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3話 誰にも向かない職業
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摩訶不思議な事象を経験しようと、死にたくなるような馬鹿をやらかそうと、地球が平気な顔で回り続けることは職業柄よく知っている。
昨日は自分が死ななかったというだけだ。
どこかの誰かの死の報せが、今日も錠野葬祭には舞いこんでくる。
「──どうしましょう、もう出ちゃいます?」
「うん……とりあえず僕と平坂くんでいいかね。ただ出る前に一旦連絡……って、来た!」
「おはようございます晴澄さん! 初めてじゃないですか、こんな遅刻寸前の出勤」
「雪すげえし、通勤中に何かあったんじゃって電話するとこだったのよ。大丈夫か?」
出迎えてくれた先輩と後輩の笑顔に背筋がひやりとする。彼らを余計な問題に巻きこむことはギリギリ避けられたようだ。
スマホはバーに置き去りである。電話をかけられても、今の晴澄に応える手段はなかった。
「すみません。寝坊した上に、道が走りにくくて」
「ほんとにそれだけかー? 通夜みてえに暗い面してまあ」
「生まれてから通夜がなかった日のほうが少ないので……そんなことより、お迎えの依頼があったのでは?」
職務より優先されるべき事情など晴澄にはない。ハンガーラックにコートをかけながら、あえて頑なな声色で撥ねつければ、飛鳥は肩を竦めて充電器からタブレットを外した。
「中央病院。お迎え行って、そのまま打ち合わせ済ませてくるわ。あ、平坂くん、先に下りてチェーン巻いといてくれる?」
「了解です。そのまま前に車回しますね」
「はーいよろしく。晴澄、お前さんは留守番……ってか冗談抜きで、体調悪いなら休んでいいんだぜ?」
彼は面倒見がいい。じきに30といっても5歳年下に当たる晴澄は庇護対象に数えられている。その提案は皮肉でも何でもなく、様子のおかしい後輩を心から気遣ってのものだ。
ゆえに、いたたまれなかった。
飛鳥が気遣ってくれているのは、しょうもないことで泥酔して見知らぬ青年の体に溺れてしまったまあまあ最低の男なのだ。
「……ありがとうございます。でも、何ともありませんから」
「そっか。無理はすんなよ」
昨晩の醜態は墓場まで持っていくしかない。
脳裏をよぎる邪悪な天使の笑みを掻き消すべく頭を振ると、かえって頭痛が酷くなった。
冬場の除雪作業も、葬儀屋の重要な仕事のひとつだ。
特に葬儀場は老若男女が動きづらい服装で訪れる場所であり、搬入物も慎重に運びこむ必要があるものばかりだ。歩きやすさは担保しなければならなかった。
会社の周りは寝台車だけでも通れるよう最低限の雪かきが終わっていたが、朝も早く、通行人が少ないために未だ雪深い。晴澄は電話番を事務員に任せ、靴を履きかえて通りへ出た。格好はスーツのままだが、着替えは常備してあるので構うまい。今は思考停止できる単純作業に没頭したかった。
ここは雪国ではなく、除雪を要する積雪など年に1度あるかないかだ。雪に往生する機会はかぎられているが、物心ついた頃から実家の手伝いをしてきた晴澄はスノーダンプの扱いに長けていた。
しかし、その晴澄でさえ10分もすれば足腰への負担に溜息が出るのだ。雪かきは体力勝負。駐車場を挟んで隣、老夫婦が営む和菓子屋にはあとで声をかけたほうがいいだろう。
溶けはじめて重くなった雪を脇に寄せ、埋もれていた歩道を徐々に露出させる。遣り場のない自己嫌悪を原動力に、黙々と道を広げていく。
肌が火照る。まるで水底に沈められたかのように街は静まりかえり、ザッザッと雪を削る音のほかは、荒くなった自分の息遣いしか聞こえない。
──共鳴するように。嬌声混じりのあえかな呼吸が、頭の中に響いた。
「……っ」
手つかずの新雪に幻視するのは白い肢体。
覚えてこそいないが確かに存在した、昨夜の情景。
『このおれと目くるめく朝を迎えておいて、言うに事欠いて最悪だ?』
「……」
さすがに、もう家を出ただろうか。
彼が苦言を呈したとおり、今朝のやりとりは契りの夜が明けた直後に交わすものとしては不適切だった。いかな運命を感じたとしても、対応があれでは気持ちは醒めよう。
見限って正解、それが互いのためだと思案を断ち切ろうとしたところで、世界の静寂は音もなく乱される。
誰もが道を譲る華美な気配。他に類を見ないそれは、いつのまにか晴澄の背後に迫っていた。
「う……」
「つくづく失礼極まりない男よな。こっちは絶世の美青年だぞ、少しは歓迎しろ」
無理だ、何の用だ、自分で言うか。
いくつかの反発は、なぜここに彼が現れたのかという驚愕に掻き消される。
すらりとした体に纏っているのは数少ない晴澄の私服だ。骨格の違いと没個性な色形から彼にはちっとも似合っていないが、手足の長さゆえに袖や裾は余っていない。
手元には古ぼけたビジネスバッグ。これも当然のように晴澄のもの、というか。
「……昨日忘れてきた……」
「ん、ああ。おまえの荷物だ。店のマスターも持て余していたぞ」
胸に押しつけられ、その重みを受けとめつつも1歩後退する。本当に自分のものなのかと中を検めるどころではない。
昨夜の晴澄が、朦朧としながら鞄を置き去りにしたことを彼に話していてもおかしくはない。だとしても、店の所在まで詳しく伝えたりするだろうか。それにこの錠野葬祭はどうやって突きとめたのか。
凍てつく風と何もかもを見透かすような眼差しに、汗を掻いた肌が粟立つ。
「怯えた顔もそそりはするがな。おれがおまえに何をした? ん? おれをベッドに連れこんだのも、おれに足を開かせたのも、ほかならぬおまえ自身だろう。おれは何もしていない」
まあ止めもしなかったが──と唇の触れそうな距離で、青年は嫣然と微笑んでみせる。
「……鞄に関しては礼を言う」
完成された美しさと対峙して、ようやく口にできた一言がそれだった。
引き下げた足は新雪にはまってしまった。もはや逃げることはできないと、覚悟を決めて会話に臨む。
「だが……そっちが何を求めているのかがわからない。見返りがほしいのか、ただの当てつけか、からかいたいだけか……」
「心外だな。純粋な興味だとも。何なら好意と言いかえてもいい」
「……昨夜のことが影響してるなら、悪いが忘れてくれないか。互いの名前も聞かずに関係を持つのは、その……道理に反していた」
「ふん。人の道など知ったことか」
近付く唇は頬を掠め、耳元に寄せられた。摘みたての花に蝋を垂らしたような、淡くも甘い香りが心臓を引っ掻く。
「ヴェスナだ。名が必要ならそう呼ぶといい、人間」
するりと喉を撫で下ろされ、息が詰まった。
悪戯っぽく上がる眉のもと、金の睫毛は微動だにしない。
思えばこの男──出会ってから今の今まで、一度も瞬きをしていないような。
姿形こそ完璧な人間だが、星雲渦巻く紫の眼は異界への門を思わせる。まるで天使だと、昨晩とち狂った感想を抱いたのは、あながち間違いではなかったのか。
問うべきはこの際、名前などではなく。
「ん。電話だぞ」
「え、」
何事もなかったかのように現実に引きもどさないでほしい。
鞄から伝わる振動に、こちらも反射でスマホを取り出してしまって、そこにあったはずの緊張感は瓦解する。
『──すみ? 今いい?』
「はい……」
着信は飛鳥から。出先で何かあったのだろう。
スマホを耳に当てつつ鞄を抱えなおし、体勢を整えたときには──謎の男は煙のように消失していた。
「……」
『晴澄? もしもーし』
「あ……すみません。聞こえてます」
白昼夢でないことを示すブーツの跡を爪先でならしつつ、晴澄は意識を無理矢理飛鳥の声に向けた。
『故人さまが教会所属の方でさ。担当、頼んでも大丈夫か?』
昨日は自分が死ななかったというだけだ。
どこかの誰かの死の報せが、今日も錠野葬祭には舞いこんでくる。
「──どうしましょう、もう出ちゃいます?」
「うん……とりあえず僕と平坂くんでいいかね。ただ出る前に一旦連絡……って、来た!」
「おはようございます晴澄さん! 初めてじゃないですか、こんな遅刻寸前の出勤」
「雪すげえし、通勤中に何かあったんじゃって電話するとこだったのよ。大丈夫か?」
出迎えてくれた先輩と後輩の笑顔に背筋がひやりとする。彼らを余計な問題に巻きこむことはギリギリ避けられたようだ。
スマホはバーに置き去りである。電話をかけられても、今の晴澄に応える手段はなかった。
「すみません。寝坊した上に、道が走りにくくて」
「ほんとにそれだけかー? 通夜みてえに暗い面してまあ」
「生まれてから通夜がなかった日のほうが少ないので……そんなことより、お迎えの依頼があったのでは?」
職務より優先されるべき事情など晴澄にはない。ハンガーラックにコートをかけながら、あえて頑なな声色で撥ねつければ、飛鳥は肩を竦めて充電器からタブレットを外した。
「中央病院。お迎え行って、そのまま打ち合わせ済ませてくるわ。あ、平坂くん、先に下りてチェーン巻いといてくれる?」
「了解です。そのまま前に車回しますね」
「はーいよろしく。晴澄、お前さんは留守番……ってか冗談抜きで、体調悪いなら休んでいいんだぜ?」
彼は面倒見がいい。じきに30といっても5歳年下に当たる晴澄は庇護対象に数えられている。その提案は皮肉でも何でもなく、様子のおかしい後輩を心から気遣ってのものだ。
ゆえに、いたたまれなかった。
飛鳥が気遣ってくれているのは、しょうもないことで泥酔して見知らぬ青年の体に溺れてしまったまあまあ最低の男なのだ。
「……ありがとうございます。でも、何ともありませんから」
「そっか。無理はすんなよ」
昨晩の醜態は墓場まで持っていくしかない。
脳裏をよぎる邪悪な天使の笑みを掻き消すべく頭を振ると、かえって頭痛が酷くなった。
冬場の除雪作業も、葬儀屋の重要な仕事のひとつだ。
特に葬儀場は老若男女が動きづらい服装で訪れる場所であり、搬入物も慎重に運びこむ必要があるものばかりだ。歩きやすさは担保しなければならなかった。
会社の周りは寝台車だけでも通れるよう最低限の雪かきが終わっていたが、朝も早く、通行人が少ないために未だ雪深い。晴澄は電話番を事務員に任せ、靴を履きかえて通りへ出た。格好はスーツのままだが、着替えは常備してあるので構うまい。今は思考停止できる単純作業に没頭したかった。
ここは雪国ではなく、除雪を要する積雪など年に1度あるかないかだ。雪に往生する機会はかぎられているが、物心ついた頃から実家の手伝いをしてきた晴澄はスノーダンプの扱いに長けていた。
しかし、その晴澄でさえ10分もすれば足腰への負担に溜息が出るのだ。雪かきは体力勝負。駐車場を挟んで隣、老夫婦が営む和菓子屋にはあとで声をかけたほうがいいだろう。
溶けはじめて重くなった雪を脇に寄せ、埋もれていた歩道を徐々に露出させる。遣り場のない自己嫌悪を原動力に、黙々と道を広げていく。
肌が火照る。まるで水底に沈められたかのように街は静まりかえり、ザッザッと雪を削る音のほかは、荒くなった自分の息遣いしか聞こえない。
──共鳴するように。嬌声混じりのあえかな呼吸が、頭の中に響いた。
「……っ」
手つかずの新雪に幻視するのは白い肢体。
覚えてこそいないが確かに存在した、昨夜の情景。
『このおれと目くるめく朝を迎えておいて、言うに事欠いて最悪だ?』
「……」
さすがに、もう家を出ただろうか。
彼が苦言を呈したとおり、今朝のやりとりは契りの夜が明けた直後に交わすものとしては不適切だった。いかな運命を感じたとしても、対応があれでは気持ちは醒めよう。
見限って正解、それが互いのためだと思案を断ち切ろうとしたところで、世界の静寂は音もなく乱される。
誰もが道を譲る華美な気配。他に類を見ないそれは、いつのまにか晴澄の背後に迫っていた。
「う……」
「つくづく失礼極まりない男よな。こっちは絶世の美青年だぞ、少しは歓迎しろ」
無理だ、何の用だ、自分で言うか。
いくつかの反発は、なぜここに彼が現れたのかという驚愕に掻き消される。
すらりとした体に纏っているのは数少ない晴澄の私服だ。骨格の違いと没個性な色形から彼にはちっとも似合っていないが、手足の長さゆえに袖や裾は余っていない。
手元には古ぼけたビジネスバッグ。これも当然のように晴澄のもの、というか。
「……昨日忘れてきた……」
「ん、ああ。おまえの荷物だ。店のマスターも持て余していたぞ」
胸に押しつけられ、その重みを受けとめつつも1歩後退する。本当に自分のものなのかと中を検めるどころではない。
昨夜の晴澄が、朦朧としながら鞄を置き去りにしたことを彼に話していてもおかしくはない。だとしても、店の所在まで詳しく伝えたりするだろうか。それにこの錠野葬祭はどうやって突きとめたのか。
凍てつく風と何もかもを見透かすような眼差しに、汗を掻いた肌が粟立つ。
「怯えた顔もそそりはするがな。おれがおまえに何をした? ん? おれをベッドに連れこんだのも、おれに足を開かせたのも、ほかならぬおまえ自身だろう。おれは何もしていない」
まあ止めもしなかったが──と唇の触れそうな距離で、青年は嫣然と微笑んでみせる。
「……鞄に関しては礼を言う」
完成された美しさと対峙して、ようやく口にできた一言がそれだった。
引き下げた足は新雪にはまってしまった。もはや逃げることはできないと、覚悟を決めて会話に臨む。
「だが……そっちが何を求めているのかがわからない。見返りがほしいのか、ただの当てつけか、からかいたいだけか……」
「心外だな。純粋な興味だとも。何なら好意と言いかえてもいい」
「……昨夜のことが影響してるなら、悪いが忘れてくれないか。互いの名前も聞かずに関係を持つのは、その……道理に反していた」
「ふん。人の道など知ったことか」
近付く唇は頬を掠め、耳元に寄せられた。摘みたての花に蝋を垂らしたような、淡くも甘い香りが心臓を引っ掻く。
「ヴェスナだ。名が必要ならそう呼ぶといい、人間」
するりと喉を撫で下ろされ、息が詰まった。
悪戯っぽく上がる眉のもと、金の睫毛は微動だにしない。
思えばこの男──出会ってから今の今まで、一度も瞬きをしていないような。
姿形こそ完璧な人間だが、星雲渦巻く紫の眼は異界への門を思わせる。まるで天使だと、昨晩とち狂った感想を抱いたのは、あながち間違いではなかったのか。
問うべきはこの際、名前などではなく。
「ん。電話だぞ」
「え、」
何事もなかったかのように現実に引きもどさないでほしい。
鞄から伝わる振動に、こちらも反射でスマホを取り出してしまって、そこにあったはずの緊張感は瓦解する。
『──すみ? 今いい?』
「はい……」
着信は飛鳥から。出先で何かあったのだろう。
スマホを耳に当てつつ鞄を抱えなおし、体勢を整えたときには──謎の男は煙のように消失していた。
「……」
『晴澄? もしもーし』
「あ……すみません。聞こえてます」
白昼夢でないことを示すブーツの跡を爪先でならしつつ、晴澄は意識を無理矢理飛鳥の声に向けた。
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