき、晴澄は不可視の首輪を引っ張られたかのように青年の足元に跪いていた。
「ではハルよ、ここに誓おう。おれはおまえの傍を離れない──おまえが心を“開く”まで、な」
外側へ引く力にすんなりと従ったドアは、無人の部屋に吹いているはずのない寒風で晴澄を迎えうつ。どういうことだ。エアコンが誤作動を起こしている、のならまだいいのだが。
自分の靴が並んでいるだけの玄関で革靴を脱ぎ、おそるおそる中に入れば、何が問題なのかは一目瞭然だった。
翼のようにはためくカーテン。窓は網戸も含めて全開で、近くに見覚えのあるブーツが転がっている。
「ここから……出入りを……?」
だがあの目立つ金色の気配は感じられなかった。
──否、考えてはいけない。無視するのだ。
年長者のアドバイスに則り、とりあえず無言で窓を閉め、暖房をつける。
コートとジャケットをクローゼットに突っこみ、朝から散らかったままの服を拾いはじめると、どこからか足音と淡い芳香が近づいてきて、視界に白い素足が映りこんだ。
長く形のいい指先は珊瑚色。磨きあげられた丸い爪。
「帰ってきたか。遅かったな」
──無視だ。無視しなければ。
しかし彼はポタポタ雫を落とし、フローリングに次々と水溜まりを生み出している。天井から床まで凍りついたこの空間で、青年の纏っている空気だけがほのかにあたたかだった。なお、空気以外は何も纏っていない。
信じられないし、信じたくもないが、風呂に入っていたのだろう。家主の許可も得ず。
無視──は、容易ではなかった。すでに不可能である。今すぐ出ていけと叫びたくなる、眩暈を催す衝動。とはいえ出ていかせる前に状況説明をさせなければならないし、それなら彼は服を着るべきで、ならば先に髪と体をきちんと拭いてほしいのだが、まずは──
「……座れ」
こうなっては怒声も出てこないのであった。
その場に座らせてバスタオルで水気を払ってやり、適当な寝間着を頭から被せることに成功して、晴澄は腹の底から溜息をつく。
問題の男は他人事のようにくすくす笑い、濡れて色濃くなった金髪を揺らした。
「笑うな」
「これが笑わずにいられるか。いやはや、かわいいなあ、おまえ」
「ッ、……」
油断も隙もありはしない。一瞬のうちに床に押し倒されていた。似合わないトレーナーや安物のシャンプーでは塗り潰せない肌の香りに包まれ、心臓が痛いくらいに音を立てる。
覚悟が甘かった。抗しがたいこの熱を、獣欲にも似た昂りを、見て見ぬふりができるほど晴澄は人間が出来ていない。あるいは、その欠陥が自身を人間たらしめているのかもしれないが。
腕を伸ばし、改めて青年の髪に触れてみる。指も掌もしっかりと仔猫のような感触に沈んで、これが幻覚ではないことを伝えてくる。後頭部から背中へ、背中から腰へ辿ってみても、あるのは完璧な人間の骨格だけで、角や羽、尻尾などは見当たらない。
額にかかった吐息に、こちらを見つめる紫眼が爛々と輝いているのに気がついて、晴澄は体を起こすと同時にその身を押しのけた。今のは最低限必要な観察であって、断じて愛撫ではない。昨夜の自分と同じ轍を踏むのは御免だった。
「ふふ、随分と情緒不安定な人間だな。よく考えるがいい。今おれを遠ざければ昨日のセックスがなかったことになるのか?」
「……」
「金銭を要求されているわけでも、罪に問われるわけでもない。そしておれは美しく、体の相性も……覚えていないならもう一度味わえ、悪くなかった。拒む理由がどこにある」
「見ず知らずの男というだけならともかく……人かどうかもわからないものを抱く趣味はない」
「なぜ人かどうかもわからないと?」
「なぜ教えてもいない店や会社の場所を知っていた?」
そんなことかと言わんばかりに、彼は右の眉を上げてみせる。
「おまえの財布の中にあった店のレシートを見ただけだ。会社のことは店主から聞いた。以上だ」
思いのほか現実的な解答だった。拍子抜けはしたが、それで納得できるわけではない。
再度跨がろうと腰を浮かせた彼を今度は制して、擦り膝で後退する。
「好きに出ていけと言ったんだから、出ていけばよかっただろう。なぜわざわざ世話を焼くような真似をした」
「好きに出ていけと言ったからだ。出ていくも出ていかないもおれの自由だろう?」
手玉に取るように自分の発言を繰り返され、いよいよ頭痛が激しくなる。願いの不十分さに付け入られ、真逆の結果に行き着くなんて、子どもを脅すお伽噺のようだ。
「……知らぬ間に悪魔と契約してしまったわけか」
「あえて訂正しておくなら、悪魔とではない。おれは“開く者”だ」
「……?」
「人かどうかもわからない、という点においては、おまえは正しいのさ。まあ人間などと同次元の存在だと思われるのも業腹だが」
気付けば壁際に追いつめられていた。鍵穴を探り当てるように、やわらかな手が左胸を這う。逃げ場のない晴澄の唇に自身のそれを軽く触れさせ、口づけを交わすような格好で男は言葉を紡いでいく。
「すべての閉ざされたものを“開く”おれを前にして、おまえはその心を開かなかった。ゆえに、おれはおまえに挑まなければならない。首を傾げて放置するより、真相を究明するほうがずっと有意義で楽しかろう?」
「何を、……馬鹿なことを……」
悪魔でなかったから解決、なんて単純な話ではない。あるいはもっとたちが悪かった。正体不明の人ならざるものと関係を断ち切る方法を、一体誰が知っているというのだ。
唾を呑む。開いたままの瞳孔に吸い寄せられていく。まるで蛇に睨まれた蛙だ。舌先での味見を思わせる手つきで頬を撫でられても身動きが取れない。
「人間──と呼び続けるのも、ここに至っては不自然か。おまえ、名前は?」
「……錠野晴澄」
問いに導かれて名を唱える、これこそ真に契約の儀ではないのだろうか。
長いな、という小さなぼやきのあと、見た目よりも力強い指が顎を掴んだとき、晴澄は不可視の首輪を引っ張られたかのように青年の足元に跪いていた。
「ではハルよ、ここに誓おう。おれはおまえの傍を離れない──おまえが心を“開く”まで、な」
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