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2話 供物の花園
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その日の深夜。
「なあハル、借りの件だが」
風呂上がりにベッドに腰かけたとき、晴澄は完全に油断していた。反故にするつもりこそなかったが、橘月の襲撃と厳粛な通夜を挟み、「何でもひとつ言うことを聞く」という口約束は頭からすっぽり抜け落ちていたのだ。
確かに、ベッドの上でどうとかいう話になっていたか。明日は告別式が控えているので手早く片付けたい。膝に跨られ、頬を両手で包まれ、腹を括った晴澄に、しかしヴェスナは静かに命令を下しただけだった。
「気が変わった。あの花を選んだ理由を答えろ」
「は?」
「何だ。アネモネなどという少女趣味の花、本気で好んでいるわけではなかろう?」
首を傾げる彼に首を傾げる。自分で尋ねて答えを得ておいて、得心できないから文句をつけようとでもいうのか。
「理由も何も……咄嗟に思いついたのがアネモネだったんだが……」
「おまえのような葬儀第一の人間が、菊でも百合でもカーネーションでもなくアネモネを?」
「……」
「咄嗟に思いついたのは、それがおまえにとって印象深い花だからだ。何か思い出でもあるのではないか?」
穏やかな口調のはずが、尋問じみた勢いを感じるのはなぜだろう。
瞬きをしない双眸に見下ろされ、意味もなく速まる鼓動に目を逸らす。
アネモネ。春風にもたらされるもの。野を賑やかに色づかせる一方で、内に危険を秘めた有毒の花。そして──
「……母が好んでいた花だ」
「母。というと、花屋から嫁いできた?」
「ああ。病弱な人で……物心つくかつかないかの頃に亡くなったから、顔もろくに覚えていない」
教会に所属していたために実家にも仏壇はない。写真は多少あるはずだが、所在はおそらく父の私室で、そこは晴澄がこれまでもこれからも踏みこむ機会のない場所だ。
──愛情と呼ばれるものを敬遠している晴澄は、家族という繋がりへの苦手意識が強い。ひいては家のことを説明するのも不得意だ。
手短に済ませたいのに、自分の認識だけで語れば簡潔になりすぎて、必ず何かしらの質問を重ねられる。だが仕事以外で家族との関わりを避けてきた晴澄は、それに対する回答を持ちあわせていないことが多かった。他人の橘月のほうが事情に通じている場合もあるくらいだ。
「アネモネが好きだったというのは、いつだったか義母が話していて……それだけだ。好きな花と聞いて、連想できるものがほかになかっただけで」
「おまえ自身に含むところはないと?」
「ない。よく知らないんだからあるわけがない」
「知らないことと覚えていないことは違うだろう」
雑に切りあげようとする晴澄を鼻で笑いつつ、ヴェスナは肌を密着させた。
いつまで経っても馴染まぬ甘やかな感覚が鼻先をくすぐり、胸をざわつかせる。ほのかな蝋と、花の香り。
「……?」
──そういえば。
無臭に近いアネモネも、咲いたばかりの花を寄せ集めれば、こんなふうに香ったような。
眉間に力が入った。だとしても、なぜ晴澄がそれを知っているのか、なぜ彼からそれを感じるのか。納得のいく要素はどこにもなく、思い過ごしだろうと、黙したまま目を瞑る。
「おまえの記憶を紐解きたくはあるが……一気に駒を進めるのは逆効果かもしれんしな。今日のところは勘弁してやろう」
“開く者”は錠に鍵を捩じこむような仕種で、晴澄の左胸に人差し指を突きたてた。爛々と輝く瞳は悦楽を隠さない。苦楽も喜悦もないとあくびをしながらリンドウに触れていたときとは別人のようだった。
同じ開くべき対象でも、「おまえのようなややこしい人間は別格」だったか。
「……ひとりの人間相手にそう悠長にしていていいのか。お前が心を開かなければいけない人間はほかにいくらでもいるだろうに」
「ふむ。たとえば?」
「平坂さんは? 初めて会ったときからずっとお前を警戒している」
客観的に見れば不審者なのだから当然だ。平坂にかぎらず、この高慢で享楽的な男に拒否反応を示す者は少なくないはずなのだ。彼がこうして執着するほどに、晴澄は自分を特異な存在だとは思えずにいた。
「ふふん、まだまだ理解が浅いようだな。意識的に壁を作っている人間はかえって楽なものさ。問題点が明確なのだ、そこを解決してやれば警戒などたちまち追従に変わるとも。
……そういう意味では流れを読み違えたな、おまえとの出会いは。あるいは、それが功を奏したとも言えるか」
1ヶ月前の、猛吹雪の夜のことだ。冷たく閉ざされた扉を前に、身動きを取れずにいた晴澄は、このまま死んでいくのだろうとさえ考えていた。
あまり歓迎できる記憶ではないので、蘇りそうになった光景は頭を横に振って散らしてしまう。
「理解に苦しむ。開くことが存在意義のくせして、開きづらくなったことを歓迎すると?」
「話したろう。易々と開くものには何の感慨も湧かん。ゆえに、一筋縄では開かぬものにこそ胸が高鳴るわけだ。まるで──」
薄暗い空間を照らすのは晴澄のスマホだった。勝手にロックを解除された画面には、夕刻に橘月から送られてきた写真が表示されている。
晴澄を見つめる、ヴェスナの笑顔。その双眸には煌めく星が舞い、写真だというのに酷く鮮やかな光を放っている。そう、まるで──
「恋に浮かれてでもいるように、な」
「……やめてくれ」
直視に耐えない。取り上げたそれを床に放り投げて、苦情を放ちかけた唇を奪う。
冗談でも寒気がした。
晴澄が彼の傍で息をしていられるのは、どうあっても彼が自分を愛しはしないからなのに。
「なあハル、借りの件だが」
風呂上がりにベッドに腰かけたとき、晴澄は完全に油断していた。反故にするつもりこそなかったが、橘月の襲撃と厳粛な通夜を挟み、「何でもひとつ言うことを聞く」という口約束は頭からすっぽり抜け落ちていたのだ。
確かに、ベッドの上でどうとかいう話になっていたか。明日は告別式が控えているので手早く片付けたい。膝に跨られ、頬を両手で包まれ、腹を括った晴澄に、しかしヴェスナは静かに命令を下しただけだった。
「気が変わった。あの花を選んだ理由を答えろ」
「は?」
「何だ。アネモネなどという少女趣味の花、本気で好んでいるわけではなかろう?」
首を傾げる彼に首を傾げる。自分で尋ねて答えを得ておいて、得心できないから文句をつけようとでもいうのか。
「理由も何も……咄嗟に思いついたのがアネモネだったんだが……」
「おまえのような葬儀第一の人間が、菊でも百合でもカーネーションでもなくアネモネを?」
「……」
「咄嗟に思いついたのは、それがおまえにとって印象深い花だからだ。何か思い出でもあるのではないか?」
穏やかな口調のはずが、尋問じみた勢いを感じるのはなぜだろう。
瞬きをしない双眸に見下ろされ、意味もなく速まる鼓動に目を逸らす。
アネモネ。春風にもたらされるもの。野を賑やかに色づかせる一方で、内に危険を秘めた有毒の花。そして──
「……母が好んでいた花だ」
「母。というと、花屋から嫁いできた?」
「ああ。病弱な人で……物心つくかつかないかの頃に亡くなったから、顔もろくに覚えていない」
教会に所属していたために実家にも仏壇はない。写真は多少あるはずだが、所在はおそらく父の私室で、そこは晴澄がこれまでもこれからも踏みこむ機会のない場所だ。
──愛情と呼ばれるものを敬遠している晴澄は、家族という繋がりへの苦手意識が強い。ひいては家のことを説明するのも不得意だ。
手短に済ませたいのに、自分の認識だけで語れば簡潔になりすぎて、必ず何かしらの質問を重ねられる。だが仕事以外で家族との関わりを避けてきた晴澄は、それに対する回答を持ちあわせていないことが多かった。他人の橘月のほうが事情に通じている場合もあるくらいだ。
「アネモネが好きだったというのは、いつだったか義母が話していて……それだけだ。好きな花と聞いて、連想できるものがほかになかっただけで」
「おまえ自身に含むところはないと?」
「ない。よく知らないんだからあるわけがない」
「知らないことと覚えていないことは違うだろう」
雑に切りあげようとする晴澄を鼻で笑いつつ、ヴェスナは肌を密着させた。
いつまで経っても馴染まぬ甘やかな感覚が鼻先をくすぐり、胸をざわつかせる。ほのかな蝋と、花の香り。
「……?」
──そういえば。
無臭に近いアネモネも、咲いたばかりの花を寄せ集めれば、こんなふうに香ったような。
眉間に力が入った。だとしても、なぜ晴澄がそれを知っているのか、なぜ彼からそれを感じるのか。納得のいく要素はどこにもなく、思い過ごしだろうと、黙したまま目を瞑る。
「おまえの記憶を紐解きたくはあるが……一気に駒を進めるのは逆効果かもしれんしな。今日のところは勘弁してやろう」
“開く者”は錠に鍵を捩じこむような仕種で、晴澄の左胸に人差し指を突きたてた。爛々と輝く瞳は悦楽を隠さない。苦楽も喜悦もないとあくびをしながらリンドウに触れていたときとは別人のようだった。
同じ開くべき対象でも、「おまえのようなややこしい人間は別格」だったか。
「……ひとりの人間相手にそう悠長にしていていいのか。お前が心を開かなければいけない人間はほかにいくらでもいるだろうに」
「ふむ。たとえば?」
「平坂さんは? 初めて会ったときからずっとお前を警戒している」
客観的に見れば不審者なのだから当然だ。平坂にかぎらず、この高慢で享楽的な男に拒否反応を示す者は少なくないはずなのだ。彼がこうして執着するほどに、晴澄は自分を特異な存在だとは思えずにいた。
「ふふん、まだまだ理解が浅いようだな。意識的に壁を作っている人間はかえって楽なものさ。問題点が明確なのだ、そこを解決してやれば警戒などたちまち追従に変わるとも。
……そういう意味では流れを読み違えたな、おまえとの出会いは。あるいは、それが功を奏したとも言えるか」
1ヶ月前の、猛吹雪の夜のことだ。冷たく閉ざされた扉を前に、身動きを取れずにいた晴澄は、このまま死んでいくのだろうとさえ考えていた。
あまり歓迎できる記憶ではないので、蘇りそうになった光景は頭を横に振って散らしてしまう。
「理解に苦しむ。開くことが存在意義のくせして、開きづらくなったことを歓迎すると?」
「話したろう。易々と開くものには何の感慨も湧かん。ゆえに、一筋縄では開かぬものにこそ胸が高鳴るわけだ。まるで──」
薄暗い空間を照らすのは晴澄のスマホだった。勝手にロックを解除された画面には、夕刻に橘月から送られてきた写真が表示されている。
晴澄を見つめる、ヴェスナの笑顔。その双眸には煌めく星が舞い、写真だというのに酷く鮮やかな光を放っている。そう、まるで──
「恋に浮かれてでもいるように、な」
「……やめてくれ」
直視に耐えない。取り上げたそれを床に放り投げて、苦情を放ちかけた唇を奪う。
冗談でも寒気がした。
晴澄が彼の傍で息をしていられるのは、どうあっても彼が自分を愛しはしないからなのに。
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