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3話 誰にも向かない職業

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 死ぬなら冬がいいと、物心ついたときから願っていた。

「……最期の日にはふさわしいか」

 自宅の鍵がない──というのは、夕食の約束をすっぽかされ、猛吹雪に遭い、ようやくアパートに帰り着いたときの発見だった。
 コートのポケット、ジャケットのポケット、ズボンのポケット、どこに手を突っ込んでも空振りだ。鍵がないというより、財布しかないというのが正しいか。酷く酔っていて気付かなかったが、鞄を店に置いてきたらしい。
 理解が追いついたところで取りに戻る気力は湧かず、固く閉ざしたドアに凭れて座りこむ。

 相手が今夜の待ち合わせに応じないことは予想できていた。前回のデートで、夕食を取っただけでどちらの家にも寄らず別れて以降、まともに連絡を取りあっていなかったのだ。

 ──隔週、友引前ともまえの午後7時、行きつけのバーで。互いの惰性から成立していた逢瀬だとしても、半年間続いたのだから長いほうかもしれない。

 新たな関係を築くたび、今度こそ、と夢を見るのだ。けれど夢は夢、いつしか泡のように弾けて、現実の重みを思い知らせる。それは理性を重んじる男に大雪でも醒めぬ量の酒を呷らせ、安っぽい感傷を呟かせる程度には、惨めで息苦しい感覚だった。

 濡れた体の芯が凍えはじめていた。目元と鼻先が引き攣るように痛み、震える唇から立ち上る息で視界が煙る。
 死ぬなら冬がいい。火葬場が混むのは難点だが、腐敗の進行が格段に遅いのは何物にも代えがたい魅力だ。明朝ここで遺体が見つかったとしても、後処理を任せられた人々が吐き気を催すような状態にはなっていないのだから。

 しかし共同廊下に事故死者が出たことでアパートの資産価値は落ちてしまうかもしれない。大家の心労に思いを馳せつつ、親兄弟に先立つ不幸を胸の内で詫び、晴澄はるすみは今にも無意識の海に沈もうとしていた。

「──開けてやったぞ、人間」

 ゆえに高慢極まりないその物言いを、夢うつつで聞き流すところだった。
 明るい雪夜がさらに白む。不思議と懐かしい、けれど嗅いだことのないにおいも重なって、ここが天の国であるような気がした。死後の世界なんて、晴澄が最も信じていないものだというのに。
 判断力が鈍った頭の内側で反響する鐘の音は、本能が鳴らす警鐘だったのかもしれない。

 “彼”は、異様なほどに美しかった。

「どうした。間抜け面を晒していないで早く入るがいい」

 美しかったが、天国から遣わされた者にしては違和感があった。微笑みは悪どく、その歪みが妙に艶っぽい。一般的に天使とは性とは無縁の存在ではなかっただろうか。友引前の習慣からはぐれてしまった孤独さがそう感じさせるのか。すらりとした体躯と血色の透ける肌はともかく、西洋由来と思われる派手な目鼻立ちは別段好みでもないのだが。

 気になることはもうひとつ。
 開くはずのない扉が開いていた。

 その向こうに広がっているのは平生と何ら変わりない玄関で、謎の光に溢れているなんてこともないのだが、そもそもここが開かないから晴澄は死に揺蕩うところだったのだ。

「……開けてやった?」

 聞き間違いでなければ、彼はそう言った。
 ──元々鍵を閉め忘れていたのかもしれない。彼が偶然通りかかったアパートの管理人で、親切にも鍵を開けてくれたと考えるよりは余程現実的だった。

 あるいは。
 何もかもが、死の間際に見る都合のいい夢なのか。

「ふふ。その目、その顔。一夜の遊興で片付けるには惜しい男かもしれんな」

 身動きできずにいる晴澄を吐息で笑い、細身のレザージャケットが似合う“天使”は腕を差し伸べてくる。
 導かれるまま靴を脱ぎ捨てて部屋に入れば、フローリングの冷たさが足の裏に、触れた手のあたたかさが掌に染みた。しなだれかかるぬくもりには敗北するほかなく、立ち尽くすばかりだった体がおもむろに溶かされていく。
 どく、と心臓が高鳴った。

 ──ということは、やはり、この身はまだ生きているらしい。

「さあ、おまえの心を開いてみせろ」

 雪片がとまったままの睫毛。ふたつ並んで煌めくは宇宙の紫紺。その果てと呼ぶべき開ききった瞳孔が示すのは彼の昂りか、それとも夢幻の入口なのか。
 甘やかな肌の香りとやわらかな唇の感触を最後に、記憶は途切れている。





 そして、二度と来ないはずだった朝が訪れた。

「おはよう人間。よくそう飽きもせず眠っていられるな」

 胸の上には、瞳孔の開いた美青年が一糸纏わぬ姿で寝そべっていた。

「……は?」

 記憶は途切れている。しかしこの状況、昨晩何があったかは想像に難くない。咄嗟に手を這わせたところ身体も布団も汚れていないようだったが、情感たっぷりに髪を梳いてくる彼の指遣いがすべてを物語っている。
 下腹の接触を嫌がるそぶりもなく、むしろ煽るように腰を擦りつけられ、晴澄は慌ててベッドを飛び出すことになった。

「つっ……」

 起き抜けに高速回転を強いられた頭が鈍痛を訴える。厄介なことに二日酔いも患っているらしい。同時に物が散乱している床に膝をついたため、皺だらけになった昨日の服と、ゴムの空き袋にも直面してしまう。
 さあっと血の気が引いていった。肝心なことを覚えていなかろうと、これは言い逃れしようがない。すべて酒のせいだ。いや、咎めるべきは自棄になって飲みすぎた愚か者じぶんであって、酒に罪はないのだが。

「……最悪だ……」
「はあ? このおれと目くるめく朝を迎えておいて、言うに事欠いて最悪だ? 傲りの体現者かおまえは」

 どっちが、と毒づきたいのを堪える。居合わせたこの青年にも罪はないはずだ。たぶん。凍死しそうなところを助けてくれたと考えれば命の恩人と呼んでも差し支えないくらいで。おそらく。

 ──彼の容姿は、視界の靄が晴れてなお美しかった。だがこうして目が覚めた以上、天使だ何だというのは昨晩の疲弊が生み出した妄想だったと断言できる。晴澄は間違いなく生きているし、彼も人間の雄の肉体を有して我が物顔でベッドを占領し、不満そうに枕元の置き時計を投げつけてくる。この場合むしろ、まっとうに人間であったほうが色々と問題な気もするが。

 呻吟しつつ床に転がった時計を拾い上げると、時刻は午前7時半──
 午前、7時半。

「仕事」

 声が上擦った。
 いつもなら職場でメールチェックをしている時間だ。アラームがいつ鳴ったのか記憶がない。当然だ、目覚まし代わりのスマホは昨晩飲んだ店に鞄ごと置いてきたのだから。
 しかし自慢ではないが晴澄の眠りは浅い。誰に起こされずともアラームより早く瞼が開くのが常だというのに、ああやはり全部酒が悪いのだ。

 始業は8時、職場まではバイクで5分。吹雪は夜のうちにやんだらしい。積雪で道路は走りづらいだろうが、急げばまだ間に合うはずだ。
 バタバタと身支度を整える晴澄を、青年はあくび半分に眺めている。家主に合わせて家を出ようという発想はないようだ。せめて服を着てほしかったが、これまでの短いやりとりから察するに、彼は他人の指示に易々と従う性格ではない。というか初対面にしては態度が失礼すぎないか、と今更ながらに疑問が頭を擡げる。だが、とにかく今はそんなことにかまけている場合ではなかった。

「すまない、あの……好きに出ていってくれ。全部開けたままでいいから」

 店まで鞄を取りにいかないかぎり施錠はできないが、つましい男の独り暮らしに盗まれて困るものもない。この会話を最後に、名も知らぬ彼との関係がなかったことになるのならば、それはそれで仕方のないことだ。
 状況把握を諦めてコートを取りあげた晴澄に、青年はようやくベッドから足を下ろし、にっと口端を喜色に染めた。

「よかろう。その言葉、忘れるなよ」
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