みちのくニーベルング 奥州黄金奇譚

夢売吉次

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序章

「千代の過客」⑦

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 ボトリ、と芭蕉の首が落ちて転がる。
 蜂屋は青き空を見上げていた。
 誰が好んで人の命を奪うものか。誰が望んで鬼になるものか。
 だが言い訳などするまい。たとえ1000年の汚名をかぶろうとも。
 案ずるな奥州の民よ。我ら騒速が最後の鬼となる。
 蜂屋は罪を犯した右手を掲げて天に誓った。
 手甲の隠し刃は太陽を照り返してギラリと光る。
 その切っ先に、血は付いていない。
「……」
 足元にあった芭蕉の首が消えていた。
 緩んだ気がグワリと張る。
 蜂屋は首のない芭蕉の体に、手を伸ばした。
 手はスルリと芭蕉を突き抜ける。
「ほう」
 芭蕉だったモノは崩れるように霧散した。
「幻術か」
 抜かった。いつから術にかかっていたというのだ。
 ──コーン。
 どこかで杖を突く音が聞こえる。
 あれの音で術中に引き込まれていたのか。
 眉間にシワを深める蜂屋の顔を、湿った空気が撫でていく。
 視界が白みがかり、先が見通せないほどの濃霧が、辺りを包んだ。
「どこだ芭蕉!」
 霧の塊がゆっくりと人の形に変わる。ひとつ、二つ、三つ、四つ。
 蜂屋を囲むように霧から何体もの芭蕉が現れた。
「忍術など二度と使わぬつもりでいたのだが」
 霧の芭蕉は形を留めず、現れては崩れて、またどこかに現れる。芭蕉の声は霧の中で反響し、居場所を掴むこともできない。
 松尾芭蕉はれっきとした伊賀のしのびであったか。
「ただの俳諧師と侮っていた非礼を詫びよう」
 蜂屋は手近な芭蕉を斬り裂く。手応えはなく、霧はすぐに塊となって再び芭蕉が現れる。
「これほどの術を持つ者がなぜ俳諧師などで身をやつしている」
「仕えていたあるじを失い、足を洗ったまでのこと」
 これはまるで、噂に聞いた霧隠きりがくれではないか。伊賀に伝わる奥義ではないのか。
 松尾芭蕉、いったい何者なのだ?
 蜂屋は左手の手甲からも刃を出し、四方を警戒した。
「伊賀の抜け忍は死ぬ定めであろう」
「そんなおきてがあったのも昔の話だ」
 強い組織は強い信頼関係によって作られる。
 仲間のためなら命も捨てる。忍者の結束は、血より濃い絆が成り立たせてきた。
 それは仲間を捨てた裏切り者に死を与える、血の掟でもある。
 死を免れても手や足を失う。目を潰される。伊賀には例外がなく、抜け忍には必ず死の制裁が科せられた。
 だがそれも間者かんじゃ働きが盛んだった戦国時代の話である。泰平の世の中で多くの忍者は職を失い、次第に掟は廃れていったようだ。
「なあ蜂屋殿。退いてくれぬか。ワシらが争う必要はない」
 芭蕉の声には敵意がない。これも油断させる芝居なのか。もし本気で言っているなら舐められたものだ。
 芭蕉の首を取る。これに変更はない。ならばこの霧をどうするか。蜂屋は考えた。
 霧に紛れて芭蕉が近寄ってくるのなら、差し違えてもえぐってみせる。だが、霧の向こうからの投擲とうてきは厄介だ。
 手裏剣なら楽に落とせるが、あるとすれば針。毒を仕込んだ…… 毒針。
 ……毒針ならばこちらにもある。
 見事だ芭蕉。この霧は得体が知れん。並の忍なら手も足も出まい。だがこの蜂屋を相手にしたのが運の尽きよ。
「江戸に帰ったら、ワシからも田村から手を引くよう定府殿に言っておく。だから──」
尚更なおさら退くわけにはいかん。霧隠れの忍、是非ぜひにも討ち取らせていただく」
 芭蕉は騒速の脅威となり得る。禍根の元は全て断ち切る。
 蜂屋はゆっくりと息を吐く。口の中で人の耳には届かない音を練った。
「……ならばワシが逃げるとしよう。殺し合いなど御免ごめんこうむる」
「逃がさんが」
「逃げるぞ。この霧はお主を掴んで離さん。追いかけては──」
「それがどうした!」
 突如轟々ごうごうと湧き上がる、地響きに似た振動。森を揺らしたそれはすぐに空を埋め尽くす、不快な羽音へと変わる。
「これは……」
「熊すらひと刺しで殺す。秘伝の毒餌で育てたクマンバチの群」
 その数は10000か。おびただしい数の蜂が、一斉に殺生石の岩場に飛来した。
「幻術など取るに足らん。霧に隠れようと意に介さん」
 音波で蜂を巧みに操る。それが蜂屋の会得した奥義である。
 黒き帯と化した蜂の群れは、殺生石の岩場をぐるりと囲み、うずとなる。
 霧の中の芭蕉を探し出すべく、じわじわとその輪の半径を狭めた。
「我が名は蜂屋染之助。この岩場を猛毒の蜂で染め上げて見せよう!」

 退路は完全に断たれた。
「やはり…… こうなるか」
 しめ縄のかかる殺生石のすぐ隣に、芭蕉は膝を付いていた。
 久しく忘れていた死と隣り合わせの緊張感は伊賀にいた頃を思い出す。
 せめてこの体がもっと若ければ、もっと上手くやれただろうに。
 手にしていた数珠のたまが一つ砕け落ちる。
 芭蕉はため息をついて殺生石に向き直った。
「観念したか芭蕉」
 結局は否応もなく、この石の力を借りるしかないのか。
「いや、そうじゃないな。ここは──」
 殺生石が言い淀む。
「よくがんばったな、金作」
「はっ……」
 肩の力がガクッと抜けた。なぜだか笑いがこみ上げる。
「ああ…… がんばった」
 こんな会話を母としたかったものだ。
「だがまだお前の人生は終わりではあるまい」
 白々しく母の声でよくも言ってくれる。苛立ちもある。母の言葉と思いたい感傷もある。心とは複雑だ。
 ああ、まだ死ねん。こんな心の機微を、まだまだ言葉で残したい。
「助けてくれるか玉藻たまもどの」
「ん」
 芭蕉は意を決して、殺生石の周りに散らばる黒い小石をひとつ、拾い上げた。
「お前は西行に似ている。悪いようにはしない」
「西…… うお!?」
 石を掴んだ手が焼けるように熱くなる。石がてのひらにめり込んで同化していた。
「平泉まで私を連れて行くのが約束だ。まずは逃げられんように、身体の中に入らせてもらう」
 痛みに悶える芭蕉はお構いなしに、石は芭蕉の腕の中を昇り、胸にまで移動する。
「もっと優しくできんのか!」
「男がいつもしていることだ。さてお次は」
 蜂の渦が背後まで迫っていた。
「この耳障りな蜂を片付けるとしよう」

 蜂は、体内で特殊な匂い物質を生成している。一般的にフェロモンと呼ばれているものだ。
 それはとても微量だが、分泌されると広範囲に拡散する。
 敵を発見した際、危険を察知した際が顕著だ。その場に敵意を示すフェロモンを強烈に残す。
 たとえその蜂が死んでも、他の蜂がその物質を感じ取ることで敵の存在を知る。フェロモンの元に次々と集まって攻撃を開始する。
 群が、まるで一個の生命体として機能する。スズメバチは生物の進化の中で最初に完成した軍隊と言えるだろう。
 夏場、窓から蜂が入ってくることが偶にある。ハエ叩きや殺虫剤で撃退しても、そのまま窓を開けっぱなしにすることは避けた方がよい。
「捉えたか」
 蜂屋は蜂の放つ微かな匂いを嗅ぎ分けて、霧の向こう側を伺っていた。
 芭蕉はどれほどの体術を持つのだろうか。よもや、まだなにか秘策があるのではないか。
 ……つまらん杞憂だ。どんな手練れでも、この数の蜂に襲われたならひと溜まりもあるまい。たとえ我らが頭領斯波しば様でも。
 曾良も今ごろは力尽きているはず。芭蕉も曾良も、予想外に手強い相手であった。奥の手を使うことになるとは。
 次に動くのは光圀の草か、名ばかりとなった服部はっとり半蔵はんぞうの伊賀衆か。
 蜂屋はすでに、次の戦いへと思いを巡らせていた。
「備えあれば憂いなし。我ら騒速に秘策あり」
 万の軍を差し向けられても一関を守り通す。そのために騒速衆は力を磨き、今まで備えてきた。
「……む」
 妙だ。危険を知らせる匂いの濃度が増していく。
「まだ生きていたか芭蕉」
 蜂は渦を解き、芭蕉のいる一点に収束を始める。
 殺生石の鎮座する岩場に、霧越しにも確認できる黒い球体ができあがった。
「石の毒を頼みに隠れていたのだろうが、その神頼みは通らん」
 伝説は伝え聞いている。九尾の狐は我らが同胞。1000年の汚名を被って戦った、偉大なる先祖。その加護は我ら騒速に。
 漂う匂いが、極限まで高まった蜂の殺意を伝えてくる。
 ……やはり妙だ。なぜ蜂は戦い続けている?
 なぜ芭蕉はまだ生きている?
 蜂の塊を一筋の光が貫いた。
 光は蜂をなぎ払う。光に呑まれた蜂は一瞬で炭と化した。
「なに!?」
 光の筋は増え続ける。殺生石を取り囲む黒の球体を、内側から縦横無尽に切り裂いていく。
「これはまるで……」
 それはムチのようにしなる9つの尾。浮かび上がる姿は金色こんじきに輝く大きな獣。
「なぜ九尾の狐が我が蜂を焼いているのだ!!」
 叫ぶ蜂屋の背中を突風が押す。漂っていた霧も動き出す。場の空気すべてが光に向かって流れ出した。
 息を吸うように、光は霧を飲み込んでいく。球体となっていた蜂の群も残らず光に飲み込まれていった。
 間違いなかった。目の前にいたのは九つの尾を持つ黄金の妖狐。
「わかるか玉藻御前! それがしは奥州の民、敵ではござらん!」
 あの九尾の狐なら、今の奥州を知ったならば、きっと我らに力を貸してくださるはず。
 蜂屋の呼びかけに一瞥いちべつはしたが、九尾はなにも答えない。
 九尾の放つ光がひと際輝く。蜂屋は咄嗟に身構えていた。
 光は音もなく弾けた。目に写るのは白と黒。猛烈な閃光と、岩場の凹凸が作り出した影だけの世界。
 直視していれば網膜をやられていただろう。蜂屋は手で光を遮りながら、パラパラと、空から降ってくる何かの音を聞いていた。
 それはまるで黒い雨。手塩にかけて育てた蜂が、ちりとなって降り注いだ。
「おのれ九尾……!」
 とうに人の心を失っていたか。そもそも、なぜ九尾は蘇ったのだ。なにが起こっているのかまったくわからん。
 ……芭蕉は、どうなった?
 光が消えていく。蜂屋は再び九尾を見上げた。
「何者だ?」
 九尾の姿はそこになかった。代わりにひとりの男が立っていた。
 歳は20かそこらの若者。たくましい体つきで顔立ちも精悍せいかん。忍装束をまとっていることから、隠密の類であることは間違いなかった。
 気になるのは装束の色。それは黄味がかった赤。
 忍者と言えば闇夜に紛れる黒装束と思いがちだが、暖色系の装束も珍しくはない。炎しか夜間の照明がなかった時代は、赤や黄色のほうが黒より迷彩の役割を果たしたのだという。
 蜂屋が注目したのは、その色から男が黒脛巾の手の者ではない、ということだった。
「ワシも驚いている。こんな馬鹿なことが起こるとは」
 男は手でペタペタと、自分の顔や身体の感触を確かめた。腕や腰をひねり、己の筋肉を確かめた。
「伊賀の忠右衛門ちゅうえもんに身体を戻すなど、酔狂が過ぎるぞ玉藻どの」
「その口ぶり…… まさか貴公、芭蕉か!?」
 芭蕉には様々な名がある。
 よく知られた俳号を芭蕉。折り目正しき場では桃青とうせいの名を使い分けている。
 幼名は金作。本名を宗房むねふさ
 20代まで過ごした伊賀では、忠右衛門の名で呼ばれていた。
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