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1話 手首はどこへ消えた?

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「……左手のためのピアノ曲があるのをご存知ですか」

 処置に当たる飛鳥を安置室に残し、鈴富夫人を控え室に案内すると、彼女は声を絞りだすようにして語りはじめた。

「数こそ少ないですけれど、目新しいわけではありません。有名なのはサン=サーンスの練習曲、ラヴェルの協奏曲……ただそれらは、事故や病気によって左手でしか演奏できない人のために作られたものなんです」
「要は、おまえの夫はそういう音楽で食っていたという話だろう? 手指の不自由な依頼人を抱えていたわけではないのか?」

 ついてこなくていいのについてきて上座を占拠しているヴェスナの言葉を受け、夫人はうなだれる。
 彼女は深夜の葬儀社に難なく侵入したこの男を何だと思っているのだろう。断じて錠野葬祭の関係者ではないことを、あとで言い含めておかなければ。

「はい……左利きだった夫の道楽、腕試しでした。その楽曲をいくつかの演奏会で、ほんの軽い気持ちで披露した結果……『左弾きのメサイア』なんて呼ばれることに」

 印象的な異名。鈴富氏について調べた者が必ず記憶に留めるだろうそれは、本人が望んで掴み取ったものではなかったらしい。

「夫の右手は健常です。曲が売れ、出演依頼が増えるに伴い、鈴富のパフォーマンスは誠実さに欠ける売名行為だという批判も広まりはじめました。独善的で信念のない、薄っぺらなピアニストだと。夫は……私たちは、それを否定しきれませんでした。普通の曲では充分な収入を得られず、メサイアの評判を頼りに活動するしかなくなっていたのですから。
 ……あの人の心はゆっくりと蝕まれていきました。やがてピアノにも触れなくなってしまって……ついには、左手を……」

 くずおれて涙する夫人に、ヴェスナは労るような声音で囁く。

「右手を切り落とし、胸を張って『左弾きのメサイア』を名乗る道もあったろうにな」
「誰がそんな火に油を注ぐような道を選ぶんだ」
「ふむ? 世に聞く炎上沙汰というやつか」

 炎上で済めばまだしも、下手をすれば外科から精神科に移送されて二度と出てはこられないだろう。否、それでも棺に閉じこめられるよりはよかったのかもしれないが──
 手首の切断だ。リストカット以上に、生半可な覚悟では実行できない。しかし彼は自らの命とともにメサイアを葬り去った。遺される者の悲しみを、自身の苦しみより低く見積もったのだ。
 晴澄はハンカチを夫人に手渡し、その嗚咽が落ち着いたところで、テーブルに出していた茶を勧める。

「奥さまは……旦那さまのお手を、どちらへお持ちになったのですか」
「家……私たちの家です。あの人、最後にピアノを触ったの、半年以上も前で……ずっとピアノと生きてきたのに、ピアノも左手も本当は大事にしていたのに、こんな死に方じゃ浮かばれないでしょうから……」

 故人を偲んでの行動だったわけか。危惧していたより込み入った事情でなかったことに安堵するも、葬儀屋として忠告はしておかなければならない。

「何事もなく幸いでしたが……職務質問にでも遭っていれば、奥さまが謂れのない罪に問われる可能性もございました。ご遺体の血液には感染症リスクも潜んでおります。ご自宅に帰られたら消毒を徹底なさってください」
「は、はい……ご迷惑をおかけしました……」
「それから──」

 にやつくヴェスナの顔がうるさい。同居人に接客中の姿を観察されることほど嫌なことはなかった。だが仕事は仕事であり、晴澄には顧客の要望に応える義務がある。

「お別れの会場に、旦那さまのピアノを搬入することも可能ですが」
「えっ……」

 腫れあがった瞼を見開き、夫人は絶句した。

「お、大きいですよ……? ただでさえデリケートな楽器ですし、取り扱いには注意いただかないといけなくて……」
「アンティークのガラス壺をお運びしたこともございます。運搬用トラックも腕のいいスタッフもご用意できますので、ご安心いただければと」

 あくまで葬家のための提案であり、押しつけがましくなってはいけない。晴澄がそれ以上言葉を連ねないことで短くはない沈黙が流れたが、夫人はやがて初めての、ひび割れた微笑を見せるのだった。

「……最初から手首じゃなくてピアノを持っていくべきだったのね。本当に馬鹿なことをしました……。
 それならきっと、あの人の気持ちも晴れますよね。空の向こうで……今度こそ、純粋にピアノを楽しめますよね?」
「もちろんです、奥さま」

 笑顔のぎこちなさは隠せないので、晴澄が笑い返すことはない。だがこんな人間でも、真摯に生者と向きあってさえいれば、表面的には卒なくやっていけるものである。

「──心にもないことを」

 傍観者の冷笑は、夫人が鼻をかむ音と重なって彼女には聞こえなかっただろう。
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